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「故郷へ 廻る六部は 気の弱り」
これは作者不詳の川柳だそうだが、世に知らしめたのは作家藤時沢周平のエッセー集だろう。
山形県鶴岡市に育った藤沢周平は、この東北の田舎町で教師を生業としつつ作家の修行をしたという。
しばしば池波正太郎や山本周五郎と比較されるが、藤沢周平が描く侍は田舎の小藩の下級武士が多く、
作風も地味なものが多い。
前回 「帰りなんいざ 田園まさに蕪れなんとす 何ぞ帰らざる」という4〜5世紀の中国の詩人陶淵明の有名な詩を紹介した。
都会での種々の人たちとの交わりに草臥れ果てた詩人の嘆きが滲み出てくるような詩であり、昨今の日本の「帰農」ブームを思わせないでもない。
この時代の中国は「科挙」という高級官吏が政治を牛耳っており、多くの秀才たちがこの「科挙」の試験を目指して学問に励み、彼の親族一統は彼の成功を夢見て全員で後押しをした時代だと言う。
一端「科挙」の試験に受かればその先の立身出世は約束されたようなものであり、親戚の郎党は彼の権勢を頼りに栄耀を貪ったと言われている。
今日の中国の政治の腐敗はその数千年前の風習の残滓であり、共産党の幹部の地位にありついた人たちやその身内眷属の権力の濫用をそう簡単に粛清出来るとは思われない。
多くを中国に学んだ日本にその伝統が生きているのは当然だが、それ程色濃くないのは何故だろうか。
小さな島国に肩寄せあって生きて来た日本人の生まれ性であり、貧乏根性だと言えるかも知れない。
「故郷へ 廻る六部は 気の弱り」
この六部はいわば遍路のようなものだろうが、正式には「六十六部」と言い、法華経を六十六部写し全国の霊場に奉納して廻った巡礼を指し、道々托鉢をしながらであったため物乞いの一種と看做されていたようだ。
鎌倉時代に流行したそうだが、家を出る際多少の蓄えを持って出ることもあり、一夜の宿を乞うた先で殺されることもあったようで、それは「六部殺し」と呼ばれさほど珍しいことではなかったらしい。
たとえ信仰のためとは言え生家を出て行くことは許されておらず、一度その境涯に身をおけば放浪者となる。
過去を捨てる決意とともに故郷を離れるわけだが、長年の放浪生活による精神肉体の疲労は避け難く、ふるさとに近づけば忘れていた身内のことどもも思い出すだろうし、それは彼の「気の弱り」なのであろう。
この川柳が作者すら不明のままに人口に膾炙している理由は、人が年をとれば意識することもなく生まれ故郷を脳裡に描くものだと理解しているからだろう。
勿論、この六部が霊場を廻った時代ではないから、この川柳のような光景は最早現実には有り得ない。
しかし、昔の六部が宿していた懐かしい故郷のようなものを人は皆心のうちに持っているのではないか。
そうでなければ、この古川柳を知る人の多さは理解が難しい。
今「古川柳」と書いたが、この句は俳句というには形が整っていないし、川柳と呼ぶには軽味に乏しい。
一読して「なるほど」と思わせるが、それ以上でも以下でもない気がする。
にも拘らず忘れ難い響きを感じるのは、六部という放浪者の来し方行く末が他人事とは思えないからだろう。
老後に四国の八十八ヶ所の霊場巡りを志す人は結構多いと聞く。
それあってか四国だけではなく福岡の篠栗や愛知の知多半島、瀬戸内の小豆島にも八十八の霊場があり、それなりにかなりの数の遍路が札所を巡っているようだ。
そういう方式は別に非難されるべきではないだろうが、その3つが四国の八十八ヶ所とは別に「日本三大新四国霊場」と呼ばれていると聞くと、大百貨店の支店のようなニュアンスを感じてしまう。
まあ元を辿れば日本全国にある「国分寺」「や「国分尼寺」は、東大寺や法華寺の末院と位置づけられたのだから、これは日本の得意技と呼ぶに相応しいかも知れない。
私も「還暦スイマー望郷日記」などと名づけてブログを書いて来たが、よくよく読んでみれば「気の弱り」が滲み出しているところが幾つかあったような気がする。
「廻るふるさと」こそないが、西欧の人たちと較べれば日本全体が故郷のようなものであり、何処に住んだとしてもそんなに大きな差異は感じないのではないか。
いま帰ろうかと考えている「日本」だって、特定の街や市があるわけではない。
「日本」という漠然とした町や村で、残りの人生を消費してみようか、といった程度のこと。
それも「気の弱り」ゆえと言えないこともないかも…。
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