還暦スイマー望郷日記

30余年のニューヨーク、今浦島の心境を…

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メジャーリーグの球団は全部で30だが、その下部組織まで入れればさらに120チームある。
合計150の野球チームがアメリカの各地で年間100試合以上を戦っているわけだ。
しかも驚くべきことは、そのどれもが独立採算のシステムを作っており、球団の構成もメジャーとほとんど変わらない組織図になっているという。
どのチームにもちゃんと経営者がいて、何とか採算をプラスで終わらせるように努力している。
マイナーのチームの選手構成は少々複雑だが、主体はメジャーから預けられた若手選手であり、彼らを育成して上のクラスに送り出すことも大事な仕事だ。
さらには、故障してリハビリテーション中のベテランも送られて来るから、彼らには出場機会を最優先で考えてやらなければならない。
それでいてそのマイナーのチームはちゃんと2Aなり3Aのリーグに所属していて、ペナントレースを戦う。
開幕から活躍して来た若手の有力選手は、メジャーに故障者が出ればさっさと抜かれて行くし、何より当の選手がチャンス到来に大喜びしているのだから、戦力欠乏の嘆きは口に出来ない。

ドラフトで早い順位で選抜されるような選手はやはり上に行くのも早く、高校卒で4,5年、大学卒で2,3年のうちにメジャーに上がるのが一般的らしい。
勿論なかには跳び抜けた才能を持つ新人もいて、高校をでて1,2年でメジャーに呼ばれたアレックス ロドリゲスのような超大物もいる。
だが一般的にアメリカのプロ野球では高校卒の新人は未だ肉体が未成熟であり、無理に上に上げても良いことは無いと割り切っているようだ。
ヤンキースのキャプテンを長年務めて引退したデレク ジーターは入団時に既にメジャークラスの才能と呼ばれたが、それでも4年間のマイナー生活を送っている。
高校時代の活躍から既にある程度の人気もあったが、ヤンキースはじっくりと彼の成熟を待った。
20年のプロ生活で3,465本のヒットは、その賜物と言えるかも知れない。
また彼は怪我の少ないプレーヤーだったが、それはマイナー時代に培われたものではないだろうか。
どんなスポーツでも故障が少ない選手は大事にされる。

その代名詞がイチローだと言えば、頷く人も多いだろう。
既に選手としては高齢のイチローと契約する大きな理由は、彼の試合前のストレッチを若手選手に学ばせたい、という首脳陣の意思があることは間違いない。
ではあるが、何処のチームでもイチローと同じ時間割で準備体操をこなす選手は現れなかったそうだ。
2時間以上かけて身体をほぐすイチロー方式に、ついていける選手はいなかったのだろう。
感心し賞賛は惜しまないが、同じことが出来るかと問えば答えは違って来る。
20歳前後と言えば食べ盛り遊び盛りの年頃。
球場での練習中は監督やコーチの目が光っているが、それ以外は本人の自由。
あたら溢れんばかりの才能を浪費して、去って行く若者も多い。
メジャーリーグのドラフトでいの一番に指名されることは、新人戦主として最高の名誉だろうが、それ以降さっぱりのまま球界を去って行く選手もいないわけではない。

1965年以降のドラフト一位選手の中で、野球の殿堂入りの栄に浴したのは、1987年のケン グリフィーJRただ一人であり、可能性としては1993年のアレックス ロドリゲスがいる。
逆にいの一番に指名されながらメジャーにも上がれず去って行った選手は2人いた。
1991年にヤンキースが指名したブライアン テイラーは「史上最高の高校生」と謳われながら、兄弟の起こした喧嘩に巻き込まれ肩に重症を負う。
数年間のリハビリも空しく、彼は結局メジャーでは1球も投げることなく引退を余儀なくされた。
これはドラフトいの一番の話だから、それ以下の新人には同様の話が山ほどあるだろう。
私はテレビから流れて来る日本の高校野球の中継を耳にしながら、一体この中から幾人の選手がドラフトで指名され、幾人が1軍に上がり、幾人が納得の行く野球生活を送れるか、考えてしまう。
彼らの当面の目標は春と夏の甲子園であり、夢は勝ち上がって決勝戦を戦うことだろう。
そのどちらにしても誠に狭き門であって、ほんの一握りの選手しかその門を潜れない。
それ故に「甲子園優勝投手」となれば、別格扱いを受け、一躍時の人に祭り上げられる。
進学かプロ入りか、メディアは時に持ち上げ時にけなし、はっきり言えば好き放題に書く。

今メディアが連日のように報じている超高校級のホームランバッターなど、その典型と言えそうだ。
彼に関する毀誉褒貶は、嫌でも新聞やテレビで読まされ聞かされる。
数ヶ月前には将来の日本球界を背負って立つと言われていたが、そのニュアンスが今は少々変わった。
「すぐにプロは無理」、「長所も多いが欠点も沢山ある」、「走れない守れない」云々。
この間、この18歳の少年は何もしていない。
黙々とバットを振り、走り、球を追っているだけ。
つまり全てはメディアがファンの知りたがっている、若しくは聞きたがっている情報をある部分はそのまま、ある部分は脚色を交え、ある部分は書く人の想像で拵えて提供しているのだろう。
考えてみれば、日本のマスコミ報道はその誕生以来同じことを続けて来たのではないだろうか。
「寄らしむべし、知らしむべからず」は未だに死語になっていないようだ。
頼みもしないのに「滅多打ち」に遭った人気投手を追いかけ、今では息の根を止める寸前。
球団が解雇すれば、彼を懐かしむ特集を組むのだろう。
もしかしたら、その特集は既に組まれて陽の目を見る日を待っているかも知れない。

それがファンの待ち望んでいるものであるとすれば、何をか況やだが…。

「夕涼み よくぞ男に 生まれけり」
芭蕉の門人、宝井基角の有名な句である。
ちょっと好い気になっているような響きもあるが、夏の夕方に床机に坐って団扇を使いながら「本直し」でも呑んでいる情景と見れば、上手い捉え方だと思わざるを得ない。
(本直し − 味醂を焼酎で割って冷やした飲みもの 柳蔭とも言う)
焦門十哲の第一と言われたほどの俳人だが、師の芭蕉とは誹風は随分異なる。
本人も自分の作風には自信があったらしく、芭蕉の句には少ない軽味や洒落っ気が横溢しているようだ。
基角の根は江戸っ子だが、師の芭蕉を立てて最後まで弟子であり続けたという。
芭蕉の死後、「江戸座」と呼ぶ俳諧の結社を組織し、江戸では最大のグループとなった。
当時は師の芭蕉を凌ぐとも言われたらしいが、時が経ってみるとその差は歴然。
芭蕉俳句を芸術にまで昇華させた、与謝蕪村や正岡子規の功は大と言わざるを得ない。

芭蕉は当時でも高名な俳人であったが、飛び抜けていたわけではないらしい。
彼は江戸を本拠として弟子を持ち、一方上方には井原西鶴が1夜に2万句を詠むという大技をみせて人気を博していたが、両者が鎬を削ったというような対立は無かったようだ。
考えてみれば、芭蕉にしても西鶴にしても地方にいる門人たちは大事な客ではあるし、年一度訪ねて行ったとしても前後20〜30日の旅になってしまう。
「おくの細道」という紀行文も、勿論そこに行きたいという芭蕉の願いが可能にした長い旅ではあるが、その他に各地の俳句の弟子たちに会い歓談する、言ってみれば営業用の部分が含まれている。
行けば弟子たちが集まり句会が開かれ、そこに幾許かの金銭が献じられたことは想像に難くない。
結構知られていることだが、俳句の会の主催である所謂「宗匠」は本拠以外にも数ヶ所、弟子たちと会ったり俳句の添削をしたりする拠点を持っていることが多い。
そこは拠点であり、師匠としての収入の根幹でもあったわけだ。
それは古い高弟の家であったり、その土地の有力者の家であったりする。
時代が移り交通機関の発達もあって、今では弟子が宗匠を訪ねることも珍しくないようだが、俳人とすればやはり各地に自分の句会の芽を残しておきたいだろう。
考えようによっては、俳句や茶の湯、華道などはほとんどがこの方式を踏襲して生き残ったのではないだろうか。
面白いことに今日ではその会員のほとんどは女性に占められており、男性は辛うじて俳句に多少の纏まった数を見ることが出来る程度。
「お茶、お花、お俳句」と揶揄される所以だろう。

芭蕉は勿論、蕪村や一茶、いや正岡子規だって、今日のような俳句の姿は想像しなかっただろう。
茶の湯や華道同様に、俳句もまるで家元制度のように創り替えられ、一見世襲制度のようだ。
それを嫌って独自の結社を持ち、改革的な俳句を目指した人は多いが、何れもそれ程の成功を納めたとは言えないように見受けられる。
理由は色々あるのだろうが、なんと言っても17文字というぎりぎりのところで作るその作法に拠るのではないか。
少ない文字を捻り回すのだから、初心者が秀作を生み出すこともあるし、俳句に打ち込んで幾十年のベテランでもなかなか名句をものに出来ないという皮肉もある。
世に知られた俳人ではあっても、人口に膾炙するような名句は精々ひとつふたつという現実を見れば分る。
勿論それは私が知っている範囲の話であって、一家一派を成した俳人であれば愛好者に知られた良句佳句は数多いだろう。
しかし、芭蕉、蕪村、一茶、子規などの限られた人たちを除けば、数百年の歴史を持つ俳句界に於いても、世に知られた俳人はごくごく少ない。
勿論ひょっとしたら私がそんなに俳人を知らないのではないかという危惧はあるのだが、一応平均的日本人程度の知識はある、という前提にしておく。

明治に入って正岡子規の精力的な短歌や俳諧の改革によって、事情は随分変わってしまった。
「歌よみに与ふる書」という論説で、彼は遠い昔の紀貫之と彼が編纂した「古今集」を完膚なきまでに叩きのめし、旧来からの歌人たちの中に大旋風を巻き起こした。
しかし、この「歌よみに与ふる書」を読んでみると、子規は意図的に古今集あたりに狙いを定めたようだ。
「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候」
どう読んでも喧嘩を売っているとしか思われない。
だが子規はここで書いたほど紀貫之を嫌悪していたわけではなく、言わば格好の狙い目だったのだろう。
言ってしまえば、話題作りには相応しい相手と見たのかも知れない。
その証拠に、「歌よみに与ふる書」を読み進めば、子規は決して貫之にも「古今集」にもそれ程大袈裟な反感や悪意は持っていなかったらしいことが分る。

子規は維新前に「和歌」と呼ばれていた31文字を「短歌」と言いかえることを推奨し、ここにおいて平安時代から連綿と続いて来た「王朝和歌」の伝統は断ち切られたと見て良い。
子規が褒めた万葉集の歌は権威付けられ、古今集は真実味の無い言葉の遊びとされた。
また長く親しまれて来た「俳諧の連歌」からその「発句(初めの17文字)」が分かれて「俳句」となった。
俳句は独立した芸術であるべき、という子規の持論ゆえではあるが、長い歴史を持つ「連歌」はこれから衰退の一途を辿ることになった。
ただ「連歌」は詩歌としての性格と集団で一つの長歌を創り上げていくという付き合い的な性格があり、今でも一部の愛好家たちによって続けられている。
しかしながら、「連歌」という遊びは技術的にも高度であり、一定以上の詩歌の能力を要求される。
故丸谷才一が彼の友人たちと語らって歌仙を巻いた経緯を雑誌で読んだ記憶があるが、流石に一流の文筆家たちの集まりだけあって、比較するべき他の連歌集もないが、なかなか面白かった。
「モンローの 伝記下訳 5万円」が発句であって、それに脇句としてつけたのが大岡信の「どさりと落ちる 軒の残雪」、となったわけだが、これはまだまだ続いて行くのが前提。
現代でも「連歌」の遊びそのものはあるのだから、出版することだって可能なはずだ。
入手出来れば是非読んでみたいと思っているが、ついぞ見かけないところをみると無いのかも知れない。
一部の文士たちの楽しみにしておくのは惜しい、と思うのは私一人ではあるまい。

「連歌」が復活すれば、それはひいては俳句の隆盛にも繋がるのではないか。
言い方は悪いが、多くの句会が女性中心に運ばれている現実にも変化が起きるかも知れない。
男性の老後の楽しみにだってなり得るような気もする。
幾人かの連携で出来上がって行く「連歌」は、考えてみれば世界でも珍しい詩歌の形式ではないか。
日本文化の遺産としても、何とか残すことを考えるべきでは…ないだろうか?

ニューヨークタイムスが日曜日に出している「NY Times magazine ニューヨークタイムスマガジン」で、日本レストランの「お任せ」というシステムについて特集を組んだらしい。
勿論、この「お任せ」という聞き慣れないメニューの選び方の発祥は日本だ。
それも、古くからあった呼び名を取り入れて造り上げた新システムと言えそうだ。
そもそもの起こりは「寿司」だと思われる。
寿司は長い伝統を持つ日本の料理の一分野だが、同じくらい長い間客を悩ませて来た。
たとえメニューがある店でも、カウンターに座れば其処は別世界。
今は知らないが、昔のカウンターは特別な人間の座る場所だった。
と言っても、別に肩書きが必要なわけではない。
寿司が終わり、茶を呑み終わった頃にやって来る「勘定書」にたじろがない精神力のある人。
若しくは、職人が勧める高いネタを避けて「ゲソ」「タコ」「コハダ」などで終始出来る人。
それが出来ない人たちは、テーブル席に坐って「お品書き」から注文するしかない。
私が子供の頃、寿司店に入ることは滅多になかったが、その場合は常にテーブル席だった。
カウンターとテーブル席の懸隔は、目には見えないが実に大きなものだったのだ。

一方寿司店も新しい客層の開拓に腐心し、ネタ毎の価格を貼り出す店も増えた。
だが、価格を壁に貼り出せば、店の格も下がってしまう。
それは所謂「上客」を失うことにもなり兼ねない。
つまり、価格不明の店を愉しむ客層もあったということだろう。
残念ながら経験は無いが、カウンターの真ん中に坐って寿司職人と雑談を交わしながら食べる寿司は格別の味があるものなのかも知れない。
まあ、景気が上向き始めた辺りから、会社の金で寿司を喰う所謂「社用族」が増えて来た。
だからと言って、店の扱いが変わったわけではない。
いや逆に一層大事にして、店に来る頻度を増やすことに力を入れただろう。
こういう場合、客は寿司の値段を聞くことはないし、店もそれに触れることはない。
黙って食べて帰れば、会社に請求書が届くというシステムが定着したのもこの時代だろう。。

最近流行の「お任せ」システムは、この昔の方式とは異なっているようだ。
先につまみの酒肴を出してビールや酒を愉しませ、頃合を見計らって握りに移行する。
店にいる客は全て同じ「お任せ」だから、出て来るものも順番もほとんど変わらない。
一般的には1時間半くらいで終わるように仕組んであるらしい。
コースが終わった後、追加のオーダーは個人個人で異なる。
だから勘定書きも異なるが、基本的には1万円くらいから2万円程度で納まるようだ。
このシステムの優れている点は幾つかある。
先ず、店は客数に応じて魚の仕入れが出来る。
つまり無駄が少なくなるし、仕入れ価格をコントロール出来る利点がある。
特別な高級魚をコースに入れたら、他のネタで仕入れ値を下げれば良い。
「大間のマグロ」、「富山のブリ」、「佐賀関のサバ」、「明石の鯛」などがラインアップに加われば、客も喜ぶだろうし噂にだってなる可能性もあるだろう。
予約さえきちんと入れば、ある意味理想的なビジネススタイルと言えそうだ。

ニューヨークタイムスマガジンが指摘したのは、最近のマンハッタンの日本レストランの多くがこのシステムを取り入れて来ている、ということらしい。
確かに人づてに聞いても、「お任せ」で幾らというようなことをはっきり言っている店も増えた。
高い店で300ドル、安ければ80ドル程度、という辺りのようだ。
随分差があるようだが、これはどれだけ日本からの輸入物を使うかで変わって来るのは当然。
また同じ輸入物でも「天然」か「養殖」か、で大きく差がつく。
「ブリ」などはほとんどが養殖物で、以前は「はまち」と呼んでいたが、何時頃からか呼び名が変わった。
「真鯛」や「鯵」、「シマアジ」や「カンパチ」も今ではほとんど養殖物。
養殖池で与える餌は似たようなものだから、味も似通って来るのが道理。
つまり高額な店は「天然物」を取り寄せて、それを売り物にしているわけだ。
とは言え、食べてみてその差が簡単に見分けられる客はそれ程多くない。
しかも、今のマンハッタンの高級日本レストランの客の中心はアメリカ人らしい。
差別するつもりはないけれど、天然物と養殖物の味の差を食べ分けられる人がそれ程いるだろうか。
はっきり言えば、日本人にだってそれが分る人はそれほどいないのではないか。

アメリカにせよ日本にせよ、レストランのレベルを知るのに一番手っ取り早いのは価格だろう。
200ドルの店より300ドルの店の方が味に於いても優れている、そう考えるのは普通だ。
数年前からニューヨークで一番高い店と言われている寿司屋があるが、今でも予約で一杯だそうだ。
その理由を考えるとき、「高価」ということが大きなファクターになっているのではないか。
日本最高と謂われている寿司店は、30分で済ませて3万円だそうだ。
嘘か本当か知らないが、この店で自分の好きなネタばかりを注文し続けた場合、7,8万になるという。
この店で7,8万払って好きなものをオーダーするのが良いか、「お任せ」の店の2万円で上げるのが良いか、その判断は難しいだろう。
普通の人であれば答えはほとんど明々白々だろうが、そうでない人も少なくないのが今の世の中。

「お任せ」が今後ニューヨークの日本食の主流になって行くのかどうか。
このシステムがアメリカの多くの日本食ファンに、すんなり受け入れられるだろうか。
考えてみれば、イタリアンやフレンチの100ドル前後のコースを食べることと、「お任せ」の100ドルとの間には大きな違いはない、とも言えそうだ。
何と言っても、不明朗と看做されて来た「寿司屋」の会計が客が食事を始める以前に知らされているという点は、かなり評価して良いのではないか。
日本はそれ以前に「回転寿司」という一段も二段も安く分り易いシステムが全国に蔓延してしまったが。
ニューヨークにも2,3軒の「回転寿司」がオープンしたが、結局撤退の憂き目に会った。
その辺りに、日本とアメリカの客の相違が表われているのかも知れない。
「お任せ」というシステムの狙いは、客から「割高感」を払拭することだろう。
過去の日本人が抱いていた「寿司」という食べ物が持つ曖昧さや不確実性は、少しづつであるにせよ薄められて行くのではないか。
ニューヨークに「お任せ」が定着するかどうか、を云々するのは時期尚早だろう。
日本の中級高級の寿司店で、このスタイルは一定の地歩を固めつつあるようだ。
その人気が安定したものになった頃、「お任せ」はニューヨークのみならず世界の大都市に拡がるだろう。
ただ、それだけの鮮魚を供給し切れるだけの水産資源が世界に残されているかどうか、は別の話だ。

何時頃から言われ始めたか良くは知らないが、人の食の嗜好を云々するとき、「肉食系」と「草食系」という大別法があって、異性の品定めなどに使われるらしい。
想像するに、焼肉やバーベキューなどをもりもり食べるのが「肉食系」であり、サラダや果物などを愛好するのが「草食系」という風に分けられるのだろうか。
「草食」と言っても、野菜や果物ばかり食べるわけではなく、様々に手の混んだ料理があるようだ。
京都に「草食(そうじき)」を売り物にする料亭があり、結構な価格にも拘わらず予約は2,3ヶ月先まで埋まっていて、その店のオーナーの実家の「摘み草料理」の宿も、同じく大人気なのだそうだ。
どちらの店も、京都の山で取れる山菜や木の実、渓流の魚などを工夫して供するらしい。
「肉食」の方では、盛り場に焼肉店は溢れかえり、最近は背伸びせずとも楽しめるステーキ店が続々と開店しており、これも花盛りという風情。
ただ、アメリカ牛肉の低課税分の量が枠一杯になって来たとかで、経営者は頭が痛いところ。

若し全ての人類がそういう風に分けられるのであれば、私などは「その他」になりそうだ。
肉も野菜も嫌いではないが、何処かに分類されるならさしずめ「魚食系」、と自分では思っている。
そんな男がアメリカに良く40年も生きていられたと自分でも感心するが、ニューヨークは海に面しているから
そこそこの魚は水揚げされている。
勿論日本の築地などと比べれば月とスッポンであって、現に一大ブームを巻き起こしてニューヨーク市民の食生活に革命を起こしたといわれる「寿司」のネタのほとんどは日本から来ているのが現状。
いやニューヨークのみならず、ヨーロッパの大都市で食通を集める日本レストランのほとんどは、材料を成田空港経由の日本産の水産物に頼っている。
この傾向は盛んになりこそすれ廃れる気配は全くないから、これから先旨い日本の魚は先ず輸出用に取り分けて、残りが国内向けになる恐れは充分あるだろう。
しかし魚が国外へ行ってしまうことは、今の日本人には大した問題ではないように思われる。
代わりにもっと多量の牛肉が入って来るのであれば、大歓迎かも知れない。

私は「魚食系」を自認しているが、勿論肉も野菜も食べている。
ただ、現在の住居の近くにあるフラッシングという盛り場には中華系のスーパーが多い。
そこで買うとなると、豚肉が中心になり牛肉はお寒い限り。
だから良い牛肉が欲しければ、マンハッタンのスーパーや肉専門店に行くしかない。
そこで問題になるのが、牛肉の部位の分け方や販売法。
ほとんどを薄切りにして販売する日本式は、ここでは望めない。
骨付きであったり大きな塊であったり、料理して切り分けるために捌かれている。
「リブアイ」、「シエル」、「アイラウンド」、「Tボーン」、「ランプ」、各部位によって呼び名は変わって行く。
「上ロース」、「フィレ」、「こま切れ」、「切り落とし」、日本はこれまた独特の呼称を持っている。
「ロース」というのは脂っ気のある上等な肉のことかと思っていたら、実は「ローストに向いている」ところからついた呼び名だと知って驚いた覚えがある。
この「ロースト」とは肉の塊をオーブンで焼く「ローストビーフ」から来ているようだ。

魚党の私だが、実はこの「ローストビーフ」は大の好物。
大好物だが、気軽にそこら辺で食べられる料理ではない。
と言うのも、メニューに載せている店が非常に少ないのだ。
マンハッタンに所謂「ステーキハウス」は数十軒あるだろうが、「ローストビーフ」を供する店は数えるほど。
当初、「ステーキハウス」であれば「ローストビーフ」もあるだろうと多寡を括っていた。
だが実際に予約するときに訊ねると、「ローストビーフはありません」という店がほとんど。
色々調べてみて分ったこと。
ローストビーフはオーブンに入れて出来上がるまで小一時間はかかるから、客が注文してから準備しても到底間に合わない。
また、大きな塊を焼くのだから僅かなオーダー数では割に合わないし、かと言って価格を上げるとすれば、ステーキよりずっと高いものになるのだから商売にならない。

10数年前、日本からの友人夫婦とノースキャロライナにあるパインハーストというゴルフリゾートへ行った。
ホテルにゴルフに朝晩の食事がついていたが、晩飯はジャケット着用のこと、とある。
賑やかなバンケットルームに行くと、ネクタイを締めた紳士と派手なドレスの女性たちでほぼ満杯。
そこのディナーコースのメインディッシュは好きなものを撰ぶシステム。
私たちは迷わず「ローストビーフ」を撰んだ。
分厚いプライムリブの塊は立派なミディアムレアで、軽い口当たりのグレービーとぴったりの味わい。
このリゾートに4泊したのだが、そのうち3回のディナーはローストビーフを選び、他の料理を選んだ2日目のディナーを今でも後悔している。

ニューヨークでは前述の理由でなかなかローストビーフにありつけないのだが、家人が「ピータールーガー」でランチサービスにローストビーフを出していることを発見して来た。
このステーキハウスはニューヨークに2店だけあり、一つは我が家からかなり近いところにある。
「ロースロビーフは早い順に出して、無くなったらそれで終わりよ」、予約の電話を受けた女性はそう言ったということで、我々は開店早々の午前11時半を予約した。
「ピータールーガー」は、ザガートというグルメ評定本でもう数十年ステーキハウスの1位を保持しており、ブルックリンにある本店の予約は1,2ヶ月待ちと言われている。
魚食の私でも此処のステーキは別物で、これまでに本支店合わせて10数回は行っているだろう。
そこで出すローストビーフとあれば、期待は高まるではないか。

11時半に到着して、受付のソファで暫く待った。
席に案内されたが、誰もいない。
この店は、メニューはあるけれど客にはほとんど見せない。
普通では、「Steak for 2(ステーキ2人前)」と口頭でオーダーすれば全ては足りる。
人数で変わるのは2人前か3人前か4人前か、焼き方は同じレアかミディアムか、だけ。
今回は私は赤ワインをグラスでオーダーした。
アペタイザーとして「Shrimp cocktail シュリンプカクテル」や「Sliced tomato トマトスライス」などがあるのだが、私は一度試して以来、頼んだことはない。
あまり待つまでもなく、大きな皿が2枚運ばれて来た。
大振りのローストビーフがどっしりと坐っており、横にはグレービーの銀の容器がお供然と佇立している。
ジャガイモのフライとほうれん草のクリーム煮が別皿で供される。
肉にナイフを入れると、ピンク色の肉塊が柔らかく切り分けられて行く。
口に放り込めば、生ではないほんのり温かい肉が溶け込んで来るようだ。
それでいて噛み締めると、ちゃんと歯応えが返って来るから驚く。
これが肉なんだ、ということを久しぶりに再確認させて貰ったような心地。

私たちだけのようだったダイニングルームも、食事を終えて立ち去る頃には半分以上埋まっていた。
100年以上続いている店だが、それも納得出来たような気がする。
久々のローストビーフとのご対面、堪能出来たようだ。

カレー考

日本の男はカレー好きが多いようだ。
もし食べ物の人気ランキングをつけたら、堂々の一位に輝くのではないか。
カレーの凄いところは、この人気に衰えが見えないこと。
私が子供の頃からカレーは常に愛される食べ物であり、今でもその座は揺るがないだろう。
忙しない日本人に、カレーほどぴったり来る料理はない。
きちんと作れば結構面倒なものらしいが、食品製造会社のたゆまぬ研究開発で、今では料理初心者でも一応のものが作れるまでになっているらしい。
子供がカレー好きなら、母親にとってこんなありがたいことはないはずだ。
カレーを暖めて、これまた暖めた飯にかければ一食は瞬く間に出来上がる。
恐らく学校給食でも人気の上位を争っているだろう。
もう50年の昔、大阪でカレーファウンテンという店に入ったことがある。
入り口で好みのトッピングを言って金を払い、席に着くとほとんど同時にカレーが目の前に置かれた。
食べやすいように飯の温度も調節されていたのだろう。
ものの3,4分で食べ終わってしまった。
店の外に長い行列が出来ていたが、食べ終えて出て行く客も多いから、入れ替えはスムース。
それ以後日本でカレーを食べたことはないから、その印象は鮮明に残っている。

私が日本を離れてからの40年で、日本の外食産業は大きく変化した。
最大の変化は、なんと言っても続々と上陸してきたファーストフードのチェーン店。
ハンバーガー、フライドチキン、ピザ、ドーナッツ、コーヒー、それを迎え撃つカレー、スパゲッティ、ラーメン。
私にとっての驚きは、この両者が今日に至るまでちゃんと生き延びていることだ。
試行錯誤はあっただろうが、日本人の嗜好に合わせた努力は特筆物と言える。
力及ばず消えて行ったチェーンもあるだろうし、他社に吸収された店もあるだろう。
それでも、日本のファーストフードの店の数は人口に較べれば断然他国を圧しているのではないか。
それが良いことかどうかは別にして、日本を理解する上で興味深い気がする。

私は外食でカレーを食べることは先ずない。
その理由は本人でも良く分らないのだが、恐らく飯とは白飯と副菜であるべきという先入観念が身体に染み込んでいると考えるほかない。
帰国して一人で昼食する場合、無意識に定食屋のようなところを探している。
大袈裟に言えば、折角日本に帰って食事をするのにそんな手軽なものは御免蒙りたいのだ。
私の考えでは、カレーやラーメンは「軽食」というジャンルに含まれていて、「食事」ではない。
欧米人の中には、テーブルクロスのないレストランでは食事をしない、という人がいる。
また、カウンターには決して座らないという人も結構見かけた。
それと同一ではないが、まあ似たようなものかも知れない。
とは言っても、昼間から何千円もする飯を喰えるわけはないから、定食でも精々千円以下。
それでも焼き魚に小鉢、味噌汁に香の物が目の前に並ぶと何となく落ち着く。
食堂街などではカレーやスパゲッティの店にも長い行列が出来るが、入ったことはない。
久々の日本という感情もあって、何が何でも白飯とおかずとならざるを得ない。
まあ私くらいの年齢の日本男性なら、同じような行動をとる人も多いだろうと思う。

私は日本でカレーを食べた記憶はないのだが、ニューヨークでは実は結構食べている。
帰国時にカレーを食べない理由は前述した通り。
だがニューヨークには、インド人をはじめパキスタン人などカレー食人種の固まっている地域がある。
そういうところにある店には、数え切れないほど行ってカレーを食べて来た。
マンハッタンの東30丁目近辺にはパキスタン人の集まっている区画があり、そこにある「Curry in a hurry カレーインナハリー(急ぎの時のカレー)」はもう40年近い馴染みの店だ。
1階がキッチンになっていて、そこで好みのカレーを受け取って金を払い、2階へ上がって食べる仕組み。
10種類近い野菜、4,5種の肉類、タンドーリチッキンや甘味も並べられている。
色々試してみたが、長い間には好みは一定して来てしまう。
私はタンドーリチッキンの腿肉一切れと野菜カレーを専らにしている。
この店にはパキスタン人のタクシードライバーや、近所の病院の看護婦などが昼時には多い。
カレーには窯で焼いたナン(パン)がつくが、足りない連中は米飯を注文して分け合っているようだ。
ひと品づつは安くはないが、多勢で分け合えばアメリカ風サンドイッチなどより手軽だという。

この店に初めて来たころ、私はビーフやラムを主として食べていた。
どうも日本で育つと、価格が同じなら野菜より肉を取ろうという気持ちが強くなるようだ。
しかし、近頃は茄子やほうれん草のカレーの方が旨いような気がして来た。
因みにほうれん草のカレーは、見た目はまるでシチューだがヨーグルトをはじめ様々なスパイスが練りこまれている所為もあるのだろうが、形容し難い不思議なそれでいて玄妙な味。
飯にかけても良いが、ナンで掬い取って食べる方に雰囲気が出るようだ。
稀に指先で飯とカレーを摘み上げて食べている人を見かける。
恐らくパキスタンの人なのだろうが、見ていると指の動きが結構優雅だ。
と言って我々が簡単に真似出来るとは思われない。
日本料理だって、正しく美しい箸使いがこなせる外人はそうざらにはいない。
今は西洋料理の正しい食べ方なんてテレビでもやらないが、昔は英国風フランス風だとうるさかった。
やれ左右に並べたナイフやフォークの外側から使えとか、フランス風にスープを飲むときは皿を傾けてスプーンで掬えだの、成人してから一度もその知識を活かした憶えはない。
カレーにも何やらルールめいたものがあったようだ。
気取った店では飯とカレーは別々の容器で供され、少しづつ飯にかけ混ざった部分を食べる。
どうやらこれはイギリス風のカレーの食べ方のようだ。
日本にもたらされたカレーはインドからではなくイギリスからだったのは周知の通り。
名称も「Curry and rice カレーアンドライス」だったと推測される。
だがその上流社会風の食べ物は、日本の風土で一転し庶民のざっかけない食べ物に変化。
皿に飯を盛り、その上にカレーをかけるという至ってシンプルなもの。
だがそれ故に瞬く間に庶民の大好物になりおおせたのだろう。
ルーさえあれば、牛でも豚でも鶏でも、それすら無くてもOKという万能選手。
面白いことに、インドやパキスタンなどの旧来からのカレー食人種を除けば、こんなにカレーを食べている国は、どうやら日本しかいないようだ。

私は日本ではカレーの良きファンではなかったが、ニューヨークで改心してカレー食人になった。
年齢が人間を変えるのか、環境が変えるのか、なかなか興味深い…ほどではないか。


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