還暦スイマー望郷日記

30余年のニューヨーク、今浦島の心境を…

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

このブログを始めてから、「理髪」のことを幾度か書いた。
物心ついてから所謂「床屋(理髪店)」に行くようになったのは、小学校の2,3年ではないだろうか。
当時は男子の髪型は2種類あって、「坊主刈り」か「坊ちゃん刈り」。
「坊主刈り」の方が当時は主力であって、クラスの3分の2くらいは丸坊主だった。
後で知ったが、私が住んでいたのは東京郊外の住宅地だった所為か、それでも「坊ちゃん刈り」が結構いた。
そして山手線の内側の高級住宅地にある学校では、半分以上の「坊ちゃん刈り」がいたという。
そして上には上がいて、都心にある私立の学校では全員が「坊ちゃん刈り」だったそうだ。
だが国鉄(現在のJR)の駅で10以上離れている郊外に住む私たちには、それを知る由もない。

「理髪店」に行くのは、専ら母の命令による。
「随分伸びたわね。明日でも髪を摘んでいらっしゃい。」
髪は「刈る」ものだったように思うが、母は常に「髪を摘む」と言っていた。
言葉は異なっても、理髪店でやることは変わらない。
鋏で長くなった部分を刈って、バリカンで際を整え、あるかなしやの髭をあたってお仕舞い。
年にどのくらい通ったか、今では定かではないがまあ7,8回といった辺りだろう。
近所に2軒あった理髪店に行った記憶はあるが、どちらにより頻繁に通ったかは思い出せない。
成人した頃から、少し離れた別の理髪店に行くようになった。
どうして店を替えたか、恐らく子供時代に通った店には何となく行きたくなくなったのだろう。
その当時どんな理髪店で調髪して貰っていたか、あまり鮮明な記憶がない。
デパートの中の理髪店や盛り場の店に気の向くままに通ったのだと思う。

ニューヨークに来てからは、行った店ははっきりと憶えている。
数軒しかない日本人経営の店のうちの1軒。
決して安くはなかったはずだが、気楽さが捨て難かった。
結構大きな店で客は男女を問わなかった。
「ユニセックスサロン」とでも呼ぶのだろうか、そこそこ繁盛しているように見えた。
確かに、美容院や理髪店で言葉が通じないのは気分の良いものではない。
「上のほうは短めに、裾はきっちり刈り込んで下さい」
日本でならどうということもない台詞だが、さて英語で話すとなると結構厄介だ。
ましてそれがこの道30年といった風な年配の床屋だったら、意思の疎通は最初から諦めた方が良い。
と、これは私の数少ないアメリカの床屋の経験から言っているのだが。
それやこれやで、私は日本人経営の店で日本人の理髪師に整髪して貰って来た。

私は理髪店をしょっちゅう替える趣味はない。
技術云々より、一々細かい説明をしなくても良い環境が好もしいのだ。
その店でも、10年以上の間に精々2,3人の理髪師しか知らない。
その2,3人だって、辞めたり日本に帰ったりで別の技術者に代わっただけ。
最後のO君は他の店に移ったので、私もその店に行くことになった。
まあゴルフの話題があったことと、彼の仕事ぶりが丁寧だったことが理由かも知れない。
O君はその店で結構人気があり、なかなか予約が取れなくなって来た。
そしてその店自体が5番街近くのビルに移り、高級店に変貌した。
客層を見るとモデル風あり上流階級のマダム風ありで、私はどんどん場違いになって行く。
日本の女性誌に紹介されたとかで、若い日本女性が順番待ちをしている。
段々行き辛くなって来て、とうとうその店に行くのを辞めた。
そしてそれから私の「理髪師行脚」が始まる。

理髪師行脚と言ったが、私の髪型はそんなに難しいものではない。
禿げこそしていないが、全体に淋しくなっているから誰がやっても簡単だろう、と私は思っている。
行脚が始まって以降、中国人の店にも幾度か行ったが、ものの15分程度で片付いてしまう。
鋏のごく短時間で、あとはほとんどが電気バリカンで処理する。
シャンプーもないから、これだけでチップ込みで12ドルぽっきり。
仕上がりに文句を言わなければこれくらい簡単なものはない。
ただ困るのは、ちょっと慣れるとその職人がいなくなること。
私のアパートに近いフラッシングという街は、人口が急増中。
だから美容院や理容院があちこちにオープンしているようだ。
それはつまり、職人の不足を意味している。
手早く客を捌ける職人が経営者に好まれるのは自明の理。
どういうわけか客捌きが上手い職人は、言葉が通じなくても何となく辻褄を合わせてくれる。
一度合えば、次の時からは言葉は要らない。
だが、店からいなくなったら最早手の打ちようはない。
再び行脚にでることになる。

そこに朗報が飛び込んで来た。
日本で多店展開をしている「カットオンリー」の店が、ニューヨークに進出してくるという。
20ドルとチップで男女を問わず整髪をしてくれるのだそうだ。
その代わりシャンプーとか髭剃りとかは一切なし。
マンハッタンのど真ん中で既に営業を開始しているらしい。
20ドルは少々高いようだが、日本語で指示出来るのであれば止むを得まい。
それに職人が消えてしまう懸念も解消されそうだ。
このチェーンは日本国内に300近い店舗を稼動させているという。
しかし、髪のカットというサービスだけでアメリカに乗り込んで来るとは大した度胸と言わざるを得ない。
立ち食いステーキの店もやって来たし、低価格の眼鏡チェーンも上陸間近いと聞いた。
確かに日本人の肌理の細かいサービスをもってすれば、客の心を惹きつけるのは容易だろう。

私は早速その「カットオンリー」の店に向かった。
3,40平米程度の店に客の椅子が3つ。
既に女性の職人が2人、女性客の髪に鋏を入れている。
手が空いていた男性職人が、私に椅子を座らせて大きなエプロンを掛けてくれた。
どうもこの男性は中国系らしい。
中国系から日本系に、と考えて来たのだが当ては外れたようだ。
だが店の小奇麗さに於いて、断然こちらが優っている。
「How do you like? (どうしますか?)」
彼が聞いて来たから、私は自分の頭を指さして、
「Same as before (前と同じに)」
そういうと、彼は大きく頷いてバリカンを始動させる。
見ると、彼は大中小3種類のバリカンを棚に置いているようだ。
バリカンとは子供の頃からの馴染みだが、その名前の由来は知らなかった。
「Barriquand et marre (バリカン エ マレ)」という呼称は販売した会社の名称であり、その会社名が製品名である「Hair clipper(ヘアクリッパー)」に代わって広まって行ったものらしい。
丁度「Hotchkiss (ホッチキス)」という会社の製品である「Stapler (ステイプラー)」が、社名で広く知られるようになった経緯と良く似ている。

職人は3種類のバリカンを駆使して私の頭を短く刈り上げ、仕上げに上辺の髪を櫛で持ち上げ軽く切り落とす。
そして、すかさず手鏡を翳して私の頭の後部を映し、
「Is this OK? (これで良いですか)」と訊ね、私が頷くと刷毛で首の周囲を払い始めた。
ものの10分というところだろうか。
見れば先に始まった2人の女性客は未だ終了していない。
別に不満はないが、何となく軽く扱われたという感は否めない。
と言って申し立てる不満も無いのだから、苦情を述べる必要もないことになる。
私は20ドルとチップの5ドルを渡して店を後にした。

実はそれ以後2,3度その店に行っている。
どういう訳かいつもその中国人の職人が私の係になり、どうやら私は彼の常連になっているようだ。
考えてみれば、彼のカットにそれ程の不満があるわけではないし、仕事が速いことは悪いことではない。
どうもこのまま行きそうな雰囲気だが、まあそれはそれでも良いとするしかないだろう、な。

日本は数十年ぶりの暑さとか新記録の高温とかいうことらしいが、ニューヨークでもなかなかの暑さが居座っており、やはり近年稀に見る酷暑らしい。
私が住んでいるアパートはビル全体を一定の温度に冷しているが、それでも我慢出来ない住民は各個に備え付けのエアーコンディッショナーでもう一段冷すという手段がある。
私たちはこのアパートに住み始めて15年以上になるが、結構暑かった過去の夏を思い出してもこの部屋のクーラーをフル稼働させた記憶は何処にもないようだ。
だがこの夏は、とうとう耐え切れずに部屋の冷房をONする破目に陥った。
そしてこの暑さは食生活にも多大な影響をもたらすことになる。
我が家の台所には窓がないし、換気の装置もない。
だから台所でガスに点火すれば、それは室内の温度を間違いなく高くすることになる。
そういう場合、どんな食生活が相応しいか、日本人であれば答えはひとつだろう。
「冷たい麺類」か「パンとコールドカット」あたりで済ませることになる。
「冷たい麺類」となれば、「冷しうどん」か「ソーメン」か「冷し中華」などが浮かんで来るのが普通だ。
これがもし日本ならば、家を出て近所の蕎麦屋なりうどん屋なりに飛び込むか、ラーメン屋で冷し中華か。
だが、このニューヨークでは幾つものチョイスは与えられていない。
韓国レストランに行けば「冷麺」があるかも知れないが、味の良し悪しには何の確証もない。
また全ての韓国レストランのメニューに「冷麺」があるとは限らない。
中華レストランとなるともっと悲惨で、「冷麺」と称するものは北京料理にあるようだが、はっきり言って食べる気にはなれない。
やはり日本風の「冷しうどん」や「ソーメン」などを体が欲しているのを感じる。

「冷しうどん」や「ソーメン」を旨く食べるカギは「汁」にかかっている、と私は思う。
さらに贅沢を言えばそれに合わせる「薬味」だろう。
「刻み葱」、「おろし生姜」、「紫蘇葉の繊切り」、「擂り胡麻」辺りがすぐ思いつく。
麺類だけでは澱粉質過剰になりそうだから、「茄子」や「ピーマン」などの細切りを炒めたものも悪くない。
私は「温泉卵」を拵えておいて、汁に割り入れることが多い。
また「胡麻ダレ」が加わると、何となく新味のような感覚を味わえる。
だが何と言っても、「汁」そのものが不味ければ話にならない。
「汁」はカツオ出汁に味醂と醤油が基本なのだが、それでは少々物足りない。
そこで私は、多少の手間をかけて煮干と昆布で「汁」を拵える。
築地で求めた、瀬戸内海は「伊吹島」の煮干と羅臼の昆布。
煮干はkgあたり3千円以上するから、決して安いものではない。
さらに頭と腸は取り去るのだから、コストはさらに上昇するわけだ。
家庭の主婦から見れば「勿体無い」ということになるのだろうが、その「勿体無さ」も味のうち。
業界では名の通った「伊吹島」の煮干で作った「汁」は、言わばルイ ビトンのハンドバッグのようなものだ。
そこに羅臼の「出汁昆布」が合わされば、フェラガモのスカーフを首に巻いているとも言えるだろう。
小さな贅沢だが、若い女性のヴィトンとフェラガモが私の「煮干」や「昆布」に相当すると考えれば良いわけだ。
いや、もうひとつ付け加えれば私は「麺」にも結構贅沢をしている。
貰い物だが、秋田県の「稲庭うどん」を張り込んだし、ついでに器も唐津焼を登場させた。
これで不味かったら、このさき人様に料理を云々することはすっぱり諦めようという意気込み。
こういう「汁」を、私はごく薄めに拵える。
吸物より濃いが、市販の「麺つゆ」と較べればかなり淡白な味。
うどんを啜り込むと一緒に「汁」を呑んでも充分旨い、と思う程度の割合。
言うなれば「かけうどん」をそのまま冷たくしたようなもの、と考えても良い。

私は「ソーメン」を食べる時、「ソーメン」の水分が「汁」に混ざって味が薄くなって行くのを好まない。
蕎麦やうどんの専門店が水を張った容器に麺類を入れたがらないのは、そういう理由からではないだろうか。
だから、「ソーメン」や「冷麦」などを提供する店はほとんどない。
「ソーメン」はそれでも家庭で食べられているが、「冷麦」の現状は悲惨と言うに近い。
スーパーなどでは一応棚に置いてあるようだが、人気があるとは思われない。
というより、今の若い人たちは「冷麦」の存在そのものを知らないのではないか。
古来からある麺類の主生産地は、結構知られている。
うどんは讃岐や秋田、福岡や伊勢などが固定のファンを持っているし、蕎麦は長野、栃木、福井、島根など、又「ソーメン」は奈良や瀬戸内海周辺が長い歴史を持っているが、「冷麦」は残念ながら蚊帳の外。
起源はあるらしいが、今ではそれが取り上げられることもほとんどない。
言い方は悪いが、「冷麦」には最早いるべき場所がない、と言えるかも知れない、
調べたところでは1.3mm以下は「ソーメン」で、1.3〜1.7mmは「冷麦」になるのだそうだ。
確かにそれだけの違いでは、わざわざ「冷麦」と指定して買う気にはなれないだろう。
遠くない将来、「冷麦」は淘汰されて行く定めになっているようだ。
だが、その他にも需要が少なくなっている麺類は幾つかある。
「きしめん」という平べったい麺類だが、多くの人はこの麺は愛知県周辺で愛好されていると思っているらしい。
しかし調べてみると、愛知県の人が取り分け「きしめん」を頻繁に食べているわけでもないそうだ。
「味噌煮込みうどん」と言えば「鰻の櫃まぶし」や「天むす」と並ぶ愛知の名物だが、この時使ううどんはごく普通のうどんであって、「きしめん」は登場しないそうだ。
人によっては「きしめん」が愛知の特産と思われることが心外だ、とまで言うらしい。
そうなると実態を知らない私には何も言いようがないが、三河の片田舎から江戸に移って辛抱を重ねた挙句天下を取った徳川家にも色々の思惑はあったとしか考えようがない。

ところでこの「きしめん」とそっくり同じ形状の麺類を、私が子供の頃東京で結構良く食べた記憶がある。
「ひもかわ」と呼ばれていたのだが、一説には群馬県辺りの特産で「ひらうちうどん」とも呼ばれていたという。
とにかく非常にしばしば食卓に上ったから、かなり安い食品だったのではないか、と邪推している。
日曜日などに母に言いつかって、何故か近所の豆腐屋にこの「ひもかわうどん」を買いに行った。
6人家族だったが、10玉くらいを買って来たような記憶がある。
この当時は未だ「出汁の素」などという便利な代物はなかったから、煮干が登場した。
これが私の苦手だった、というのも母は煮干を丸ごと鍋に放り込むのが常だったのだ。
「カルシウムがたっぷりあるのよ」、というのが母の口癖だが、出汁をとった後の煮干は本当の「出し殻」だった。
今私は出汁をとった後の煮干は中骨も取り去って、刻んだ昆布と一緒に煮込んで「佃煮」を作る。
少年時代の「出し殻」とは似ても似つかぬ辛口に煮上がった煮干と昆布は、酒にもぴったりの逸品。

今年のような酷暑の夏ともなると、「うどん汁」の製造にも拍車がかかる。
ぐっと呑めるほど薄味に仕上げているし、暑さでどうしても「冷しうどん」や「ソーメン」で済ませることが多くなる。
たっぷり拵えたつもりでも2,3日で500ccくらいが消えて行く。
それは良いのだが、うどんと出汁だけでは栄養が偏ることは避け難い。
と言ってもこの暑さの中では、例え炊き立ての飯でもそれほど食欲を掻き立ててくれない。
ビールが旨いことはありがたいが、摂取するのが炭水化物ばかりでは体がもたない。
アメリカにいてさえこの有様だから、猛暑酷暑の日本だったらどうなってしまうのだろうか。

望郷の念は募っても、はてさて40年ぶりの故国に適応出来るのかどうか。
ああでもないこうでもないという思案が、これから暫く続くのだろう。
まあ、暑さが過ぎればまた別の考えが浮かんで来るのではないか。
それまでは、「うどん」と「汁」で生き延びていかねばなるまい。
では煮干の頭と腹を取る作業に取りかかろうか。

日本の海との再会

ひと頃日本の釣り人口は、ざっと2千万人と言われた。
当時の人口は大体1億人だったから、国民の2割は釣りをしていたという解釈になる。
「ふーん」と聞き流すには、些か数字が厖大過ぎるようだ。
小児は釣り人口には入らないだろうし、女性釣師の数だって男性に較べればぐんと少ないはずだ。
「話半分」というから1千万としても、それでも驚くべき数字と言えそうだ。
だが、この釣りという遊びは実に日本人向きに出来ている。
今でこそ特殊な材質で作られた釣り道具が出現し結構贅沢な趣味になったようだが、それでも安い材料で楽しめる釣りは探せばありそうだ。
私が子供だった昭和20年代、休日に釣りに出かける人は少なからずいた。
安い竿とリールを持ち、釣具屋でゴカイやイソメなどの餌を買い込んで、ひがな一日を海辺で過ごす。
運よく数尾の魚が釣れれば、それは家族の晩飯の食卓を賑わせるだろうし、たとえ「坊主(釣果ゼロのこと)」であっても、健全な1日に感謝するだろう。
つまり当時の釣人は、釣りを楽しみながらも一家の食料を調達するという目的が大きかったわけだ。
異なる目的の釣り人もいたかも知れないが、まずほとんどは食べられる魚を求めて釣り場に向かったのだ。

私が本格的に釣りを始めたのは、20歳を過ぎてからだった。
兄の手ほどきで海岸沿いの岩場や防波堤に竿を出す「磯釣り」にはまり込んだ。
主戦場は神奈川県の三浦半島や静岡の伊豆半島、さらに千葉の房総半島南部辺り。
対象魚は主にクロダイ、メジナなどの磯魚。
勿論釣れれば刺し身で食べられる。
時には、夜の磯から電気ウキを投げ込んでイサキなども釣った覚えがあるし、小型ながらイシダイも手にした。
釣った魚はほとんど家族で食べたし、多過ぎれば知り合いの魚屋に進呈した。
始めの頃は母が肴を捌いていくれていたが、数が増えて来てからは良い顔をしなくなった。
止むを得ず私自身で三枚卸しを覚え、刺し身、焼き魚、煮付けも拵える破目になる。
当時釣り場で出会った釣師のほとんどは、似たようなものだっただろう。
だがその私の釣り人生は、日本を離れて大きく変わってしまった。

先ず、眼前の海が太平洋から大西洋になった。
勿論見た眼はそんなに大きな変化はないが、見えない海底の地形は大いに異なっている。
ニューヨーク周辺の海は長大な砂場が延々と続き、寄って来る魚も砂地に棲む種類が多い。
そこで私は多くのヒラメを釣ったが、これは日本でも砂地で釣れる魚だ。
そして夏場のヒラメ以外でまともな魚は冬場のカレイくらいで、他はほとんど釣れて来ない。
さらに沖に出れば急深の辺りにホンマグロが捕れるが、それはプロの仕事になる。
だから私に釣れるのは、ヒラメとカレイくらいしかいなかった、ということだ。
岩場の多い日本の磯では様々な魚や海洋生物が群れていて、対象魚をその中から釣り上げるには餌や道具もそれに合わせなければならない。
また餌に寄って来る所謂「外道(げどう)−不要魚」をそらすことも大事だ。
多種多様の魚が存在することで、日本の漁法や釣り道具は急成長したらしい。
7,8mもある鮎の友釣り竿もあれば、数十センチのタナゴ竿、数十キロの大魚を狙う磯竿も作られた。
数十年前にはそういう竿はほとんどが竹製であり、太さや長さを組み合わせて繋ぎ、4,5mの竿に仕上げた。
それがガラス繊維プラスチックの開発で強化され、さらに炭素繊維プラスチック(カーボン)が取り入れられて一段と強靭になり、強烈な魚の引きに耐えられるようになって来た。

また竿から送り出される釣り糸を巻くリールの進歩も著しく、以前数百mの深海の魚は職漁師しか釣れないと思われていたし、事実素人では太刀打ち出来ない分野だったがそれも変わって来た。
旧式の釣法では、深海まで釣を下しかかった魚を釣り上げるだけで数十分以上かかってしまう。
その面倒な仕事が電動リールの発明でいとも簡単に解決され、今では素人の釣師でも易々と釣り上げている。
また海面から下の様子を予測するのは勿論容易ではないが、魚群探知機というレーダーの発達で、海底近くにいる魚の群を感知出来るようになり、釣りのみならず網漁でも利用され大いに成果を挙げているようだ。
これだけ漁法が進歩して来ると魚を釣ることはいとも容易に思われるが、そうでもないらしい。
それは海水魚の場合の「潮の流れ」という奴で、潮の変化で魚は餌を喰うことをパタッと止めてしまう。
「上げの七分に下げ三分」と言うが、要するに満潮の少し前と少し後が一番魚の食欲が旺盛な時だそうだ。
日本で釣りに凝っていた頃、私の日課は新聞で潮の干満と海水温を知ることだった。
海水温が下がれば魚の活動は緩慢になり、上がれば活発になるのだそうだ。

私のこういう知識は、3,40年前のものだ。
勿論、この中には定理のように何百年に亘って漁師が金科玉条にして来たものもある。
しかし、魚の行動パターンは常に一定ではないことは自明の理だろう。
彼らが餌としている小魚やプランクトンだって、年々変化しているに違いない。
言ってみれば、彼らは彼らなりに進歩しているだろう、ということだ。
その進歩の上を行かなければ、良い釣果は望めない。
日本人は、長年に亘って漁法の改革に取り組んで来た。
「鮎の友釣り」とか「クロダイの跳ね釣り」などは信じられないほどユニークな釣り方だし、「アオリイカのヤエン釣り」に至ってはその発想には感服するしかない。
この狭い小さな島国で、ありとあらゆる特異な漁法が考案され実用されて来ている。
その原動力になったのは、やはり日本人が好んで水産物を食べるところにあるのだろう。

西欧にも、年月をかけて発達して来た釣りの技法が幾つもある。
日本にもファンが多い「フライ」、という漁法がその代表的なものだ。
飛翔する小さな羽虫に似せた擬餌針を水面すれすれに飛ばし、魚の好奇心を誘う。
その時の天候や水温、時刻に合わせて擬餌を取り替えて魚の本能を刺激し、襲いかからせる。
数は釣れないようだが、その面白さは傍で見ていても伝わって来た。
そして驚いたことに、釣師は釣り上げた魚を両手で抱え、元の水に戻してやるのだ。
「キャッチアンドリリース」というものを実際に見た初めての時。
食べることには関心がなく、ただ魚との駆け引きだけを楽しむゲームと言えよう。
同様に魚を放してやる日本人の釣師も出て来たようだが、それはあくまで少数派だった。
「釣ったら食べる」は、日本人の釣りの根幹にあったと私は思う。
現在淡水魚釣りを楽しむ釣り人には、この「キャッチアンドリリース」を守っている人が多いが、持ち帰る人も決して少なくはないし、釣り場周辺の宿屋や食堂ではその淡水魚の料理を提供しているようだ。
ただ、若い釣師の間では食べずに水に返す方式を守るのが一般的になって来ているという。
そしてこの方式が海釣りでも増えて来ているそうだ。
私にはその良し悪しに判断はつかない。
しかし、一つの流れとして、釣りは魚とのやり取りを楽しむもので飲食のこととは別物、という考え方が新時代の釣師の間に広まっていることは否定出来ないようだ。
また、厨房器具に接する機会がないこともあって、魚を料理出来ない若い人も増えている。
乗り合いの釣り船でも、以前は客が釣った魚を捌いて持ち帰らせるのが当たり前だったが、今では人手が足りずにそういうサービスを止めた船も多いという。
それもまた世の流れであり、止むを得ないことでもあるだろう。

私が日本で釣りをするならば、必ず釣った魚は食べるだろうし、食べられない数は釣らないだろう。
今更新しい技法をマスター出来るとは思われないから、旧態依然の古式釣法で智慧のついた魚たちに挑まなければならないし、軽くあしらわれることも覚悟している。
昔とった杵柄が何処まで通用するか、期待半分不安半分の再デビューになりそうだ。

釣師の本懐とは…

「怠け癖」はなかなか抜けない代物のようだ。
久々にブログを書くと、すぐに続けて書けるような気分になりがちだ。
興味深い事物が周囲に山ほど転がっているようにさえ思われ、先行きは明るいような気分になる。
だが翌日には、一寸先には何も見えなくなっていることに気づく。
別にスランプではない。
スランプとは、長い実績のある人がたまたま身動きが取れなくなったようなことを言うらしい。
野球で言えば3割の常連が、どういう訳か2割5分台で苦吟しているような場合。
2割5分が2割程度に落ち込んでいても、それはスランプではなく単なる不調であるということのようだ。
2割以下だったとすれば、最早プロではないと断じて良いのかも知れない。
故山口瞳は、「週刊新潮」という週刊誌に「男性自身」なるエッセーを数十年書き続けた。
好評だったこともあり、言わばその雑誌の看板のように扱われていた。
だが書いている当人は時には塗炭の苦しみを味わっていた、と吐露している。
編集者と一杯呑んでいる時でも、何か材料になるものはないか、と常に神経を尖らせていたそうだ。
編集者の方でも、「これは使えないか」というような逸話を幾つか用意して訪ねて来たという。

編集者が口にしたエピソードをそのまま使うことは、作家としてのプライドが許さない。
聞いた話を自分なりに咀嚼して山口瞳の文に仕立て直さなければならない。
それはそれで決して生易しいことではなかった、と自ら告白している。
彼にはエッセイスト志望の一人息子がいるが、時にはその息子からもテーマを頂戴することもある。
というか、息子は父が好みそうな身近の雑話をさり気なく会話に差し挟んでいたらしい。
山口瞳は、将棋や競馬、旅行や絵画など多趣味な作家であったが、それでもエッセーの種には苦労したようだ。
彼の死後、編集担当者数名の座談会が雑誌に掲載されたが、各人が一様に声を揃えたのが何とかエッセーのテーマになりそうな出来事を掘り起こして作家に提供することの苦労話だった。
今でも幾つかの週刊誌が幾つかのエッセーや随想などを連載しているが、その何れにもそういう作家や編集者たちの辛苦が塗り込められているかと思って読めば、またひと味異なる印象を受けるかも知れない。

私はブログは怠けっぱなしだが、泳ぐ方はまあまあ順調と言って良いようだ。
週に3回か4回、距離にすれば1000m前後をこなしている。
朝8時前後のプールはほとんどがらがらで、幅3m強のレーンをほぼ独占状態で泳げるわけだ。
週のうち月水金はプールは6時半に開くので、出勤前の中壮年が結構しっかり泳いでいるらしい。
それ以外は、ガードの若者が自分の携帯を眺めているくらい。
泳がない日は、付設のジムで様々な器具から脚の強化に役立ちそうなものを選んで短時間こなす。
20年以上の昔、マンハッタンのジムでよく調べもせず上腕強化の器械に飛びついて肘を痛め、それは今日まで尾を引いているという苦い経験があり、見た目には役立ちそうな器具にも拘わることはほとんどない。
一汗かいたらシャワーを浴び、身体を洗い髭を剃って我が家に戻る。
サウナやスチームバスもあるが、今はほとんど入ることはない。
聞けば既にリタイアして日に数時間ジムに籠っている夫婦がいるそうだが、一体何をしているのだろうか。
確かに夏場のジムはかなり涼しいから時間つぶしにはもってこいだろうが、だからと言ってそんな長時間ジムにいられるかどうか、私には理解を越えた人種にしか見えない。

以前はマンハッタンにも多くのスポーツジムがあった。
入会者は1ヶ月無料とか、入会金免除とか様々な惹句を見かけたが、何時の間にか消えて行ったようだ。
聞けば、とに角大勢の会員を獲得することが先決で、入ってみたら人が溢れていて全ての器具で順番待ちというようなクラブが多く、ほとんどの会員は2,3ヶ月で辞めるのだそうだ。
そしてそれがクラブの目論見なのだそうで、会員が減ったら再び新たな惹句を捻り出すらしい。
設備投資に金がかかりそうだが、ああいう器具はほとんどがリースだから廃業しても大きな損は出ない。
それだからこそ、次から次にヘルスクラブが誕生し、次から次へ消えて行くのだろう。
そういう点から言えば、私のアパートにあるクラブは消えることは有り得ないが、逆に何とか持続しなければならないという宿命を持っていることになる。
このアパートが建ってから数十年が経っているが、クラブは最初から存在していた。
だがメンバー募集では結構苦労があったらしく、外部の人たちに時間を限って解放したり、入居者にはメンバーになることを強制するという案が検討されるなど、四苦八苦の後が見える。
このクラブの運営は外部の専門業者に委任されているそうで、すでに開業以来数社が入れ替わり立ち替わり経営を行い、今の業者で5,6社目だという。
ということは、アメリカにあるアパートのジムやプールは、そういう専門業者に委託経営されているケースが多いようだ。
大型のアパートでは、駐車場、ジムや警備などは外部へ発注する形式が一般的になっているのだろう。

前述したように、週に3,4回ちゃんと泳いでいるということは、かなり体力が回復して来たといえそうだ。
ただ、泳いだ後の疲労は以前よりかなり強く感じるようで、そこら辺の判断が難しい。
全てが「年齢」の所為だとは言いたくないが、無視することは出来ない。
体力が低下して来れば、運動能力がそれに比例して低くなるのは避け難い。
4,5年前に出来たことが今は出来ないのは、ある意味で当たり前と言われるだろう。
だがそう簡単に納得してしまえば、この先の体力の低下を座視しているしかない。
80歳でエベレストに登ろうとは考えないが、せめて高尾山くらいは登りたい。
だが現在の私の登攀力は、情無いくらい乏しい。
駅の階段の10段程度で息切れしてしまうのだ。
これでは日本に帰って、防波堤で竿を出すことすら覚束ない。
釣れた魚を、玉網に入れて引き上げることなど夢のまた夢ではないか。
まあそれもあって、狙う魚は網など不要な小型に絞ってはいるのだが。
万一大型がかかってくれても、逆に海に引き込まれる破目に陥りかねない。
「老人、30cmのクロダイに引き込まれて水死」
そんな見出しが脳裡に浮かぶ。
何とかそれまでに人並みの脚力を回復しておかなければならない。

まあ、魚に引かれて海にかばねをさらすのも、釣師の本懐かも知れないが…。

未だ日本を出る前だから40年以上の昔になるだろう。
稀に繁華街で昼飯を摂ることがあった。
込み合っている店では、空いている席にどんどん客を詰め込んで来る。
ニューヨークでは、昼食時でも客の平均滞店時間は1時間近いが、日本のビジネス街では10分足らず程度だったような記憶があるがどうだろう。
食事が終われば客はさっさと席を立つのが普通だが、幾人かはウェイトレスに水を頼んだりしている。
そのほとんどは中高年の男性で、見れば掌に色とりどりの小さな粒を載せているようだ。
多い人なら10粒以上、少なくても3つ4つを口に放り込んで水で流し込んでいる。
その当時の私は薬には全くの無縁だったから、年寄りの不養生程度に見ていた。
未だサプルメントブームの前だったから、彼らが服用していたのは医師が処方した薬だったに違いない。
或いは命の綱だったかも知れず、若しくは体調を維持するためには1日も欠かせないものだったかも知れない。

それから数十年、私は毎日医師が処方した薬を呑み続けている。
年寄りの不養生は身に覚えがあるが、医師の指示には忠実なつもりだ。
と言っても毎日服用しているのは3,4種類程度だから軽い方かも知れない。
2種類は血圧降下剤で、これはもう30年近い。
毎年健康診断に通っていた日本人医師から、「血圧が高いようですから、薬を処方しましょう」、の一言で高血圧患者に分類される身となった。
私の父は50代で高血圧の発作で倒れたから、それはある程度覚悟していた。
だが、薬を呑み始めて20年くらいは、同じ分量の薬を黙々と呑んでいただけ。
かかりつけの医師は引退し、私のカルテはやはり日本人の医師に引き継がれた。
此処でも降圧剤を呑むだけの患者だったのだが、6,7年前に「不整脈」という新たな症状が発見されて、私の身柄の一部は「心臓外科」の医師に預けることになった。

2,30年無風状態だった私の健康はそこら辺から些か怪しくなり、2年前には両脚の関節に痛みを感じるような状態に陥り、病状不詳のままリューマチの専門医も私の医師団に加わってステロイドを吞むことになった。
それでも一応病名は「リューマチ性筋痛炎」と言われたのだが、実のところ本当の病名は分らないという。
「そういう症例は結構多いんですよ」、私の主治医はあっさりそう言うが、言われた当人は愉快ではない。
とに角体内に炎症があることは間違いなさそうなので、ステロイド治療を始めようというわけだ。
ステロイドという薬物の名前は、大リーグの選手たちが筋肉増強目的で利用し、確かに飛距離が伸びるなどの効果は認められたようだが、その副作用がもたらすマイナス面が懸念されて使用禁止となっている。
その効果は顕著で、2000年からの数年間、かつて到達不能と思われていたシーズン60〜70本のホームランも数人の選手が達成してしまった。
当初は噂が噂を呼んで多くの有名選手の名前が取り沙汰されたが、ジョージ ミッチェル上院議員がプロジェクトチームを編成して調査を始め、2007年12月に100人近い選手の名前が公表された。

私が吞み始めたステロイドは、成分や効能も異なっていて、筋肉増強には役に立たないという。
しかし、服用を続けると顔が丸くなり所謂「Moonface ムーンフェイス」になってしまう。
医師の診断によれば私の体内に炎症があり、それを押さえるにはこのステロイドが有効だそうだ。
ただ余りに長期に亘って服用すると糖尿病やリューマチなどに罹患する惧れがあるので、使用量を徐々に減らして行かなければならない。
ただここで問題は、ステロイドは体内の炎症には有効なのだが、様々な疾病に有効な抗生物質とは相反する働きをするという面倒な性質があるらしい。
1年前にステロイドを服用している状態で肺炎に罹った時は、まさにその状態に陥ってしまったわけだ。
結局肺炎を治すことが先決ということで、ステロイドの服用は続けたままで強力な抗生物質を長時間点滴するという危なっかしい手法を用いたようだ。
結果としては肺炎を先に治して、それから再び体内の炎症の治療に戻る、という方式。
それでも2年に亘るステロイドの服用で顔はふっくらとして来て、「思ったより元気そうね」などと言われている。
服用するステロイドの量も、予定では2年程度で終了のはずだったが、肺炎や血中ヘモグロビンの減少などで一気に減らすことは出来そうにない。
「無病息災」は昔のこと「一病息災」でも結構、と考えていたらどうやらそれでも足りないらしい。
まあそれでも何とかゴールまで辿り着ければ御の字、という考えに変わりつつある。

それが何時のことやら、気長に構えるしかなさそうだ。


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事