還暦スイマー望郷日記

30余年のニューヨーク、今浦島の心境を…

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「土俵は女人禁制」か?
何時決められたことかは知らないが、時々この禁忌を巡って論争が起って来た。
大体土俵に女性が上がることは、先ずあり得ない。
相撲という興行は全て男性だけで取り仕切られており、女性が口を挟む余地はない。
女性だってそれに対して不服を唱えたということは聞いたことがないし、今だってそれは変わらないだろう。
男女平等の世の中になってかなりの年月が経ったが、今でも女性を受け入れない場所は皆無ではない。
新しいところでは、霞ヶ関カントリークラブという名門ゴルフ場が東京オリンピックのゴルフ競技の会場に設定された後、このゴルフ場が女性会員を受け入れていないことが問題になり、侃々諤々の挙句クラブの会則を変更して女性会員を認めることにして、どうにか落着した。
相撲も過去1,2度女性の官房長官が首相代理で天皇杯を優勝力士に渡したいという要望があり、春場所では大阪府の女性知事が同様の趣旨の打診をしたが、相撲協会に拒否されている。
そこへ来て今回の巡業地の福井市で、市長が土俵上での挨拶中に倒れるという椿事が起こり、手当てに駆けつけた数人の女性看護師が病人を介抱中に「土俵から下りてください」とアナウンスが繰り返された、という。
流石に非難の声が高く、形勢不利と見た相撲協会は「今まで経験したことのない出来事だったので、対応が不味かった」と平謝りに終始したらしい。
まあ確かに挨拶に立った人がその場で倒れるなどということは滅多に無いだろうし、そういう事態に備えた予行練習もしたこともなかっただろうことに同情の余地が無いわけではない。
ただ相撲協会はこの数ヶ月ごたごた続きで、政治向きの記事に飽きたメディアの好餌になったとも言えそうだ。


「女人禁制」というと、日本のあちらこちらで行われているように聞こえる。
確かに「高野山」を始めとして霊山と崇められている山々には、そういう規制があるところが残っているだろう。
だがそれもいまでは数えるほど。
戦後若い女性の間に流行った登山ブームは、過去の旧弊を瞬く間に押し流してしまった。
日本の高山だけではない。
アルプスやヒマラヤの高峰に挑戦する女性がそれほど珍しくもなくなり、最早女人禁制を守り続けている世界の高峰はほとんどないと言っても過言ではない。
相撲が女性を土俵に上げないという方針を守って来られたのは、無理に上がりたいという女性側の声が無かったからではないだろうか。
改まって自治体の女性首長を打診されれば断るだろうが、そんな事例は滅多にない。
今回相撲協会があれだけ大慌ての醜態を曝したのは、その不備を衝かれたことが大きい。
つまり予想だにしなかった突発事故が惹き起こしたアクシデントだったということになる。

相撲協会はこの件は一過性の偶発であって、これから先に同様のトラブルが起こることはない、と片付けたいようだが、私は尾を引くだろうと思っている。
もう既にニューヨークタイムスが、「この事件は日本に根深く残る女性蔑視の現れ」と主張し、欧米の一流新聞がそれに追随する気配も見せているようだ。
たかが相撲の場で起こったアクシデントであり、相撲協会が非を認めて謝罪したことで一見落着と考えている向きもあるようだが、どうもそう簡単には済まない気配だ。
日本人は深刻に考えていないようだが、日本古来の「男尊女卑」の風習は結構広汎に知られており、その非難の対象が日本となれば、手ぐすねを引いて待ち構えている海外メディアも少なくない。
過去に数千年の平和な安寧を貪り、明治維新から近代国家への変遷を巧みに切り抜け、さらに太平洋戦争で完膚なきまでに叩きのめされながらも、アメリカの庇護の許に奇蹟のような再興を果たした日本の歴史は、大国間に揉まれ続けて来た小国から見れば恵まれ過ぎていると思われても仕方がない。
そして「女性蔑視」という観点に限れば、日本には「天皇は男系に限る」という別に国民が投票したわけでもないルールが存在しており、数年前までは後継該当者がいなくて様々な意見が交わされていた。
ところが平成6年に秋篠宮家に悠仁(ひさひと)親王が誕生し、男系の後継者が出現したことで女系天皇の議論はあっという間に沈静化してしまった。
皇太子家の愛子内親王を女系天皇にという待望論もあったようで、議論が熟す前に一件落着という気配になったことは、返す返すも残念だったと思わざるを得ない。
とは言え、今の皇族で皇位継承権を持つ男性はこの悠仁親王一人であって、決して磐石とはいえないようだ。
しかし、折角気運が盛り上がって来た「女系天皇」論議が、彼方に押しやられてしまったのはどういうことだろう。
男系の後継者が一人出て来たくらいで、万事安泰と考えているのだろうか。

歴史をみても、天皇家は常に後継男子を最優先として皇妃や側室を選んでいる。
嗣子が決まっていなければ必ず内紛や暗闘が繰り広げられ、血生臭い結末が待っているのだ。
大化の改新以降の天皇家の権力争いは、血で血を洗う近親間の暗闘が絶え間なく続く。
後継者と目された皇子は、しっかりと権力を掌握するまでは常に暗殺を恐れつつ暮らさなければならない。
ただこの時代には、幾人かの女性が天皇の地位に就いた記録がある。
何れも何らかの事情があったからではあるが、「女性天皇」そのものに対する抵抗はそれほど無かったらしい。
と言うより、すべての選択肢が否定された結果としての女性天皇だから、異論の唱えようは無かったのだろう。
だが悠仁親王が誕生する前に「女性天皇」論議はあったが、その当時は「女性天皇已む無し」という気配があったし、それに代わる代替策も無かったのではないか。
それが悠仁親王の出現で、「天皇は皇統に属する男系の男子がこれを継承する」という皇室典範を遵守出来る形勢になり、「女性天皇」云々の論議は片隅に追いやられたと言えそうだ。

と言っても、これで日本の「女性天皇」論争が完全に消え去ったわけではない。
「王室」は今では世界の少数派だが、その何れもが女王を問題なく認めている。
そうなると男系に固執しているのはアラブ系の王族国家と日本だけになるわけで、世界的に見ても偏頗な印象を持たれることになりそうだ。
世界的な統計を見ても、日本は「男女平等」という点では世界の60位辺りに低迷しているらしい。
先進国の批判的な視線を浴びながら「男系皇室」を貫き通す、という状態に耐えられるかどうか。
西欧の王族たちは遡れば血縁であったり姻戚関係であるなど相好理解も深そうだが、アジアの日本には残念ながらそういう友好関係にある王室はタイとブルネイ程度しかない。
「他国は他国、日本は日本」という考え方もあるだろうが、過去日本はその姿勢で幾つかの失敗を重ねて来ている。
鯨、鰻、マグロなどの水産物をはじめ、日本の対策は常に後手後手に廻るケースが多い。
私は「タトゥー(刺青)」が国際問題になることを危惧していたが、いまのところそれほどのトラブルはないようだ。
だがこの先海外からの観光客が益々増えて来た場合、ある程度の規範を設けておかなければなるまい。

男女平等は、日本に科せられた大きな「命題」とも言える。
現在の女性議員や国家公務員における女性の比率は、海外に比較すれば後進国以外の何ものでもない。
父親がが引退した後を引き継ぐ「世襲政治」と並んで、世界に恥じるものだと考えた方が良い。
勿論それ以外にも「恥ずかしい」ことは色々あるのだが、少なくとも「妻の言うことは私が聞いていますから…」などという妻の人権を無視したような首相が采配を振るっているうちは、あまり望みはなさそうだ。

別に「男女平等」で世界の10位に入らなくても良いが、せめて20位くらいまでにいてくれれば、オリンピックの金メダル20個の値打ちはあると思うのだが。

私が高校の水泳部員だった頃、用も無いのに部室で時間を潰すことが多かった。
部室というと聞こえは良いが、プールサイドから階段を下った辺りに設えられた細長い木造の小舎であって、急拵えの棚には脱ぎ捨てた水着やジャージーなどが乱雑に放り出されていた。
それでも一応練習時のロッカーの役割を果たしているのだから、稀には片付けたりもする。
この部室には値打ちのあるものは何も無いが、常に薄汚いノートが棚の隅に置かれていた。
表紙に「怠慢」と大書されており、中をめくれば雑然と書き殴られたメモのような覚書のような、いたずら書きのような文章が残されている。
小汚いノートではあるが、数年間に亘って部員たちに書き継がれて来た言わば「言いたい放題」の結集。
授業をサボって部室で早めの弁当を食った後の暇潰しの手すさびの冗談半分だったり、案外真面目な意見の吐露であったり、時には1頁を超える長文をものする奴もいたり、結構面白いものもあった。
とは言え、「怠慢」という表紙が表しているように、ほとんどはふざけ半分だったように記憶している。
驚いたことに、この小雑誌は今でも引き継がれているらしく、水泳部のホームページに紹介されていた。
中味は窺えないが、私たちより8期前に始まったらしいから、かれこれ60年以上続いていることになる。
「怠慢」という言葉が連綿と引き継がれていることに、些かの感慨を禁じ得ない。
だが「怠慢」という2文字はずっと私に付きまとっているような気がしないでもない。

肺炎に罹り2週間ほど入院してから1年経った。
思い出したようにブログを書き継いだり、全く気が進まないままに数週間さぼったり、数年間続けて来たささやかな努力の数々(と本人は思っている)も危殆に瀕している状態だ。
書くことが段々無くなって来た、という考え方もある。
このブログを始めたのは10年くらい前だから、その時点で私の頭には過去60年以上の記憶が詰まっていた。
それを小出しにして書いて来て、その貯蓄がどんどん目減りしてしまったようだ。
まあ単純計算したって、それはごく当然のことと考えるしかない。
故山口瞳は「男性自身」という週一回のエッセーを数十年書き続けていたが、題材の枯渇に苦吟していたという。
彼の担当の各社の編集者が当時の思い出を語っているが、何とか山口にテーマになりそうな話題を提供するべく苦労に苦労を重ねた、と全員が苦心談を披露している。
勿論私のささやかな小文と較ぶべくもないが、書くことが無い時は似たようなものらしい。
それでも若干の「書き落とし」や「思い出し」が何処かにありそうだから、それを埋め草に出来るかも知れない。

ブログに関しては「怠慢」そのものなのだが、水泳の方はこのところ優等生と言って憚らない。
週に4日か5日、1回に1000程度だから決して悪くない。
1月からの数字を見ると、週5000平均をほとんど切れ目無くこなしている。
特筆すべきは中休み無しで500くらいを泳ぎ、ひと休みしてまた500程度を泳げるようになったこと。
疲れは増すが、その後のジャクジーに浸かる10分間がその疲労感を軽くしてくれるようだ。
勿論後期高齢者に近づきつつある私の年齢では、疲労が蓄積されることは止むを得ない。
言い換えれば深い睡眠を貪れる、という利点もあるのではないだろうか。

またぼちぼちと書いて行くつもりなのだが、そう簡単に行くものかどうか。
数十年前の、「怠慢」の常連執筆者の面目を発揮したい気持ちは重々なのだが。

何処までやれるか、乞うご期待というところ…。

ささやかな夢

「釣り」と縁遠くなって3,4年経った。
止めた直接の理由は、釣り船に同乗させてくれたショーンが家族揃ってフロリダへ移住したこと。
道具はあるのだが、これが時を同じくして動かなくなってしまった。
リールは2つあったが、どちらも回転しなくなり今やうんでもすんでもない。
まあ30年以上使って来たのだから寿命と思うしかない。
どちらも安物だから未練はないのだが、馴染んだ器械だから一抹の淋しさはある。
リールが無ければ竿だって使い道は無いが、2本あるどちらも未だ使える状態だから無碍に放り出すわけには行かないし、何時またリールを買って再稼動させるかもわからない。
竿は2本とも長さ2m程度の船竿で、竿先に撓りが出る「先調子」というタイプ。
確か1本は3千円程度だったし、もう1本は伯父が買ってくれたもの。
30数年で、「平目」を100枚以上は釣っているだろう。
マンハッタンの自宅から地下鉄に乗ってブルックリンのシープシェッドベイという埠頭へ行き、客待ちのパーティボート(乗り合い船)に乗り込む。
朝8時出港で午後3時帰港が1日乗り合い、8時―12時、1時―5時が半日船になっていた。
ニューヨークの「平目」は5月末頃に接岸し、9月頃に深場へ戻って行く習性がある。
そして入れ替わりに「カレイ」が秋口に湾に近づき、翌年の春まで釣りの対象魚になるわけだ。
ただ近郊の釣り場は対象魚が限られていて、精々3,4種程度でさらに喰って旨い魚はもっと少ない。
我々がほとんど相手にしない魚でも、乗合船で数を釣る客も結構いるらしい。
聞いてみると、釣れたらフィレーにしてバターで焼いてソースをかけるのが料理法だという。
であれば、何の魚でもバターとソース味で統一されてしまうから、喜んで食べるのだろう。
その点日本人は「刺し身」になる魚を狙うから、「平目」か「シーバス」程度しかない。
「平目」は夏場の魚で「シーバス」は冬に釣れるから、辛うじて何かしら刺し身魚があるわけだ。

アメリカ中で一般的かどうかは知らないが、ニューヨーク周辺の乗合船は釣り客同士が釣れた魚のサイズを競う「プール」と呼ぶ遊びをする慣わしがあるようだ。
一人が2,3ドルづつ出して釣れた魚の重量で勝者を決める仕組み。
全員参加という決まりではないが、多い時で4,50人くらい参加するようだ。
そうなれば最大の魚を釣り上げた場合、勝者は100ドル以上を手にすることになる。
お遊びと言えばそれまでだが、いい年をした大人が釣れた魚のサイズに夢中になっている様子はむしろ微笑ましいと言えなくもない。
私がニューヨークで乗りあい船の釣りを始めた頃、船賃は半日で20ドルくらいだった、
貸し竿に餌がついての値段だから、それ程高いものではない。
ただ、その頃から州の法律で持ち帰れる魚のサイズは毎年シーズン前に決められる。
確か14インチ(35.6cm)だったと思うが、私が釣りをしなくなった頃には21インチ(53.3cm)になっていたから、20cm近く規制は厳しくなったわけだ。
可笑しなことにこのサイズは州法で決めるので、ニューヨーク、ニュージャージー、コネチカットそれぞれに独自の規定を持っていることになっており、同じ釣り場にいても持ち帰れる魚の大きさは違っている。
日本から見れば奇妙な規制だが、各州が独自のルールを持つことは当たり前なのだろう。

私はアメリカに来る前には、釣りに熱中した時代があった。
ただそれは「磯釣り」と呼ぶ、波が打ち寄せる岩場の上だったり、船で渡す離島から長い竿で釣るものだったりで、専ら三浦半島や伊豆半島が主な釣り場だった。
朝早く釣り場に着き、アミやイワシなどの撒き餌を潮の流れに乗せ、沖から忍び寄って来る魚を釣る。
主たる対象は「クロダイ」や「メジナ」などが主で、夜釣りで「イサキ」なども狙ったりもした。
確実に魚を獲得したいなら乗り合い船の釣りが間違いないが、どうも肌に合わない。
釣り船は場所によって釣果が変わるようで、一番良いのは船尾の「トモ」であり、次に船先の「ミヨシ」、そして真ん中辺の「胴の間」となっているらしい。
今は状況も変わって来たようだが、以前は良い釣り座は船の常連が優先的に占めており、初心者や滅多に来ない釣り人は残された釣り座に坐らされることになる。
だが最近は流石にそういう風習は改められて来たようで、スマートフォンなどで抽選して決めるシステムが取り入れられているそうだから、遅まきながら改革が進んだのだろう。
ただ、釣り客の顔触れも変わっているそうで、いまやルアーで大物を狙う若い人中心で、釣り座にどっかと座り込む昔風の釣り人は敬遠されているという。
可能であれば帰国して釣りを楽しみたいという気持ちはあるが、さて一体どういう釣りなら今の私に出来るのか、さっぱり検討もつかない有様。
いくらなんでも荒磯や離島に行けるとは思わないが、船でルアーを振り回すのも遠慮したい。
そういう風に考えていると、高齢者向けの釣り場、つまり防波堤とか砂浜の投げ釣りなどが浮かぶ。
と言ってはみたものの、投げ釣りだってもう40年もやっていない。
言ってみれば、浦島太郎が竜宮城から戻って又漁に行くようなものだ。
この間に著しい進歩を遂げた、リールや竿などに歯が立つだろうか。
こちらでNHKの「釣り人バンザイ」という番組を放送しているが、釣りが好きな芸能人や俳優などが日本各地の釣り場を訪ねて土地の釣り名人のアドバイスを受けながら大物を狙う、というもの。
観ていて気づいたのは、所謂餌釣りが少なくなっていること。
大半がルアーや擬似餌で竿先を間断なく動かして魚を誘い、粘りに粘って良型を釣り上げる。
稀に生き餌なども使うがほとんどはメタルジグというルアーで、今はルアー全盛の時代だと思わされた。
そして、「釣って食べる」という昔ならごく当然な考え方も、今ではそれが別のものになってしまったようだ。
「キャッチアンドリリース」という日本には全く馴染まなかった考え方も、今では多くの人が普通に行っている。
着古したジャンパーにズボンが釣師の正装だった時代は過ぎて、いまや釣り道具店でも華やかなアングラーファッションを勧めるらしいし、増え続ける女性釣師は釣り場の雰囲気を大きく変化させたに違いない。

日本に帰って釣りをするという私の小さな希望は、果たして可能なのだろうか。
勿論高望みはしていない。
あまり人の来ない防波堤辺りで、短めの竿を担いで岩礁の隙間にいる小魚を探る。
若しくは、沖に向かう潮に撒き餌を乗せて、沈んでいく浮木に竿を合わせて精々手のひらサイズの磯魚を釣り上げ、鱗を削ぎ3枚に下ろし焼くなり煮るなりして一杯呑む、程度のことなのだが。
何処まで飛ぶかは分らないが、軽い投げ竿で砂浜から沖に向かって軽めの錘を投げ、昔なら舌打ちをしながら放り出した「メゴチ」や「小キス」を天麩羅にしてビールを傾けることが出来ないだろうか。
勿論、お馴染みの「ボーズ」を食らった日は、親しくなった魚屋でカワハギや小鯵を買い込んで面子を保つなんてこともあるだろうし、魚屋が休みの日にはスーパーで「マグロ」ということもありだろう。
それでもかつての釣師の意地として、魚は天然に限りたい。

なに、昔捨てた魚を拾う覚悟をすれば、まだまだ天然魚は結構いるはずだから…。

時々変わったものが食べたくなる。
「変わった」と書いたが、別に怪しげなものではない。
カレーうどんとかハヤシライスとか、日本風に言えばB級グルメと言うのだろうか。
ニューヨークに日本レストランは数あるが、そこで注文出来るかどうかは定かではない。
カツ丼はあってもカツカレーはないとか、スパゲッティナポリタンはあるがタラコスパはないとか。
うどんは数種類あっても、力うどんがあるという保証はない。
中でもなかなか見つからないのが、中華料理の日本風のもの。
「中華丼」、「天津麺」、「広東麺」、どれも本家は中国らしいが、日本で変身してしまっている。
帰国して街場の中華料理店に行けばいとも簡単に食べられるものばかりだが、ここには無い。
稀にメニューに載せる店もあるが、はっきり言ってかなりお粗末なものが多い。
見た目だけはそれらしいが、食べてみれば違いはすぐ分る。
日本風中華料理の店は過去に数軒開いたが、それほどの人気は呼ばなかったようだ。
料理の鉄人と呼ばれるシェフの店も、何時の間にかひっそりと姿を消していた。
考えてみればマンハッタンだけでも数え切れないほどの中華レストランがあり、それどころかチャイナタウンと称される地域がいまでは3,4ヶ所あって客を集めている。
旨いと言われる店を幾つか試したが、いまひとつ口に合わない。
使う香辛料の違いや原材料の差が影響しているのだろうが、はっきり言えば客の嗜好の違いだろう。
日本の中華は日本人に合わせてあり、マンハッタンの中華の対象は絞られていない。
さらに日本では競争が激しい所為もあってか、材料の選別が厳しい。
日本人が食べて「旨い」と感じるのは、当たり前ということだろう。

日本に帰ったとき、稀に中華料理店に行くことがある。
サンプルを見たりメニューを見たり色々と思案はするのだが、頼むのは結局3,4種類に限られる。
その中でも良く頼むのが「上海焼きそば」というひと品。
良くみれば中華麺を炒めただけのものだが、具材が色々入っている。
どうも子供の頃から見た目が華やかな料理が好きな所為か、この具材に弱い。
海老、イカ、豚肉、鶉の卵に幾種類かの野菜。
食べてしまえばどうということもないし、次にも是非にというほどのことはないが、つい頼んでしまう。
見ているとこの「上海焼きそば」はなかなかの人気アイテムらしく、あちらでもこちらでもオーダーが出ている。
その理由を考えてみると、何となく見えて来るものがありそうだ。
日本人は何と言っても華やかなものが好きだ。
そして、一つの皿で幾通りかの愉しみ方が出来ればなお良い。
握り寿司だって、1桶の中に種々のネタが盛り込まれており、彩りと味の変化が持ち味。
天麩羅も幾種かの魚介と野菜が、ひと皿の中で調和を見せてくれる。
鍋物もそうだし、日本中の駅頭で売られている駅弁も、色や味の組み合わせの心配りが売り物。
逆に、一種類の食材で勝負出来る商品が際立って見える、ということも起こる。
刻み葱がぱらりとかけられた「かけそば」や「素うどん」が、枯れた山水画に見えてしまう。
「上海焼きそば」は、その中での中華代表と呼んでも良いひと皿なのだろう。

その「上海焼きそば」を作ってみようと思い立った。
上海料理には「両面黄(リャンメンホア)」という麺類がある。
蕎麦の上下を鍋に押し付けて焼き目をつけて、最後に具の入った餡を上からかけたもの。
日本で言う「固焼きそば」に似ているし、長崎の「皿うどん」とも似ていると言えるかも知れない。
中華系のスーパーには様々な麺が売られているが、実はこれが私の忌避する代物。
見た目は日本の中華麺そっくりだが、味わいは全く異なっているしコシもない。
で、日系スーパーで日本風中華生麺を買い込んで来た。
具としては、豚肉、イカ、きくらげ、キャベツ、もやし、香菜、辺りで良しとするか。
また餡には片栗粉が必要だし、味は中華スープ粉末を基本にすれば良いだろう。
作り慣れていないものは、手順で苦労させられる。
特に中華料理は下準備が出来ていないと様にならないという。
昔、中国人は一つの鍋で全てを拵えたと聞く。
たった一つの支那鍋で、スープ、前菜、揚げ物、煮物、〆のご飯ものまで作ったそうだ。
それが出来たのは、彼らが先人たちに学んだ料理の骨格だろう。
段取りさえしっかりしていれば、幼い時から馴染んで来た料理の手順は間違えようがない。
だから私も先ず、「上海焼きそば」作りのおさらいをしなければなるまい。

豚肉とヤリイカをほぼ同じ太さに切り揃える。
きくらげは水で戻して細く切り、キャベツは豚やイカと同じ幅に刻む。
もやしは水洗いをして笊に上げ、香菜は細かく刻んで水を切っておく。
生姜を細切りにして、炒めるときの香りづけに用意する。
調理のスタートに熱湯を沸かしておく。
鍋に熱湯を沸かし、麺を入れて3分ほど茹で笊にあげて水でさます。
水で冷ました麺をもう一度熱湯に入れ、再び水で冷まし笊に揚げ、胡麻油を垂らして麺に馴染ませる。
ここから暫くは餡の製造に専念しなければならない。
片手の中華鍋に胡麻油を薄く流し、熱したところで刻み生姜を投入した。
匂いが立った辺りで豚肉を入れて強火で炒める。
続いてイカも入れ、これも同様に熱して軽く塩コショウを振りかけ、そこへきくらげも放り込む。
さらにキャベツを大量に投げ込みイカや豚と混ぜ合わせ、そこへ中華スープの素を振りかけた。
すかさず酒と水、ナンプラーを流し込み、鍋の中味をスープに馴染ませる。
煮えて来た辺りでもやしを加え、フライパンを熱し始める作業にかかる。
フライパンにはサラダオイルを流し、充分熱したところへ麺を入れて拡げた。
上からフライ返しで軽く押さえ、「じゅっ」という音を聞く。
5分ほどで、押さえた麺に薄茶色の焼き目がついたのを確認して全体をひっくり返す。
中華鍋を強火にして餡を熱し始め、暫くして中火に落とす
フライパンの麺の裏側も色目がついたのを確かめて、用意した深皿に移す。
餡の入った中華鍋の火を強火にし、溶かした片栗粉をかけ回してとろみがつくのを見守る。
餡を深皿の中華麺の上からたっぷりかけ、刻んだ香菜を満遍なく振りかけて出来上がり。

試作を食べた感想を言えば、なかなか旨かったと言って良い。
鶉の卵とか浅蜊などを入れればもっと本格的になるだろうが、素人料理にはこれくらいで充分だろう。
スープにオイスターソースを入れるというレシピも見たが、甘くなりそうで止めた。
未だ幾つか改良の余地はありそうだが、それに取り掛かるのは数年後になりそうだ。

一言で言えば、「労多かれども 益薄し」といった辺りか。

プロとアマの懸隔

私が子供の頃、「プロとアマの差が一番大きいのは相撲と将棋」と聞いた覚えがあった。
確かにその当時、大学相撲からプロ入りした力士の成績は褒められたものではない。
戦前の笠置山、戦後の吉井山など入幕を果たした力士は幾人かいたが、幕内の中ほどを行ったり来たりの繰り返しで、とても三役や大関以上を目指せる力量は感じられなかったようだ。
当時は未だ中学を出てそのまま入門する力士が多く、部屋から中学に通うケースも多かったと聞く。
故人となった北の湖が、両国中学時代に漫画ばかり読んでいたという話は良く知られている。
そして飯を腹一杯食べて毎日猛稽古に励めば、高校大学辺りのトレーニングとは比較にならないだろう。
だが日本が豊かになり誰もが高校や大学へ行くようになって、状況は変わった。
1966年(昭和41年)まで大学出の力士は僅か5人だったが、それ以降は増える一方。
今では幕内力士の半数近くは、大学の相撲部出身だそうだ。
最早、プロとアマの違いを云々する人はいないだろう。
下手すればアマの大学生の方が、プロの力士より強いことだった充分考えられる。
その代わり新鋭とか若手とか言われる幕内力士は既に24,5歳、昔であれば入門から10年近くを経た中堅であり、そろそろ先行きも見えて来る辺りではなかろうか。
どちらが良いとか悪いとかいうことではない。
だが、これだけ多くの大学出の力士が番付に四股名を載せたが、横綱に昇りつめた者はひとりしかいない。
1973年に横綱に推挙された輪島で、それ以降は皆無。
大関まで辿り着いた学士力士は輪島の他に6人いたが、いずれもそこまでで刀折れ矢尽きてしまう。
その理由については様々に言われているが、やはり修行の過程に問題があるのだろう。
勿論モンゴル勢の台頭で頭を押さえられてしまった、ということは間違いないが。

一方の将棋だが、ここは事情が少し異なる。
今話題の藤井聡太6段は大学将棋の出ではないし、第一未だ中学生だ。
つい先日まではアマチュアの仲間だったわけで、言うなれば経験豊富なプロ棋士がそのアマに手も無く捻られている、というのが実情と言えそうだ。
今までにも中学生程度でプロの4段になった棋士もいたが、この藤井6段のようなケースは空前絶後だろう。
将棋の最高位は名人だが、史上最年少でこの地位に上ったのは谷川浩司の21歳。
将棋界の仕組みもあって、藤井6段がこの2,3年で名人になることは難しい。
現在C級2組の彼はC級1組B級1,2組そしてA級に到達する必要がある。
全て順調に行けば後3,4年でA級に上れるかも知れないが、上に行けば行くほど対戦相手は強くなる道理。
百戦錬磨のつわものだらけの、B級A級をすんなり通過できるかどうか。
だが、誰もが至難と見ていたプロ入り1年以内の6段位獲得を成し遂げたのだから、先のことは分らない。
将棋界には「一時力(いっときぢから)」という言葉があって、並の力量と思われていた棋士がある時突然勝ち始めることを指して言うのだが、藤井6段の場合はこの「一時」を既に通り過ぎてしまったようだ。
彼の連勝が29で止まったとき、多くの人がこれからは勝ったり負けたりが続くだろうと思ったはずだ。
確かにその後幾つかの黒星があったが、いま又13連勝と積み重ねている。
ひょっとすると、という段階を過ぎてしまったのかも知れない。

将棋の棋士の、実力を測るのは簡単ではない。
無敵と思われた頃の羽生善治にしても、10番指せば2つ3つは負けても不思議ではない。
現に羽生の通算勝利数は1395で、負けは565、勝率は.712となっている。
A級やB級の棋士の勝率は結構高いが、7割を越えているのは羽生一人だ。
それも多くのタイトル戦を戦い続けていることを計算に入れれば、驚異的と言っても良い。
藤井6段の勝率はそれを上回っているが、対局総数が69では未だ未だ先は長いという他ない。
ただ、58勝11敗(勝利率.841)という数字は底知れないものを感じさせるように思う。
ひとつ残念なことにこの脅威の新人の本当の円熟期を見られるかどうか、あまり自信はない。
上手く行けば、タイトル一つか二つくらいの棋譜は見られるかも知れないが。

大学出の力士は、落ち着きは感じるがその分若々しさが物足りないようだ。
やはり大学の3年生4年生ともなれば、相撲部屋でいう「兄弟子」という雰囲気になる。
だが卒業して相撲部屋に入門すれば、再び新弟子という身分に戻るわけだ。
体育会系の気持ちは分らないが、多少ギクシャクするのは止むを得ないだろう。
22,3歳での入門となれば、はっきり言って相撲寿命はそんなに長くはない。
2年で十両になるとすれば、もう24,5歳で昔ならベテランの域に近い。
多少のまわり道があっても、27,8で三役になれなければ、その先はそんなに明るくない。
この先相撲界に生きるのであれば、年寄り株の手配も考えなければなるまい。
部屋つきの年寄りに甘んじるか、自前の部屋を持つか、これも結構頭の痛い問題だろう。
大学を出て精々10年程度で、そういう深刻な問題を抱え込むケースはそう多くない。
普通の会社であればやっと係長になれるかどうかという年齢で、早くも経営者としての資質を問われる。
恐らく周囲の大人たちが色々根回しをしてくれるのだろうが、それにしても大変な世界だ。
彼らの部屋経営の収支を知ることは出来ないが、魅力はあるのだろうと思う。
それでも最近のようにトラブルが増えて来ると、相撲の実力や指導力とは別の能力が必要とされる。
65歳の定年までの30数年は、さぞや長いものだろうと推察出来る。

その点、将棋の棋士には、まるで正反対に近い人生行路が立ちはだかっているようだ。
例え14歳でもプロの棋士になれば、もう一人前と看做され30代40代の他の棋士たちと同等に扱われる。
ましてタイトルホルダーともなれば、挑戦者は全力でぶつかってくるはずだ。
そんな社会が他に存在するだろうか。
普通であれば少年法などで保護されるべき存在。
何かトラブルに巻き込まれれば、即「少年A」と呼称は変わる。
そして彼らにとって、周囲にいる棋士たちは全てライバルであって友人ではない。
いや自分を保護してくれるはずの師匠だって、何時対戦相手として対局場に現れるかも知れない。
そして敗戦が続けばランクから外され、棋士の看板だって下さなければならないだろう。
「奨励会」という育成組織があるが、26歳までに4段になれなければ退会する規則だ。
これはある意味で、やり直す機会を早めに与えるためだという。
だが26歳で放り出された将棋しか脳のない若者は、何とかして将棋にしがみつくしかない。
街の将棋道場の指南役あたりにありつければ上々なのだろう。
「奨励会」に入れるのは、日本各地の「将棋の天才」ばかりだと言われている。
その天才でも、4段に上がれるのは数十人にひとり程度。
羽生や藤井クラスともなれば、数百人にひとりと考えた方が良い。
「アマチュアとの差は無限大」と言うのも分るような気がする。

非凡な天才であることは幸せかも知れないが、平凡な鈍才であることも捨てたものではない。
なんて言えば、鈍才の僻みと言われるかも知れないが…。


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