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松井秀喜が、引退を発表した。
ニューヨークにある日系のホテルが、発表の会場となった。
松井は終始日本語で話し、通訳はついていない。
つまり、この会見は完全に日本向け、というわけだ。
「Yahoo アメリカ版」にも、「発表は全て日本語のみだった」と報道されている。
設営した人も、松井自身もそれを望んだということだろう。
松井は、多少ぎごちなかったが、押さえたトーンで話していた。
熟慮を重ねた上の結論だ、ということは充分理解出来る。
顔がややふっくらして見えるのは、既にトレーニングから離れているのかも知れない。
ヤンキースでプレー出来た喜びを、最大限に表現してみせた。
今年、タンパベイレイズでメジャーに昇格しながら、結果を出せなかったことが、引退へ導いたという。
一言も無念を語らず、恨みを洩らさず、満ち足りた表情を見せてくれた。
松井の内面でのメジャーは、3年前に終っていたのではないか、と私は思う。
ワールドシリーズでの大活躍で、MVPを受賞。
パレードでも、特別扱いの専用車で観衆の声援に応えた。
言わば得意の絶頂にあった、と思う。
それに続く、翌年への新しい契約への期待もあったろう。
だが、ヤンキースからの打診は来なかった。
エージェントのアーン.テレムには、あったかも知れない。
多分それは新規契約のことではなく、松井側の考えを聞きおく、程度のものではないか。
そのあたりで、代理人も松井も事態が楽観視出来ないことを、悟ったと思う。
しかし、事態は絶望ではなかったようだ。
ヤンキースのゼネラルマネージャー、キャッシュマンは投手陣の再構築を第一と考えていた。
取り分け、先発の2番手か3番手に当たる、アンディ.ペティートとの再契約が急務。
キャッシュマンには、ペティートとの契約には苦い思い出がある。
2003年のシーズンを、ペティートは21勝8敗で終えた。
同時に、一時的にせよ契約も終了する。
誰もが、新たな3,4年の契約が結ばれる、と予期していた。
だが、キャッシュマンの動きはのろかった。
彼はその時、アレックス.ロドリゲスという超大物の移籍交渉に忙殺されていたのだ。
又、彼の心の中には、
「ペティートは多少遅れても、何処にも行きはしないさ」
そう多寡を括っていただろうことは、充分想像出来る。
何と言っても、ペティートはヤンキース生え抜きの選手なのだ。
だが、ペティートは電撃的にヒューストン.アストロスと契約を結んでしまう。
「家族を故郷に近いテキサスに住ませたい」
というのが、ペティートの言い分だった。
しかし彼は、もう10年以上ニューヨークの近郊に家を借りて住んでいる。
子供たちも、そこから学校に通っていたのだから、遠くテキサスへ移る理由にはならない。
だれも口には出さないが、
「アンディは、キャッシュマンの扱いに腹を立てたのだ」
そう考え、多分それは当たっているだろう。
ペティートの移籍は、思わぬ余波を生んだ。
彼の親友、ロジャー.クレメンスは、11月に引退式を行い現役から退いていた。
それが一転、ペティートとプレーするために現役復帰し、アストロスと契約してしまう。
ヤンキースは、二重に顔に泥を塗られた格好になってしまった。
そのトラウマが、2009年には、キャッシュマンにペティートとの契約を最優先事項にさせた。
今度は、松井が後回しという状況になってしまったのだ。
おそらくキャッシュマンの腹の中には、
「松井はヤンキースに残留を希望しているのだから、多少遅れても良いだろう」
そんな観測があったと思う。
だが松井は事態を、もう少し深刻に捉えていたようだ。
彼とエージェントのテレムは、ヤンキースの真意を測りかねていたのだろう。
待っている間に、他球団はどんどん補強を済ませて行く。
もたもたしている間に、出番はなくなる可能性だってある。
特に松井は「指名代打」専任と見做されており、競争相手は多い。
「ヤンキースでなければ、大都市の球団で優勝争いが出来るところ」、が松井の希望。
今、松井の返事を待っているロスアンジェルス.エンゼルスは、その意味では理想的。
そして、松井は重たい決断をしたわけだ。
キャッシュマンは、松井の契約にちょっと驚いた、という。
だが、彼の心の中は先発投手陣で一杯。
「指名打者」くらい何とかなる、と考えていたのだと思う。
捕手として盛りを過ぎた、ホルヘ.ポサダの使い道も考えなければならない。
やりくりすればシーズンは乗り切れる、と思っても不思議ではない。
結論から言えば、ヤンキースはニック.ジョンソンを「指名代打者」として契約した。
以前ヤンキースにいた、堅実な守備と安定した打撃の一塁手。
だが、故障が多くフルに1シーズン働いたことはない、という経歴もある。
ジョンソンは、危惧どおりに5月に故障者リストに入ってシーズンを終えた。
松井の2010年は、打率.274、21本塁打、84打点。
他球団の4番打者から見ればやや見劣りするが、それほど恥ずかしいものではない。
6.5ミリオンという年俸から考えれば、そこそこだろう。
だが、エンゼルスは再契約を提示しなかった。
理由は色々あるだろうが、やはり年齢と膝の故障の不安が大きいだろう。
再び声がかかるのを待つシーズンオフが、松井を待っていたわけだ。
そして今度は、オークランド.アスレティックスと4.25ミリオンで契約する。
打率.251、12本塁打、72打点という成績でシーズンを終え、またフリーエージェントに戻った。
数字だけ見れば、未だやれそうな印象を受ける。
だが、松井の打撃は好不調の波が大きくなって来ていた。
不調でも何とかヒットを打つ、というヤンキース時代のしぶとさは影を潜めてしまう。
故障した左手首や、手術した両膝の古傷も影響したのかも知れない。
だが、契約を申し出てくるチームはない。
無為にスプリングキャンプの時期を逸し、シーズンに入っても声はかからない。
松井自身、諦めかけていたのではないだろうか。
だが、タンパベイレイズからマイナー契約の申し出があり、4月30日に球団に参加する。
そして、5月29日にメジャー昇格。
8月1日、契約解除。
そして、松井の大リーグ挑戦は終る。
繰り返すようだが、松井はヤンキースから離れた時点で終っていた、と私は思う。
ちゃんとプレーし、それなりの数字を出してはいたが、心は空虚だったのではないか。
離れてみて初めて、松井の中に占めるヤンキースの大きさに気づいたかも知れない。
松井がそれでもユニフォームを脱がなかったのは、心の整理がついていなかったからだろう。
自身の故障箇所への、的確な判断が曇ったのだろうか。
常に陽の当たるところを歩んで来た男が、逆境での判断力が鈍ったということか。
それとも開き直って、ボロボロになるまでやり尽くそう、と考えたとも言える。
会見の最後の頃、松井の表情は当初の硬さが取れていたようだ。
「やれることは全部やった、思い残すことはない」
若し彼がそう考えていたのなら、ほとんどの人は同意するだろう。
考えてみたら、いや考えるまでもなく、松井の20年は充実し切っていただろうから。
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