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我が家から、公共交通機関でマンハッタンへは幾つかルートがある。
「LIRR Long Island Rail Road ロングアイランド鉄道」か「Express Bus 快速バス」か、「Subway 地下鉄」を利用する3つが主たるもの。
要する経費もその順で安くなっていて、それに連れて同乗の客の顔触れも異なって来る。
「LIRR」は駅の周囲に自家用車を停めて乗り込んで来る人と、誰かに送らせる人に分かれる。
「高速バス」は、料金は若干安いが、数ヶ所で停まって客を拾うから、所要時間が長くなるようだ。
ローカルバスから地下鉄への乗り継ぎルートは、料金的に一番安く、客の顔触れも多岐多様。
私はこの最後のルートを一番多く利用するが、お陰でその多様性をじっくり観察させて貰っている。
この地下鉄は「Seven Train 7番線」と呼ばれているが、フラッシングという街からマンハッタンの「Times Square タイムズスクエア」まで運行している。
これが「人種の坩堝ニューヨーク」をそのまま顕しているような、種々雑多な人種構成。
多いのはラティーノと呼ぶ南米系、中国系、韓国系、そして一見国籍不詳のような、出自不明な人たち。
その間にまるで少数民族のようにちらほら混じるのが、白人と黒人。
当然ながら、幾つかの言語が車中に飛び交っている。
どういうわけか、運賃が安くなるに連れて、会話のトーンは高くなるようだ。
周囲を憚って小声で話す、というような習慣は彼らには無いらしい。
聞かれて困るような内容ではないのだろうし、場合に拠っては聞かせたいと考えているのかも知れない。
このラインで、一体どのくらいの言語が語られているのだろうか。
中国語と言っても、主たる4つの言葉、北京(マンダリン)、広東、上海、四川は知られているが、それ以外にも数十の言葉があるそうだ。
福建、湖南、満州などは良く知られているが、小さな村落だけの言葉もあるという。
一体世界にどれほどの言語があるのか、完全に把握出来てはいないらしい。
なんせ、パプアニューギニアだけで830近い言葉があり、インドネシアに730、ナイジェリアに510、インドに400と聞けば、呆気にとられてしまいそうだ。
パプアニューギニアの小さな部落が独自の言語を持っていても、話す人口は高々数百ということもあるだろう。
世界には恐らく6000近い言葉が存在し、その半数が絶滅の危機に瀕しているという。
その場合、日本は単一の言語ということになっているらしいが、それが理解出来ない。
青森と鹿児島の言葉は、恐らく意思の疎通はほとんど出来ないと思えるが、それでも一つの言葉なのか。
一体何処の国の言語学者が、そういう判定をしたのか、知りたいものだ。
パプアニューギニアの中の言語の相違と、青森鹿児島の相違との、相違点を。
世界で最も語られている言語は中国語で、12億強の人口があるという。
次がスペイン語で3億3千万、さらに英語がほぼ同数、アラビア語が2億2千万と続く。
意外や日本語は8番目で、1億2千万ちょっと。
この日本語の人口が、この調査の中でも、最も信ずるに足る数字だろうと確信する。
中国語などは、世界中に散らばっているから、正確な数字はつかみ辛い。
ユダヤ語なども、正確な数字が把握出来ない筆頭ではなかろうか。
その点日本語は、本国以外ではブラジル、ペルーなどに幾らか住んでいる程度だろう。
日本のテレビ番組で、世界の国々に住んでいる日本人を訪ねる番組があるが、観ているといかに日本人が海外に出て行かない国民なのか、ということを再確認させられる。
中国人なら、何処の国であっても、人口5万以上の町なら必ず1人2人はいるはずだ。
私が南米を1周した時も、ちょっとした町には必ず中国レストランがあり、お世話になったものだ。
世界に言語は無数に近いほどあるが、実はその半分以上は「文字」を持っていない。
言語があればそれを表示する文字があるはず、と思うかも知れないが、話すだけで書けないという状態は決して珍しくないし、絶滅した言語も「文字」が無ければその存在も消滅してしまう。
ある意味、言語は「文字」を持つことで初めて存在を確立出来る、ということだろう。
私が南米に住んでいた頃、仕事場のすぐ脇に現地のインディオが店を出していた。
彼らは、16世紀に滅びた「インカ帝国」の末裔ということになる。
その公用語であるケチュア語を話すのだが、ケチュア語には文字がない。
だから書くのは全てスペイン語、ということのようだった。
インカ帝国は、紐に縛り目をつけることで文字の代用品とし、「キープ」と呼んでいたそうだ。
戦争の時など、伝令はその紐を持って戦地から本営へ、またその逆を走ったという。
だが、その「キープ」を理解出来るのは、幹部クラスのごく一部だったようだ。
つまり「キープ」は、上流階級のみで独占されていたわけだ。
インカ帝国が、僅かな数のスペインの侵略者たちに、呆気なく滅ぼされた遠因のひとつに、この「文字を持たなかった」ことがある、と聞いたような気がする。
歴史には、こういう一般には知らされない、一部のエリートだけで行われた言語や文化が存在する。
中国では、「詩」を書いたり読んだり出来るのは、ほんの一握りの役人たちだけだった。
彼らは「科挙」という、難しい試験に合格して役人になる。
杜甫も李白、白居易も、中央政府に仕えた役人だったそうだ。
逆に言えば、そういう連中しか「詩」を作れなかった、ということらしい。
まあ、日本だって和歌や漢詩を作り読めるのは、上流階級だけだったのだから。
恐らく、イギリスやフランス、ローマ帝国でもほとんど同様だったのではないだろうか。
言葉を自由に扱えるのは、王侯貴族やそれに近い人たちだけの特権だったに違いない。
また彼らは一般大衆を無知に留めることで、自分たちの特権を守ろうとした。
それに対して、どんな反発があったかは、歴史が証明しているだろう。
言葉は、常に変化している「生き物」だ。
今の日本人は、千年前の日常会話をほとんど理解出来ない。
イギリス人だって、数世紀前の会話を再現することは出来ないだろう。
上層の一握りの人々が固守しようとしても、底辺でどんどん変わって行く。
それは現在の日本の、言葉の移ろいを見ても理解出来るではないか。
「ねえちゃん、イカすじゃないか」
石原裕次郎が、映画の画面で北原三枝にそう呼びかけてから60年。
「イカす」は死語となったが、変わる言葉は世間に溢れている。
渦中に居ると気づかないかも知れないが、遠くから見ているとそれが見えて来るようだ。
「…かな?」は使われ始めて2,30年だろうが、頻度はどんどん増えている。
「そうなれば、良いんじゃないかな、と思います」
小学生ではない、一国の大臣が濫発している言葉である。
自分には責任はない、と言いたいのかも知れないが、何とも情無い日本語だ。
「日本語は、今語った論旨を、最後に簡単に否定出来る言葉」
と言われているのに、屋上屋を重ねるかのような論旨曖昧な言葉が、テレビから流れて来る。
「…と、私は確信します」
のような、力強い言明を最近聞いた覚えがない。
私は、電車の中で全く意味不明の会話を交わしている人たちを見ると、
「貴方たちは、今何語を話しているのですか?」
そう聞きたくて、うずうずして来る。
その不可解な言語にも、ちゃんと日本語のような系統だった用法や活用があるのか、知りたいと思う。
彼らだって、私の話す日本語を聞いて、「不思議な言葉だ」と思っているかも知れない。
まあ知ってどうなるものでも、ないだろう。
だが、世界にはそういう言葉がありそれで意思を疎通し合っている人たちがいる、ということを知ることだって、多少の意味があるのではないか。
知らない時より、ほんの少し世界が広くなったような気がするだろう。
少なくとも添乗員に引き回されて、世界の大都市のみやげ物店を走り廻るよりは、有意義ではないか。
人と人の対話は、顔を見合わせて言葉を交換することから始まる。
友好や、争いや、恋愛は、全てその後のこと。
所詮人生なんて、そういう些細なことの積み重ねなのだろうから。
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