還暦スイマー望郷日記

30余年のニューヨーク、今浦島の心境を…

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

存在する理由

オリンピックは陸上競技が始まれば後半戦になり、マラソンで終了する。
1896年、クーベルタン男爵の肝いりで始められたこの競技会は、既に120年の歴史を持つ。
起源を太古のスポーツ競技会に取り、民族間の宥和と親睦、そして青少年の身体能力向上を目指すというスローガンは、当時としても斬新だっただろう。
特に、オリンピックとはそれ程の関連性の無いマラソンを競技に加えたアイデアは、今考えれば金メダル物。
回を追うごとに新しい競技があらわれ、幾つかが淘汰されもした。
だがこの十数年、新しく加えられる競技は観る者のためというより、その競技をビジネスに利用したい、若しくはそれを広めることで国力を誇示したい、そんな方向に曲がり始めている。
つまり、既に飽和状態になっていた状況を無理矢理こじ開けて来たことになるようだ。
その競技がオリンピック種目になることにより、利益や影響力を手に入れる人たちがいるのだろう。
日本を例にとれば、人口に比して競技の数は非常に多い。
何処で萌芽したかも分らないような競技なのに、何時の間にか競技人口は増え著名人がトップに座り、文部省から補助金を貰う立場に納まり返っている。
勿論見返りとして、毎年幾人かの退職者を引き受けることになるのだろう。
この公式だけは、いかなる競技にも当て嵌まるから可笑しい。

古代オリンピックでは、競技の数は当然ながら今よりずっと少ない。
分っているところでは、短距離走、中距離走、ボクシング、レスリング、槍投げ、円盤投げ辺り。
一人で幾つかの競技に出て、3つ以上優勝すれば勝者と呼ばれたらしい。
参加資格はギリシャ人であることが必須で、各地からギリシャ人が集ったという。
「スパルタ教育」で有名なスパルタもその国のひとつ。
当たり前だが歩いて競技場まで来るのだから、時間はかかる。
参加を決めると、3ヶ月くらいはそれにかかりきりになるらしい。
各地で起こった部落間の小競り合いも、当然中断しなければならない。
どうも、この「戦争休止」もオリンピックの目的の一つだったようだ。
ベトナム戦争の時の、「テト(旧正月)休戦」と似たようなものだろうか。
何に寄らず、休戦状態に持ち込めるということは双方の縦系列の命令伝達が機能していることだから、あの泥沼のようなベトナム戦争にも、そういう智慧を働かす指導者がいた、ということだ。
そう考えると、交渉相手の姿さえ見えない今の「IS国」との戦闘状態には、救いが無いような気さえする。
70年以上前、中国大陸に展開した日本軍だって、一体誰と戦時下の交渉をすべきかを分らないままに突き進み、無駄に人命を消耗していったのではなかったか。
それを思えば、数千年前にすでに「戦時休戦」という交渉が成り立っていたギリシャに感嘆するしかない。
この時代、オリンピックは似たような競技会は幾つかあった、とも言われている。
まあ日本だって各地の小中高の学校で運動会を催すのだから、分らない話ではない。
このうち大神ゼウスに捧げる大会が2つ、太陽神アポロンに一つ、海の神ポセイドンに一つ合計4つあり、中でもゼウスに捧げたオリュンピアで4年に1回行われる大会が最大と看做されていた。
恐らく近代オリンピックの提唱者クーベルタン男爵も、この競技会をモデルにしたのだろう。

近代オリンピックの開会式に欠かせないものに「聖火リレー」があるが、これが初めて行われたのは悪名高いヒトラーの指揮のもとに行われたベルリン大会。
聖火台を会場に置いて点火するという仕掛けは、その8年前のアムステルダムで行われ大好評だった。
それにヒントを得て、オリンポスの山で採取した火をリレーで大会会場まで運んだのが慣例となったという。
1948年のロンドン大会で聖火は初めて船に乗り、1952年のヘルシンキでは航空機で運ばれた。
もうそうなれば怖いものはない。
海を越えた日本でも南米でも、ひとっ跳び。
オリンポスの山で巫女たちが太陽光から採った火を運ぶ儀式は、まるで古代オリンピックの時代からあったように定型化され、見る人にもごく自然に映っているようだ。
聖火はマラソンと並ぶ、オリンピック最大の観物になったと言えるかも知れない。
それ以降、オリンピック関係者や大会主催者は新しい「聖火」や「マラソン」を捜し求めるようになった。
勿論、それが簡単な作業ではない証拠に、以来数十年新しい新機軸は誕生していない。
その代わりに、オリンピック自体が異なる変化を遂げて行き始めた。
「商業主義」という、オリンピック生誕の目的とは全く異なる方向へ。

オリンピックは、本来アマチュアのスポーツの祭典と看做されていた。
もっともそれ以前には、所謂プロフェッショナルスポーツというものはほとんど存在していなかったのだ。
勿論既にアメリカにはプロ野球があったし、日本には相撲があった。
だがそれはごく限られた国単位のものだったし、オリンピックは世界初の国際スポーツ大会だったのだ。
だが、第二次大戦後、共産圏の諸国は国威発揚にスポーツを利用することを考えた。
プロは認められていないから、選手を公務員と看做し勤務のほとんどを練習に充てる。
それだけでも技術も体力も向上するわけだが、そこに薬品の力が加えられたらしい。
もともと人並み外れた体力の持ち主に体力増強の薬品を与えるのだから、結果は見ずとも分る。
旧共産圏諸国の運動能力が高まれば、自由諸国に不満が生まれて来るのは道理。
「世界最高の能力のぶつかり合いが見たい」、という理屈でアマチュアリズムはあっさり見捨てられた。
そして、別世界だったプロが参加して来る。
従来から存在したバスケットボール、アイスホッケーなどは、その差が歴然としているのは当然だろう。
雲の上の存在のようなプロと戦って面白いのか、と問えば「面白い」のだそうだ。
勝てるはずはなくとも、そういうスーパースターに挑戦出来ることが嬉しいらしい。
しかし、アマチュアが戦う場は失われてしまった。
プロが認められれば、他のスポーツだって商業化する。
陸上競技や水泳でも、サーキットを組んで世界を転戦するようになって来た。
世界中に網羅されたテレビ放送が、この発展の影の主役。
その頂点に君臨するのが、オリンピックという肥大化した商業主義の権化。
4年に1度の祭典を自国で開催したい、そう願う国は多い。
そうなれば、開催に投票権を持つオリンピック委員会の権限は限りなく重たい。
そういう組織の腐敗化の過程は、世界のここかしこで既に証明されている。
言うなれば、今のオリンピックの組織は、熟れ過ぎた果実が己の重量に耐え切れず落下する寸前のようなもの。

実際、オリンピックのテレビ放送を観ていても、大きな感動を受けることは少ない。
日本人の活躍は嬉しいが、スポーツ自体が持つべき純粋性や躍動感が伝わって来ない気がする。
一体世界の何ヶ国に何人の競技者がいる種目なのか、さっぱり分らない。
日本の一人勝ちのような種目には、世界で何人の選手がトップを目指して修練を積んでいるのか。
そういう報道がなされた、ということは聞いた覚えもない。
設備に巨額の投資が必要な種目であれば、選手を育成出来る国は少なくなる道理。
あえて種目を挙げれば、冬季オリンピックのスキーのジャンプ台を持つ国は何カ国あるのか。
ボブスレーの滑走台を持つ国、リージュの練習が自由に出来る国、全て不明のまま。
メディアの仕事には、こういう調査は入らないのだろうか。

現代のオリンピックでは、実に様々な競技が行われている。
その種目の競技人口はゼロ、というような国もあるに違いない。
だがどんな国でも必ず選手を送り込んで来る種目がある。
それが古代オリンピックから歴史を引き継いでいる「陸上競技」。
走れば誰が一番速いか、そんなかけっこは太古の昔からあっただろう。
だから世界の誰でも、ウサイン ボルトが世界一速い男だということを知っている。
スタートラインからゴールまで、固唾を呑んで彼の疾走を見詰めていることだろう。
10秒足らずだが、最も凝縮した時間。
それを観るためにオリンピックはあるのではないか。
女子の100m競争には、黒の衣装で身を包んだイスラムの女性が参加していた。
予選最下位でタイムは14秒台。
だが彼女にとって、人生でもっとも充実した14秒間だったのではないだろうか。
そのためにこそ、オリンピックは存在するべきだろう。
勝てないことを恥じる必要はない。
だが、勝てない理由を並べ立てるのは不様以外何ものでもない。

オリンピックの存在理由は、今こそ再考の時期に来ている、と私は思うのだが。

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事