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私は市場を歩くのが好きだ。
今まで訪ねた国は結構あるが、機会があれば市場を覗く。
大中小と規模は様々だが、それなりに面白い。
小さな町では市場とは名ばかりの、2,3軒の屋台が並んでいたりする。
そこには、さっき釣ったばかりの小魚の4,5尾が置かれ、漁師らしい売り子は客が前に立つと目を輝かせる。
かと思えば、大きな都市では数十軒の鮮魚、野菜、肉、干物などの店が客寄せに賑々しい。
ただ私の場合、年に一度は訪れる築地市場が脳裡にある所為か、何処を見ても物足りない。
ニューヨークのフルトン魚市場は北米大陸最大を謳っているが、だだっ広い体育館の趣だ。
フィルムで観ただけのフランスのランディス市場は、規模は大きいようだが整然とし過ぎていて些か面白みに欠けるような気がしないでもない。
やはり市場は多少猥雑で庶民の駆け引きの場、という雰囲気が相応しいようだ。
市場というものの成り立ちは、世界何処でも似たようなものらしい。
誰かが自分の家族の必要以上の魚が獲れたら、それを誰かに売ろうと考える。
別の誰かが、沢山の野菜が出来たら、それを何かと交換しようと思う。
そういう人たちが集まって、最小単位の市場が生まれるわけだ。
噂を聞きつけて、遠方からも産品を持ち込んで来る人も現れた。
次第に大きくなれば、様々なもめごとも起こるだろう。
それを片付ける役割の人も出て来て、次第に流れが良くなって来る。
それを見た遠方から来た人間が、自分の住まいの近くに似たような店を出す。
そこに同じような人々があつまり、新しい市場が生まれるのだろう。
洋の東西を問わず、その成立過程はほとんど変わらないように思われる、
ただ市場の中での取り引きの形態は、国に拠って異なっているらしい。
日本の市場は、先ず到着した産品を「競り」という形で各中卸に買わせて、その中卸が市場の中にある自分の店に持ち帰りそれなりの利鞘を載せて販売するのが普通。
だがそれは決して世界の大勢ではないようだ。
ニューヨークの場合、生産者なり漁獲者なりが決まった店に商品を送り、店は販売後に自分の利益を差し引いて生産者に送り返すシステムを取っている。
どちらが良いとは言い切れないが、どちらにも長短がありそうだ。
競りで落とした産品には、稀に毀損部分が発見されたりする。
既に価格を決めて競り落とした場合、特例を除いてその損は店側が持たねばならない。
生産者との直接取引であれば、トラブルが発生した場合速やかに連絡することで話し合いが出来る。
この2つの方式のどちらかが、多くの市場で適用されているようだが、競りには設備や人手が必要なこともあって規模の大きな都市でしか行えないようだ。
日本は自治体が主体で市場を運営していることもあって、ほとんどの市場が競りを行っている。
「競り」というシステムは需給の関係が強く影響するため、価格の上下が激しい。
悪天候や輸送機関の遅延などで品薄となり、値段が急騰するケースがままある。
昨日1000円だったものが、今日は3000円ということも起こり得るわけだ。
初荷のマグロ1尾で1億円を越える相場が出たことがあったが、その好例と言えるかも知れない。
「市場」は英語にすると「Market マーケット」だが、本来の意味は「Supply サプライ(供給)」と「Demand デマンド(需要)」が出会って双方の要求を満たす、という意味らしい。
今では、ありとあらゆる取り引きの場を表現するのに使われるようになったのだが、本来はそういう原始的な意味合いのものだった。
「Supermarket スーパーマーケット」も今や普通名詞になってしまったが、60年ほど前に日本に登場した時は、かなり衝撃的なものだった。
一般の小売店より安く、品揃えも豊富で、家庭の主婦から見れば夢のような存在と言えた。
だが直ぐに競合が始まって已む無く価格を上げる傾向が強まり、それは仕入先に犠牲を強いることになる。
さらには郊外型の大型スーパーの出現で、所謂駅前の「シャッター通り」が日本中至る所にあらわれ、抵抗も出来ず姿を消して行った。。
そして今では「コンビニエンスストア」という、近所の便利屋全盛の時代に突入。
10年先20年先はさっぱり読めない、謂わば「五里霧中」時代の到来のようだ。
ニューヨーク市には超大型スーパーはないが、コンビニ全盛というわけでもない。
スーパーの間隙を縫って個人商店もそれなりに生き延びている、という不思議な形態。
そして、マンハッタンには市が管轄する「Green market グリーンマーケット」という青空市場がある。
市内の公園や緑地帯の一部を、決まった曜日にだけ屋台の業者に貸し出すシステム。
10ヶ所以上あるが、開催する曜日はまちまちだ。
店舗を出す資格は、ニューヨーク、コネチカット、ニュージャージーの所謂「Tri-states トライステーツ(3州)」で生産したり収穫したりしたものだけで、しかもその生産責任者が店にいなければならない。
つまり、誰かに産物を渡して売らせることは出来ない仕組みになっている。
多いのは野菜、果物、花などだが、稀に水産物や肉類、ワインなどの業者も店を出す。
トラックで来てテントを張る業者が多いが、中には他の店より2倍3倍くらい大きい規模のものもいる。
勿論出店料もそれなりに払うのだろう。
一番大きな規模なのは東14丁目にある「Union Square ユニオンスクエア」という公園だが、土曜日ともなれば7,80軒がびっしりと立ち並ぶ。
私も春から秋にかけては、このマーケットに来て目ぼしいものを探す。
最大の目的は、「Heirloom tomato エアールームトマト」、直訳すれば「遺産のトマト」とでも言おうか。
要するに、「代々受け継がれたトマト」というような意味合いになる。
このトマトの味は滅法良いが、地面で成長するので扱いが難しい。
さらに普通のトマトのように球状ではなく波を打ったような形に育つため、商業ベースに乗らない。
だからこのトマトが欲しければ、此処に来て傷の少ないものを探すしかないわけだ。
価格も高く、1ポンド(450g)で4〜5ドルくらいになる。
まあそれでもそれだけの価値があると思うから、結構大勢の人がこのトマトを購入しているようだ。
それともうひとつ、私は此処で日本風の「茄子」と「蕪」に目を光らせている。
アメリカにも茄子はあるが、はっきり言ってあまり旨くない。
身が硬く、日本の茄子のように掌で握って弾力を感じることが滅多にない。
ごく稀にヘタが紫の日本茄子を見つけると、私は嬉々として駆け寄る。
だがそこからが実はひと仕事なのだ。
日本茄子の種を播くのはアメリカ人の農夫だろうが、彼らはどの状態の茄子が旨いかは知らない。
畑で育てればどんどん大きくなるから、さっさと取り込むことをしないらしい。
20cmくらいで取り入れれば最高だろうが、ほとんどは30cm以上の大茄子。
さらに手入れもしないから、丸くなっていたり曲がっていたり。
その中から、小さめで弾力のある茄子を見つけなければならない。
苦労はするが、この茄子で作る「焼き茄子」はまさに絶品だ。
蕪もほとんど同様で、まともなものは滅多に見つからない。
それでもこの蕪の味噌汁を思えば、多少の手間は厭わない。
この茄子や蕪の製作者たちは、一応これが日本品種だということは知っているらしい。
今は世を挙げての「日本ブーム」。
作れば売れる、と考えて種を入手したのだろうが、そう甘くはない。
つけた価格だけは日本顔負けだが、見た目は日本でなら「非売品」というところ。
それでも幾つかのエアールームトマトと、数本の茄子を確保出来た。
今日の漁は、まあまあというところ。
「きょうのわざを なし終えて」、家路に着くとするか。
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