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「夕涼み よくぞ男に 生まれけり」
芭蕉の門人、宝井基角の有名な句である。
ちょっと好い気になっているような響きもあるが、夏の夕方に床机に坐って団扇を使いながら「本直し」でも呑んでいる情景と見れば、上手い捉え方だと思わざるを得ない。
(本直し − 味醂を焼酎で割って冷やした飲みもの 柳蔭とも言う)
焦門十哲の第一と言われたほどの俳人だが、師の芭蕉とは誹風は随分異なる。
本人も自分の作風には自信があったらしく、芭蕉の句には少ない軽味や洒落っ気が横溢しているようだ。
基角の根は江戸っ子だが、師の芭蕉を立てて最後まで弟子であり続けたという。
芭蕉の死後、「江戸座」と呼ぶ俳諧の結社を組織し、江戸では最大のグループとなった。
当時は師の芭蕉を凌ぐとも言われたらしいが、時が経ってみるとその差は歴然。
芭蕉俳句を芸術にまで昇華させた、与謝蕪村や正岡子規の功は大と言わざるを得ない。
芭蕉は当時でも高名な俳人であったが、飛び抜けていたわけではないらしい。
彼は江戸を本拠として弟子を持ち、一方上方には井原西鶴が1夜に2万句を詠むという大技をみせて人気を博していたが、両者が鎬を削ったというような対立は無かったようだ。
考えてみれば、芭蕉にしても西鶴にしても地方にいる門人たちは大事な客ではあるし、年一度訪ねて行ったとしても前後20〜30日の旅になってしまう。
「おくの細道」という紀行文も、勿論そこに行きたいという芭蕉の願いが可能にした長い旅ではあるが、その他に各地の俳句の弟子たちに会い歓談する、言ってみれば営業用の部分が含まれている。
行けば弟子たちが集まり句会が開かれ、そこに幾許かの金銭が献じられたことは想像に難くない。
結構知られていることだが、俳句の会の主催である所謂「宗匠」は本拠以外にも数ヶ所、弟子たちと会ったり俳句の添削をしたりする拠点を持っていることが多い。
そこは拠点であり、師匠としての収入の根幹でもあったわけだ。
それは古い高弟の家であったり、その土地の有力者の家であったりする。
時代が移り交通機関の発達もあって、今では弟子が宗匠を訪ねることも珍しくないようだが、俳人とすればやはり各地に自分の句会の芽を残しておきたいだろう。
考えようによっては、俳句や茶の湯、華道などはほとんどがこの方式を踏襲して生き残ったのではないだろうか。
面白いことに今日ではその会員のほとんどは女性に占められており、男性は辛うじて俳句に多少の纏まった数を見ることが出来る程度。
「お茶、お花、お俳句」と揶揄される所以だろう。
芭蕉は勿論、蕪村や一茶、いや正岡子規だって、今日のような俳句の姿は想像しなかっただろう。
茶の湯や華道同様に、俳句もまるで家元制度のように創り替えられ、一見世襲制度のようだ。
それを嫌って独自の結社を持ち、改革的な俳句を目指した人は多いが、何れもそれ程の成功を納めたとは言えないように見受けられる。
理由は色々あるのだろうが、なんと言っても17文字というぎりぎりのところで作るその作法に拠るのではないか。
少ない文字を捻り回すのだから、初心者が秀作を生み出すこともあるし、俳句に打ち込んで幾十年のベテランでもなかなか名句をものに出来ないという皮肉もある。
世に知られた俳人ではあっても、人口に膾炙するような名句は精々ひとつふたつという現実を見れば分る。
勿論それは私が知っている範囲の話であって、一家一派を成した俳人であれば愛好者に知られた良句佳句は数多いだろう。
しかし、芭蕉、蕪村、一茶、子規などの限られた人たちを除けば、数百年の歴史を持つ俳句界に於いても、世に知られた俳人はごくごく少ない。
勿論ひょっとしたら私がそんなに俳人を知らないのではないかという危惧はあるのだが、一応平均的日本人程度の知識はある、という前提にしておく。
明治に入って正岡子規の精力的な短歌や俳諧の改革によって、事情は随分変わってしまった。
「歌よみに与ふる書」という論説で、彼は遠い昔の紀貫之と彼が編纂した「古今集」を完膚なきまでに叩きのめし、旧来からの歌人たちの中に大旋風を巻き起こした。
しかし、この「歌よみに与ふる書」を読んでみると、子規は意図的に古今集あたりに狙いを定めたようだ。
「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候」
どう読んでも喧嘩を売っているとしか思われない。
だが子規はここで書いたほど紀貫之を嫌悪していたわけではなく、言わば格好の狙い目だったのだろう。
言ってしまえば、話題作りには相応しい相手と見たのかも知れない。
その証拠に、「歌よみに与ふる書」を読み進めば、子規は決して貫之にも「古今集」にもそれ程大袈裟な反感や悪意は持っていなかったらしいことが分る。
子規は維新前に「和歌」と呼ばれていた31文字を「短歌」と言いかえることを推奨し、ここにおいて平安時代から連綿と続いて来た「王朝和歌」の伝統は断ち切られたと見て良い。
子規が褒めた万葉集の歌は権威付けられ、古今集は真実味の無い言葉の遊びとされた。
また長く親しまれて来た「俳諧の連歌」からその「発句(初めの17文字)」が分かれて「俳句」となった。
俳句は独立した芸術であるべき、という子規の持論ゆえではあるが、長い歴史を持つ「連歌」はこれから衰退の一途を辿ることになった。
ただ「連歌」は詩歌としての性格と集団で一つの長歌を創り上げていくという付き合い的な性格があり、今でも一部の愛好家たちによって続けられている。
しかしながら、「連歌」という遊びは技術的にも高度であり、一定以上の詩歌の能力を要求される。
故丸谷才一が彼の友人たちと語らって歌仙を巻いた経緯を雑誌で読んだ記憶があるが、流石に一流の文筆家たちの集まりだけあって、比較するべき他の連歌集もないが、なかなか面白かった。
「モンローの 伝記下訳 5万円」が発句であって、それに脇句としてつけたのが大岡信の「どさりと落ちる 軒の残雪」、となったわけだが、これはまだまだ続いて行くのが前提。
現代でも「連歌」の遊びそのものはあるのだから、出版することだって可能なはずだ。
入手出来れば是非読んでみたいと思っているが、ついぞ見かけないところをみると無いのかも知れない。
一部の文士たちの楽しみにしておくのは惜しい、と思うのは私一人ではあるまい。
「連歌」が復活すれば、それはひいては俳句の隆盛にも繋がるのではないか。
言い方は悪いが、多くの句会が女性中心に運ばれている現実にも変化が起きるかも知れない。
男性の老後の楽しみにだってなり得るような気もする。
幾人かの連携で出来上がって行く「連歌」は、考えてみれば世界でも珍しい詩歌の形式ではないか。
日本文化の遺産としても、何とか残すことを考えるべきでは…ないだろうか?
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