還暦スイマー望郷日記

30余年のニューヨーク、今浦島の心境を…

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係累との別離

1週間ヨーロッパに行っていた。
スイスのジュネーブに住んでいる姉の夫つまり義兄の容態が悪く、かなり危険な状態らしい。
もう一人の姉も、日本から飛んで来る手はずになっている。
ジュネーブはフランス語圏だから、行ってすぐに姉の役に立てるかどうかは分らないが、義兄には全く身寄りがなく姉も限られた友人しか近くにはいないという。
急なことなので、PCで最速で現地に行ける便を探した。
最初のサイトで「アイスランドエアー」での1ストップ便があらわれた。
首都のレイキャビックを経由して、11時間ほどで到着するらしい。

実は私はこのエアラインは未知の航空会社ではない。
10数年以上前に、仕事でアイスランドには4,5回訪れている。
平面の地図で見ると結構距離があるようだが、北極に向かって飛ぶから意外と近い。
以前も6時間くらいの飛行時間だったような記憶がある。
ニューヨークを夜の10時頃出て、レイキャビックに朝6時頃到着したはずだ。
そんなに速く着いてどうするんだ、と勿論私は不思議に思ったが、乗客は揃ってホテルに向かう。
ホテルも当然のように部屋のキーを渡してくれる。
真っ先に温泉の出るシャワーを浴びて寝支度をした。
日照時間が4,5時間しかない頃だから、ベッドに入ればすぐ眠りに落ちた。
9時頃起きて朝食を取り、ビジネス街に向かった。
夏に行けば白夜だったのだが、生憎この国に行くのは常に冬だった。

久々のレイキャビック空港は当時と比して随分大きくなったようだし、駐機している飛行機が多い。
交通の要衝とは聞いた覚えがないが、それなりに経済も伸びているのだろう。
とは言え、人口が40万足らずだそうだから規模は知れている。
優秀な学生はさっさとイギリスやドイツの大学に転校して、そのままその地の人になるらしい。
だが政府は、そういう人材を引き止めるような工作はしていないと聞いた。
「去るものは追わず」ということなのだろうか。

アイスランドは古い命名法を固持しているようで、男子は父親のファーストネームに「son(サン)」をつけて苗字とするし、女性は同じく父親のファーストネームに「dottir (ドッテイール)」をつけて苗字とするシステムを数百年来墨守している。
北欧にはこういう命名法は珍しいものではなく、「John (ジョン)」の子供が「Johnson (ジョンソン)」であったり、「Donald (ドナルド)」の息子が「McDonald (マクドナルド)」であったりしていたが、徐々に淘汰され親の苗字をそのまま踏襲するのが普通になって来た。
それだけにアイスランドの「頑迷固陋(?)」ぶりがひと際目立つのだが、今では個性となっている。
別に法律で定められている訳ではないのだから父親の苗字を引き継いでも構わないらしいが、逆に世界に類を見ない命名法だから、多少は誇らしさもあるようだ。
ただ子供のファーストネームを捜すのが面倒に感じる親もいるようで、祖父、父、息子3代の名前を見てみると、「祖父 クリスチャン ジョンソン 父 ジョン クリスチャンソン 息子 クリスチャン ジョンソン」という具合に何の努力もしていない例も結構あるらしい。

アイスランドエアーが離陸して少し落ち着いた頃合に、備え付けの印刷物をめくってみた。
どうやらこの便のエコノミークラスには食事のサービスは無いらしい。
それでも一応メニューらしきものがあり、欲しい乗客は有料でそれを食べることが出来る。
メニューと書いたが、食事の種類は精々4,5種類でピザ、ハンバーガー、サンドイッチなどと数種類の酒の摘みらしきものがあるようだ。
だがフライトアテンダントが廻って来たときには、既にピザとハンバーガーは売り切れだった。
結局私は、白ワインの小瓶とタパスセットというお摘みを購入した。
この航空会社の代金決済はカードのみで、現金は受け取らない。
これがIT時代の金銭授受の新方式らしいが、見ていると時間がかかること夥しい。
まあ考えてみればこういう弱小航空会社には様々な国の人々が乗り込んで来るわけで、彼らの通貨にいちいち釣銭を用意することは不可能に近いだろう。
この数年、日本帰国くらいしか飛行機に乗らなかった私は、日本の航空会社の普段の努力に救われている面が多々あることを再認識させられたことになる。

レイキャビックからジュネーブ行きの便に乗り換えて、昼過ぎにはジュネーブ着。
ここは世界的には名が売れているが、人口20万そこそこの中小都市。
それでも40万のチューリッヒに次いでスイス2番目の都市であり、国際的な機関が数多く置かれ世界での知名度では上位を争っている。
ジュネーブはフランス語圏のスイス人の旗頭的存在で、ドイツ語圏のチューリッヒと大袈裟に言えば張り合う立場にあると言えそうだ。

姉のアパートに荷物を置き、日本から来た下の姉夫婦を迎える。
翌朝4人で義兄の入院している病院へ向かう。
彼の容態はかなり重篤で、スイス人の医者はもうこれ以上の治療行為は難しいと言ったそうだ。
日本と異なり、ヨーロッパでは長期入院での治療行為は回復の見込みが大きい患者を優先している。
それが所謂「寝たきり老人」が極端に少ない理由らしい。
病室に入って義兄と久々の対面と言いたいが、もうほとんど意識は無いから黙然と細くなった表情を見ているしかない。
そして全員で彼のベッドを囲んでいる時に、義兄は臨終を迎えた。
と言うと突然のようだが、実際は全員がそのときが近いことは感じていたはずだ。
姉が呼吸をしていないことを確認し、その時ひとつの命が世を去ったことを知らされたことになる。
ある程度の覚悟を持ってここへ来たはずだが、やはり粛然とするしかない。
看護婦や医師が忙しく病室を出入りするのを、我々は黙って見ていた。

私は両親の臨終にも立ち会うことは出来なかった。
だからこれ以降の諸事万端にはほとんど知識はない。
そして法的な届出や病院側との折衝など、フランス語が必要な部分では全く助けにならない。
結局それは姉ひとりの肩にかかってくることは避けられない。
つまり気はあっても、実際に出来ることはごく限られているのだ。
さらに、新聞に告知広告を出したこともあって、電話は鳴りっ放し。
一応受話器を取ることは出来るが、その先はちんぷんかんぷん。
多少英語が話せる人もいるが、故人の年齢を考えれば、フランス語は必須という感じ。
それでも故人の教え子や若い友人たちの助けもあって、何とかチャペルでの葬儀とその後の「アペロ(葬儀の参列者に軽い酒食を提供する)」の段取りだけは目処がついた。

式当日、予定時間は1時間半程度。
それでも大事をとって、司会者にはプロの女性を紹介して貰った。
バイオリンの独奏者も伝手で2曲弾いてもらう手はずになっている。
式開始前から三々五々連れ立ってやってくる人たちは、ほんの普段着が多い。
ジーパンにウインドブレーカーなどが代表的なスタイルに見える。
「こちらでは黒なんて着ないのよ」、と姉が言っていたがそういう習慣は無いらしい。
私も黒のスーツはやめて紺のブレザーにした。
それでもフォーマル過ぎたかも知れない。
式そのものは滞りなく進行した。
若いときからランニングに打ち込んでいたこともあってそのクラブから、ジャンジャックルソーの会などから結構苦労して絞り込んだ計5人のスピーカーが語り、バイオリン独奏なども織り交ぜて予定通り終了。
すぐ近くのレストランを借り切っての「アペロ」が1時間半ほど。
これで一応の葬儀は終了したことになるわけだ。

翌日私は帰米の途についた。
再びアイスランドエアーでレイキャビック経由。
それほど姉の役に立ったとは思われないが、義兄の臨終に居合わせることが出来たことはそれでも救われた思いがする。
だが私の周囲には年長の係累が少なからずいる。
12人兄弟の11番目の母の末っ子なのだから、巡り合わせと考えるしかない。
近づいて来るJFK空港を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

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