還暦スイマー望郷日記

30余年のニューヨーク、今浦島の心境を…

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さらば ヒラリー…?

ヒラリー クリントンが、「これから先、選挙に出ることはない」と公式に表明した。
彼女の回顧録の出版の一環としてテレビに登場しての言だから、一応信じて良いのではないか。
これで彼女の長かった大統領を目指す戦いは終わりを告げた、と言えそうだ。
私は彼女のファンではないが、一つの時代の終焉を感じないわけには行かない。
彼女くらい出る度に本命視されながら、最後に打っちゃられて苦杯を呑まされた候補はいない。
選挙の度に「自分は大統領になれる」、という確信を持っていただろう。
勿論本人ばかりでなく、世界もそれを信じていたのではないか。
でありながら、大方の予想を裏切って彼女は負け続けた。
その敗因については色々言われているが、なるほどと思わせるものは少ない。
彼女が初の女性候補だったことを挙げる人もいるが、それだけではないだろう。
オバマは初の黒人候補で、黒人が大統領になるのは未だだいぶ先のことだと思われていた。
それが何時の間にか形勢を逆転し、彼の流れを作ってしまった。
油断と言えば油断だろうが、大統領選挙を戦おうという候補者やその支援者が情勢の判断を間違えるなどということがあり得るのだろうか。
私は彼女が眦を決して叫んだ「Shame on you, Barak Obama (オバマよ、恥を知れ)」という一言が、それ以降の全てを変えたと考えている。
「綸言汗の如し(一度口から出た言葉を引っ込めることは出来ない)」そのままだと言えそうだ。

彼女は予想外にオバマの国務長官になって、4年間を勤め上げた。
アメリカの国務長官は、「Secretary of state セクレタリーオブステイト」が正式名称だが、その職責はほとんど他国の外務大臣と変わらない。
その多忙さは衆目の知るところで、任期中の飛行距離は恐らく世界でも1,2を争うのではないか。
それだけが理由ではないかも知れないが、大統領の任期2期8年を勤め上げたのは、ロナルド レーガンの国務長官だったジョージ シュルツの1989年が最後で、それ以降は全て1期4年で交代している。
ヒラリーが1期4年で退任した時、彼女の動向は色々と囁かれた。
次の大統領選挙に意欲ありという見方も勿論あったが、彼女の年齢も悲観材料だった。
2016年の選挙に出れば彼女は69歳の候補者になり、2期8年と考えれば77歳になってしまう。
「ヒラリーは終わった」という囁きもあったが、彼女には強力な親衛隊がついていた。
「ヒラリーを大統領に」という合言葉で結束したグループは、時には派手に時には地味にヒラリーを担ぎ上げる運動を続けており、一度の敗戦ではへこたれてはいなかったようだ。
そして、オバマの任期が切れる1年以上前から、民主党の次期大統領候補はヒラリー クリントンで決まり、という暗黙の了解のようなものが出来上がっていたようだ。
その空気に押されたのかどうかは分らないが、ヒラリーの対抗馬と目された民主党の有力者は早々と戦線を離脱し、最後に残ったのはバーニー サンダースひとり。
サンダースはヒラリーに勝つチャンスはまずないと思われていたし、むしろ撤退の時期が取り沙汰されていた。
だが彼は望みの薄い戦いを持続し、ある意味ではこれがヒラリーの敗因のひとつかも知れない。
最終的にサンダースが敗北を認めクリントン支持を表明したのは7月であり、ヒラリーはそれまではサンダースとトランプ双方を対抗馬として戦って来たわけで、そのエネルギーは馬鹿にならないだろう。

それでもその7月頃まで、ヒラリーは以前最有力と看做されていた。
ただ彼女にとって不運だったのは、戦いの相手が普通の政治家ではなかったことだ。
政治家でないだけではなく、弁護士でも社会運動家でもなかった。
つまり、全く未経験の相手と外交を論じ政策論争をしなければならないわけだ。
そしてドナルド トランプは、言うなれば八方破れの候補者であり、負けても失うもののない立場。
本気か出任せか分らないことをまくし立て、個人攻撃をも厭わない。
外交に関しても実現不能のようなアイデアをぶち上げ、煙に巻く。
不法就労の外国人を追放してアメリカ市民の職を取り戻す、などという訴求対象を絞った公約を次々と並べ立て、はっきり言えば日本の弱小政党が総選挙の時に持ち出すような耳に優しい言葉を囁くのだ。
何でも並べてみて、それで勝ったらその時はその時、と言えば一番分り易いだろう。
何十年いや何百年とアメリカ市民は多くの政治家を見て来た。
無能有能の差こそあれ、少なくともトランプのような絵空事を垂れ流す候補者は見たことがなかっただろう。
そして、その支離滅裂ぶりに狂喜する階層がアメリカには結構いたようだ。

アメリカ映画を見慣れた人なら、映画の善玉に金髪はほとんどいないということを知っているだろう。
その代わり、悪役には圧倒的に金髪若しくはプラチナブロンドが多い。
金髪ブルーアイと言えば、美女の代名詞のようなもの。
だが男はそうは行かない。
「007 ロシアより愛をこめて」という映画があったが、ダークヘアーのジェームスボンドに配するに抜けるようなプラチナブロンドの凶悪な敵役が出ていた。
そして、アメリカの大統領にも金髪は非常に少ないのだ。
考えてみれば、人は金髪に憧れるが反感も持ちやすいということではないだろうか。
だがドナルド トランプは、奇妙な髪型ではあるが金髪だ。
私は、彼の髪の色を見たとき、勝ち目はないと思った。
だが共和党のダークヘアーの対抗馬たちは次々と脱落して行く。
そこら辺で、私にもこの選挙戦の不可思議さが感じられたのかも知れない。
アメリカの大手メディアも日本の新聞やテレビも、クリントンで楽勝という予測で記事を書いている。
というより、ビジネス界にいたトランプという候補者の資料をほとんど持っていないのだろう。
それも不動産業界だから、外国との取り引きもほとんどない。
8月頃までは、ヒラリー楽勝という読みが圧倒的だったように思う。
実のところ、ヒラリー自身もそう考えていたのではないだろうか。
最後まで戦いを止めなかったサンダースを、7月で振り切った。
後は民主党の大票田を固め、共和党との接戦州を重点的に攻めて行くという青写真。

実際はこの時期、既にかなりの州がトランプに奪われていたようだ。
その主力は中流から低所得の白人層であり、さらに共和党支持の大企業の株主やオーナーたち。
親トランプというより反ヒラリーと呼んだ方が正しいかも知れない。
過去数十年、アメリカは他国の紛争に介入して膨大な軍事費を消費して来た。
湾岸戦争の日本のように金を出す国もないではなかったが、ほとんどはアメリカ任せ。
近代戦争はとにかく金がかかる。
アフガニスタンのタリバーンのように岩穴に潜り込んでいる連中に高価な爆弾を振り撒いても実効は少ない。
自軍の兵士を失わない代わりに、金だけはどんどん出て行く。
ビンラディンを襲撃して殺害しても、タリバーンの自爆テロがなくなるわけではない。
末端が散らばってゲリラ活動やテロ行為が各処で起こるだけだ。
低収入に喘ぐアメリカ市民にとっては、海外での戦争は無意味なものでしかない。
一見夢物語のようなトランプの公約が、一縷の希望のようにさえ見えて来る。
「メキシコの国境に高い壁を立てて、不法入国者を一歩も入れない」

トランプは言いたい放題をぶちまけるが、ヒラリーはそれに付き合うわけには行かない。
選挙前の9月頃になると、言った者勝ちという様子さえ見えて来た。
ヒラリーも白人低所得者層に訴える公約を持ち出したが、少々遅過ぎた。
結果はご覧の通り、世界から見れば大番狂わせでありトランプに言わせれば予定通り。
とは言え、トランプにも恐らく最後まで勝利の確信はなかっただろうが。
決まった瞬間、彼の脳裡には選挙中垂れ流した実行不可能な公約が浮かんでは消えていただろう。
だが、それを「困った」と考えるメンタリティはないだろうから、「何とかなる」程度だったのではないか。
それは企業経営者の感覚だというしかない。

1992年、ビル クリントンの大統領就任以来、24年に亘ってヒラリーは話題の中心だった。
「最もパワフルな女性」であり、「世界でもっとも尊敬される女性」であり、「アメリカ最初の女性大統領になるべき人」であり、世界で最も有名な人物でもあった。
大統領にこそなり損ねたが、あれだけ世界の耳目を集めて来たのだから、今が退きどきだろう。
と多くの人は考えるだろうが、私は未だ完全に得心していない。
ひょっとすると2年後、彼女の名前は民主党の候補の一人に載せられているかも知れない。
若しそうなればオリンピック開催中、世界の注目は東京ではなくヒラリーに向けられるのではないか。

結構強力なライバルになりそうな気がしないでもない。

鯨と柔道

私たちは、戦後の混乱時に幼児期や少年期を送って来た。
戦争中の苦難は実感として持ってはいないが、親や兄弟に聞かされた人は多いだろう。
小学校低学年の頃には、白衣の傷痍軍人を見たはずだ。
それでも小学校から実施された学校給食で、真の空腹は味あわずに済んだことになる。
コッペパンと脱脂粉乳に代表される給食は、良くも悪くも記憶に留まっているようだ。
今でも小中学校時代の友人と帰国の折りに会うことはあるが、給食はそれほど話題にはならない。
それでも稀に給食の話になることがあり、その場合先ず出てくるのは「鯨の竜田揚げ」である。
はっきり言ってそれ程美味とは呼べなかった給食のメニューの中で、このひと品だけはあの時代の学童の味覚にしっかりと訴えられる味わいを持っていたのだろう。
それから60年近い年月が流れ、私も幾度か鯨料理を口にする機会はあったが、「竜田揚げ」という料理では食べた記憶がないようだ。
私の一家は戦争直後には福岡に住んでおり、父が帰宅の途中に買って来る鯨を良く食べた。
どういう訳かそれは常に生の鯨であり、食卓に上がるのは刺し身だった。
生姜醤油に浸して食べるのが何よりのご馳走であり、調理された鯨肉にはほとんど記憶がない。
その後父の転勤で東京に住むようになり、鯨の刺し身とも縁が切れたように思う。
だが東京で通い始めた小学校で、すぐに鯨の竜田揚げに再会することになる。
言ってみれば、私の幼年時代は鯨とともにあったということだろう。

東京では流石に鯨の刺し身は頻繁には食卓に上がって来なかったが、尾鰭の部分をさらした「おばいけ」は未だ安かったのだろう、良く母が魚屋から買って来た覚えがある。
これは薄く切られた白い身肉を酢味噌で食べるのだが、子供にはそれほど人気がなかった。
と言っても鯨の漁獲量は減りつつあり、刺し身で食べられる部位はなかなか高価になっていたようだ。
さらに戦後が遠くなるに連れ、世界の各地から様々な新しい味が日本に雪崩れ込んで来ていて、鯨を食べることも滅多にないようになって行った。
実際のところ鯨は料理すると独特の匂いがあり、敬遠する向きも多かったのではないか。
鯨料理専門店も未だ幾つか営業していたが、若い人向けではなかったように憶えている。
幾つかの部位は珍味として愛好されていたが、それ以外の肉が不人気では採算が取れなかったのだろう。
特に美味い牛肉が海外から輸入されるようになり、若い人たちの嗜好がそちらに向かって行くことは避け難く、言ってみれば鯨の前途は決して明るいものではなかったわけだ。
勿論欧米各国が結束して捕鯨反対の歩調を合わせ、獲れる鯨の種類も捕鯨できる海域も厳しく制限される近況を考えれば、生き残ることさえ難しい状況だ。

勿論捕鯨を行っているのは日本だけではない。
だがノルウエー、アイスランドなどの捕鯨国では国際的な影響力も小さく、イギリス、アメリカなどの大国がリーダーとなっている反捕鯨国グループに太刀打ちするのは至難の業だろう。
反捕鯨を主張する国の中には内陸国も多く、捕鯨の経験が皆無であっても周囲の国の主張に盲従している国も決して少なくないはずだ。
近年反捕鯨国の主張の根拠は説得力が薄くなり、今では何が何でも反対という風に変化しているらしい。
先ず「過剰捕獲で種の存続が危うい」から「鯨は知能が高い哺乳類だから」へ、そして「食料とするのではなく観賞用とすべき」へと、主張は変化し続けているように見える。
日本もそういう主張にたいしてそれなりの弁明を用意しているが、捕獲した鯨の販路などが不明瞭であり、商業捕鯨だという非難を覆すまでに至っていない。
さらに中国や韓国といった近隣国は決して反捕鯨ではなく、どちらかと言えば捕鯨推進国に分類出来るのだが、日本との微妙な関係がそれを妨げているようだ。
13億以上の人口を抱える中国が捕鯨に興味がないわけはなく、将来の食糧不足を見据えて何らかの手を打ちたいはずなのだが、日本が非難の対象になっている分野で日本の主張を後押しすることも出来ず、手を拱いているという辺りが本当のところではないだろうか。
韓国に至っては近海捕鯨にはむしろ積極的で、年間2000頭という申告捕獲数は実際にはその倍以上の量が密漁で陸揚げされているようだ。

反捕鯨のリーダーは今ではオーストラリアだが、この国はかつて捕鯨大国だった。
いや現在反捕鯨を標榜している国の大部分は過去に捕鯨船団を送り出していたのだ。
ただ一つ言えることは、こういう国々は油を取るために鯨を殺していただけで、食べてはいない。
「食べ物は沢山あるのだから、無理に鯨を食べる必要はない」、という理論はそこから来ているのだろう。
もしそういう言い分が通るなら、世の中には食べる必要のないものは山ほどあることになる。
しかし現在の捕鯨国対反捕鯨国の議論は平行線を辿っており、お互いに票集めに奔走しているだけ。
それが反捕鯨国の中に多くの非捕鯨国(捕鯨の経験もなく鯨の知識もない)が含まれている理由だ。
オーストラリアについて言えば、かつての捕鯨大国は今や鯨鑑賞大国になり、所謂「Whale watching ホエールウォッチング」は国家の大きな収入源になっているという。
現在国民の94%が反捕鯨だというから、まるで独裁国家の雰囲気さえある。
だがこの国は以前「白豪主義(白人最優先主義)」という有名な政策を採った時代があり、その間原住民であるアボリジニを徹底的に迫害した歴史がある。
その後世界との宥和を模索し、移民の受け入れなどにも積極的になってはいるが、依然その底流に白人至上主義的な考え方が流れていることは、調査などでも表面化しているようだ。
つまりオーストラリアの反捕鯨には、脈々と流れる白豪主義という源流があるのだろう。
だから彼らが何時言い分や態度を変えるか、可能性は無視出来ない。

ただ捕鯨に関する限り、日本政府の対応策も決して妥当であったとは言い難い。
国際政治に関して過去の日本の立ち回り方のお粗末さは言うまでもないが、あの敗戦から学んだものの小ささに正直驚かされてしまう。
日本は、諸外国が日本の発言や行動をどう見ているか、あまり気にしているようには見えない。
国際法上正しければ、他国が口を挟むことはないと決め込んでいるようにさえ見えてしまう。
200海里外であれば、それは国際法上自由に漁獲出来る海域だと考えている。
その海域や漁法を守れば、幾ら鯨を獲っても構わない、と考えていたのかも知れない。
日本がそう行動したら、他国はどう考えどう対応して来るか、は思案の外のようだ。
国際政治や対外交渉はどう動きどう対応すれば良いか、考えるキーマンがいないのではないか。
そして気づいてみると日本は反対派に囲まれていた、というケースが多過ぎる。
それは鯨や水産資源に限らない。
分野は異なるが、国際柔道連盟の理事選挙で日本が一敗地に塗れたのも、日本の政治力不足であり情報収集力の欠如と言えるのではないか。
だが日本ではその敗因に関して、現体制の批判はするが自省の言葉は聞かれない。
最後の切り札山下泰裕を送り出しているのだから、もう後が無いことを認識して欲しい。
体質的な問題と言ってしまえばそれまでだが、そろそろ気づいても良い頃だろう。

鯨も柔道も、その根本的な問題点は似たようなものだということなのだ。
この両者はほんの一部であって、日本に張っている根は決して小さくない。
そこに早く気づかなければ、日本の先行きは暗い。
天の岩戸を開けることが出来る時が来るかどうか。
年寄りの愚痴だ、と笑い棄てるわけには行かないだろう。
まあ確かに愚痴には違いないが…。

「とうもろこし」というと、夏の物という感じがする。
確かに夏にトウモロコシは多く収穫されるが、別に旬だというわけではなさそうだ。
私のイメージでは、海水浴場のあちらこちらであまり風体の良くない男が七輪で焼き、醤油を刷毛で塗ってなかなか蠱惑的な匂いを漂わせていたことを思い出す。
そしてニューヨークに来てからも、郊外の道端で売られていた7本で1ドルくらいのトウモロコシを買い込んで、大鍋に湯を沸かしどんどん放り込んで、茹で上がったところを貪り食った記憶は未だ鮮明だ。
誰もが「Sweet corn スイートコーン」と呼んでいたが、今考えてみればあの近辺は見渡す限りのトウモロコシ畑であり、どうやら畑の持ち主は適当に種を蒔いて、成長したら機械で刈り入れていたのだろう。
7本1ドルで売って売主に未だ利益があったかどうか分からないが、食べてみれば驚くほど甘く、買う方には充分見返りのある取り引きだったように思う。
この辺りはロングアイランドという東西に伸びた細長い島で、東端まで行けばかつて一大捕鯨基地があったモントークという町に辿り着く。
今では避暑地として人気が高くなり、有名俳優や政治家の別荘も多いらしい。
南は大西洋、北はロングアイランド灘に挟まれ漁業従事者も数多い。
2,30年前は此処から出港して本マグロを釣る漁船の基地でもあった。
勿論買い付けるのは日本人であり、釣れた3,400kgの大きなマグロを「Coffin コフィン(棺桶)」と呼ばれる大きな木箱に入れ、周りを砕氷で固めて空港へ運んでいた。
この1980年頃、日本では夏場の本マグロが枯渇し始め、半信半疑で仕入れたこの手の通称「ボストンマグロ」が引っ張りだこになる騒ぎで、買い付け人がボストンからニューヨークにかけて続々とやって来ていた。

ロングアイランドのマグロは数年で数が減り始めたが、さらに北上した辺りのケープコッドに大きな群が遡上
しており、そこに大型の巻網船が投入されて、毎日数十尾の大型マグロが日本へ飛んで行った。
この北米東海岸の本マグロは日本で獲れるものより魚体が大きく、築地では「ジャンボ」の通称で呼ばれた。
釣れたばかりの魚体は優に600、700kgはあり、頭を落として内臓を出した「ドレス」にしても、400、500kgあったのだから、築地でも最初は戸惑ったらしい。
長い間200kg前後の魚に慣れて来た業者にしてみれば、競り場でその数倍はあろうという巨魚を落としても売り切れるかどうか、確信は持てなかっただろう。
そして、同様に三陸や青森、北海道の本マグロに親しんで来た古くからの料亭や寿司店は、暫くの間はボストン物には手を出さなかったと言われている。
とは言っても背に腹はかえられない。
7,8年後には、どこの店でもボストン物を黙って買い入れるようになったそうだ。
そして肝腎のマグロの方はさらに北上を続け、メイン州からカナダのノバスコシア、ニューファウンドランド近辺まで漁に参加し始め、「コフィン」が向かうのはカナダのハリファックス空港に変わって行く。
もうこの頃は、日本のマグロ産業はボストンやカナダ抜きでは語れなくなっており、さらに手を伸ばしてクロアチアやギリシャ、トルコのマグロも飛行機で成田にやって来るようになった。

この手のマグロのビジネスが始まった当時は、日本からのバイヤーは「買ってやる」立場であり、各地の船主は「買って戴く」方だったから商談は簡単だったが、その情勢はあっと言う間に逆転してしまう。
まあこれは世界中何処でも日本人が絡むビジネスは同じだが、日本人同士で競り合うようになると、必ず売り手に対して下出に出て過剰に支払う手合いが現れて来る。
なんせ物が大きく、上手く行けば数十から数百万の利益も望めるのだから多少のことは目を瞑ってしまう。
そしてそれで競り負けた相手の日本人は、次回は同じ手で魚を獲得しようとする。
やがて、船主も漁師も日本人の扱い方に慣れて来て、場は常に売り手市場に固定してしまう。
「最低価格を決め、日本の競りでそれを上回ったら利益は折半、損が出たらバイヤーが被る」
誰が考えても売り手に有利な条件が罷り通っていたのだから、呆れかえるしかない。
それから30数年、今の状況は良く分らないが、そんなに変わってはいないだろうと思う。
私は日本のマグロ中卸店のブログを結構頻繁に読んでいるが、所謂ボストン物の占める割合は相変わらず高いようで、その価格も日本の国内物と大差はないようだ。
連休前の入荷が薄ければ、脂肪分の多いボストン物の需要はあっと言う間に高騰する。
こういうマグロは何処を探しても一般人の眼に触れることはない。
高級中卸店で小分けされて、高級な寿司店や料理屋に配達されて行く。
価格の方も、大トロ寿司1貫で3,4千円はするだろうが、店は客にそんな値段は要求出来ない。
安価な他のネタに載せるくらいが精々だろう。

「この手の大きなマグロは、日本では嫌われるんだよね」
「手を出す業者はいないんじゃないかな」
ほんの2,3年前、この魚体を前にして言われた、大手水産会社の幹部社員の言である。
舌の根も乾かないという言葉があるが、それから3年も経たないうちに、この大手は買い付け人を数名東海岸一帯に送り込んで来た。
一時のまぐれかとも思えたが、現実には今でもマグロはJ.F.ケネディ空港から成田へ飛んで行く。
時々覗く築地のマグロ専門中卸のブログでも、ボストンマグロは度々登場して来る。
と言うか、今でもこの手のマグロ無しでは上客は裁き切れない状況らしい。
ただ魚のサイズが大きくて200kg強、平均すれば150kg程度なのが淋しい。
初期に見かけた1000kg近い巨体は、最早望むべくもないのだろうか。
とは言え、食べれば小振りの方が旨いに違いないのは確か。

日本は情報に溢れた国だが、時々「?」と思わされることがある。
例えばマグロという魚ひとつとっても、その種類や味を知らない人が多い。
「クロマグロ」は「本マグロ」の別称だが、所謂トロはこの種類からとれる。
だが、「本マグロ」に似た「ミナミマグロ」という小型の魚は「インドマグロ」とも呼ばれ結構脂もあり、客に「トロ」と言って出しても非難されることはないようだ。
このマグロを常用する寿司屋は多いが、訊ねられなければ「ミナミマグロ」とは言わない。
さらに、もう一段小型で脂が薄い「メバチマグロ」という種類は多少の脂はあるが、その脂は「トロ」とは言わない。
「バチトロ」と呼ぶ店は良心的ということになる。
さらに一段下の「キハダマグロ」になれば、あまり寿司屋では見かけない。
ほとんど脂っ気はないし、味わいも大いに異なる。
回転寿司などでは、普通に出しているらしいが。
「ウニ」なども、どちらかと言えばあまり詳しく語ろうとはしない。
「北海道」と言えば客は納得するかも知れないが、ロシア船が獲って日本の港に下ろしたものと、日本の潜水夫が獲ってその母港に帰って来たものとでは、呼称も価格も異なる。
さらに、禁漁期の海域から獲れたものは、全て有耶無耶で寿司のツケ台に登場するわけだ。
何も知らずに食べても、別に味は変わらないとは思うが。

ホンマグロの漁期に関して日本や中国、韓国などで侃々諤々の議論が重ねられているようだが、その間にも日本は規制以下の稚魚を獲り続けている。
日本に割り当てられた漁獲高はあっても、南に位置する漁船は先にどんどん獲ってしまい、一番価格の高い時期に漁に出る東北北海道の漁船は、違法と知りつつ出漁するしかない。
そして北で良いマグロが獲れても、南で小型が山ほど網に入れば相場は崩れてしまう。
馬鹿げた話だが、ちゃんと規制出来ない水産庁が悪いのか、権利を主張して止まない漁師が悪いのか。

話し合いが纏まる頃には、本マグロは影も形も無くなっているかも知れないが…。

待つ愉しみ 鰻

例年、9月の声を聞くと頭に浮かぶことがある。
「今年も鰻を食べなかった」
別にニューヨークに鰻がないわけではない。
調べたことはないけれど、少なくとも数十軒の日本レストランがメニューの端っこに「鰻」を載せているはずだ。
勿論、時流を反映して決して安くはない。
日本から冷凍で送られて来た蒲焼だが、一人前2,3千円はするだろう。
7月の土用の丑の日に、思い切って鰻を奮発した人も少なくなかったかも知れない。
縁起物と呼ばれるこういう食べ物を、毎年欠かさず食べる人もいるらしい。
2月の恵方巻とか、9月の月見団子とか、食べれば一応安心するものだそうだ。
そういう縁起担ぎのようなものは、是が非でもやらなければならないものなのだろうか。
釈迦力になって守ろうとすれば、結構角が立つ場合もありそうだ。
私などは、恐らく5,6年以上鰻を食べていないが、気づいたらそうだったというだけの話。
年に一度日本に帰って、2,3週間の滞在となれば食べられるものは限られて来る。
ニューヨークで帰国寸前の人に会えば、「寿司」「天麩羅」「蕎麦」、切れ目なく名前が並ぶ。
ほとんどの場合、そのうちの1つ2つを食べて帰ってくるのが落ちだろう。
私も帰国の際は似たような目標を立てて行くが、達成率は芳しくない。
理由は色々あるが、それだけ執着心がなくなって来たのが大きいようだ。
食べたいものはあっても、タイミングが合わない。
前の日に寿司を食べてしまったのに、今日又知人に誘われて寿司屋に行く破目になってしまう。
べつに不満はないのだが、目標達成は遠のいてしまうわけだ。

鰻に関して言えば、タイミングの合わないという点では一番だろう。
先ず店の絶対数が少ない。
調べたことはないが、寿司屋や蕎麦屋に較べれば10分の1程度ではなかろうか。
それも鰻専門ということになれば、その数はさらに少なくなる。
そもそも鰻料理屋の源流は川魚料理店だから、何処にでもあるわけではない。
牛久沼、手賀沼、霞ヶ浦辺りに鰻屋が多いのは、そういう理由に拠っている。
戦前は、鰻は夏場に出すもので、秋冬は鯰や鯉鮒、スッポンを提供する店が多かったという。
勿論私はそんな店に行ったことはない。
私が鰻を憶えたのは戦後7,8年の頃、鰻の専門店が出来始めたあたり。
「N亭」という蒲焼専門店はビジネス街近辺に支店を次々に出し、人気があった。
家族で行っても「鰻丼」が一つ2,3百円だっただろうか、子供心にも旨いものだと思ったようだ。
考えてみれば当時の鰻丼は安かったが、中国製でもないし養殖でもなかっただろう。
随分贅沢なものを食べていたことになる。
その後自分で給料を得るようになって、ごく稀に鰻を食べにいったりもした。
たしか丼の飯の上に5cm角くらいの蒲焼が2切れ、それにたっぷりタレがかけられていた。
言うなれば「タレ丼」とでも呼ぶべきもので、それでも店は何時でも込んでいたから人気はあったようだ。

私が鰻の大きさで飯が見えないほどの鰻丼を食べたのは、それからずっと後のことになる。
考えてみれば、鰻は普通昼飯で食べるもの。
夜の酒の席で鰻を注文することは、先ずほとんど記憶にない。
なんと言ってもあのべたっとした甘さが酒にはそぐわない。
昼飯では人気ナンバーワンだが、酒の供にはそれほど人気があるわけではない。
鰻屋も売り上げを伸ばすのに苦労していただろう、と同情してしまう。
刺し身を出したり天麩羅を出したり、努力はしただろうが、メインが鰻では酒はすすまない。
そのせいだろうか、遅くまで店を開けている鰻屋は少ないようだ。
まあ以前の食べ物屋は、そんなに遅くまで店は開けていなかったはずだ。
遅くても9時半くらいで暖簾を仕舞うのが普通で、それ以降は居酒屋くらい。
チェーンの居酒屋が営業時間をどんどん長くして、飲食業の規範が可笑しくなってしまった。
簡単に言えば、飲食業が家業からビジネスに変化して来ているということなのだろう。

鰻が食べたければ、東京にはそれでも結構な数の鰻屋がある。
客が来てから鰻を裂き、焼いて蒸してさらにタレをつけて焼く。
小一時間待たされるのは、旨い鰻を食うための常識とされている。
1本のお銚子と香の物でじっと待つのが「通」なのだそうだ。
こんな風に客を慣らした鰻屋たちは、なかなかの知恵者かも知れない。
だが考えてみれば忙しない毎日を送っている現代人にとって、これから旨いものを喰おうという時に身体をのんびりさせる小一時間を持つということは健康的にも良さそうだ。
下町にある某有名鰻店は、先ず行列を作って1,2時間待ち、席についてから注文を入れ自分の鰻が裂かれ焼かれ蒸されるのを待ち続けなければならない。
目まぐるしい東京の街にいたら、「そんなに待っていられるか」という捨て台詞も出そうだが、遠いニューヨークでそういう状況を想像してみるとそんなに悪いものでもなさそうだ。
今度帰国した折にでも思い切って行列の尻に並んでみようか、などと考えたりもする。
それでも、「鰻重 5500円」「中串蒲焼 8000円」などという価格を見ると、一考の余地ありと思う。
まあ、食い物は食べる前に色々考えるのが良いのであって、それも代金の内だろう。

私はニューヨークでは鰻を食べた記憶がほとんどない。
中国で池に入れて育て、そこで蒲焼にして日本に運んでくることは知っていた。
その池入れ量を勝手に増やして、倍以上の製品が日本市場に溢れかけたことも。
ニューヨークは、その日本に届いた蒲焼を冷凍にしてコンテナで運んで来たものを客に出す。
「日本産」とか「中国産」とか包装紙に印刷されているが、信用に価するものは何処にもない。
なんせ中華系のスーパーでは1尾5ドルくらいで売られているのだから、逆に正直だと褒めたくなる。
だから日本レストランのメニューに「鰻蒲焼」とあっても、ちょっと手が出ない。
それでも寿司種などでは随分使われたようだ。

鰻蒲焼や鰻丼などを供する鰻専門店が、絶対に守らなければいけないルールがある。
私がそれを知ったのは随分の昔だから、多くの日本人は知っているだろう。
「鰻重や鰻丼の飯は、炊き立てでなければならない」、多くの鰻専門店はこれを守っているはずだ。
だがニューヨークの店のほとんどは、保温されている電気釜の飯をつかう。
その味がどんなものか、私には分らない。
案外思うほど不味くはないかも知れないが、まあ敬して遠じておこう。
長い行列に耐えて、小一時間の裂き焼き蒸しに期待を大きくして、やっとありつく名代の鰻に対しても敬意を払うべきではないか、と考えるからだが。

西瓜を食べて70年

7月に入ってから、毎朝のように西瓜を食べている。
朝一番で果物を食べるのは長い習慣なのだが、西瓜は中でも出て来る頻度が高い。
もう数十年にもなるが、思い出してみるとメロン、西瓜、苺、葡萄、チェリー辺りが常連のようだ。
メロンはキャンタロップとハネデューがほとんどなのだが、食べ頃を見分けるのが難しい。
実はニューヨークのスーパーでは、この「見分ける」という作業が非常に重要なのだ。
店頭に並んでいる商品の中から、これなら旨いだろうという奴を摘み挙げねばならない。
持ち帰って切ってみたり皮を剥いてみたりして、ハズレだと判明してもどうしようもないのだ。
日本なら店に持ち帰ってまくし立てれば取り替えてくれるかも知れないが、それは別世界。
「You picked up and chose. (貴方が選んで買った)」、でおしまいだろうし、そこから一歩も譲らないはずだ。
だからスーパーの青果売り場では、まるで食品検査員のような目つきにならざるを得ない。

西瓜はその点他の果物とは少々趣が異なる。
2人住まいであるし、冷蔵庫のスペースの問題もあって、1個丸まる買うことはほとんど無い。
半分か4分の1かを、小分けして売っている店で買うのが精々。
その代わり切った断面を見ることは出来るし、果肉の色も確かめられる。
ただその経験から分ったのだが、西瓜は赤いから甘いという保証は何処にも無い。
しかし、白っぽい果肉は甘くないことが多いから、「逆は真」のようだ。
さらに分ったことは、こちらの西瓜は種無しがほとんど。
聞くところによれば、日本は昔は種無し主体だったが、今では種のある方に人気があるそうだ。
理由としては、種無し種は西瓜本来の甘味が物足りない、ということらしい。

西瓜という果物は、夏の間に客があれば、多い時はひと夏に5,6個は台所にやって来る。
つまり、持参する方も家族構成を考えているのだろう。
亭主は働き盛り、子供は2,3人。
そういう家族に西瓜はぴったりなのではないだろうか。
それでも、駅前の果物屋で買ってぶら下げて来るのはなかなか大変だったと思うが。
だがその価格は、高からず安からずのなかなか魅力的なお土産だったに違いない。
私が小学校の低学年の頃、未だ冷蔵庫は一般的ではなかった。
と言って既に井戸は廃れつつある時期で、バケツに入れて水道の水を流しっ放しが普通だった。
あの頃西瓜は甘かったのだろうか。
果物は色々あったはずだが、それ程甘いものは未だなかった。
夏の西瓜、秋の柿、冬の蜜柑や林檎、などが子供を惹きつける甘さだったのだろう。
今は違う。
世界中から、もともと甘い果実が交配などのテクニックで一段と甘くなって押し寄せて来る。
勿論手がかかっているのだから、販売価格は安くはない。
そういう果物が氾濫している中で、西瓜は価格の割りに安い。
考えてみると、あれだけ量もたっぷりで甘さもそこそこな果物は滅多に見つからない。
調べたわけではないが、仕入れ値も随分低そうではある。
大型トラックに満載して道端で売っているのをよく見るが、大きいもので6ドル前後、中型なら3,4ドル。
こういうトラックを見かけるのは、ハーレムの近くなどの低所得者層の住んでいる地域。
彼らでも気安く食べられる果物が西瓜、ということなのだろう。

西瓜の生産量を調べてみると、上位はほとんどが広大な農地を持っている国が多い。
世界の西瓜の66%は中国で作られている、と聞いてもそんなに驚きはないだろう。
だが7千万トンと言われても、ちょっと想像はつかない。
2位のトルコは4百万トン強で、イランの3百8十万、ブラジルの2百万強が続く。
そして10位までの国で工業国と呼べるのは、アメリカの百7拾7万のみ。
だだっ広い土地に適当に種を撒いて、勝手に育った西瓜を収穫する。
言い方は悪いが、そういう方式がずっと続いて来たのではないだろうか。
日本は世界26位で38万トン。
当然ながら、幾ら沢山収穫しても海外輸出は先ず考えられない。
国内消費分しか生産は許されないのが、西瓜という果物の宿命のようなもの。
だからこそ、三浦半島でクロダイ釣りの餌に西瓜が使われていたのだろう。
出来が悪かったり、鳥などにつつかれたりした西瓜は畑の下の海岸に放擲されてしまう。
寄せてくる波に攫われて、棄てられた西瓜は沖に流れて行く。
魚の中でも悪食で知られるクロダイが、興味半分で齧ってみた。
何処が気に入ったのか、棄てられた西瓜は彼らの好餌になったらしい。
近在の釣師が、釣り上げた魚の腹を割いて、西瓜が入っていることを知った。
面白半分に釣鈎の先に西瓜のかけらをつけて、波間に落としてみる。
西瓜に慣れて来たクロダイがそれに食いついて、釣り上げられて来た。
別に誰に聞いたわけでもないが、まあ大体そんなところだろう。
私が西瓜で釣ってみたのは40年以上の昔だが、どうやら今でも行われているらしい。
そして、どう伝播したのか房総半島でも「西瓜のポカン釣り」と呼んで、結構盛んだという。

一般的に、日本人は子供の頃の海水浴で西瓜に馴染み、成人すると縁遠くなってしまう。
そして結婚して子供が出来て数年も経つと、家族で海へ行って再び西瓜を食べるようになる。
一般的に多くの果物には栄枯衰勢があり、海外からの新種に押されて生産が大きく低下するものもある。
苺や葡萄などは本来の品種はほとんど淘汰されてしまったのではないだろうか。
だが西瓜は、恐らくそれほど生産高が乱高下していない。
着実に減ってはいるが、西瓜の固定ファンも又見捨てることなく夏にはちゃんと食べている。
冷夏や降雨量の多い時期の需要は幾分低下するだろうが、西瓜には一種の信奉者がいるようだ。
また、青果店でも夏に西瓜がどんと鎮座していなければ、店内の飾りつけは随分間の抜けたものになってしまう。
秋の林檎、冬の蜜柑、春の苺、夏の西瓜は、言うなれば果実店の定番商品のようなもの。
それらは、多くの輸入品種がやって来る前から、この定位置を死守している。
青果店に限らず、日本の商店では商品の飾られる場所が決まっていることが多い。
魚屋で店頭に真鯛を探す人は先ずいないし、肉屋のショーケースにステーキ肉を求めるなら、上段の真ん中辺りに一桁違う価格の肉片が美しく展示されているはずだ。

ニューヨークのスーパーでは、西瓜は雨が降っていない限り屋外の駐車場に、輸送用の大きな段ボール箱に入れられたまま放り出してあるのが普通。
確かに店内に運び入れて平台などに積み替えるなら、その手間は大変だ。
客は駐車場に置かれたダンボール箱から、気に入った西瓜を拾い上げてレジへ運ぶ。
子供を2,3人連れているから、今日1日分か精々2日分だろう。
つまり、2日に1個づつこの大きな西瓜を買い込んでいることになる。
日本から見れば、羨ましい子沢山と言うべきだろうか。
日本では、まるまる1個は売れない時代になったらしく、半分や4分の1売りが中心なのだそうだ。
そして生産量は右肩下がりで減少し続けているのが実情。

いつまでこの西瓜と私の関係は続くのだろうか。
もう70年近く付き合って来たのだから、ある日突然の別離は望むところではない。
「この一切れで今年の西瓜はお仕舞いかな?」
などと思いながら、その一切れをしみじみ味わう終わりなどが理想的ではないだろうか。
翌年再び西瓜が食膳に上って来たら、久闊を叙して、
「永らへし この一年の 西瓜喰う」
なんて駄句を捻るのも悪くないかも知れないが…。

ただこの句は、秋の新酒や新蕎麦、新米などにも使いたいところなのだけど。


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