還暦スイマー望郷日記

30余年のニューヨーク、今浦島の心境を…

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「故郷へ 廻る六部は 気の弱り」
これは作者不詳の川柳だそうだが、世に知らしめたのは作家藤時沢周平のエッセー集だろう。
山形県鶴岡市に育った藤沢周平は、この東北の田舎町で教師を生業としつつ作家の修行をしたという。
しばしば池波正太郎や山本周五郎と比較されるが、藤沢周平が描く侍は田舎の小藩の下級武士が多く、
作風も地味なものが多い。
前回 「帰りなんいざ 田園まさに蕪れなんとす 何ぞ帰らざる」という4〜5世紀の中国の詩人陶淵明の有名な詩を紹介した。
都会での種々の人たちとの交わりに草臥れ果てた詩人の嘆きが滲み出てくるような詩であり、昨今の日本の「帰農」ブームを思わせないでもない。
この時代の中国は「科挙」という高級官吏が政治を牛耳っており、多くの秀才たちがこの「科挙」の試験を目指して学問に励み、彼の親族一統は彼の成功を夢見て全員で後押しをした時代だと言う。
一端「科挙」の試験に受かればその先の立身出世は約束されたようなものであり、親戚の郎党は彼の権勢を頼りに栄耀を貪ったと言われている。
今日の中国の政治の腐敗はその数千年前の風習の残滓であり、共産党の幹部の地位にありついた人たちやその身内眷属の権力の濫用をそう簡単に粛清出来るとは思われない。
多くを中国に学んだ日本にその伝統が生きているのは当然だが、それ程色濃くないのは何故だろうか。
小さな島国に肩寄せあって生きて来た日本人の生まれ性であり、貧乏根性だと言えるかも知れない。

「故郷へ 廻る六部は 気の弱り」
この六部はいわば遍路のようなものだろうが、正式には「六十六部」と言い、法華経を六十六部写し全国の霊場に奉納して廻った巡礼を指し、道々托鉢をしながらであったため物乞いの一種と看做されていたようだ。
鎌倉時代に流行したそうだが、家を出る際多少の蓄えを持って出ることもあり、一夜の宿を乞うた先で殺されることもあったようで、それは「六部殺し」と呼ばれさほど珍しいことではなかったらしい。
たとえ信仰のためとは言え生家を出て行くことは許されておらず、一度その境涯に身をおけば放浪者となる。
過去を捨てる決意とともに故郷を離れるわけだが、長年の放浪生活による精神肉体の疲労は避け難く、ふるさとに近づけば忘れていた身内のことどもも思い出すだろうし、それは彼の「気の弱り」なのであろう。
この川柳が作者すら不明のままに人口に膾炙している理由は、人が年をとれば意識することもなく生まれ故郷を脳裡に描くものだと理解しているからだろう。
勿論、この六部が霊場を廻った時代ではないから、この川柳のような光景は最早現実には有り得ない。
しかし、昔の六部が宿していた懐かしい故郷のようなものを人は皆心のうちに持っているのではないか。
そうでなければ、この古川柳を知る人の多さは理解が難しい。

今「古川柳」と書いたが、この句は俳句というには形が整っていないし、川柳と呼ぶには軽味に乏しい。
一読して「なるほど」と思わせるが、それ以上でも以下でもない気がする。
にも拘らず忘れ難い響きを感じるのは、六部という放浪者の来し方行く末が他人事とは思えないからだろう。
老後に四国の八十八ヶ所の霊場巡りを志す人は結構多いと聞く。
それあってか四国だけではなく福岡の篠栗や愛知の知多半島、瀬戸内の小豆島にも八十八の霊場があり、それなりにかなりの数の遍路が札所を巡っているようだ。
そういう方式は別に非難されるべきではないだろうが、その3つが四国の八十八ヶ所とは別に「日本三大新四国霊場」と呼ばれていると聞くと、大百貨店の支店のようなニュアンスを感じてしまう。
まあ元を辿れば日本全国にある「国分寺」「や「国分尼寺」は、東大寺や法華寺の末院と位置づけられたのだから、これは日本の得意技と呼ぶに相応しいかも知れない。

私も「還暦スイマー望郷日記」などと名づけてブログを書いて来たが、よくよく読んでみれば「気の弱り」が滲み出しているところが幾つかあったような気がする。
「廻るふるさと」こそないが、西欧の人たちと較べれば日本全体が故郷のようなものであり、何処に住んだとしてもそんなに大きな差異は感じないのではないか。
いま帰ろうかと考えている「日本」だって、特定の街や市があるわけではない。
「日本」という漠然とした町や村で、残りの人生を消費してみようか、といった程度のこと。
それも「気の弱り」ゆえと言えないこともないかも…。

煙は薄し 桜島山

「我が胸の 燃ゆる想いに 比ぶれば 煙は薄し 桜島山」
一度くらいは聞いた覚えのある和歌ではないだろうか。
作者は黒田藩の志士、平野國臣。
今NHKで西郷隆盛を主人公にしたドラマが放映されている。
西郷と言えば、日本の歴史上のヒーローとして必ず名が上がって来る英雄豪傑のひとり。
源義経、織田信長、豊臣秀吉などと並ぶ人気者と言えるだろう。
その悲劇的な最後を考えれば、義経と双璧かも知れない。
だがほんの150年ほど前の実在の人物のわりに、知られている面は少ない。
人気も高く語られることも多いのに、実像は曖昧模糊としたまま。
不思議なことに、彼の写真は1枚も残されていない。
あの時代の維新の志士たちの風貌は、当時海外から持ち込まれたばかりの写真機で写され今日でも多くの人の眼にさらされているのだが、中でも抜きん出て特異な容貌だった西郷だけ皆無なのだ。
写真はないが、彼の肖像画だけは残されており、それを頼りに人々は西郷を偲んでいる。
その肖像画の西郷は巨漢でありまたその黒い大きな双眸は一度見たら忘れられない印象を与える。
そしてその日本人離れした容貌ゆえに、西郷を映画やテレビの画面に登場させることを困難にして来た。
勿論歴史上最大級の英傑だから、しばしば姿をあらわすのだがそれは常に一人の登場人物として。
維新の英雄西郷隆盛と真正面から取り組んだフィルムは、恐らく1本もないだろう。
試みた人がいなかったとは思われない。
だが多くの人が画像化しようと苦労し、果たせないままで今日に至っているということだろう。
彼の肖像画や銅像は数多い。
そしてその何れもが、あの大きな黒い眼を再現出来ずに終わってしまっている。

現在放映されているNHKの大河小説ドラマも、正直に言えば西郷とは似ても似つかない。
熱演している俳優には気の毒だが、噴飯物と言った方が正しいだろう。
始まってしまったのだから中途打ち切りはあり得ないだろうが、この先はどうなるのだろうか。
NHKは歴史物がお好みのようだが、史実と思われていることでも平気で変えてしまう。
原作者の意向で登場人物の性格や異性関係をがらりと変えることは多少は許されるのかも知れないが、あまり極端な場合物語の大筋までもが疑わしくなってしまう。
さらに西郷のように現在と高々150年程度のずれであれば、彼の性格や行動はかなり知られているわけだし、そこまでも脚色してしまうのはどうだろうか。
私の祖父は西郷が西南戦争で熊本を攻めたとき、15歳の少年だったはずだ。
であれば、かなり詳細なところまで知ることが出来たわけで、そういう証人が存在しているとすれば、作者や脚本家、ディレクターの都合で勝手に変えることは許されないのではないか。
日本に限らず、世界の歴史の多くは勝者に都合よく書き直されて来た。
「勝てば官軍」という言葉がそれを如実に示しているが、読まされる大衆とて暗愚ではない。
為政者の行動を正当化して叙述しているようでも、真実を糊塗することは難しい。
とは言っても、修飾されて描かれた権力を巡る争いは勝者に偏ることは、すぐお隣の国を見ても明らかだ。
小さな島国である日本の場合、「隠すより顕わるるはなし」という格言どおり、多くの権力争いの核心は人の口の端に上ることを防ぐことは難しかっただろう。
言ってみれば、日本の歴史は諸外国に較べれば遥かに史実に即していると言えそうだ。

それでも西郷隆盛に関して言えば、今日でも疑問符がついている幾つかの行動がある。
冒頭に紹介した和歌は、黒田藩士平野國臣が詠んだものだが、この歌の大意については諸説がある。
平野国臣は西郷の依頼を受けて幕府に追われる身の僧月照を薩摩まで送り届けた。
当時の薩摩は島津久光が藩主で、先代の斉彬と異なり徳川幕府の顔色を窺っている時期でもあり、西郷は勿論だが、彼が薩摩に匿おうとした月照も甚だ迷惑な存在でしかなかった。
そして薩摩藩は西郷に月照を隣国宮崎へ連れ出し、そこで殺害することを命じる。
自分を頼って来た月照を殺すことが出来ない西郷は、宮崎に向かう小船から月照と抱き合って海中に身を投じ、月照は命を落としたが、同乗していた平野らの懸命の救助もあって西郷は蘇生し奄美大島へ運ばれた。
この心中未遂が、西郷と月照の関係を今に至るまで不可解なものとして研究者を悩ませているらしい。
平野は薩摩藩から国外退去を促され福岡へ戻るが、この和歌はそのとき詠まれたと言われている。
「私の心に燃え盛る尊王攘夷の志の熱さに較べれば、桜島の噴煙は薄ぼんやりとしか見えない」
つまり、平野国臣個人の情熱にも遠く及ばないと言いたかったのだろう。
薩摩藩に失望した平野は、その後も志を同じくする志士たちと交わり、京を中心に活動を続けた。
だが同じ志を持つものの少ない黒田藩出身の平野は、ほとんど単独行動を取らざるを得ない。
彼の最後は京都の六角獄舎で、禁門の変に際して生じた火災を口実に殺害された、という。

平野国臣を知る人は少ないが、彼の残した歌は未だに人口に膾炙している。
多くの人はこの歌を西郷と結び付けて考えているようだが、実際には桜島の噴煙を誇りとしている薩摩藩士たちへの失望を平野は詠んだと解釈する人が多い。
そしてその平野は西郷の命を救った一事で名を残した。
本意であったかどうかは分からないままだが。
しかし、望むと望まぬとに拘わらず、この歌はこの先も桜島とともに人々に語り継がれて行くのだろう。

怠け者の弁

今年に入ってから、ブログは手抜きだらけになってしまった。
投薬の所為もあるのかも知れないが、どうも気力が湧いて来ない。
まあ、書きたいことはほとんど書いた、ということもあるのかも知れない。
2年越しの体調不良は、それほど書きたい材料ではないし、読む人からみれば泣き言に等しい。
ではそこで余った時間をどう使っていたかと言えば、ほとんどはテレビ観戦である。
相撲は初場所春場所夏場所とじっくり観たし、それ程興味の無い冬季オリンピックも結構観た。
冬季オリンピックをだらだら観た挙句の結論は、「オリンピックは、夏季の男子100mに止めを刺す」だった。
知らぬ間に新しい種目が増えていたようだが、着膨れしたようなスキーヤーが空中を飛ぶ様は見るに耐えない。
どういう経緯で新種目が選ばれるのかは分らないが、それによって利を得る個人や団体がいるのだろう。
「Simple is the best (単純が最高)」とはまさに言い得て妙だ。
アルペンスキーならば「滑降」が一番スリリングだし、ジャンプは「ラージヒル」が見ごたえ一番。
とは言え、冬季オリンピックに参加出来る国は一体幾つあるのだろうか。
リュージュだ、ボブスレーだ、スケルトンだと紹介は華々しいが、こういう競技の施設を持っている国がどれだけあるのか、恐らく数カ国ではないだろうか。
つまり特殊な競技のためだけにコースを拵え、年に数回のレースを施行して終わり、ということだろう。
これは冬季に限らず、過去にオリンピックを開いて莫大な金をかけて競技場を作り、今では廃墟同様になってしまったケースは至るところに見られるらしい。
まさに「壮大な無駄」としか呼び様がない。
シリアやイエメンで武器や人命を無駄に消費し、オリンピックではそれほど豊かでもない国の資産を減らす。
だが聞いてみると、ちゃんと利益を挙げている人たちがいるという話だ。
「死の商人」とは言い過ぎかも知れないが、そういうシステムはちゃんと出来上がっているのだろう。

「大相撲」をこんなに観たことは、過去には無かったような気がする。
日本人待望の「日本人横綱」を無理押しで拵えたは良いが、その稀勢里が毎場所毎場所出たと思ったらすぐに負けが込んで休場という体たらく。
後に引けない横綱審議会が、「休めるだけ休んで体調を快復させて…」という大甘の勧告をしたと思ったら、その勧告の上を行く休みっぷり。
相撲のような格闘技は、1場所休んだら元の体調に戻すには3場所かかると聞く。
まして左大胸筋断裂という滅多にない大怪我の後だけに、そうた易く復帰出来るかどうか疑う人は多かった。
負傷した春場所は奇跡的に優勝を果たしたが、夏場所以降は惨憺たる成績。
7場所中全休が3場所、序盤早々黒星を重ね中途休場が4場所。
これがモンゴル人の横綱だったら、早々と引退勧告が出されていただろう。
ここ数十場所、日本人が待ちに待った「日本人横綱」だけに、相撲協会も横綱審議会も腫れ物に触るような扱いで稀勢里に接して来たようだ。
次の名古屋場所か秋場所が正念場になりそうだが、恐らくそれが最後になるだろう。
本人には不本意かも知れないが、それでも横綱を張れたことで良しとするしかない。

私は子供時代には大の相撲ファンだったが、最近は体型が大型化し過ぎたきらいがある。
これは力士の食生活の変化も影響しているようだ。
昔は「ちゃんこ」と言えば鍋物であり、鶏や魚や野菜のような消化の良い食品主体だったが、今ではステーキや焼肉などが若い力士には人気があるらしい。
カロリー摂取過多の所為か、足腰にかかる負担が大きくなり過ぎて怪我が絶えない。
白鵬が怪我も少なく済んでいるのも、バランスが取れた体重を保っているからだろう。
さらに、相撲の決まり手が昔とは随分変わって来た。
以前は体重の軽い力士が繰り出す小技が場内を沸かせたものだが、今は押し出しや寄り切り、または突き落としや叩き込みなどの単純な相撲が増えて来ている。
「二枚蹴り」、「小股掬い」、「内掛け」、「出し投げ」などの一瞬の切れ味を見せる決まり手はほとんど無い。
「内掛け」と言えば琴ゲ浜、「上手投げ」なら清水川、また両差しが得意だった信夫山は「りゃんこの信夫」という異名を持ち、実際立会い一瞬で両差しを果たす名人だった。
そして軽量横綱同士の「栃錦 若乃花」は今なら「宇良」と似たような体型だが、鍛え抜いた身体でぶつかり合い、持てる技を目一杯繰り出して土俵狭しと渡り合う一番は、今ではもう観ることも出来ないだろう。
今は「張り差し」とか「かち上げ」などが話題になっているが、当時はそんな技は先ず見られなかった。

アメリカに住むようになって観はじめたのがアメリカンフットボールだが、鍛え抜いた筋肉の大男同士が激突する迫力は他のスポーツには見られないだろう。
それだけに選手生命も短く、消耗の激しいポジションの選手は高々4,5年で引退を余儀なくされる。
危険度も高いだけに、禁止されている攻撃や守備のテクニックも多く、それでも試合中に負傷で退場して行く選手も少なくない。
日本でも大学のフットボールの試合で、ボールを投げ終えた相手チームの選手に背後からタックルを浴びせて負傷させるという信じられない不祥事が起きて、連日メディアが騒ぎ立てていたようだ。
私もそのタックルの動画を見たが、少しでもフットボールを知っている人であれば我が目を疑うような奇妙なファウルで、行き場が無くなって不貞腐れて背中にぶつかって行ったというように見えた。
こちらのプロのゲームでも数え切れないほどのファウルが発生し、数え切れないペナルティが言い渡されるが、この日本の大学の試合で見たようなファウルは先ずあり得ないし、横にいたジャッジが何故その場で退場を言い渡さなかったのか、ちょっと理解出来ない。
まして、その後の混乱に関しては当事者以外には真相を知ることも、ほとんど不可能に近い。
メディアの関心が加害者と目される大学の権力構造にまで及べば、事態は最早スポーツの領域を超えていることは明らかなのだが、メディアは全く頓着していないようにさえ見える。
事態がどのように沈静化されるか、それともこれからも燻り続けるのかどうか予測はつけ難いが、少なくとも学生スポーツらしいすっきりした決着がつけられるとは思われない。

これら全てのことが、私のブログが見るも無残な状況に陥っていることの言い訳になるわけでは勿論ない。
だが、若し話題が大谷翔平の華々しいデビューや平昌オリンピックでの日本女子スケーターたちの活躍で彩られるのであればもう少しマシだったのではないか、という弁解も何処かに挟めるのではないか、は些か苦しいか。

これからはもう少し己に鞭打って拙いブログを綴って行こう、と考えている今日この頃だ。

「漢詩」を最後に習ったのは、高校時代だったはずだから50年以上前のこと。
もはや既に大学入試には採用されないということが周知されており、あまり本気で打ち込んでいる生徒はいなかったような覚えがあるし、私自身も真面目に頁をめくったとは思えない。
ただ、母が「漢詩」を好んでいたこともあってか、蘇軾の「前赤壁賦」や李白、杜甫、さらには日本の頼山陽などを時々口の端に上せたことはあったようだ。
アメリカに住むようになってからは、「漢詩」とはほとんど無縁になったが、それでも稀にコンピューターから引っ張り出してごくごくポピュラーな詩を口ずさんだりしていた。
「漢詩」には幾つかの約束事があり、それに則って作詞するのは非常に難しいと言われている。
日本でまともな漢詩を作った最後のひとは夏目漱石だそうだが、明治維新の波は「漢詩」という日本の男性のたしなみごとをあっさりと消し去ってしまったことになる。
それでも日本の文学の世界に細々と足跡を残しているのは、やはりその詩がもつ感性や叙情性が日本の風土に結構しぶとく根を張っていたのだろうし、多くの人口に膾炙した古典には捨て去り難い深さがあるのだろう。

「帰去来兮。田園将蕪、胡不帰 (帰りなんいざ。田園将(まさ)に蕪(あ)れんとす、胡(なん)ぞ帰らざる)」
―さあ帰ろう故郷へ。田園はいまや荒れ果てようとしている、いま帰らなければ永遠に帰れないだろう ー
これは4世紀の詩人陶淵明の名高い「帰去来の辞」の最初の一節だが、知る人は多い。
地方政府の役人だった陶淵明は、彼の曽祖父や祖父が世に知られた存在であったため、その名を望まれて幾度か役職に就くが、その役に耐えられず短期間で辞し帰郷している。
「口を糊するために意に染まぬ仕事をするくらいなら、土に親しむ暮らしを選ぼう」
何処かで聞いたような言葉だが、現在だってこう考える人は少なくはない。
人の営みは数千年を経て来たが、思いが至るところは年月を越えて等しいようだ。
高位高官を望む人は多いが、そのために費やす膨大なエネルギーを忌避する人も又多い。
人生の終焉をどう迎えるか、「田園まさに蕪れんとす、何ぞ帰らざる」はその一つの形のようだ。

私のアメリカ生活も40年を過ぎた。
住み始めた当初は精々7,8年かもっと短い期間、ニューヨーク生活を経験してみようという程度だったのだが、何時の間にか20年を過ぎ、気づけば40年を越えた。
知り合った人も少なくないが、知らぬ間に消息が絶えた人も結構多い。
マンハッタンは若者が住むには好適なところだが、その目まぐるしさに草臥れることも珍しくない。
世界中から集まった人たちは興味深いと言えるが、鬱陶しいときもしばしば。
マンハッタン区から東寄りのクイーンズ区に移住して、どうにか人らしい暮らしに変わった。
「帰りなんいざ…」、というこの詩がちらつき始めたのもその頃だったろうか。
「望郷日記」なるブログを書き続けながら、その「望郷」の念を密かに胸の奥に仕舞い込んでいたのだろうか。
私の母は6年前に99歳でこの世を去った。
だが家人の母は90歳で元気にしている。
夜中に転んで脚の骨を折り歩行は車椅子頼りになったが、頭はシャープなまま。
40年以上離れていた家人からすれば、出来れば短期間でも世話をしたい気持ちはあるらしい。
私にしても身内は全て日本に住んでいるし、帰国を妨げるものはない。
具体的な計画を語り合うことはなくても、何となく空気は醸成されていたように思われる。

とは言え、数十年離れて住んだ故国に戻るのは、そう簡単ではない。
アメリカ国籍になっているわけではないから、日本に帰って住み始めればそれで万事は落ち着いてしまう。
それでも40年に亘る海外生活は、本人も気づかない間に様々な影響を与えているはずだ。
私は未だにほぼ生粋の日本人の思考方法を持っていると勝手に信じているが、周囲の人たちから観れば随分奇妙な部分が見受けられるかも知れない。
実際今の若い人たちの会話を聞いていると、何とも理解し難いもどかしいような感覚を受けるときがある。
「めっちゃ…」、「癒す」、「やばい」、挙げればきりがないが、口にしている若者たちには違和感はないらしいから、これは気にする私の方が可笑しいことになりそうだ。
こういうずれが、実際に帰国して生活を始めたら引っ切り無しに飛び出して来るのではないか。
まあ、少し前には私も年長者の言葉を聞いて世代の違いを感じたものだったが。

陶淵明と異なり、私には帰るべきふるさとの野山はない。
当然だが耕すべき土地もないし種を蒔く畑とてない。
だが、幸い日本は四方を海に囲まれており、その海には餌を追う魚たちが群れているはずだ。
40数年前の釣りしか知らない私に釣られる、どじな魚の2,3尾くらいはいるかも知れない。
「帰りなんいざ、田園荒れ果てても、海には魚あり磯には貝やあるべし」

「晴耕雨読」ならぬ「晴釣雨読」の日々が待っていてくれるだろうか。
大きな期待は出来ずとも、それでも何となく浮き浮きして来るから不思議だ。
まあ実際に帰ってみてから言うべきことなのだろうが…。

野球少年と将棋少年

この1月以降、テレビでスポーツ中継を観ることが多くなった。
以前から相撲は結構熱心に観ていたのだが、久々に野球への関心も昂って来たようだ。
ヤンキースのファン歴は長いのだが、松井が去って以後中継を観ることも少なくなっている。
田中将大がエースとしてそれなりの成績を挙げていた時期は良かったが、昨年の彼は信じられないほど良い時と悪い時の波が激しく、ヤンキース自体の成績の悪さもあってたまにしか観なくなっていた。
にも拘らずネットでスポーツの野球欄に目を配るようになったのは、日本から来た一人の若手ゆえ。
大谷翔平という選手が日本で二刀流で活躍していることは知っていたが、多くの評論家同様私もそんなに長くは続かないだろうと考えていた。
ただ160kmを越える快速球はやはり魅力があり、メジャーに来ればおそらく投手に固定され野茂やダルビッシュ、田中などと同様に一線級投手として活躍出来るだろう、と思っていた。
そして他の投手同様日本でも人気があるヤンキースかドジャースと契約するだろうとも予測していた。
しかし、大リーグがまるで大谷を狙い撃ちするかのようにポスティングの最高額を20ミリオンまで下げ、その上25歳以下の選手の年俸の規定額を設けたため、恐らく2.6億円程度だろうと推定されている。
若し彼が25歳まで日本に留まってからメジャーに来れば20億程度を手にすることが出来たらしい。
だが大谷本人は金額のことはほとんど気にしていなかったと聞く。
世界最高の舞台で野球がやりたい、という一心だったとすれば頷けないことではない。

大谷がメジャー入りの前提でアメリカに来たとき、多くのメディアやファン(私を含む)は結局ヤンキースかドジャースへ行くものと考えていたし、大谷以前に彼の代理人がそうさせるだろうと思っていた。
大谷が彼の代理人をどういう経緯で決めたかは知らないが、アメリカでは代理人とは契約を法的に正しいかどうかを精査し出来るだけ高額な契約金を勝ち取る役割と看做している。
スコット ボラスと言えば選手からは信頼が厚く、球団からは蛇蝎の如く嫌われている存在だ。
ボラスは交渉相手のチームの弱点を見つけ出し、彼の依頼人である選手をあの手この手を駆使して少しでも高く売りつけることで知られている。
だが今回の大谷の交渉は過去に見られなかった過程を経たようだ。
先ず西海岸の7チームに絞り込んだことで、ヤンキースが脱落した。
又残った7チームのうち4チームは指名打者制度を採らないナショナルリーグに所属していることから、最終的にはアメリカンリーグの3チームになり、当初本命視されたチームは全て姿を消してしまう。
そして、最後にロスアンゼルス エンジェルスに決まった時、驚いた人も多かっただろう。
大谷がどの辺りでエンジェルスを選択したかは分らないが、少なくとも日本を発った段階では限りなく白紙に近い状態だったのではないか、と私は思う。
「二刀流」を契約条件に考えていた大谷にとって、チームの一員になってからごねることはしたくない。
だが一癖も二癖もある大リーガーたちを束ねている監督からみれば、選手の起用方法に制約を設けられることはなるべく避けたいに違いない。
支配化選手になってしまえば、起用するしないは監督の胸三寸にある。
大谷だってそれくらいは分っていただろうし、その一点が彼の最大の関心事だったのではないか。

エンジェルスのマイク ソシェ監督と面談した時、大谷にこの監督を信じる気持ちが湧いたのだろう。
またそれ故にヤンキースは真っ先にリストから消されたのだろう、とも私は思う。
ソシェはドジャースでプレーし、エンジェルスの監督として3度ワールドシリーズを制している。
言うならば生粋のロスアンゼルス育ちであり、エンジェルスの監督としても実績は充分。
その彼が「投打共に戦力として看做す」と言ったのであれば、その言葉の重みは千金に等しい。
その言を重く受け止めて、大谷は自分をエンジェルスに預けることにしたのではないか。
恐らく、この決断に代理人はほとんど介入していないように思われる。
まあ様々な制約下の契約だから、代理人にとってそれほど美味しいはずはない。
果実が熟するには、最低あと3年は待たなければならない。
もっとも大谷が契約したエージェント「CAA (Creative Artists Agency)」は全米でも最大クラスの代理店であって、芸能関係からスポーツまで多岐に亘っている。
芸能関係ではレオナード ディカプリオ、ジョージ クルーニー、トム ハンクスなどが所属しているが、後発のスポーツ部門でもデビッド ベッカム、ペイトン マニング、デレク ジーターなども専属している。
日本の有力選手の調査にも力を入れているようで、西武の菊地雄星も既に傘下に納めているという。

シーズン開幕以前、大谷の評価は決して高くはなかった。
打率も低く投げれば滅多打ちで、アメリカのメディアはそれまでの評価とは打って変わり、「2軍いや3軍でスタートしたら良い」とか、「所詮日本の野球は高校並みだったということ」など、言わばぼろくそ。
だが3試合連続でホームランを打った辺りから口調が改まり、「自分は間違っていた、謹んで誤りたい」などと署名入りで長文を新聞に掲載した記者も出て来た。
投手としても7回を投げて1安打12三振という快刀乱麻を断つワンマンショーに、褒めるしかなくなってしまった感さえあり、逆にこの後大谷が不調に陥ったときどうなるのか、予測もつかない。
本当のところ、実際に二刀流で1シーズンを過ごした選手が過去にいないだけに、どの程度の数字なら成功なのかまた不成功なのか判断のしようがない、と言えるのではないだろうか。
「15勝、本塁打20本」といった数字も散見するが、それが大谷の目指す目標なのかどうかさえ分らない。
さらに、中7,8日で先発し、その間指名代打で3,4試合に先発しても最終数字はそれほど高くはならない。
メジャーではエースの先発投手を評価するのに「Stopper ストッパー」という呼び方をする。
そのチームが連敗して暫く勝星から見放されたときに、ぴしゃりと相手を押さえ込める投手を意味するようだ。
また打者であれば「Clutch hitter クラッチヒッター」と呼ばれ所謂チャンスに強いことを指す。
レジー ジャクソンはワールドシリーズで1試合3本のホームランを打ち、「MR. October ミスターオクトーバー」なる異名を得、長嶋茂雄は「燃える男」と呼ばれた。
では大谷はどういう選手になろうとしているのか。

私が子供の頃、草野球のチームには一人か二人は抜きん出た選手がいた。
投げれば快速球、打てば豪打、まさしく大谷翔平だったと思う。
大谷は、数十年前の野球少年そのものなのではないだろうか。
ただただ速い球を投げ、打球を遠くに飛ばす。
実に分り易いのだが、さて現代に当て嵌まるかどうか。
テレビで観ていると、ホームランを打ってベンチに戻って来る大谷の眼はきらきらと輝いて見える。
上手く打てて嬉しくて仕方がない、といった風情。
そういう表情を何時までも見せて欲しいものだ。
だが何十億円という年俸が、そこに濁りを与えてしまうのだろう。

大谷の活躍もだが、もう一人さらに若い大スターが生まれていた。
まだ15歳だから、若者というより少年と呼ぶに相応しい。
だがあれよあれよと言う間に、この間4段だったのに早くも7段を窺っている。
この藤井聡太少年も、ブームは暫くの間だろうと私は考えていた。
だが負けを挟んではいるが、ほとんど連敗はしていない。
何と言っても、第一人者羽生義治に2勝無敗が光っている。
羽生は自他共に許す最強の棋士だが、その彼が7段になったのは20歳のとき。
それだけで単純に比較することは出来ないだろうが、羽生を凌ぐ可能性は充分ある。

何となく楽しみな2018年になりそうではないか…。


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