還暦スイマー望郷日記

30余年のニューヨーク、今浦島の心境を…

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「還暦スイマー」はこのところ水泳に励んでいる。
週5日か6日、毎回大体1000程度を泳いでジャクジーに入りシャワーを浴びて帰宅。
ロッカールームは設置されているが、ジムを出る時に荷物を置いておくことは出来ない。
已む無く毎朝、バッグに細々した小物を入れてジムに向かう。
着替えの下着、耳栓、ゴーグル、シャンプー、リンス、ローション、クリーム、剃刀、結構ある。
面倒臭いが、これがひとつでも欠けると様々な支障が生まれて来るのだ。
過去にも幾度か、水着や帽子を忘れて部屋まで戻った覚えがあった。
帽子や耳栓などは無くても泳げるのだが、プールの規則で着用が定められている。
見ていると、頭髪がすっかりなくなっている人に帽子は不要らしい。
だが私は未だ一応それらしいものが頭頂部に存在しているので、プールでは帽子を着用しなければならない。
プールでしばしば泳がれる人は気づいているかも知れないが、この水泳の小物という奴は、実にちゃちに出来ていて、その不具合に腹が立つこともしばしば。
特に気に入らないのは、ゴーグルという代物。
曇り止めを塗ってしっかりと顔に押し付ければ良いはずなのだが、すぐに水が浸入して来る。
色々調節してみるが、なかなかぴしゃりと嵌らない。
泳ぎながら手足を動かすので、各処に隙間が出来てしまうようだ。

だが考えてみると、マイケル フェルプスのような一流スイマーがゴーグルを装着してかなりの高さから飛び込んでも、外れたりとか、ずれて水が入ったなどというトラブルは聞いたことがない。
やはり然るべき価格を支払えば、丈夫なゴーグルが手に入るのではないのだろうか。
ウェブなどでスポーツ用品メーカーのサイトを覗いて見ると、ゴーグルといっても実に種類が多い。
10ドル程度の安物から数十ドルのものまで紹介されているが、何処にも性能に関しては言及していない。
「安いから水が入りやすい」とか、「飛び込んでも問題ないような頑丈な製品は、それなりの価格」とかちゃんと説明があれば、こちらもある程度の覚悟をしてそれなりの品を注文するに吝かでない。
適当なものを買い込んでは使えない、ということを繰り返しているから不良品が溜まる一方だ。
ならば思い切って最高価格の品を買ってみれば良いようなものだが、それだって必ず満足出来る保証はない。
水着とか耳栓、帽子などにはさしたる不満はないのだから、全てはゴーグルにかかっていることになる。
ジムのプールで泳いでいる連中を見ていると、彼らのゴーグルに不備がありそうな気配は見たことがない。
まさかとは思うが、アメリカで売っているゴーグルは彼らのようなコーカソイド(白人種)の骨格に合わせて設計されている、という可能性がありはしないだろうか。
脚だけ見ても彼らの足は細長く指も長く、ちょっと見は類人猿タイプだ。
つまり彼ら西欧人種と我々モンゴロイドは、枝葉末節のところで作りが異なっているのではなかろうか。
遠く離れた大陸で長い年月を過ごしてくれば、体型や生活慣習が異なって来ても不思議はない。

私が水泳を始めた頃、誰もゴーグルなどは装着していなかった。
記憶が確かではないが、東京オリンピックの時のドン ショランダーやマレー ローズ、そして我が山中毅だってゴーグルの類は持っていなかったような気がする。
大体、当時ゴーグルなどという言葉はなく、我々は「水中眼鏡」と呼んでいたはずだ。
でもそれはプールで泳ぐためではなく、海や川で小魚や蟹などを観察する目的だった気がする。
だから考えてみると、私が水泳部に入った時必要だったのは「水着」だけということだろう。
運動部は幾つかあったはずだが、水泳部くらい何も要らないクラブは無かったようだ。
陸上部は靴が必要だったろうし、野球部はグラブやバット、テニス部や卓球部はラケット、バスケットボール部だって専用の靴は必須だったはずだ。
言ってみれば、水泳部は最もお金のかからない運動クラブだったことになる。
そしてそれは今でもあまり変わっていないのではなかろうか。
スポーツ用品メーカーから見ると、水泳選手は最も開発努力が生かされない対象なのかも知れない。
水着以外どれをとっても、研究費を注ぎ込む余地はなさそうだ。
その水着も、ひと頃騒がれたハイテクタイプがあったが、今ではさっぱり聞かない。
オーストラリアのイアン ソープ選手が着ていた全身がすっぽり入るような水着も、後に続くものもなくそれっきり。
結局現在の形に戻っているところを見ると、迂遠な無駄骨だったということか。

ゴーグルの他に身につけるものには耳栓があるが、それ以外に鼻栓という器具もあった。
1964年の東京オリムピックの男子平泳ぎ200mで3位になったアメリカのチェット ジャストレムスキーがいつもつけていて話題にはなったが、真似をする選手はあまりいなかったようだ。
それから50年以上経った今でも、鼻栓をした泳者をみることは滅多にない。
第一、普通に呼吸していれば吸った空気を鼻と口の両方から吐くのだから、鼻栓は不要だ。
ジャストレムスキーは全ての呼気を口からのみ吐いていたわけだから、結構大変だっただろう。
また彼に続く選手をほとんど見なかったことは、鼻栓があまり役に立たなかったということではないか。
それ故か、スポーツ用品店でも鼻栓を置いている店は少ない、というかほとんどない。
まあ、水泳用品は例年春ごろ出て来て秋前に姿を消すのが普通。
スポーツ用品と銘打ったからには置かないわけには行かないが、あまり場所を取られたくないのだろう。
日本はそれでも一応セクションを設けていたりするが、アメリカでは「No」でばっさりということも多い。
鼻栓くらいなら痛痒は感じないが、「曇り止め」や「耳栓」などは無ければ困る。
高校時代は水着さえあれば問題はなかったのに、今では様々な器具が欠かせなくなってしまった。
これもスポーツ器具産業の商魂ゆえ、と考えても良いのではないだろうか。

ここまで書いて来て気づいたことがある。
それは水泳選手には怪我や故障がほとんどない、ということ。
スポーツ選手に怪我はつきもの、と考えるのが今では当たり前。
走れば転び、跳べば落ち、関節を捻ったりは日常茶飯事。
だが水泳選手にはそういう故障は滅多にない。
それが理由で水泳選手になるわけではないだろうが、一流のスイマーが怪我をしたことは記憶にない。
数多くのスポーツがある中で、これは稀有のことではないだろうか。
もっとも、超一流ともなるといささか事情は異なって来て、錬習過多で腰を痛めることはあるらしい。
だがそれは我々からすれば、他の星の話のようなもの。
少なくとも、私がいた水泳部ではそんなトラブルは一度もなかったと断言出来る。
器具は要らず怪我もなく、言うなれば理想的なスポーツだった。

それが、スポーツという部分に限られるところが少々残念だが…。

「小籠包(ショウロンポウ)」という、中国生まれの食べ物がある。
小さな饅頭状の包子(ポーズ)だが、中には熱いスープが入っているから食べ方が難しい。
私はアメリカに住み始めてからこの食べ物を知った。
親しくなった台湾出身の中国人が案内してくれて、その意想外の食べ方に驚かされた。
一口大程度のサイズだから、そのまま食べても良いようなものだが、中の熱いスープが曲者だ。
蒸し上がったばかりだから、うっかりすると口内を火傷する可能性がある。
と言って冷めるのを待っていては、この美味を味わうタイミングを逸してしまう。
この小さい饅頭の先端は軽く捻ってあり、そこを摘み挙げるのが上手な方法のようだ。
先端を摘んで持ち上げ、用意したタレを蓮華に取って浸たして口に入れるのが正しい食べ方らしい。
ただ、それではスープの熱さに耐え切れないだろう。
委細構わず口中に放り込んで噛み締めれば、美味を愉しむ前に熱さに耐えかねて吐き出すかも知れない。
残念ながら、まだ私は「小籠包の食べ方」の奥義を究めているとは言えそうにない。

今から40年以上前、つまり私が日本に住んでいた頃、この食べ物はあったのだろうか。
中華料理屋のシェフなら知っていたかも知れないが、恐らく作ろうと考えることはなかったと思う。
この饅頭が蒸し上がった時に、中のスープが充分に熱くなっていなければならない。
その理屈は分っていても、客のオーダーに合わせて拵えることは簡単ではない。
恐らく今では多くの中華料理店がこの一品をメニューに載せているだろうし、客に供しているだろう。
だが少なくとも私がニューヨークに来た40年前には、まさに知る人ぞ知る珍味だった。
いや、ニューヨークでもこの料理を提供する店は数えるほどしかなかったように思う。
「上海ジョーズ」という店は今でもあるが、当時から結構固定客が多く週末などは空席待ちも当たり前。
蒸篭に8つ入りで5ドル前後だったか、中味はオーソドックスな豚肉と、それに’蟹の卵を載せた2種類。
結構頻繁に通って、どうにか熱い饅頭を口中でコントロールする技術も身についた。
と言っても、たいしたことを成し遂げたわけではない。
軽く捻った先端を歯で噛み取り、中のスープを吸い上げてしまう。
その辺りでゆっくりと本体を口の中で噛み締めて味わう、という手順。

周囲の中国人を眺めてみたが、それほど秘技を尽しているようには見えない。
どうやらこの「小籠包」を食べる王道はないようで、各人各様好き勝手に食べているらしい。
誰でも一様に箸で先端を摘み蓮華に移すのだが、そこでスープを零す人が多い。
その蓮華のスープを啜って呑んだ挙句、汁の無い本体を食べる仕儀になる。
中には小皿に饅頭を移して、皿ごと口に運ぶつわものもいた。
この「小籠包」は上海料理のカテゴリーに入っているが、本来はその近くの「蘇州」で生まれたらしい。
「蘇州」出身の中国人の小母さんに言わせると、ニューヨークに本物の「小籠包」はないそうだ。
とは言え、この小母さんの食べ方もなかなか無残なものだったから、何処までが本当かは分らない。
この小母さんが「小籠包」を自宅でご馳走するということで、手造りを期待して出かけたのだが、今ではスーパーで冷凍の「小籠包」が売られているとかで、私が食べたのはその冷凍品。
スープは冷凍で饅頭に仕込んでおけば、蒸し上がった時には熱々に溶けている仕組み。
流石に専門店ではそんな冷凍スープは使わず、客に見えるところで皮から拵えてそれを売り物にしている。
さらに後発の店では、その饅頭を包んでいるところをガラス張りにするという趣向が評判を呼んでいるようだ。

この「小籠包」もそうだが、「飲茶」の店でも大型店にしないと採算が取れないらしい。
確かに饅頭を包むだけの従業員を抱えるなら、相当の数をこなさなければならないだろう。
来店客のほとんどは「小籠包」をオーダーするからかなりの数が出るが、作り過ぎれば余剰が出る。
「上海ジョーズ」はフラッシングを本店にして40年近いが、今では「小籠包」を出す店は5,6軒ある。
このフラッシングに「南翔小籠包」という店が6,7年前に出て来て、土日には行列が出来るほどの盛業ぶり。
どうやらこの店名は本場上海の有名店から無断拝借したらしいが、知らない中国人は本場から出店して来た、と思い込んでいるそうだ。
そこへ来て、最近新しい「小籠包」の店がオープンして客を集めている。
この店は他の料理をオーダーすれば、「小籠包」が一人前サービスでついて来るという思い切ったサービス。
この新手法が受けたのか、週末などは順番待ちの客で結構長時間待たされるらしい。
かく言う私たちも、時々少し早めに出かけて無料サービスの「小籠包」を楽しんでいる。
ただ他の店も同様なのだが、「小籠包」が売りの店はそれ以外の料理があまり美味ではない。
基本的には上海料理の店ということになるのだが、四川や広東料理のような得意技が無いように見える。
私たちも「小籠包」以外に2,3点オ−ダーするけれど、どうもぴんと来ない。
八宝菜や両面黄という固焼きそばなどが有名だが、看板というには些か淋しい。
どうも、店が「小籠包」に頼りすぎている感が強いように見えてしまう。
しかし大黒柱になるには、「小籠包」では少々淋しいと思っても不思議ではない。
相撲で言えば、精々前頭4,5枚目といったところではないだろうか。
「北京ダック」、「フカひれ」、「干あわび」、「干なまこ」などのような、それだけで客が呼べる料理かどうか。
中国料理を云々するとき、一般的には広州、四川、北京、上海を代表格のように挙げるが、現在では四川と広州の人気が高く、他は押され気味と言えるような気がする。

日本では、大きな中華料理屋は地域に拘らず各地の料理を提供しているようだ。
広東料理の店で北京ダックを出す、麻婆豆腐も餃子も担々麺もメニューに載せている。
その融通無碍なところが、日本式中華料理の持ち味と呼べるのかも知れない。
インド料理もフランス料理もイタリア料理も、全て日本風にアレンジされて来た。
オリジナルに変化を加えることへの賛否はあるだろうが、日本人はそれを受け入れているように見える。
明治維新まで、日本人の食生活は恐らく世界でも類がないほど変化に乏しいものだっただろう。
一汁一菜の朝食、ほぼ同様の昼食、一汁三菜の夕食は、それでも贅沢な方と言えそうだ。
そして現在は、その全てを取り戻す勢いで多種多様な食品を食べ続けている。
「飽食の時代」と、自分の食生活を称して恬として恥じない辺りは頼もしいほど。
そういう時代が今後どれほど続くのかは分らないが、どこかで歯止めはかかるだろう。
その変化を見ることが出来るかどうか。

見たいような見たくないような。

もうひとつの「正月」

ブログを中断したまま2月に入り、何となく街が賑やかだと気づくと、これが「春節」である。
世界のほとんどの国が「太陽暦」(所謂「西暦」)を使用している現在だが、それでも「太陰暦」で生活している国や人は決して少なくない。
ただ、世界は経済を無視出来ないので、多くの国はその辺りでは上手く調整しているらしい。
「太陰暦」とひと口に言うが、季節のずれを調整する「太陰太陽暦」を取り入れている中国や東南アジアの国々と、そういうずれを修正せずに押し通す「純粋太陰暦」を墨守しているイスラムの国々があるという。
だが考えてみると、中国を含む東南アジアの「太陰太陽暦」で生活している人々と、「純粋太陰暦」を使うイスラム系の人々だけでも、恐らく世界の人口の半数近いのではないか。
つまり「太陰暦」派は、決して少数民族ではないのだ。
もっとも現在ではイスラム系の人たちは「純粋太陰暦」を専ら宗教行事にのみ使うようで、それ以外の日常では西欧諸国と同様に「太陽暦」を使いこなしているらしい。
思い出せば、日本でも太平洋戦争以前は「太陰暦(旧暦とも言う)」が生活の根本であり、戦後駐留して来た米軍に併せて「太陽暦(新暦)」が一般化されたのだろう。
それでも私が子供の頃、農村ではこの旧暦がごく当たり前に使われていたし、今でも「盆」や祭りなどには旧暦のままという地域もけっして少なくはない。

それでも新年を「春節」として大々的に祝うのは中国や東南アジアの国々に多く、中でも中国は世界の動向を気にかける風もなく、彼ら独自の新年を祝っている。
この「春節」を「太陽暦」に当て嵌めると、毎年正月が異なる日付で現れて来る。
今年は2月16日に当たっているらしいが、来年はまた違う日になるだろう。
彼らも日本人と同じように正月(春節)には大勢集まって祝うらしく、買い込む食料品も半端ではない。
言ってみれば、この時期はスーパーをはじめ食料品店の書き入れ時ということになる。
世界で15億の民を擁する民族だから、正月料理も出身の地方によって色々異なるようだ。
中でも有名なのは北京地方の人々が正月用に拵える「餃子」で、大晦日に大量に作って家族で食べる。
日本では「餃子」は「焼き餃子」が一般的だが、彼らは「水餃子」で食べるのが普通のようだ。
「焼き餃子」は「鍋貼(クォテル)」と呼ばれ、餃子が残った時に食べる調理法らしい。
材料も「白菜」「にら」「豚肉」が一般的だという。
正月料理に「餃子」では些か淋しい感がないでもないが、米の採れなかった当時の北京地方では小麦粉は貴重品であり、それを腹一杯食べるのは正月ならではのご馳走だったのだろう。
確かに手造りの皮の出来たて餃子の美味は、街のレストランでは味わえない。

「春節」に、中国の人たちは「新年快楽(チンネンクヮイラー)と挨拶しあう。
「あけましておめでとう」とほぼ同意だと考えていいのだろうが、何となく違和感があるようだ。
まあ中国人は言葉の印象までは気にしないらしいから、レストランのメニューに「小腸」などとその食材をストレートに表示していたりするが、やはりオーダーするのは躊躇ってしまう。
また「ひらがな」という連結媒介が無いから、全てを漢字で綴らなければならない。
漢字という世界に誇る大発明を成し遂げたが、その先へと続かなかったのが惜しい。
しかしその漢字だけで数多の詩文を残した李白、杜甫、蘇東坡を生んだのもまた中国なのだ。
その詩人の後裔たちは、「春節」の買い物に血道を上げている(ようだ)。
彼らは「見た目」を気にすることはないらしく、スーパーの真っ赤な袋を結び合わせて所謂「振り分け」にして、両肩に引っかけて平気な顔をしている。
較べて見ると韓国系の人たちは、外見は中国系と似ているが身なりには結構気を使っているようだ。
どちらかと言えば、かなり日本人に似ていると言っても良いのではないか。
彼らには不満かも知れないが、流行や嗜好も似通ったところが多いように見受けられる。

仔細に観察したわけではないが、韓国人は中国人にあまり関心はないようだ。
価格的にははるかに安い中華系スーパーにも、滅多に行かないらしい。
中国と日本という2つの国の狭間で辛酸を舐めて来た歴史が、彼らの隣国に対する感情をひと口に言い切れない複雑なものにしているのだろう。
フラッシングという街の人口は中国系が圧倒的に多い。
中華系スーパーは目抜き通りに沢山あるが、韓国系の店は3,4軒街外れにある程度。
「春節」に売り出しをかけたいところだろうが、何故か頑なに普段通りの営業を続けている。
確かに価格的にも、中華系スーパー相手に勝ち目はない。
だがそれよりも、中華系を一段下に見ている韓国系顧客の反応が怖いのだろう。
だから、客で溢れかえっている中華系の店を余所目に、韓国系の店はひっそりとしている。

2月16日の「春節」には、日本と似通った演し物が街を練り歩く。
日本の「獅子舞」を思わせる煌びやかな被り物が先頭に立ち、爆竹を鳴らしながらそれを子供が追う。
正月の日本の家庭に獅子舞がやって来ていたのは、一体何時頃のことだったか。
私が小学生の頃はごく稀に冬場に現れる程度だったから、もう風前の灯だったのだろう。
こういう風習は、恐らく中国から始まって東南アジアの各国に伝播していったと思われる。
恐ろしい形相の想像上の怪物は獅子舞やねぷたとして、今でも日本にも僅かに生き残っているようだ。
その点、中国人の社会では「春節」には必ずこういう賑やかしが現れる。
ニューヨークでさえ、マンハッタン、フラッシング、ブルックリンの3ヶ所に中国人街があるのだから、全米なら結構な数の獅子舞が「春節」を彩っているということになりそうだ。

考えてみれば、私はもう40年も彼らの「新年」にお付き合いしていることになる。
爆竹の大騒ぎや新年早々盛り場に繰り出す人の波には辟易するが、慣れればそれほどでもない。
私が子供の頃、正月の朝は静まり返っているものだったが、今ではそんな「静謐」は望めないだろう。
今年はどんな「春節」が繰り広げられるか、怖いもの見たさで出かけるとしようか。

男も私の年になると、「おふくろの味」などということはなくなるようだ。
第一、数十年前に母がどういうものを拵え、私たちがそれを食べていたのか、ほとんど記憶にない。
付け加えれば、今から60年以上の昔であれば大戦の直後でもあり、まともな食料は無かっただろう。
最早知る人も少ない「配給制度」で、所帯の人数分の米しか買えなかったはずだ。
「外食券食堂」なるものがあって、定められた食券を持参しなければそこで食べることは出来なかった。
と言って、無料で食べられるわけではなく、食券を持参して代金はちゃんと払うシステムだったようだ。
そうは言っても家族で外食などする余裕も無く、何でも良いから腹一杯にすることに専念していた。
子供が4人もいる我が家では、先ず主食である米の入手が第一だっただろう。
戦後ではあったが、既に給食は実施されていた。
脱脂粉乳のミルク、大きなコッペパン、名称も分らないシチュー状のひと皿は日替わりだったようだ。
食糧事情は決して良くなかったはずだが、それでも残す生徒は多かったようだ。
残ったものは持ち帰る決まりだったから、帰路の両側の下水に捨てられた脱脂粉乳ミルクが溝を真っ白く染めているのはほぼ毎日のことだった記憶がある。

未だ味覚よりも食欲を満たすことが先決の時代だから、給食も決まり切った献立が続くのだが、それでもごく稀に子供たちに喜ばれることもあった。
無味乾燥なコッペパンを油で揚げて砂糖をまぶし、如何にも子供好みで残すものは少なかったようだ。
副菜の方では、私の時代の人気ナンバーワンは「鯨竜田揚げ」であって、これだけは年齢に多少の開きはあっても共通していたようで、育った環境も異なる初対面の人と「鯨竜田揚げ」で意気投合した憶えもある。
名前は記憶にないが、中華風の炒め物のあんかけ風がなかなかの人気で、これはどうやらアメリカ人が好んだ「Chop suey チョプスイ」と呼ぶ広東風のひと品の簡易版だったようだ。
年に200回以上食べていた給食の中で、旨かった記憶がこれら以外ほとんどないのだから、はっきり言えば不味いものを毎日のように食わされていた、ということになるのだろう。
確かに我々の世代で「給食」と言えば、半ば義務のように食べた不味いものの代名詞になりそうだ。
言うなれば食べるものの味を云々出来る時代ではなかったわけで、それは学校給食に留まらず家族が囲む団欒の食卓だってそれほどの大差はなかったのかも知れない。
そういう環境下で「おふくろの味」と呼べるようなものが食膳に上っていたかどうか、ほとんど覚えがない。

家庭の主婦がテレビの画面で調理される西洋、中華、和風の料理を見よう見真似で自作する時代は、もう数年待たなければやって来ないし、海外から名前も知らない食材が押し寄せてくるのは、ずっと先のことだ。
「おふくろの味」を最初に商品化したのは、街の居酒屋や一膳飯屋ではなかったか。
その味を嬉々として頬張ったのは、地方から都会の大学に進み、そのまま大企業に職を得た若者たちだろう。
彼らはテレビの料理講座などで西洋や中華の料理を身につけた若い女性と結婚しただろうから、所謂「おふくろの味」と呼ばれる田舎風の味は家庭の食卓には出て来なかったように思う。
その世代は、恐らく私より5年10年後のジェネレーションと考えられそうだ。
少なくとも私たちの年代は、料理屋や居酒屋で「おふくろの味」に涙したことはないはずだ。
「おふくろの味」が盛り場に氾濫し始めた頃、私は日本を離れていたからその人気ぶりを知る術もない。
だが、どのような料理が供されているかは、読んだり聞いたりで何となく知ることが出来た。
「ポテトサラダ」が何と言っても一番人気らしく、「肉じゃが」や「芋の煮っ転がし」辺りが続くようだ。
「ひじき」や「切干大根」なども、人気メニューの上位に位置しているらしい。
私に言わせると、この手の料理は子供の頃散々喰わされた覚えがある。
我々の年代が一番食べたかったのは、牛や豚の肉類だろう。
考えるに戦争中一番欠乏していたのは、その肉類だったに違いない。
「配給で散々喰わされたから、ホッケは顔も見たくない」
そんな台詞を聞いた覚えがあるから、ホッケは稀には食膳に上っていたらしい。
だが当時配給に廻された食材は、とても人間の食べられるものではなかったという。
当時書かれたものを読めば、どんな食品が配られていたかが分り、人々の労苦が偲ばれるはずだ。

アメリカに住むようになって、食事の支度も役割分担として担当するようになった。
それでも嗜好が基本的に日本食中心だから、それほど代り映えはしない。
飯を炊いて副菜を用意し、汁と漬物を添えれば一応の出来上がりだ。
どんなものを拵えて来たか、記憶に明確でも無い。
魚を買って焼くか煮るかすれば、一応形だけはつくものだ。
豚や牛の肉だって、味付けを和風にすればちゃんと米飯と上手く馴れ合ってくれる。
この40年間に私が拵えた料理に「おふくろの味」があったかどうか、どうも自信がない。
「ポテトサラダ」や「肉じゃが」「煮っ転がし」は「おふくろの味」の定番らしいが、私はこの幾つかのメニューを拵えたのはついこの2,3年のことで、そう言えば「カレー」もほとんど似たようなものだ。
別に難しい料理を拵えようという気はないのだが、自分好みの調理をし始めると大体同じようなものになる。
太刀魚を買ってくれば、3枚におろして味噌漬けや粕漬けにしてしまうし、バターフィッシュ(えぼだい)の良いのがあれば、開いて一夜干しにして翌日炙って喰う。
言ってみれば、出たとこ勝負の料理とでも呼んだ方が良いのかも知れない。
さらに言えば、私には料理の組み立てはほとんど無いに等しい。
気障に言うなら、「あるものをあるがままに料って食べる」というところだろう。

稀に姉たちに母の拵えていた料理のことを尋ねても、彼女たちもそれほど確たる記憶は無いらしい。
話に出てくるのは、クッキーやワッフルなどの甘味がほとんどで、あの時代を反映しているようだ。
考えてみれば大黒柱の父が食卓の中心にいれば、食事も父の好みに合わせたものになるのが道理。
博多生まれの父であれば、食膳に魚が上るのが多くなるのは当たり前だったかも知れない。
そして子供たちが魚好きに育ったのも理の当然と言えそうだ。
若し我が家に「おふくろの味」が存在したとすれば、それは魚の煮付けや塩焼きだっただろう。
ひょっとすると、「骨湯」だったかも知れない。
これは魚の煮付けや塩焼きの残りに熱湯をかけて呑むという、あまり人には言えない代物だ。
だが、一度憶えると止められないほどの美味とも言える。
この「骨湯」の最高の材料は煮つけられた魚の頭に留めを指す。
若しそれが「鯛」であるなら、食卓での争奪戦は熾烈を極めたに違いない。
もう半世紀以上昔の話だから、笑い話でしかないが。

とは言っても、若し私の目の前に煮付けの残りの鯛の頭が置かれていたら…。
久々の争奪戦に名乗りを挙げるのも、肯ずるものではないのだが。

我は昔の我ならず… 

「還暦スイマー」は、このところ無聊をかこっていた。
ブログもさぼっているし、泳ぐ方も何年に一度という寒波もあってプール自体がクローズする有様。
それでも、寒さが和らいで来た先週辺りから、思い切って朝の水泳に挑戦することにした。
朝の8時頃に水着を着てプールに行くと、既に3人ほどが泳いでいる。
泳ぎを見るとそれぞれ基本は出来上がっているようで、フォームも良いし結構速い。
3コースあるうちの真ん中を2人、一番窓際を1人が占めている。
残り1レーンは歩行専門の高齢者や子供が来た場合に備えて、空けて置くのが習慣になっているようだ。
となれば私は窓際のレーンに潜り込むしかない。
昔ならばいざ知らず、今の私にはこの3人のスピードに合わせるのは不可能だろう。
本来ならば端っこに入るべきだろうが、既に中央よりを空けてくれている。
別に競争するわけではないからと割り切っているつもりだが、無心でいられるかどうか。

ゴーグルを嵌めて、ゆっくりと泳ぎ始める。
私の外側の泳者も中央レーンの2人も、ほとんど同じ速度で泳いでいるかのようにほぼ同じタイミングでターンし、申し合わせたように休みながら会話を交わしているようだ。
気づくと、真ん中のコースの私の横で泳いでいる泳者は、見覚えがある。
15年ほど前、私が初めてこのプールに入った時も、彼が私の横を泳いでいた。
私よりは随分若いが、それでも50歳近いだろう。
当時も頭は完全なスキンヘッドだったが、細身の身体は充分に鍛えられているようだ。
彼も私を見て、「ハイ」と挨拶を送って来た。
7,8年ほどこのプールには来ていなかったから、すぐには思い出せなかったかも知れない。
記憶にあるだけで、15年前から今までこのプールに来ている人は3人程度だろう。
「私はね、92歳だよ」
知り合ってすぐにそう話しかけて来た爺さんがいたが、もういないだろう。
この彼ともう一人、年齢不詳の高齢女性が15年前と変わらずバックで泳いでいる。
そしてもう一人、プールサイドに大きなバッグを持ち込み、そこからシュノーケルを取り出して装着する70代の男性も相変わらず朝早く姿を見せるが、家人に言わせるといつも寄り添っていたワイフはもういないようだ、という。

周囲の3人のペースは無縁のこととして、私はゆっくりと泳ぎ始める。
「速く」でもなく、「力強く」でもなく、ただただ単純に「水中を進んで行く」だけ。
驚くことに、ちゃんと両腕が疲労を感じ、高々2,300m泳いだだけでいっちょ前に休みを要求する。
仕方なく3人のペースとは無関係に休憩をとり、水を呑む。
昔年長の連中と遊んだときの、「おみそ」を思い出した。
あの頃は「おみそ」の位置から脱却する日を夢見ていたのだろうが、今は違う。
現在の力量を知り、それに甘んじて身体を鍛えて行こう、と考えているわけだ。
ほぼ1年間のブランクを取り戻すのは、容易ではないだろう。
いや、取り戻すことなど到底出来ないのかも知れない。
かく言う私だって、数年前の体調に戻れると安易に考えていたのではない。
ただ一定の距離を泳いでいれば、それなりの鍛錬にはなることは間違いないように思う。
現に寒波が去って以降、ストロークに力強さが増しているように思われる。
12月の初めに風邪を引いて、2週間くらいプールを休んだ。
その後の復帰初日、100泳いで休み200泳いで休みという無残な有様だったことを思えば、格段の進歩。

しかし、ひと休みしていると少し開けられたドアから入る風の冷たさが身に滲みる。
プールの周囲を巡回しているガードに声をかけた。
「Could you close doors? It’s too cold. (ドアを閉めてもらえる? 寒いんだよ)」
ガードはちょっと困ったような表情を見せて、
「They request to open the doors in the morning time. (朝はドアを開けろというリクエストが多いんです)」
そう言われてみれば、ひと休みしている連中は、この寒風をものともしていないようだ。
汗こそかいていないようだが、この冷気を楽しんでいる気配さえ感じる。

思い起こせば15年くらい前、私はガードに水温を下げることやドアを開けることを依頼した覚えがある。
だが、浅いところを歩行訓練する高齢者優先らしく、願いが聞き届けられたことはなかった。
まあそれが理由で私はこのジムを辞めて、マンハッタンやクイーンズのジムを転々としたのだ。
そして今戻って来て見れば、私の立場はくるりと逆転してしまっていた。
あの頃温度が高すぎると感じた水温も、今では肌寒く感じるくらいだし、ドアが開いていればそこから忍び込んで来る冬の風は震え上がるほど寒々しく感じたりもする。
15年前にはこの寒さが心地良いほどだった、ということなのだろう。
おそらくひと泳ぎした後などは、見えないながらも汗をかいていたのではないか。

それでも松の内を過ぎた頃から、泳げる距離もどうにかこうにか格好がついて来た。
1日泳げば1日休むという風だったが、今では週5,6日は水に浸かっている。
他の泳者のスケジュールも大まかながら呑み込めたから、なるべく人のいない頃合を狙って行く。
800前後泳いでからジャクジーに20分ほど浸る。
ロッカールームのシャワーで身体を洗い、髭を剃って本日の終了。
サウナや蒸し風呂もあるが、そこまでは手が廻らない。
それでもひと頃に較べれば大変な進歩だ、と本人は思っている。
ぼちぼちと機械ルームにも手を出してみよう、などという計画も温存中。

第2の成長期だ、と本人は勝手に思っている。
乞うご期待。


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