還暦スイマー望郷日記

30余年のニューヨーク、今浦島の心境を…

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記録を肌で…

昨年の12月半ばから、ニューヨークは大寒波に襲われた。
私のアパートは一応全館暖房システムになっていて、それで足りない場合のために各部屋に冷暖房兼務のエアーコンディッショナーが付設されている。
もう住み始めて15年以上になるのだが、この臨時用のエアコンを使用した憶えは数えるほどしかない。
勿論使用ゼロというわけではないが、建物自体がちょっとした高台に建っているおり、夏は湿気が少ないせいか寝苦しかった記憶はあまりなく、冬はビル全体の温度調節が効いていて不満はない。
簡単に言えば、このアパートに関しては寒暖差の問題は皆無に近かった。
だが、昨年の暮から情勢に変化が生まれたようだ。
寒くなる、という情報は結構早くから聞いていたしある程度の覚悟もしていた。

とは言っても、私は日本という温帯地方の国の、暑さも寒さもほどほどの東京に育った。
春夏秋冬が満遍なく訪れて来るという、言うなれば温帯の見本のような都市。
生まれて5歳まで育ったのも九州の福岡県だから、両者を較べてみても大差はない。
30を過ぎて南米に行き、赤道直下の国に1年半ほど暮らした。
此処は一年中同じ気候の国で、その毎日もほとんど変化がなかった。
朝は涼しく、昼から夕方まで20度C前後が続き、陽が落ちると涼しくなる。
人は四季を通じて同じ服を着ているし、何を着ても可笑しいといわれる心配もない。
そんなところからニューヨークに移り住めば、環境の変化は著しい。
1976年の秋にマンハッタンに住み始めたのだが、その冬は寒かった。
勿論それ以前のニューヨークは知らないのだから、比較は出来ない。
だが足許から這い上がって来るような寒気は、ただものとは思われない。
それでも未だ若かったから、仲間を語らって夜の街に繰り出す元気に溢れていた。
秋田出身という男は素足に下駄履きで、真冬のマンハッタンを闊歩していた記憶がある。
この時の寒さは、暫くは私の記憶に留まっていたはずだ。

以来40年、私は温暖化進行中と言われる地球に住んで来た。
吹雪が続いた年もあったし、豪雪と言われた年も幾度かあった。
とは言っても、心底寒いと思った年はなかったように思う。
確かにニューヨークの緯度は東京より高く、気候は青森県の八戸並の寒冷地だという。
日本に帰るのは年に精々1度か2度だが、日本の冬も結構寒い。
構造の所為だろうが、部屋と部屋の間や風呂場や手洗いなどは一瞬震え上がるほど。
子供の頃こんな隙間風が吹き抜ける家に住んでいたのか、と驚いてしまうこともある。
何時頃からか冬場に日本に帰らなくなったのは、風邪を引くまいという警戒心も作用していたのだろう。
日本に帰って風邪を引いたという話は結構良く聞かされる。
まあその逆、ニューヨークに行って風邪を引いたという話も割り合い聞く話だから、人は旅先では風邪を引き易いという結論に落ち着くのかもしれない。

今年は12月の初めから、プールにまめに通っていた。
週5日から6日、日に平均して800程度だから、多くて5000、均して4000くらいだろうか。
12月の15日くらいまで、自分で自分を褒めたいくらいきちんと泳いでいたが、段々寒くなって来た。
男性ロッカーからプールに行くまで、プールでシャワーを浴びて水に入るまで。
何処を通っても寒さが身体を包み込んで来る。
水温は27,8度Cなのだが、体感温度は精々25度程度にしか感じない。
寒さを堪えて泳ぎ始めるが、簡単に暖まってはくれない。
200程度泳いだが、体の寒さは一向に変化する気配はないようだ。
ひと休みすると、体が小刻みに震えている。
頑張って500まで泳いだが、これ以上泳げば身体はさらに冷えて行きそうだ。
プールから上がって、ジャクジーに飛び込んだ。

それ以降、気温は下がる一方で終日零下の日が続く。
プールを覗いて見ると、この気温にめげず泳いでいる人はいるようだ。
かねがねコーカソイド(白人)は寒さに強いと思っていたが、我々モンゴロイド(蒙古系)とは基本的な肉体構造が異なっているのだろう、という確信を持つに至った。
零下であれば、私はカシミアのマフラーをしっかりと巻いて、その下には分厚いセーターを着用に及び、下半身には厚手のタイツを穿いてコーデュロイのパンツをその上に穿いている。
しかし若い白人連中は胸元を大きく開けて肌を覗かせ、寒風をものともしない風情だ。
ゴルフだって、彼らは11月頃までショートパンツでプレーしている。
どう考えても、我々とは身体を構成している成分が異なっているとしか思われない。

流石に昨年末から新年にかけての気温は、異常に低かったようだ。
ジムの入り口に告知が貼り出された。
プールを閉鎖して、ジャクジーだけはオープンするということらしい。
確かにこの水温では、プールの浅い処を歩いている年配の男女には堪えるだろう。
トラブルが起きる前にプールを閉めてしまおう、という考えも頷けないことはない。
私もジャクジーに入って身体を温めることで暫く我慢することにした。
水着を着用してジャクジーに入っているのだが、入って来る人はほとんどいない。
寒い日に温かいお湯に入る、日本人なら大喜びしそうなアイデアだが、どうもこのアパートの住人たちはそういう考えに至らないらしい。
たまに来ても、精々4,5分程度で引き揚げて行く。
お湯に浸かって身体を芯から温めるという習慣は、もともと無いのだろう。
日本へ行って温泉に入りたいという西欧人は、身体を長時間お湯に浸すことに耐えられるのだろうか。

考えてみれば、アジアでも長時間お湯に身体を浸すという習慣を持つ人種は少ない。
東南アジアでは身体を温めるという考えはないだろうし、中国に温泉地が人を集めているとも聞かない。
朝鮮半島は火山地帯ではないから、温泉の数は限られているだろう。
地震や噴火というある種の天災に見舞われながらも、湧出する温泉を利用している日本という国は、まさに「災い転じて福となす」を数千年続けていることになる。
確かに地形的に見ても、日本はそう簡単に住居地域を変えられるようにはなっていない。
幾度も地震や津波に見舞われながらも、その地に住み続けて数千年を経ている。
止むを得ず、と言ってしまえばそれまでだが、そのお蔭で数千年の平和が保たれて来たのではないだろうか。

正月の3日、久しぶりに泳いでみた。
やはり水の冷たさが普通ではない。
少しづつ身体が冷えて行くのが分る。
急いで転がり込んだジャクジーの温かい湯が、天の配剤とさえ思われて来るようだ。
どうやら未だ早過ぎるということだろう。
此処は一番、大人しく外気も暖かくなるのを待つしかなさそうだ。
すぐこう考える辺りが、年の功というのだろうか。
それともただ単に気弱になっているだけなのか。
何と言っても記録的な寒さだとTVでも騒いでいるくらいなのだから、素直にその記録を肌で感じるべきだろう。

まあ夏になれば、こんなこともすっかり忘れて泳いでいるのだろうから。
泳ぎを忘れなければ…だけれど。

「寿司」はニューヨークで、大きなブームを巻き起こした。
ナマの魚を食べること自体西欧の人たちには未知の経験だったが、それと併せてこの日本独自の食べ物は彼らに新しい文化体験をもたらした。
それは「カウンター」という、食事を摂る場所である。
別にカウンターという座席が今まで無かったわけではない。
コーヒーショップや軽食をサーブする「ダイナー」には、独りで気軽に座れるカウンターがある。
さらに、専ら男の社交場だが「バー」というアルコールを提供する店には、背の高い座椅子があって飲み物を摂ったり軽いスナックを摘んだり出来、勘定もバーテンダーとのやり取りで簡単に済ませられるシステム。
ただ、西欧の常識から言えば、カウンターは紳士淑女の座るべき場所ではない。
特に女性がカウンターに独りで座っていれば、それは特殊な職業の婦人と看做される覚悟がいる。
また女性に限らずきちんとした身なりの紳士は、レストランではちゃんとしたテーブルを要求するのが普通だ。
だが日本レストランの「寿司場の座席の法則」は、彼らの築き上げた「社会的地位に則ったレストランに於いて占めるべき位置」の標準を根本から打ち破った、と言っても良いのではないだろうか。

「寿司」レストランは、はじめから高級な客層を対象に始められた。
「寿司はニューヨークに限る」というアメリカ人のエッセーが評判を呼んだのは確かだが、その頃既に「寿司」は日本でも庶民が気安く手を出せるスナックではなくなっていたのだ。
それでも日本よりはかなり格安だったのは確かで、中でも大西洋で捕れるホンマグロが日本に較べれば信じられない価格で食べられるとあって、多くの日本人旅行者がニューヨークの寿司店に押しかけて来た。
まあ実はその頃既に、「如何にしてこのホンマグロを東京に運び入れるか」という企みは着々と進んでおり、マンハッタンからホンマグロが消えるのはそう遠い話ではなかったのだが。
だが少なくともこの段階で「寿司店」で食事が出来るのはアメリカでもそれなりの階層の人たちに限られていた。
そして前述した通り、カウンターはちゃんとした社会人が食事を摂るところではない。
しかし日本の習慣から言えば、「カウンター」は寿司店でも上客が占めるべき特等席である。
それは今でも同様で、普通L字型のカウンターの角は所謂「花板(最高位の板前)」が立って左右の得意客にサーブする場所とされて来た。
此処に座る客は板前にあれこれと指示することはない。
黙って坐っていれば、好みのネタがタイミング良く握られてツケ台に置かれる仕組みになっている。
注意して見れば、そのネタの部位だって同じ魚の中でも最高の部分を切り取っているはずだ。
何も言わなくても店内を見回せば、誰が最上客かは一目瞭然になっているのだ。

寿司ブームの初期の頃、この座席の問題はなかなか悩ましかったらしい。
店から見て最上の客を、そのカウンターの真ん中の席に坐らせるのはひと仕事だっただろう。
「I don’t like this seat. この席は気に入らない」
「This is the best position in this counter. 此処は一番良い席なんです」
他の西欧風レストランへ行けば、最上客の席は誰が見てもすぐに分るようになっている。
だが、寿司店のカウンターを理解するには時間と経験が必要だ。
説明を繰り返し、どうにかその客がその席に腰を落ち着けるまでに数ヶ月かかったという。
そして、カウンターに座りたがる別の客とのやり取りも、又新しい難題になって行く。
ショーケースのまん前に坐れば、様々な色や形の魚類を見ることが出来る。
例え食べてみることはしなくとも、それはなかなかの観物であることはたしかだろう。
「What is this fish? この魚の名前は?」、板前に聞けば答えないわけには行かない。
「This is tuna fish. これはマグロ」、「これはひらめ」、と言う具合に客の好奇心は限りが無い。
カウンターに座る場合は、板前が勧めるネタを食べるのが礼儀、という日本システムが浸透するまでには多分半年程度の日時は必要だったのではないだろうか。
「Omakase (お任せ)」などという言葉が一般的になったのはこの1,2年のことだろう。
それでも、折角拵えたカウンターには客を入れぬまま営業している店もあるという。
初めての客にカウンターで食べる仕組みを説明するのが面倒だという理由と、そこまで苦労して坐らせてもそんなに利益が生まれるわけでもない、辺りが実際のところらしい。

実は日本でも寿司カウンターには座らない、という人たちもいないわけではない。
カウンターに座って好きなものを板前に注文する、というやり方は一般的になっているが、悪く言えばあまり行儀の良い食事作法とは看做されない。
別室に卓を用意して、うちうちで寿司を愉しむという客層は寿司店に取っては怖い存在だろう。
寿司がざっかけない食べ物から、次第に上流階層に好まれるようになり、それに併せて上客を受け入れる店の構えが出来上がって来たように考えられる。
寿司に限らず「鰻」や「天麩羅」、「蕎麦」「うどん」の類に至るまで、気安い庶民の食べ物から徐々に手をかけて材料にも心を砕き、料理法ひとつにも研究を重ねて来た結果と言えるのではないか。

カウンターという日本独特の長椅子と机を組み合わせたような代物は、恐らく江戸期に出来たのだろう。
カウンターに符合する和名が無いあたり、その歴史の浅さを感じさせる。
このカウンターは西欧には無いはずのものだったが、今では結構な数があるだろう。
ヨーロッパやアメリカの大都市には必ず寿司店があり、そこにはカウンターが設えてあるはずだ。
今はラーメン店のカウンターが、着々とその数を増やしているに違いない。
近いうちにカウンターは世界中のレストランの必須項目になって来る可能性だってあり得る。
いや、今日本で大流行の「立飲みカウンター」だって、世界各地に姿を見せる可能性が大だ。
不遜に聞こえるかも知れないが、日本は今や味覚の世界をリードしていると言えるのではないか。
日本人が愛好する多くの水産物が、いまだに世界の多くの人々から見れば未知の領域にある。
つまり、日本から紹介される新しい味は、これからも世界の美食家たちを捉えて離さないとも言えそうだ。
辛うじて中国が美味美食の深奥を究める努力を重ねて来たが、他文化を征服しては破壊し尽すという歴史の繰り返しで、残されたものはごく僅かでしかないと言われている。
皮肉なことに、中国が世界に誇る「フカひれ」、「干しナマコ」、「干しアワビ」「干し貝柱」、どれをとっても日本の漁業者たちが中国の戦乱から守り続けたものばかりだ。
言ってみれば、日本が守った平和が中国の食文化を維持する大きな手助けをしたということだろう。
そしてその水産物の見返りに日本人が得た「漢字」、「仏教」、「稲作」などは、日本で成長しそれぞれに大きな花を咲かせていることは言うまでもない。

日本は既に「生の魚」を紹介し、「手で摘んで食べる」ことへの抵抗も無くし、今まで忌避されて来た「カウンター」での食事を日常のものにしてしまった。
この先には何が待ち受けているのだろうか。
別にそれ程目新しくはないかも知れないが、「内臓料理」に関しても日本は今や先端を行っているようだ。
牛や豚などの内臓は西欧でも食べるが、日本ではほとんどを食べ尽くすし、大型魚の内臓は漁師料理のジャンルを越えてファンを開拓しつつあるようだ。
恐らくそう遠くない将来に、今まで捨てられていた部位の料理が陽の目を見る時が来るだろう。
その一歩は多分「カウンター」から生まれて来た、と私は思いたい。

今、日本のステーキハウスがマンハッタンに挑戦している。
「立ち食い」を売り物にスタートしたようだが、やはり無理があったのかテーブルになってしまったらしい。
それでも結構な人気だと聞く。
きっとそのうち「立ち食い」も実現させてしまうだろう。
言うなれば、カウンターを跳び越えて、その一歩先に到達してしまうことになる。
「不可能に見えることを何時の間にか可能にする」のが、日本式経営の本質と言えそうだ。

そう考えると日本料理の将来は、結構洋々たるものかも知れないではないか。

このところブログが途切れがちだが、それはひとえに私の怠慢による。
11月半ばに私が日本から帰って来て、入れ替わりに家人が帰国した。
今年の3月にこういう状況下で私は肺炎に罹り、生涯初めての気管支の病で2週間入院した。
この時充分身に滲みて懲りたから、今回は「義理欠け、転ぶな、風邪ひくな」を金科玉条として健康な独身生活を過ごそうと決意を新たにしたのである。
家人は2週間で帰って来て、私も一応健康な留守番生活を送った。
だが、それから何処となく可笑しくなり、プールに行けば寒気がし、寝間着の裾辺りが薄ら寒い。
朝一番のプールが良くないようだ、と気づいた時は既に遅し、だったようだ。
「風邪は引かないようにお願いしますよ」と言われ、「心得ています」と力強く答えて高々ひと月程度だから、かかりつけの医師に合わせる顔も無いようなものだが、そうも言っていられない。
タイツにタートルネック、分厚いコーデュロイのズボン、カシミアのマフラーという重装備で医師のオフィスへ。
先ず看護師が来て、血圧、体温などを計り、そして毎度お馴染みの口頭試問が幾つか。
これは常に予約した時間に間に合うように行われる。

「予約時間までに何らかのコンタクトがありましたか?」
診療後にオフィスから送られてくる設問事項には、必ずこの1問が含まれている。
診療に訪れた患者に何の手当てもせずに放置するのが、アメリカ医療界では最悪と評価しているらしい。
何処かの国の大学病院などは、その最悪ランクがずらりと並びそうだが、アメリカではこのところ各医療グループ同士の患者の取り合いが激しいらしく、その患者への最重要なアプローチが素早いコンタクトらしいのだ。
私の主治医はこの診療所の責任者でもあるそうで、時々経営の苦しさを零したりする。
日本でも最高と言われる大学の医学部を出ているそうだが、何故アメリカくんだりまでやって来たのか、きけば奥さんも医師としてニューヨークで働いているという。
日本でも難しい国家試験をパスし、さらにアメリカの国家試験の難関を突破しているということだけでも充分尊敬に値するし、その優秀な頭脳が何故に敢えて一段の高みを目指すのか。
聞くところによれば、日本の大学内の学閥や師弟関係などに嫌気が指して国外脱出を図る医学や科学、物理学関係の頭脳は決して少なくないのだそうだ。
そう言われてみれば、日本の大学からアメリカの研究所に移籍してノーベル賞を取った研究者も少なくない。
逆に海外から日本の大学に来て世界的な業績を残した、という話は残念ながら皆無のようだ。
そもそも日本の大学の研究室に研鑽の場を求めようとして、扉を叩く学生がいるのだろうか。
日本へ留学と言えば、今では近隣国の若者の体のいいアルバイトを意味するのではないか。
大学に籍だけ置いて、日夜時間給稼ぎに没頭する若者とその労働力を充てにする日本の中小企業。
さらに出入国管理事務所の職員に追いかけられる留学生では、まるで噴飯物ではないか。
出と入のバランスは全然取れていない。

看護師が来てから約2,30分。
私の担当医がやや疲れた表情であらわれた。
考えてみれば、今年彼に会うのは10回ではきかないはずだし、その度に結構密度の高い会話を交わして来た。
「前のような感覚はありますか?」
8ヶ月前の肺炎のことを訊ねている。
「いえ、咳もそんなに頻繁ではありませんし、熱もそれほどではないようです」
確かに、熱は高くても38Cくらいだし、解熱剤で素早く平熱に戻って行く。
思い出したくもないが、8ヶ月前の症状はこんなものではなかった。
高熱と寒気との狭間で、思考力もほとんど無く、薄ぼんやりと眼を開けて天井に映る幻視のようなものを見るとも無く見、機械的に巡回して来る看護師たちの採血や口に押し込まれる錠剤の幾つかを飲み下していた。
そして、嫌でもやって来る3度の食事。
最初の1週間は、ほとんど喉を通らなかったし、胃が受け付けてくれない。
「食べないと体力がつかないし、社会復帰がどんどん遅れてしまうんですよ」
頭では理解しても甘ったるいソースやバターの香りが鼻先に来ると、反射的に喉が閉ざされてしまう。
私はこの2週間を「地獄の2週間」と自ら命名した。
この時期のことを思い出せば、大抵のことは我慢出来るし、ほとんどの食べ物は咀嚼出来る。

「じゃあ、今回は即効性で行きましょう」
医師は彼のPCを操作して、にやっと笑った。
「帰りがけにこの薬をピックアップして、今晩2錠、明日から4日間1錠づつ、呑んで下さい」
「抗生物質ですか?」
私は1年半ばかりステロイド錠剤を服用しており、このステロイドと抗生物質は決して仲良しではない。
抗生物質はステロイドの効果を漸減させるし、ステロイドは抗生物質の抗菌性を弱める、
恐らく医師は強めの抗生物質を短期間投与し、ステロイドの効能が弱くなる前に決着をつけようという算段なのだろう、とこれは私の素人判断。
まあ全く根拠の無い判断ではなく、この春の入院時期にステロイドは中断しないまま、強い抗生物質を数日間点滴で流し込まれた覚えがあるのだ。
結構荒っぽい治療法だったようで、私の腕は点滴の針の痕が無数に残された。
医師は頷きながら、
「恐らくこれ一発で決着がつくと思いますがね」
医師の指示通り、帰路に行きつけの薬局に立ち寄って、既にメールで処方箋が入っている抗生物質を6錠受け取り、帰宅後直ちにそのうちの2錠を服用した。
実のところ、祈るような気持ちもあったことは否めない。
医師とは冗句を交わしたりしているが、この春の経験は1度で充分だと思っている。

抗生物質が効いたのか、熱は急激に下がった。
薬を2錠服用して寝た晩に、全身に多量の汗をかいたのが良かったのだろう。
寝間着が汗まみれになったほどだから、如何に体内から多くの水分を放出したか想像出来る。
後は徐々に熱を下げ、又栄養のあるものを摂取するだけだ。
言うは易いが、実際にそれを間違いなく実行するのは至難に近い。
それが出来るくらいなら、マフラーを首にぐるぐるに巻いてタイツを穿き、カシミアのセーターを着て汗をかきながら歩くような羽目には陥らない、はずなのだが。

まあ後1,2回こういう経験を繰り返すと、ひとは利巧になるのだろうけれど…。

将棋の「藤井聡太」フィーバーは峠を越したようだが、かなりの数のファンがこの新人の指し手のひとつひとつに一喜一憂する様を見ると、彼の実力は間違いなく誰もが認める本物と思わざるを得ない。
彼が将棋界の話題の中心に躍り出た時、実はすでにプロ入りして無敗のまま30連勝に近づいていた。
マスコミの異常な持ち上げ方もあって、逆に連勝が途切れるのを待つ人もいただろう。
予想通り30連勝は出来なかったが、実はその後に彼が真の力を見せつけたのだ。
52勝9敗が今の彼の成績だが、29連勝以降では23勝9敗ということになる。
それだけでも勝率7割以上という数字になり、堂々たるものと言えるだろう。
藤井4段が信じられない快進撃を見せたため、将棋に不案内な人は高段者と低段者の差異に理解が及んでいないかも知れないが、ひと度4段に昇進してプロになればそれ程の力の差は無いと言われる。
現に低段者の多いC級2組には4段5段の棋士も多いが、かつて上級リーグで活躍しタイトルを獲得した8段9段の高段者も少なくない。

将棋の棋士は、20代から40代始め辺りが指し盛りと言われている。
7大タイトルを取るのもその程度の年齢が多いし、所謂「羽生世代」も30〜40代頃が最盛期だっただろう。
羽生、佐藤、森内という3強が羽生を中心に交互に大タイトルを取り合っていた時代。
這い上がってくる若い芽もあったが、如何せんこの3人の壁は厚かった。
現在「龍王」のタイトルを持つ渡辺明が、辛うじてその一角を占めたくらい。
そしてこの2,3年で、3強の時代が幕を下ろそうとしているように見える。
佐藤は将棋連盟の会長になり、森内はフリークラスに転出した。
ひとり羽生だけが第一線で若手と戦い、直近では渡辺竜王からタイトルを奪取し全てのタイトルで「永世王者」となる壮挙を成し遂げた。
この2,3年保持していたタイトルを次々に失い残るはたった一つという瀬戸際での勝利だから、「羽生未だ衰えず」の感を強くした将棋ファンも多いことだろう。
となれば、未だ暫くは羽生と若手強豪とのせめぎあいが続くと誰しも思うに違いない。
そして最終的にその羽生に取って代わるとすれば、衆目の一致するところ藤井聡太だろう。
未だ4段であり、A級8段になるまでには時間が必要だが、それでも何れは彼の時代が来ることは将棋界ではほとんど確信に近いようだ。
過去、大山から中原、中原から谷川、谷川から羽生という第一人者のバトンタッチは、それなりの実力者が周囲にいたけれど疑う人はほとんどいなかったと言われている。
唯一、渡辺明が羽生の座を奪いとるかに思われたときもあったが、未だに名人戦の挑戦者にもなれない状態では、今後に多くは望めないだろう。
恐らく将棋界が描いている近未来は、数年後には藤井が幾つかのタイトルを取り第一人者への地歩を固めている状況ではなかろうか。

だがそのとき多くのファンは、今のような熱狂的な声援を藤井に送り続けているかどうか。
過去の例を見れば、恐らくそんなことはありえないだろうと私は思う。
理由は簡単で、今の藤井ファンは将棋についてほとんど知らない。
たまにテレビなどで棋戦を中継するが、1手指すのに数十分以上、場合によっては数時間の長考が挟まれる対局を楽しんで見られるファンはごく限られた人たちだろう。
また高段者たちが指すひと手ひと手の意味や必然性が分る人がどれだけいるか、怪しいかぎりだ。
正直のところ、私自身プロの棋譜を見て、その将棋が既に終わっているかどうか、明快には判断出来ない。
今藤井4段の勝ち負けに一喜一憂しているファンだって、おそらくその程度の棋力だろう。
つまりファンの大半は、藤井4段の将棋を楽しんでいるのではなく、彼の持っているストーリーを追っているのだ。
そしてそのファンは、20年以上前に「若き天才羽生義治」を追いかけた人たちと同じファンだ。
私は別にそれを非難しているわけではない。
人は新しいヒーローを好み、そのヒーローが高みに昇って行くことに喜びを感じている。
だが、そのために10年20年を待つかどうかは分らない。
しかし、固唾を呑んで見守るファンが想像だにしない好手奇手を放って大一番を手中にする棋士は、常に多くのファンの注目を浴びるだろうし、折に触れては話題に取り上げられることも多いのではないか。
故人ではあるが「大山 升田」と並び称せられた升田幸三9段は、棋士としての数字は大山に遠く及ばないものの、ここ一番で見せた妖刀とも称される奇手で未だに多くのファンを持っている。
奔放不羈の性格で知られ味方も多いが敵も多かったそうだが、「新手一生」という座右の銘に相応しく「升田新手」や「升田の鬼手」などの後世に残る指し手の数々が彼の生涯を飾っている。
升田の指し手が如何に独創的だったか、それは今の現役の棋士に「今対局してみたい棋士は?」と訊ねると多くの中堅若手が「升田」と答えることでも理解出来るではないか。
勿論その中には、生前の升田9段を見たこともない若手棋士も含まれている。
言うなれば、既に升田は「伝説の棋士」と看做されていたのだろう。
それでも、将棋の世界では升田ではなく大山を史上最強として遇して来たし、それに羽生が取って代わることはあるだろうが、それ以外はこれから出て来る若手にしか可能性はない。
言ってみれば如何に素晴らしい棋譜を残そうとも、最終的には多くのタイトルを取り続けた者が真の名人であり数百年の歴史を持つ将棋の世界の第一人者と認められるのだ。

将棋の世界のランク付けはひと口には言えないが、「A級8段」を目安としている。
スタートは「奨励会」という、小中学生の将棋好きの中でも際立って強い少年が集まる組織から。
此処で揉まれて4段になれば、晴れてプロ棋士となってリーグ戦入りする。
と、簡単に書いたが、この壁を通り抜けられるかどうかが、ある意味最大の関門と言えるだろう。
年2回のリーグ戦の上位2名だけが4段になれるという狭き門。
多くの天才棋士は、此処で前途を断たれる仕組みになっている。
4段になると先ずC級2組という最下のリーグに組み込まれ、勝ち進めばC1組、B2組、B1組と上がって行くのだが、勿論上に行けば行くほど戦いは熾烈になって来る仕組みだ。
そこで最上位のA級に辿り着けば8段となり、そのまま名人位挑戦のリーグ戦に突入する。
A級には11人の棋士がいるが、そのうち2人は全局を戦い終えたときの成績でB級1組に落ちる規定。
全ての棋士にとってA級で戦うことは名人になれる可能性を秘めているわけだから、石に齧りついても留まりたいのは当然だが、それは決して生易しくない。
A級在位の最長は大山の45期だが、後を追う羽生はまだ25期。
勿論一度もA級に上がれない棋士も決して珍しくないし、逆に10期以上留まっていたとすれば、それは一流の棋士の証明のようなものと言っても良い。
騒がれている藤井にしてもA級に到達するにはあと数年はかかるだろうし、その地位を何年保持出来るかどうかは神のみぞ知る領域だろう。

今多くのファンが期待しているのは、A級8段になった藤井を羽生名人が迎え撃つ大一番だろう。
5,6年後とすれば羽生は50歳を過ぎているし、藤井は未だ20前の若武者。
なかなか難しい顔合わせだが、確かに夢の対局ではある。
出来れば私も間に合いたいものだが…。

ニューヨークの蒲焼

私は、「鰻」を食べる機会には滅多に巡り逢わない。
ニューヨークに住んで40年強、こちらでは「鰻」を食べた憶えはほとんどない。
日系スーパーで串を打たれパックにされた「鰻蒲焼」を買って、家で暖めて幾度か食べた程度。
勿論「鰻」専門店のようなものはないが、メニューの片隅に見かけた記憶はある。
とは言うものの、「蒲焼鰻」なら韓国系中華系のスーパーに常時置いてあった。
寿司にはつきものの「穴子」がないから、その代わりに「鰻」を握って出すのが普通。
この「鰻」も台湾や中国本土で養殖するようになり、たれの甘さが人気を呼んだらしい。
生産過剰になった分をそのままアメリカに送りつけて来たらしく、スーパーの冷凍ケースには溢れんばかり。
価格も日本では上昇の一途だが、こちらでは安値安定。

「鰻」を食べる習慣は日本独自のものではない。
ドイツでは年末に「鰻」を食べるようだし、燻製を売っている店も少なからずある。
ニューヨーク周辺でも罠を仕掛けて「鰻」を獲る漁師がいるし、生きた「鰻」を置いている店もあった。
余談だが、「鰻」の罠の餌にはしばしば「Horseshoe crab カブトガニ」のぶつ切りが使われるという。
日本では「カブトガニ」は天然記念物だったはずだが、アメリカでは「鰻」の餌。
「処変われば…」というが、随分極端な変わり様だ。
ただ日本のように、1年のうちの一定の時期に人々がこぞって「鰻」を食べることはない。
「土用に鰻」というキャッチフレーズは江戸時代に平賀源内が考えついた惹句らしいが、今日でもちゃんと使われているところをみると、彼は天才的なコピーライターだったのだろう。
まあそれ以前にかの大伴家持が石麿という痩せこけた友人に贈った、「石麿に われ物申す 夏痩せに 良しといふもの うなぎ捕り召せ」、という歌は源内に遡ること千年だそうだから、当時既に「鰻」の栄養は知られていたらしい。
ただその頃の「鰻」料理がどのようなものだったかは、確たる文献や資料は無いという。
開いて串を打ち、甘いタレを塗って焼き上げるという手法は、恐らく江戸時代に生まれたのではないか。
しかし古典落語などを聴くと、当時でもそれほど安価な食べ物ではなかったようだ。
確かに、割いて串に打って、素焼きして蒸してもう一度焼く、というような手順であれば手間はかかる。
この中の、「蒸す」という手順が関西では行われていないそうだ。
又、「鰻」を割くとき、関東では背から関西では腹から割くのも結構よく知られている。
「関東では武士は腹を割くことを忌み嫌うから」とか諸説はあるようだが、本当のところは分らない。

私の記憶の中では、子供の頃父に連れられて神田にあった「N亭」という店に行き「うな丼」を食べたことはかすかに憶えているのだが、蒲焼のサイズなどはどうだったのだろうか。
家でもごく稀にお客に「鰻」の出前を頼むことがあったが、どうも家族には廻って来なかったようだ。
やはり蕎麦やラーメンとはちょっと格が違ったのかも知れない。
だからというわけではないが、私はあまり「鰻」を食べたいと思った覚えがない。
と言うよりは、そう簡単に食べられるものだとは思わなかったということだろう。
また、「江戸前」と言えば寿司や天麩羅を称するときに使うが、「鰻」にはそういう呼称はない。
「浜名湖」が名産地のように言われた時期もあったが、「鰻」は日本中にあったようだ。
強いて言えば、霞ヶ浦、牛久沼、手賀沼辺りに「鰻」を供する店が多くあり、今でもある。
勿論それらの池から天然の「鰻」が獲れることもあろうが、今はほとんど中国産の養殖と考えて間違いない。
何処で差がつくかといえば、中国から来た時期とその後日本で与える餌の種類だろう。
何時までも中国の池に住んで安価な餌を与えられていれば、脂肪はあっても身の締まらない蒲焼になる。
以前はそういう粗悪品があちこちに出回っていたようだが、今はルートが確立されたのか混乱は少ないという。
多くの「鰻」が国産と銘打って販売されているが、恐らく農水省の暗黙の了解のもとなのだろう。
消費者が満足して食べたのであれば、それ以上細かいことは詮索する必要は無いかも知れない。
しかし今のシステムを持続する限り、「鰻」は何時か枯渇する運命にある。
そのために多くの大学の研究室が「鰻」の完全養殖つまり人工孵化を試みているが、現在のところまで実用化が可能な段階には至っていないようだ。
それまでは沿岸で稚魚を捕獲し、それを育てる方式が唯一だが、業者が輸入を計画している世界各地の「鰻」の稚魚が絶滅危惧種に指定され、捕獲が不可能になってしまっている。
水産庁は2020年までに「鰻」の完全人工孵化方式を確立させようとしているが、まだまだ不明な点が多くすんなりとは行きそうにないという。

ホンマグロに関しても日本の乱獲が大きな問題点とされ、「鰻」についてもその漁獲の8割以上を日本が消費していることで、世界の非難の眼は年々厳しくなっているようだ。
「水産物の乱獲」ということになると真っ先に名が挙がるのは日本であり、農水省も非難の矛先を交わすのに精一杯という状況であって、先行きは決して明るくない。
鯨、ホンマグロ、鰻、どれをとっても日本がそのほとんどを食べている。
他国から見れば「漁獲制限」をしても痛くも痒くも無いわけだ。
普通、食べる人がいない物を食べるのであれば、何の遠慮も要らないはずだ。
だがこれに世界政治が絡めば、話は変わって来るから不思議だ。
発足当時は僅か10数カ国だった国際捕鯨委員会は、1980年代には一気に参加国が増えた。
その多くは捕鯨の経験も無く、勿論食べたことも無く、極端な場合は海に面してさえいない。
簡単に言えば、西欧の捕鯨反対国の圧力に押さえ込まれたということになる。
西欧諸国は19世紀まで世界中に船団を送って鯨を捕り、その油を貴重な資源として本国に持ち帰っていた。
だが石油の発見で鯨油の需要は大きく落ち込み、多くの国は捕鯨から撤退するようになった。
だが鯨を食用としそれ以外の部分も洩らさず活用する日本は、変わらず捕鯨を続けていた。
そして世界は「捕鯨禁止」の方向へ向かいつつあり、反対する勢力は徐々に減って行く。
それから数十年、「反捕鯨」は世界の大勢となり日本はノルウエーやアイスランドなどの一握りの捕鯨国と共に、孤立状態に追い込まれて行くことになる。

「鰻」はそこまで極端な話ではない。
だが、大きく成長した日本の経済に、近隣の諸国からの売り込みは激しさを増し、その中でも「鰻」の養殖とそれに伴う稚魚の需要は彼らの狙いの中心だった。
海老の養殖が順調だった台湾は、その池を「鰻」の養殖に転用することを考えた。
そしてさらに対岸の中国本土に目をつけ、その海岸線にある池や沼を「鰻」産業に取り込む。
日本から業者が中国に行き、養殖の方式や蒲焼の機械の使用法を教え込んだ。
そして中国の業者は、自分の池の収容能力の倍以上の稚魚を買い込んで多量の餌を撒く。
水が汚れるから、これまた多量の抗生物質を池に放り込む。
不正行為のようだが、これは全て日本の業者が教えたことばかり。

今では鯨は高価になり過ぎて気軽に食べることは出来ない。
ホンマグロのトロは、同様に一部の人たちの愛好品になってしまった。
そして、今また「鰻」さえも庶民の食卓から消えようとしている。
出自さえ判然としない「鰻」の蒲焼が、4千円5千円で罷り通っているらしい。
鯰を使った「鰻蒲焼もどき」がテレビなどで紹介されているが、観ていると情無い。
「鰻」やマグロのトロくらい、ちょっと無理すればたまに食べられる程度の美味だったはずだが、今ではかなり無理しても手が出ない高みに行ってしまっているらしい。

日本から帰って来るとき、2串の「鰻」の蒲焼をスーツケースに忍ばせて来た、
本当は何処かの名店で「鰻重」を食したいと考えていたのだが、上手いタイミングが取れない。
人はどう思うか知らないが、「鰻」は独りで食べるに相応しい食べ物とは私は思わない。
二人乃至は数人で一杯やりながら、「鰻」が焼けるのを待つ小一時間が謂わば至福の時ではないか。
そして「鰻」が焼きあがると同時に飯が炊き上がり、その熱々が運ばれて来る。
「鰻丼」であれ「鰻重」であれ、蓋を取ったと同時に立ち上がる湯気も食味のうちだろう。
それを何とかニューヨークで実現させよう、そう考えたわけだ。
「鰻」に限らず丼物には炊き立ての飯が必須だ。
数時間前に炊いた保温中の飯では、どんな天麩羅や親子を載せてもあのわくわく感は生まれて来ない。
私がニューヨークで「鰻」を食べようと思わない理由には、それも含まれている。
若しニューヨークの自宅で日本の名店に近い味が出せれば、素人料理の金字塔とも言えそうだ。
用意した串は御徒町の「Y」の中串だから、相手に取って不足はない。

米は日本から運んで来た、「コシヒカリ」の新米。
「鰻」に付き物は奈良漬けらしいが、此処は甘味を押さえた絞り沢庵漬け。
「肝吸い」は無いから、「花かつを」の一番出汁で掻き玉汁を添える。
飯が炊き上がる3分ほど前に、「鰻」から串を抜き加熱したオーブントースターに入れた。
用意した丼に熱湯を張って暖める。
炊き上がった飯を湯を捨てた丼に7分目によそう。
同じく湯で温めた添付のタレを飯にかけまわし、その上に「鰻」を載せてさらにタレをかけた。
掻き玉汁を温めて椀に注ぎ、白髪葱を浮かせる。
これで準備万端整ったわけだ。
充分に熱い飯に、タレの滲みた「鰻」の一切れを載せて口に運ぶ。
柔らかい「鰻」の腹肉が溶けて、タレの甘さと渾然一体となり口中一杯に拡がって行く。
掻き玉汁を啜り、さらに「鰻」と新米のコンビネーションをゆっくり噛み締める。
随分久々の「鰻」だが、記憶の中の味の1頁にちゃんと整理されていたようだ。
食べ進むうちに、「鰻」と飯は融合しひとつになって行く。
「鰻」はのんびり食うものではないようだ。
一気呵成に掻き込む方が、いかにも「食っている」という雰囲気に満ち溢れてくるのではないか。
まあ、それは他の丼ものにも言えるかも知れないが。

久しぶりの「鰻」だったが、それなりに旨かったと言えそうだ。
まあ比較する相手がいないのだから、独り相撲をとっているようなもの。
とは言え、記憶の中のほかの「鰻」と較べても、それほど遜色は無かったような気がしないでもない。


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