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			<title>還暦スイマー望郷日記</title>
			<description>３０余年のＮＹ暮し、望郷の想いが無いと言えば嘘、然し
ふるさとは遠くにありて想ふもの、とか。
泳ぎながら想う諸々のこと。少しづつ綴ってみます。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tyke0914</link>
			<language>ja</language>
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			<title>還暦スイマー望郷日記</title>
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			<description>３０余年のＮＹ暮し、望郷の想いが無いと言えば嘘、然し
ふるさとは遠くにありて想ふもの、とか。
泳ぎながら想う諸々のこと。少しづつ綴ってみます。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tyke0914</link>
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		<item>
			<title>本との別れ</title>
			<description>「帰りなんいざ　田園将に蕪（あ）れなんとす　何ぞ帰らざる。。。」&lt;br /&gt;
この陶淵明の詩は余りにも有名だが、彼は実際に職を投げうって故郷へ帰っている。&lt;br /&gt;
１６００年も前の話とは言え、それ以降この詩を呟いて故郷を想った人は数知れないだろう。&lt;br /&gt;
彼は中国の東晋末から南朝宋時代（３～４世紀）の詩人だが、彼の詩の多くは日本にもたらされ数多の人々に愛誦され、李白杜甫と並んで日本の漢詩人の仰ぎ見る存在と謂われて来た。&lt;br /&gt;
私のように漢詩人ではなくても、この詩を口ずさみこの詩に倣って故郷へ帰ることを考えている者もいる。&lt;br /&gt;
勿論そこに陶淵明のような高邁な思想がある、とは言えないのが残念だが。&lt;br /&gt;
まあ、この詩の音律や抑揚は後世の日本の詩人の訳によるものだから、我々が陶淵明の詩を完全に咀嚼し味わったとは言い切れない。&lt;br /&gt;
だが、日本で加えられた韻律は、確かにこの詩に新たな深みを与えているように思われる。&lt;br /&gt;
それは陶淵明に限らず、蘇軾や杜甫李白などの詩でも同様だろう。&lt;br /&gt;
だが残念なことに、本家の中国ではこういう古詩は現在ほとんど顧みられていないという。&lt;br /&gt;
まああの「簡体字」で埋められた文章から、古代の詩人の研ぎ澄まされた感性や数千年に亘って受け継がれて来た文字を操る技巧を伝承していくことはほとんど不可能に近いだろう。&lt;br /&gt;
中国の先人たちが生んだ数々の詩歌は、今や日本で細々と生きながらえているのが実情らしい。&lt;br /&gt;
とは言っても、今の日本に漢詩を作れる詩人はほとんど存在しない。&lt;br /&gt;
その伝統は夏目漱石で終焉を告げた、と言われている。&lt;br /&gt;
明治維新と同時に雪崩れ込んだ西洋文明に、過去の文化は押し流されてしまったとも言えそうだ。&lt;br /&gt;
そして残念なことに、それを惜しんだ人は僅かだったこともまた確かだ。&lt;br /&gt;
そして今や、漢詩文はごく一部の人によってのみ誦されるに過ぎない。&lt;br /&gt;
「帰りなんいざ　田園将に蕪れなんとす　何ぞ帰らざる。。。」&lt;br /&gt;
まるで、現代の中国における古代中国文化の現状を語っているようにすら見受けられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
改まって考えてみると、ひと口に故郷へ帰ると言ってもそう簡単ではない。&lt;br /&gt;
私たちはニューヨークでも２回家移り（引越し）をしているが、同じ市の中の移動でも結構時間にも支度にも時間がかかったことを思い出す。&lt;br /&gt;
だがその時は、全てのものを新居に運び込めば良かった。&lt;br /&gt;
その後にゆっくりと整理をして行けば、時間はかかっても何時かは終わる。&lt;br /&gt;
だが今回はそうは行かない。&lt;br /&gt;
まず、持ち帰るものと置いて行くものを選別しなければならない。&lt;br /&gt;
実際のところ、持ち帰ろうと考えているものは僅かだ。&lt;br /&gt;
そもそも日本に帰ることを考える以前に、身の周りのものを整理しようと思っていた。&lt;br /&gt;
ただもって生まれた貧乏性が災いして、思い切って捨てることが難しい。&lt;br /&gt;
靴などは普段履いているのは精々２，３足だが、改めて数えてみると１０足以上が転がっている。&lt;br /&gt;
ズボンもおそらく２０本以上あるのだろうが、年に一度も脚を通さないものが１０以上あるはずだ。&lt;br /&gt;
これらを精々４，５足と６，７本のズボンに絞れば荷物はがくんと減るだろう。&lt;br /&gt;
テレビやその他の電化製品ももはや惜し気も無い。&lt;br /&gt;
食器もほとんどは要らないが、母から貰った小さな漬物皿と姉から貰った小鉢類、清水の酒器と備前の銚子程度を持ち帰れば充分だろう。&lt;br /&gt;
で、此処で大きな関門にぶち当たった。&lt;br /&gt;
過去４０年間に買い溜めた本の行く先である。&lt;br /&gt;
今までにどの程度の数をこちらで買ったり日本から持って来たりしたか、最早ほとんど記憶に無い。&lt;br /&gt;
以前は読みたければその場で買ったりしていたから、所謂ハードカバーも結構多い。&lt;br /&gt;
その後年をとった所為もあるのだろうが、文庫本中心に買うようになって来た。&lt;br /&gt;
内田百、山本夏彦、阿川弘之、丸谷才一、山口瞳、嵐山光三郎、椎名誠、宮脇俊三、井伏鱒二、吉村昭、自分でも驚くほど脈絡の無い揃え方だ。&lt;br /&gt;
これ以前には池波正太郎、藤沢周平、山本周五郎、などもあったのだが、以前の大整理の折に人にあげたり捨てたりして姿を消していた。&lt;br /&gt;
そして今、その時を生き延びた本たちの命運を決しなければならない時が来ている。&lt;br /&gt;
日本には古書を買い取る店があちこちにあるようだが、此処ニューヨークにもその支店がある。&lt;br /&gt;
だが私や家人が幾度か持ち込んでみた結果、捨てたほうがマシという結論に達してしまった。&lt;br /&gt;
ほとんどの文庫本の買取価格は１冊１０セントであり、数日後それが３，４ドルで売られているのを見るのはあまり愉快なものではない。&lt;br /&gt;
さらに、堂々たるハードカバーであっても、発行年月が昭和であればほとんど引き取らない。&lt;br /&gt;
まあどちらにせよ愉快な気持ちになることは決してないのだから、我が家のゴミ箱に入れた方がむしろすっきりしようと言うものだ。&lt;br /&gt;
勿論欲しい人があれば譲るに吝かではないが、まあそんな奇特な人はまずいないだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もうひとつ、この街にある図書館には「日本語セクション」があって、私も随分世話になったからお礼の意味で本を寄贈したい気持ちが無いわけではないが、そこでまた不愉快な扱いを受けるであろうことを考えるとやはり我が家のゴミ箱という選択肢に戻ってしまう。&lt;br /&gt;
家人に言われて捨てるべき本を選んでいるうちに、彼女はさっさと袋を持って来てそこに私が苦労の末に取り分けた本をどんどん放り込んで行く。&lt;br /&gt;
まず、当然ながら文庫本が最初の犠牲者となる。&lt;br /&gt;
売っても１０セントと思えば、扱いも粗略になろうというものだ。&lt;br /&gt;
一袋に３，４０冊も入っただろうか、それが３，４袋エレベーターの横のゴミ置き場に運ばれて行く。&lt;br /&gt;
２回ほど運んでみると、小型の書棚の半分以上が空になっている。&lt;br /&gt;
まだ大物たるハードカバーが鎮座している大型書棚には手もつけていない。&lt;br /&gt;
これを整理し切るまでには、ひと悶着ふた悶着あるだろう。&lt;br /&gt;
と言って、何冊かを助けて日本に持って帰るつもりはない。&lt;br /&gt;
長年連れ添った「広辞苑」や、大型の和英英和の辞書も同様の運命を辿ることになる。&lt;br /&gt;
人には別れがあるのだから、本にだって当然別離があるはずだ。&lt;br /&gt;
まあ、そうでも思わなければ、作業が先に進んで行かない。&lt;br /&gt;
「コノサカヅキヲ　ウケテクレ　ドウゾナミナミツガシテオクレ&lt;br /&gt;
　　ハナニアラシノタトエモアルゾ　サヨナラダケガ　ジンセイダ」&lt;br /&gt;
干武陵の詩を井伏鱒二が訳したものだが、近来の名訳と言われている。&lt;br /&gt;
本への別れとは些か趣が異なったようだが、私の気持ちはその辺にあると言えそうだ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tyke0914/56948877.html</link>
			<pubDate>Wed, 13 Feb 2019 04:17:22 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>ニューヨーク　レストランウイーク　初体験</title>
			<description>ニューヨークには１９９２年以来、「レストランウイーク」という企画がある。&lt;br /&gt;
主としてマンハッタンのレストランが中心となって、２週間程度の期間その店の自慢料理を低価格で提供する催しで、第一回目のランチの価格は＄１９．９２だったそうだから遊び心もあったのだろう。&lt;br /&gt;
始めの頃は試行錯誤だったようで参加店も一定しなかったらしいが、このところ定着して来たようだ。&lt;br /&gt;
当初はランチに限っていたが、数年後にディナーにも手を拡げて固定客を掴んでいるらしい。&lt;br /&gt;
今年の場合、その期間中参加店のランチは２６ドル、ディナーは４２ドルと決められた価格でメニューを作り、アペタイザー、メインコース、デザートのそれぞれ選択肢を設けている。&lt;br /&gt;
中には普段なら先ず行かれないような高級店も参加しており、その場合予約が殺到するという。&lt;br /&gt;
参加店の顔触れを見ると、フレンチ、イタリアン、中華、少ないながらも和食の店もあるようだ。&lt;br /&gt;
もう今年で２７年目になるのだが、私はこういう店に行った憶えはない。&lt;br /&gt;
家人は友達と連れ立って毎年数軒を試しているらしいのだが、あまりその評価を聞いた憶えも無い。&lt;br /&gt;
私がこういう店に行きたがらないのは、どの店でもレストランウイーク用のメニューと普通のメニューが用意されていて、双方を較べれば当然ながら普通のメニューの方に魅力が感じられる。&lt;br /&gt;
言い換えれば、この企画用のメニューがみすぼらしく見えてしまうのだ。&lt;br /&gt;
また、意図してのことかどうかは分らないが、料理と一緒にワインを注文すると、これは決して安くない。&lt;br /&gt;
２９ドルのコースに対して１杯のワインで１５ドルもチャージされれば、やはり愉快ではない。&lt;br /&gt;
家人に言わせれば「ワインは呑まなければ良いのよ」、となるのだが始めからそう決めるのもどうか。&lt;br /&gt;
それは寿司店のお任せコースにも感じるのだが、ケースの中にはコースには入っていない高級魚がこれ見よがしに鎮座ましましていると、やはりちょっと食べてみたい虫が起こる。&lt;br /&gt;
食べたければ食べれば良いようなものだが、１貫で１５００円２０００円もすることは分っているからここはぐっと我慢するのだが、これも精神衛生上良くない。&lt;br /&gt;
だからしばしば不完全燃焼で店を出て来ることになってしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今回家人はマンハッタンにあるイタリアンを予約したらしい。&lt;br /&gt;
「Ai Fiori アイ　フィオリ」というレストランだそうで、ミシェランで星を一つ獲得しているという。&lt;br /&gt;
私には初めて聞く名前の店だが、美味いレストランを食べ歩いている人の間では有名だそうだ。&lt;br /&gt;
ウエブで検索してみると、確かにディナーなどのコースは結構な値段がついている。&lt;br /&gt;
コースが１００ドルとしても、ワインを１杯呑んでタックスとチップを含めば優に１５０ドルは超すだろう。&lt;br /&gt;
そのレストランの料理が、ランチとは言え２６ドルで食べられるなら確かに人は来るだろう。&lt;br /&gt;
だがあの何とも言えない不完全燃焼の気分は如何ともし難いだろうし、どうしたって褒めるよりは批判的な食後感想文になることは避け難いと思うしかない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１２時丁度に予約したと言われて、私は１０分ほど前にそのレストランに到着した。&lt;br /&gt;
1階は待合スペースらしく、大型のソファーが幾つか並べてある。&lt;br /&gt;
そこから２階に向けて螺旋状の階段があり、レストランは２階部分を使っているようだ。&lt;br /&gt;
若い男女が次から次へと会談を昇り、奥に吸い込まれて行く。&lt;br /&gt;
ほとんどの若者は１時間のランチタイムでコースを済ませて帰るのだから、当然脚も急ぎ勝ちになる。&lt;br /&gt;
まあ、店の方も分っているから全てがてきぱきして無駄な動きがない。&lt;br /&gt;
それでも一応高級店らしく、素早いサービスにもメリハリが効いているところが見ていて気持ちが良い。&lt;br /&gt;
家人が到着して、我々も席に案内された。&lt;br /&gt;
大きなメニューは既に開かれていて、レストランウイークのメニューが真っ先に目に入る。&lt;br /&gt;
アペタイザーが３択で、「サラダ」、「野菜スープ」、「鴨のパテ」で、メインコースが「サーモンのロースト」、「牛のショートリブ焼き」、「リボンパスタ」、さらに９ドルの割り増しで「リゾット　トリッフ入り」となっている。&lt;br /&gt;
前記の理由でワインを呑む気は無かったが、メニューには１杯が１０ドルとあるので気が変わった。&lt;br /&gt;
ピノグリッジオ（白）を頼み、アペタイザーは「鴨のパテ」、メインは「リボンパスタ」を選んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
素早くワインが運ばれて来て、続いて「鴨のパテ」が到着。&lt;br /&gt;
私は所謂パテっぽいテリーヌを想像していたが、このパテはそこまで練り込まずかなりラフに仕立ててある。&lt;br /&gt;
味そのものは感激するほどではなかったが、口当たりは決して悪くはない。&lt;br /&gt;
ワインもややドライで呑み易い。&lt;br /&gt;
若い男女の客が多い所為か、スマートフォンで写真を撮るのが忙しく、その度に食事は中断される。&lt;br /&gt;
撮ったらすぐにラインで送るのだそうで、一体何をしに来ているのか分らない。&lt;br /&gt;
私もスマートフォンを持ってはいるが、食事をしながら写してすぐ送るなどと言う芸当は出来ないだろう。&lt;br /&gt;
メインはトマトソース味のリボンパスタだが、この味は我が家でもお馴染み。&lt;br /&gt;
このトマトソースは当然生のトマトを潰して作ったのだろうが、何時も同じように作っている私のトマトソースの方が口当たりが良いような気がしたのは何かの錯覚だったのだろうか。&lt;br /&gt;
それでもそこは一つ星のレストランの貫禄で、パスタに合わせた「Fennel sausage フェネルソーセージ」という隠し味の香りが、このひと皿にえも言われぬ味を添えているように思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
デザートは別料金となっているらしいので、我々はそこで席を立つことにした。&lt;br /&gt;
私にとって、「レストランウイーク」の特別メニューは初めての体験だったが、想像したよりは面白かった。&lt;br /&gt;
ではどんどん別の店にも行ってみるか、と聞かれればそこはちょっと難しい。&lt;br /&gt;
やはり基本的には、行った店ではその店の最高のスペシャリテを体験してみたいし、それが手の届かないほど高価なら諦めるか捲土重来で仕切り直すか、どちらかを選ぶだろう。&lt;br /&gt;
なんて大袈裟なことは言わずに、すれっと行ってすれっと食べて帰って来るのもひとつのやり方ではないか、という柔軟な考え方も私の選択肢に加わりつつあるところだと言えそうだ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tyke0914/56940142.html</link>
			<pubDate>Sun, 03 Feb 2019 03:29:37 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>リハビリと寒波と</title>
			<description>私がニューヨークに来たのは１９７６年だから、４３年の昔だ。&lt;br /&gt;
「昔は寒かった」、私同様数十年この街に住んでいる人たちは決まってそう言う。&lt;br /&gt;
私もそう思い信じていたが、このところその考えが些か揺らいで来たような気がする。&lt;br /&gt;
４０年前も寒かったが、３０年前２０年前もそれなりに寒い日々を過ごしたように思う。&lt;br /&gt;
ひょっとすると、「地球温暖化」というフレーズが頭に刷り込まれた所為かも知れない。&lt;br /&gt;
私の場合を考えると、年中摂氏２０度前後の赤道直下の国に１年半住んだ後にアメリカに来た。&lt;br /&gt;
そこへ青森県と同じ緯度のニューヨークの冬に遭遇したのだから、ひと際寒く感じても不思議ではない。&lt;br /&gt;
さらに、住んでいた場所にも因るのではないか。&lt;br /&gt;
私のニューヨーク最初の棲家は、築１００年の５階建て、エレベーター無し、暖房は部屋のみのアパート。&lt;br /&gt;
その後マンハッタン、クイーンズと移り住んだが、そのどちらも全館暖房プラス各部屋付属の冷暖房機能。&lt;br /&gt;
要するに、住居を変えれば冷暖房機能もそれにつれて変わって来た、ということになる。&lt;br /&gt;
まあひと口に言えば、寒暖に関して断定的に言えるだけの裏打ちがないのだ。&lt;br /&gt;
とは言え、やはり寒いことに変わりはない。&lt;br /&gt;
そういう点で言えば、このアパートに付属しているジムとプールは実にありがたい存在ということになる。&lt;br /&gt;
ジムにはサウナとスチームバスがあるから、その２つを行ったり来たりしている親爺もいるし、プールサイドのジャクージーに小１時間以上浸かっている小母さん連も多いようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は長い間、このジムのプールで泳ぐことだけに専念して来た。&lt;br /&gt;
以前他のジムでトレーニングの器械を弄り回した結果肘を痛めてしまい、それ以降プール以外に関心が無くなり泳ぐことに集中して来たわけだ。&lt;br /&gt;
だが、今回は筋肉の訓練の必要に迫られて器械によるトレーニングを始めた。&lt;br /&gt;
私は体内に炎症がある、という医師の診断でステロイド内服薬を呑み続けている。&lt;br /&gt;
「リューマチ性筋痛炎」ということらしいが、原因も炎症の箇所も不明のまま。&lt;br /&gt;
ステロイドを呑み始めて、既に２年半が経過した。&lt;br /&gt;
「結構長くかかることもあるからね」、と言われてはいたが、確かに気の長い投薬期間だ。&lt;br /&gt;
まあその間に肺炎で２週間入院し、ステロイドとは全く逆方向の効能をもたらす抗生物質の点滴を受けたことで、拮抗する２つの薬のせめぎあいが何らかの影響を及ぼしただろうことは間違いないだろう。&lt;br /&gt;
それにしても、である。&lt;br /&gt;
ステロイドは徐々に減らしながら最終的にゼロにするのが私の医師の計画だったのだろうが、その間赤血球の減少などの予想外のトラブルもあって、ステロイドの量は減らしたり増やしたりの繰り返しで、今は１日１２ｍｇになっている。&lt;br /&gt;
ひと頃１日７．５ｍｇまで減らしていたのだから、言うなればぶり返したことになるのだろう。&lt;br /&gt;
そして、階段を上るような肉体的な作業での疲労度はほとんど改善されていない。&lt;br /&gt;
そのために、毎日のトレーニングにジムの器械を取り入れることにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一昨日、ジムのオフィスからメールが送られて来た。&lt;br /&gt;
「ジムの天井に問題が生じたので、補修のため暫く器械ルームを閉鎖します。　再開は４月初旬になる予定です」&lt;br /&gt;
おいおい、今まで使わなかった私がさてこれから、という時になんてこった。&lt;br /&gt;
プールや卓球、ビリヤードなどは問題なしということだが、ジムはちょっと問題だろう。&lt;br /&gt;
私のような、プールがほとんどだったメンバーにとってはこの閉鎖は大した問題ではないだろうが、ジムにだけ通っているメンバーも少なくないはずだ。&lt;br /&gt;
会員費は毎年１０月に一括に徴収しているが、当然返還なり値引きなりの要求は出て来るのではないか。&lt;br /&gt;
と思っていたら、翌日新たなメールが送られて来た。&lt;br /&gt;
「このジムの経営は非常に苦しい状況なので、値引き、返還は一切考えていません」&lt;br /&gt;
「申し訳ないとは思いますが、何卒ご協力下さい」&lt;br /&gt;
敵もさるもの、先手を打って来たようだ。&lt;br /&gt;
だが、これで全員が納得するのだろうか。&lt;br /&gt;
此処には２棟のアパートがあり、１棟に５００世帯で合計１０００世帯が住んでいる。&lt;br /&gt;
勿論全員がメンバーであるはずはないが、まあざっと半分程度ではなかろうか。&lt;br /&gt;
そのうち半数近くはマンハッタンに通勤しているビジネスマンだろう。&lt;br /&gt;
彼らは、出勤前か帰宅後にジムでトレーニングに励んでいる。&lt;br /&gt;
そういう連中が「器械ルームの天井が壊れたので２ヶ月強休みますが、会費の返還は出来ません」、というメールで大人しく諦めるだろうか。&lt;br /&gt;
さらに残り５００世帯の半分以上はリタイアしたカップルだが、彼らだって健康な老後のために少なからぬお金を払ってメンバーになったジムを２ヶ月間も休めるだろうか。&lt;br /&gt;
と考えていたら、さらに新たなメールが舞い込んで来た。&lt;br /&gt;
「ジムの器械のうちの幾つかは、エクササイズルームに移して使えるようにします」&lt;br /&gt;
「また、ちょっと離れていますが同じようなアパートにあるジムを使えるよう交渉しました」&lt;br /&gt;
「１回に１０ドルをお支払い戴かなくてはなりませんが、それは各自のご負担になります」&lt;br /&gt;
オフィスも色々苦労しているようだが、どれをとっても「これだ」、というようなアイデアではない。&lt;br /&gt;
メンバーの中から音頭とりの得意な人が出て来て、ある程度の賛同者を募って交渉を始めるのではないか。&lt;br /&gt;
若し、法律的な問題に持ち込まれたら、ジム側に勝ち目は限りなく薄いように見える。&lt;br /&gt;
ただ問題は、このジムのオフィスにはそういう専門業者を雇っているというところだ。&lt;br /&gt;
彼らが契約を打ち切って引き揚げてしまったら、事態はさらに悪くなるしかない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はこのアパートを数ヶ月以内に引き払う予定でいる。&lt;br /&gt;
そういう点から言えば、半分くらいは傍観者の立場だ。&lt;br /&gt;
だが、それまで頑張って続けるつもりでいた脚のトレーニングには、大きな番狂わせではないか。&lt;br /&gt;
別に会費の返還は求める気はないが、私の意気込みはどうしてくれるのか。&lt;br /&gt;
帰国までにまともな身体に戻っていたい、というささやかな願いは叶えられないのだろうか。&lt;br /&gt;
タイミングが悪過ぎる、と嘆かざるを得ない。&lt;br /&gt;
とは言っても、時間は容赦なく過ぎて行くものだ。&lt;br /&gt;
日本に帰るまでに、出来うる限りのリハビリを続けなければなるまい。&lt;br /&gt;
そう考えて決意を新たにしたのだが、その出鼻を挫くような状況になって来た。&lt;br /&gt;
一大寒波の襲来である。&lt;br /&gt;
今は朝の５時だが、外気温は摂氏マイナス１６度、そして日中はマイナス９度だという。&lt;br /&gt;
そして明日も似たような気温が続くのだそうだ。&lt;br /&gt;
こういう場合、何もせずに厚着で室内に籠っているのがベストのはずだ。&lt;br /&gt;
だがそれではリハビリにならない。&lt;br /&gt;
と言って、プールに飛び込むには気温が低すぎるのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
右せんか左せんか、年はとっても悩みは尽きない。&lt;br /&gt;
まあ、こういうことで悩んでいる間は惚けないのだろうから、それも良しとするか。&lt;br /&gt;
いや、こんなことで愚痴っている辺りが、惚けの始まりではないのだろうか。&lt;br /&gt;
とりあえず、室内でストレッチからでも始めてみようか。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tyke0914/56938270.html</link>
			<pubDate>Thu, 31 Jan 2019 20:43:44 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>「カルタ取り」最終戦</title>
			<description>ニューヨークの正月は１月１日だけと言っても良い。&lt;br /&gt;
２日になれば、街中は普段同様のスケジュールで動き始める。&lt;br /&gt;
公共機関も開いており、お祭り気分など微塵も見られないし人々の表情もクリスマス以前に戻っているようだ。&lt;br /&gt;
日本から来たばかりの人にとって何となく淋しいものらしいが、一人で浮かれているわけには行かない。&lt;br /&gt;
確かに私が子供の頃、日本では「松の内」と呼ばれる７日間は未だ正月の尻尾を引き摺っていた。&lt;br /&gt;
街でもあちこちで「新年会」があり、言うなればお屠蘇気分から抜け切っていなかったのだろう。&lt;br /&gt;
今の日本の「松の内」がどうなっているか、私には良く分らない。&lt;br /&gt;
正月の祝いからして放棄して旅行に行ったりするくらいだから、正月気分などはあっさりと消えてしまいそうだ。&lt;br /&gt;
それでも旧来の仕来りを守っている地方都市も少なくないようだから、正月に関しても守旧派と革新派がせめぎあっていると見ても間違いではないだろう。&lt;br /&gt;
何もしないで家を留守にする人もいれば、数日かけて正月料理を用意する人もあり、そこまではしないが料理屋やデパートあたりから「おせち料理」のセットを買い込んで形を作る人は中間派とでも言おうか。&lt;br /&gt;
私もニューヨークでその中間派的な正月をささやかに祝って来たが、この数年はそれも隠居状態。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「正月」と言えば、「おせち料理」や飾りつけなどを想起する人も多いだろうが、実際にはそれ以外の諸々もある。&lt;br /&gt;
「初詣」は、行事を何もしない人でも気軽に出かけるようで、大きな神社などでは数十万の人出があると聞く。&lt;br /&gt;
目立って廃れたのは、会社の上司宅への「年始」や子供たちの「凧揚げ　羽根突き」辺りではないか。&lt;br /&gt;
私が子供の頃は「独楽まわし」なども正月の遊びだったはずだが、これは真っ先に消えて行ったような気がする。&lt;br /&gt;
「百人一首」の「カルタ取り」もあまり見なくなったようだが、不思議なことに時々テレビドラマの題材などに取り上げられることもあって、根強い人気があるそうだ。&lt;br /&gt;
「日本一」を争う大会などもあり、男女別に覇を競っているらしい。&lt;br /&gt;
と言っても、明治時代の尾崎紅葉が「金色夜叉」で描写した、若い男女の出会いの場という風情は最早無い。&lt;br /&gt;
ただ、中学や高校にクラブがあって、カルタを取るスピード比べといった競技に変貌している。&lt;br /&gt;
彼らは自分が取ったカルタの歌の内容などはほとんど分らないままに、単純に速さを競うことを楽しむらしい。&lt;br /&gt;
だから当然のことながら、藤原定家が万葉集以来４００年余に編纂された歌集から選び抜いた秀歌を味わうなどということは先ず有り得ないだろう、と思えば一抹の淋しさもある。&lt;br /&gt;
勿論それでも、この歌集が忘れ去られることを考えれば、人の口の端に上るだけでも充分価値はあると言える。&lt;br /&gt;
１８世紀後半の江戸期に「ちはやふる」という落語のネタに取り上げられたことでも、大衆の中にこの「百人一首」が溶け込んでいたことが分るし、庶民の教養の高さも理解出来そうだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はニューヨークで、正月には「百人一首」の集まりに参加していた。&lt;br /&gt;
友人のＨさんの自宅で、幾人かの経験者たちが集まってカルタを取りあう遊びを３０年近く続けただろうか。&lt;br /&gt;
駐在員の奥さんなども参加していたが、４，５年で日本に帰ってしまう。&lt;br /&gt;
結局、最終的には永住者が中心になって細々と続けていた、というのが実情。&lt;br /&gt;
若い人に声をかけても、積極的に加わって来る人はほとんどいない。&lt;br /&gt;
言い方は悪いが、供される食べ物や酒に釣られて来るのだから、本気でカルタを楽しむわけではない。&lt;br /&gt;
またまた年長者だけでカルタを取り合うことになってしまう。&lt;br /&gt;
そういう経緯の積み重ねで、そのメンバーの中の主要人物が２人病没し、この７，８年カルタの集まりはほとんど行われなくなってしまった。&lt;br /&gt;
私も稀に日本に帰ることはあっても正月というタイミングではないし、カルタが出来るのは母と２人の姉だけだからほとんど組み合わせが成り立たないことになる。&lt;br /&gt;
それやこれやで、もう１０年ほどカルタの札に触ってもいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのＨさんから、「亡くなった妻の７回忌をやりたい」、というメールが来た。&lt;br /&gt;
彼女はそういう集まりの中心人物でもあったから、その死後積極的にかるたや麻雀などの人集めをする人がいなくなったことも全てが低調だった理由でもある。&lt;br /&gt;
「出来れば、彼女が好きだったことをやって偲びたい」、というＨさんの意向もあって久々のカルタ会がセットされることになった。&lt;br /&gt;
セットされた、と言っても参加者がいなければ集まりは成立しない。&lt;br /&gt;
指折り数えても、カルタを取れるのは３，４人しか集まらないのではないか。&lt;br /&gt;
カルタには「読み手」という、歌をちゃんと詠める人が不可欠で、その人はゲーム参加者以外ということになる。&lt;br /&gt;
つまり一つのゲームが成り立つには、最低でも３人が必要というわけだ。&lt;br /&gt;
亡くなったＨさんの奥さんや、芸達者だった新聞記者の故Ｙさんがいた頃は結構な組み合わせが出来たのだが、今ではハワイにリタイアした人や日本に帰った人たちも缺けてしまったのだから、心許ないこと夥しい。&lt;br /&gt;
とは言え、故人を偲ぶという目的で企画した集まりだから、泣き言を言っても始まらない。&lt;br /&gt;
まして、私には日本に帰るという計画があり、そうなればこれが彼らとの最後の機会になるかも知れない。&lt;br /&gt;
であれば、数云々ではなく、何とかこの会を成立させなければならないことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１０年近く離れているのだから、私の「百人一首」の知識は随分頼りなくなってしまっている。&lt;br /&gt;
このカルタは、詠み手が上の句を読み出してからどれだけ早く下の句を探り出して目の前に並べられた札を取るかにかかっているのだが、そのためには自分の取り札を自分にとり易く並べなければならない。&lt;br /&gt;
その方策の第一は、下の句（取り札）を並べる時に上の句で並べる技術が必要だ。&lt;br /&gt;
「千早振る　神代も聞かず　竜田川　からくれないに　みずくくるとは」という在原業平（ありわらなりひら）の有名な歌を例に取れば、上の句は「千早振る　神代も聞かず　竜田川」であり、下の句は「からくれないに　みずくくるとは」であって、詠み手は「ちはやふる…」と詠みはじめるから、そこで「からくれないに…」に手が伸びれば良いわけだ。&lt;br /&gt;
つまり、上と下の句を憶えていればそれが可能になる。&lt;br /&gt;
私も小中学生の頃は、歌や歌人の名前を結構憶えていたのだが、その記憶は年々薄れている。&lt;br /&gt;
それでも西行、在原業平、小野小町、紫式部、清少納言など、歌以外でも名を知られた人たちの作品は憶えてしまえば中々忘れることはないようだ。&lt;br /&gt;
ただこの歌集が成立したのは１３世紀初頭らしいが、中味はそれ以前４００年の詩歌集から選り抜かれている。&lt;br /&gt;
藤原定家が完成させた頃は鎌倉幕府時代だから、当然それ以前の平家の歌人のものは少ないし、源氏を名乗る歌人の歌はそれなりに選ばれているあたりに選者の立ち位置が感じられるようだ。&lt;br /&gt;
だが流石にと言うべきか、幕府に刃向かって敗れた２人の天皇の歌はちゃんと２首選ばれている。&lt;br /&gt;
隠岐の島に流された後鳥羽天皇の&lt;br /&gt;
「人もおし　人も恨めし　あじきなく　よをおもふゆへに　物思ふ身は」&lt;br /&gt;
、とその第３皇子で佐渡に配流された順徳天皇の&lt;br /&gt;
「百敷や　ふるき軒端の　しのぶにも　なをあまりある　むかしなりけり」&lt;br /&gt;
、であるが、全部で８首選ばれた天皇の歌のうち２首を承久の乱で破れた天皇が占めているあたり選者の定家の腐心の跡が垣間見えるようだ。&lt;br /&gt;
「紅旗征戎わがことに非ず」とは定家が白楽天の詩から借用した文言だが、「権力を争う戦いには、何の関心も無い」と言って憚らなかった定家も、彼の庇護者であった後鳥羽天皇の歌を選ばないわけには行かなかったのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
百人の歌人から１首づつ選んでいるのだが、全てがその代表作というわけではない。&lt;br /&gt;
例えば西行法師には、「願わくば　花の下にて　春死なん　その如月の　望月のころ」、という余りにも有名な歌があるのだが、歌集の流れから言えばこの歌が入り込む場所が無かったというところだろう。&lt;br /&gt;
「鎌倉右大臣」という名で選ばれている源実朝からは「世の中は　つねにもがもな　なぎさ漕ぐ　あまのをぶねの　綱手かなしも」であって、有名な「時により　すぐれば民の　なげきなり　八大竜王　雨やめたまえ」ではないのも同じような理由によるものだろう。&lt;br /&gt;
そんなエピソードが分ってくればそれなりに興味も湧いて来るのだが、カルタ競技は一部で行われていても、その歌を噛み砕いて味わうという機会が少ないのは残念というしかない。&lt;br /&gt;
「『この味がいいね』と君が言ったから　七月六日はサラダ記念日」、ひと頃持て囃された女流歌人の歌だが、それがそれ以前の万葉集、古今集、新古今集へと繋がって行くことはなかった。&lt;br /&gt;
口語体の歌が悪いとは思わないが、文語体の歌を賞玩する糸口になれば日本語の再生にも役立つのではないか、と思うのは私だけではないだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニューヨーク最後のカルタ会だが、さてどんな運びになるか。&lt;br /&gt;
かなり頓珍漢な競技になることは仕方がないだろう。&lt;br /&gt;
未だメンバーさえ分っていないのだが、故人のためにも盛会であることを祈るばかりだが。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tyke0914/56931896.html</link>
			<pubDate>Thu, 24 Jan 2019 05:18:12 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>晴釣晴旅（？）</title>
			<description>私は日本を離れて４０数年、ニューヨークに住んで来た。&lt;br /&gt;
だから私の日本に関する知識は、そのほとんどはコンピューターのウエブサイトやテレビ、若しくは日本に帰国した短期間に友人知己から得た耳学問に拠るものだ。&lt;br /&gt;
だから見当外れに憶えこんだ情報もあれば、自分に都合よく解釈してしまった噂話もある。&lt;br /&gt;
その幾つかは、今でも私の脳裏の抽斗に間違ったまま仕舞いこまれているかも知れないし、その前に私から誰かに伝わってしまっているかも知れない。&lt;br /&gt;
自分では日本のことは良く分っているつもりであっても、実はその理解は実際とは大きくずれてしまっていることもあり得るわけで、何処かでそれが曝け出されて赤面しなければならない時がある可能性も否定出来ない。&lt;br /&gt;
そう考えてみると、今まで訪ねて来た世界の国々に関する私の知識や理解などは、ほんの上っ面を撫でた程度のものだと考えた方が間違いないだろう。&lt;br /&gt;
言い換えれば、団体で行く「点と線旅行」と大した違いはない、と言うことかも知れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とは言っても、知らない土地を訪ねるのは楽しい。&lt;br /&gt;
私のようにほとんどが仕事で行った処であっても、チリの最南端フエゴ島、最北のアイスランド、カナダの東端ニューファンドランド、短い滞在ばかりだったが未知の地を見ることの興趣は小さくない。&lt;br /&gt;
仮に其処にはビジネスとの関わりが大部分を占めているとしても、初めて接する事物は好奇心を刺激してくれることは間違いない。&lt;br /&gt;
そしてそこで知り合う人たちとは、仕事を通じてではあっても触れ合う部分は確かにあった。&lt;br /&gt;
夜、テーブルを囲んでワイングラスを傾けるのも、仕事絡みであっても悪いものではない。&lt;br /&gt;
ただ残念なことに、味覚という点では驚きや満足感を感じたことはほとんどない。&lt;br /&gt;
何処をとっても水産だけが産業のような田舎町であり、観光客を惹きつけるような見所もなければ食通を唸らせるような珍味佳肴ももともとない。&lt;br /&gt;
僅かな救いは放し飼いにされている鶏とその卵くらいだが、これは何処の田舎町に行っても旨かった。&lt;br /&gt;
ブロイラーを飼育するほどの需要も無いことが、そういう旨い肉や卵を育てると言う皮肉。&lt;br /&gt;
だが何の楽しみも無い僻地であれば、せめてそういう口腹の楽しみがあれば救われると言うもの。&lt;br /&gt;
実はフエゴ島のプンタ　アレナスは日本の「タラバガニ」に良く似た蟹が捕れるのだが、現地で消費されることはまずない。&lt;br /&gt;
また「メロ」と呼ばれるシーバスの種はその美味で知られているが、これもほとんどが輸出用であり、さらに押し寄せる他国の密漁船の乱獲によって絶滅の危機に瀕しているという。&lt;br /&gt;
残念ながら、私はその美味を人づてに聞いただけで、味わうには至っていない。&lt;br /&gt;
僅かにニューヨークの高級食料品店で売られている値札を見て、その旨さを想像するだけだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本に帰ることが出来れば、私はこの小さな島国の未知の町や村を訪ねたいと考えている。&lt;br /&gt;
数十年前に、仕事で多くの県や町に足を踏み入れてはいるのだが、如何せんそれこそ点でしかない。&lt;br /&gt;
だからある意味では、他国人に近い新鮮な感覚で接することが出来るのではないかと思ってもいる。&lt;br /&gt;
行きたい町は数あるが、その中でも魚市場は真っ先に訪れてみたい。&lt;br /&gt;
魚市場と言えば「築地～豊洲」を思い浮かべるだろうが、日本には各県に少なくとも一つは魚市場や青物市場、さらには肉市場があってそれぞれに競り場を持って営業している。&lt;br /&gt;
と言っても、その何れもがかつての「築地」のように各種の食堂があったりするわけではない。&lt;br /&gt;
小さい市場ならそれに相応しいささやかな食堂があるだろうし、メニューもうどんや定食程度かも知れない。&lt;br /&gt;
「競り」にしても、競り人が床に置かれたトロ箱をひとつづつ示しながら彼を囲んだ買い付け人たちが根付けをして、その場で売買が成立するわけだ。&lt;br /&gt;
競り人を先頭に大勢がぞろぞろ競り歩く様は、「競り」の原型はこうだったのだろうと思いを致してしまう。&lt;br /&gt;
田舎の市場には、船が着いたらすぐ「競り」を始めるところもあり、買い付け人はそれに合わせて市場に来る。&lt;br /&gt;
私も数軒の地方市場を見て来たが、知らないところがほとんど。&lt;br /&gt;
「競り」も面白いが、競られて市場の店に並ぶ魚たちも興味深い。&lt;br /&gt;
近年、以前は「猫跨ぎ」扱いされていた魚が脚光を浴びている。&lt;br /&gt;
もともと決して不味い魚ではなかったのだが、漁獲量が少ないので「色物」の範疇に入れられてしまっていた。&lt;br /&gt;
「色物」とは数に入らない魚を一箱にして「競り」にかける時に用いる名称だが、食べられないわけではない。&lt;br /&gt;
ただ、所要時間の問題もあって、少量の種類は慣習的に半端物扱いにされて来たようだ。&lt;br /&gt;
「歯ガツオ」とか「鷹の羽鯛」、そして一昔前の「馬面カワハギ」などがそれに当たるだろう。&lt;br /&gt;
「馬面カワハギ」などは、磯釣りで釣れてもそのまま海に放られたものだが、今ではすし屋の水槽で泳ぎまわって「カワハギ」の代役を立派に務めている。&lt;br /&gt;
ないがしろにされていた魚たちが認められて来たのは魚不足の所為もあるが、決して悪いことではない。&lt;br /&gt;
「歯ガツオ」などは長い間冷遇されて来たが、今では「カツオ」よりも高値の場合もある。&lt;br /&gt;
これからも色々な魚が「幻の魚」扱いされるようになるのではないだろうか。&lt;br /&gt;
「ベラ」などは長い間関東では「外道（漁の対象魚ではない）」扱いされて来たが、以前から関西方面では好んで食べられていたようだ。&lt;br /&gt;
つまり、「食わず嫌い」や「料理人の先入観」が、ちゃんと食べられる魚をなおざりにして来たということだろう。&lt;br /&gt;
それが今では無視するわけには行かなくなったわけで、魚に取っては祝すべきことではないか。&lt;br /&gt;
何を喰わされて来たか分らないような「養殖魚」などより、遥かに出自がはっきりしているのだし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勿論魚市場だけを見て廻るわけではない。&lt;br /&gt;
アメリカの地方都市は、町や村を形成してから日が浅い所為か、どれもこれも同じように見える。&lt;br /&gt;
その点日本の集落は長い歴史を経てきたこともあり、独自の匂いや風貌を造り上げて来た。&lt;br /&gt;
つまり小さな町や村でも他処とは異なる風格が感じられるのだ。&lt;br /&gt;
その辺りを多少の時間をかけて見聞き出来るのであれば、かなり興味深い旅になるだろう。&lt;br /&gt;
私に残された時間がどの程度か知る術もないが、道半ばで終えてもそれはそれで良しとしよう。&lt;br /&gt;
４０数年間の空白の後に訪れた機会を濃密に過ごせれば、本懐と考えても間違いではない。&lt;br /&gt;
まあ、それに折々の釣の成果が加わってくれれば万々歳と言えそうだ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tyke0914/56930275.html</link>
			<pubDate>Tue, 22 Jan 2019 04:43:34 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>温帯と四季と</title>
			<description>「言うまいと　思へど今日の　暑さかな」&lt;br /&gt;
「言うまいと　思へど今朝の　寒さかな」&lt;br /&gt;
どちらの句を読んでも、どこかで覚えのあるような気がする。&lt;br /&gt;
そう考えるのは、おそらく私が日本人だからだろう。&lt;br /&gt;
元の句は｢～今日の　暑さかな｣だそうだが、どっちにも実感がある。&lt;br /&gt;
そして世界でも、日本人くらい気候を話題にしたがる民族も少ないのではなかろうか。&lt;br /&gt;
「お暑うございます」「お寒うございます」「良いお天気ですね」「生憎の雨ですね」&lt;br /&gt;
とに角、日本人の挨拶には必ず天気か天候が織り込まれている。&lt;br /&gt;
世界で一番短い詩と謂われる「俳句」でも、四季が無ければ芭蕉も蕪村も困り果てるだろう。&lt;br /&gt;
そして世界でも、四季のある国があらゆる分野でリーダーシップを握っているようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初に世界の文明が発達した地域はメソポタミアやエジプトであり、インドであり中国であり、それに続いたのがギリシャ、ローマであり、そして西ヨーロッパ全体に拡がって行った。&lt;br /&gt;
最古の文明は数千年も前の話であり、その頃の日本がどういう状況だったのか知る由も無い。&lt;br /&gt;
少なくとも、文明とは遠く懸け離れた状態だっただろうことは想像出来る。&lt;br /&gt;
誰でも気づくことだが、その中でも四季のある温帯域に人は集まり商業活動も活発になって来る。&lt;br /&gt;
結局、その地域がそれ以後の文化の中軸として大きく成長してイギリスやフランス、ドイツやオランダに育って行ったということなのだろう。&lt;br /&gt;
面白いことに、遠く離れたアジアでも四季のある温帯地方の国が着実に成長を遂げている。&lt;br /&gt;
中国と日本はその典型と言えそうだ。&lt;br /&gt;
暑い夏や寒い冬があればこそ、人間はその合間の春や秋にしっかり働くようになるのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は四季のない国に１年半ほど暮らしたことがある。&lt;br /&gt;
南米の小国エクアドルは赤道の真下にあり、１年中同じような気候が続く。&lt;br /&gt;
朝は涼しく、日中は暖かく、夜は冷え込む。&lt;br /&gt;
年中同じものを着ている人も多いが、豊かな人はそれなりに着替えているようだ。&lt;br /&gt;
人口の半分はインディオと呼ばれる原住民であり、彼ら独自の生活を守り続けている。&lt;br /&gt;
一応住んでいる国の国民と看做されているが、彼ら自身はそんなことに無頓着に国境を跨いでいる。&lt;br /&gt;
おそらく、数百年前のインカ帝国そのままに生きているのだろう。&lt;br /&gt;
一応スペイン語も話すが、彼ら同士の会話は古来のケチュア語を用いている。&lt;br /&gt;
インカ帝国で話されていた言語が、そのまま現代に通用しているのだから面白い。&lt;br /&gt;
ケチュア語は話し言葉だけで字を持たなかったことで、残された文献や記録が少ない。&lt;br /&gt;
だが世界中にそんな言語は数多い。&lt;br /&gt;
話し言葉だけで、結局消えて行った言語は無数にあるだろう。&lt;br /&gt;
考えてみれば世界から孤立したような状況で数千年を経て、己の言語を確立した日本は奇蹟に近いことを成し遂げたといっても過言ではないかも知れない。&lt;br /&gt;
勿論中国から伝わった「漢語」の存在が、その奇蹟の大きな部分を占めていることは否定出来ないが、それでもなお日本人と言う民族が造り上げた「大和ことば」は偉大というほかはない。&lt;br /&gt;
そしてその偉業の達成には、この温暖な四季が大きく影響していると言ったら牽強付会が過ぎると言われるかも知れない。&lt;br /&gt;
だがこの数千年の日本が辿った軌跡は、まさしく地球上の一つの奇蹟と看做す他はないのではないか。&lt;br /&gt;
地球の裏側のヨーロッパで西洋文明が花開き、それとは大きく異なる日本独自の文明が極東の小さな島国で築き上げられていたという事実は、驚き以外の何物でもない。&lt;br /&gt;
それを助けたのは、外敵からの侵略もほとんどない環境と、極寒も灼熱もない恵まれた気候状況にあったと言っても可笑しくはないだろう。&lt;br /&gt;
とは言え、火山地帯の真上に住んでいる人々に天変地異の災害は少なからずあっただろうし、南から寄せてくる台風は毎年被害を与え続けて来ただろう。&lt;br /&gt;
それは今でも変わっていないが、繰り返す受難の経験は日本に天災に向き合う術を教えてくれたようだ。&lt;br /&gt;
世界でもトップクラスの天候予測の精度は、その経験の賜物としか言いようがない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、日本人が四季や気候、宇宙などに持つ関心の大きさが何処から来ているのか、そして日本語という言語には他の言語に比して天然自然に関する言葉が非常に多いことが何に起因しているのか、漠然とではあるが不思議に思っていた。&lt;br /&gt;
各国が定めている国の祝日を見ても多くは独立記念や宗教関連であり、対して日本は「春分」「秋分」のように昼と夜の時間が丁度半分になるというような理由で休日に設定している。&lt;br /&gt;
言ってみれば、日本人は自然現象や月や太陽、星などの宇宙への関心が強く、日本独自の文学と呼べる和歌や俳句の題材にも頻繁に取り上げられて来た。&lt;br /&gt;
例を挙げると、「時雨（しぐれ）」は冬の季語であるが、敷衍して「蝉時雨」、「落葉時雨」、「虫時雨」、露時雨」、「片時雨」、「横時雨」などなどきりが無い。&lt;br /&gt;
初冬に降りつける雨ひとつでこれだけの類似した言葉を生み出すのだから、その雨に寄せる想いは半端ではないし、おそらく似たような言葉は幾らでも出て来るのではないか。&lt;br /&gt;
それにしてもこんな言葉を突きつけられたら、日本語を学ぼうとする外国人はお手上げだろう。&lt;br /&gt;
逆に考えれば、そういう変化形を駆使出来る日本人は大いに誇って良いのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今私はニューヨークから日本に帰ろうと考えているが、これも「温帯―温帯」の移動であって、それ以外の移住先は考えつきそうもない。&lt;br /&gt;
調べたこともないが、世界中にいる日本人の移住先はそのほとんど温帯で四季があるところに集中しているのではなかろうか。&lt;br /&gt;
暑さから寒さへ移行する合間に快適な秋があり、寒さを脱して暑さに向かう前に爽やかな春がある。&lt;br /&gt;
何とも上手く出来ているものだと感心するしかない。&lt;br /&gt;
まあ、こういうことは思っていれば良いことで、口にすれば妬みや嫉みのもとになる。&lt;br /&gt;
マグロだ鯨だ鰻だと、とかく世界の眼を向けられ易い日本とすれば、敢えて敵をつくることはない。&lt;br /&gt;
あちらこちらと行きたがる首相も、そこら辺を考えて貰いたいものだが…。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tyke0914/56928522.html</link>
			<pubDate>Sun, 20 Jan 2019 04:05:11 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>相撲界のガラガラポン</title>
			<description>私が初めて「大相撲」を生で観たのは、今から６５年前の初場所だった。&lt;br /&gt;
小学校の３年生だったはずだ。&lt;br /&gt;
場所は当時の蔵前の国技館で、未だ土俵の四方には柱が立てられていた。&lt;br /&gt;
観に行ったのは１５日の場所の最終日、つまり千秋楽であり父母と姉２人も一緒だったように思う。&lt;br /&gt;
この千秋楽は１４戦全勝で勝ち上がって来た大関吉葉山と、１３勝１敗で待ち受ける横綱鏡里の対戦が結びの１番にあり、館内は早くから興奮の渦が舞い立っていたのを子供心にも感じていたようだ。&lt;br /&gt;
吉葉山が勝てば全勝優勝で次場所での横綱昇進は確実視されており、鏡里が勝てば同星での優勝決定戦に持ち込まれるわけで、謂わば滅多に見られない大一番に立ち会えるわけだった。&lt;br /&gt;
９歳の子供が場内の熱気に染まるのに、大した時間はかからない。&lt;br /&gt;
最後の取り組み以前に、既に私の声は嗄れてしまっていたのではないか。&lt;br /&gt;
とに角、がっぷりの四つ相撲の末に吉葉山が鏡里を寄り切った時、場内の歓声は最高潮に達していた。&lt;br /&gt;
今でも語り草になっている、降りしきる雪の中の吉葉山の優勝パレードを間近に見て、その瞬間から私は相撲のファンになりついでに吉葉山の大ファンになったのである。&lt;br /&gt;
ファンにはなったものの、この吉葉山には苦しくなると「蹴たぐり」という小技を出す癖があり「蹴たぐりの吉葉」という異名があることなどは全く知らなかった。&lt;br /&gt;
結局吉葉山はそれ以降１度も優勝することはなかったし、時代は「栃若（栃錦　若乃花）」へと移って行った。&lt;br /&gt;
そして「大鵬」という希代の名横綱が現れて、相撲人気は沸騰したように憶えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以来６０数年、熱は時には醒め時には熱くもなったが、今でも日本からの相撲中継を録画で観戦している。&lt;br /&gt;
しかし、あの当時のように一人二人の力士に集中して固唾を&amp;#21534;むということはない。&lt;br /&gt;
相撲そのものは６０年前と見た目にそれ程の変化はないが、内容は大いに変わって来ている。&lt;br /&gt;
力士の体格が向上したことも影響しているが、実際に技ではなく体格で勝負する力士が増えた。&lt;br /&gt;
６０年前であれば、１５０ｋｇあれば超大型力士と呼ばれたし、逆に１００ｋｇ前後の力士も珍しくなかった。&lt;br /&gt;
軽量であっても筋肉は充分鍛えられていたし、動きの速さが大型力士との勝負を可能にしていた。&lt;br /&gt;
「土俵の鬼」と呼ばれた初代若乃花の体重が１０７ｋｇだったと言えば、驚くファンも多いのではないか。&lt;br /&gt;
いや大正時代にほぼ無敵を誇った栃木山は、最も重かった時で１０３ｋｇだそうだから今では想像もつかない。&lt;br /&gt;
力士の体重が増え始めたのは昭和４０年頃からだろう。&lt;br /&gt;
前記した吉葉山にしても、大型と言われたが１４０ｋｇ程度だったらしい。&lt;br /&gt;
大型化して来た理由のひとつに、食事の変化があるだろう。&lt;br /&gt;
「ちゃんこ」と言えば力士の食事の総称だが、鶏や魚中心の鍋料理がその典型。&lt;br /&gt;
そこに牛豚肉が加わり、さらにはバターや脂肪分の多い食品を食べるようになって力士の巨大化が進む。&lt;br /&gt;
若い力士志望者がちゃんこ鍋などはあまり喜ばないこともあって、焼肉やハンバーグ、トンカツなどを用意することが当たり前になり、それにつれて稽古や本場所での怪我も増えて行ったようだ。&lt;br /&gt;
２５０ｋｇの小錦は当時としても超大型だったが、反面その体重を持て余すこともあったようだ。&lt;br /&gt;
脚がついて行けず、前にばったり倒れるという場面もしばしばテレビに流れた。&lt;br /&gt;
とは言っても、やはり身体が大きければ有利な面も多く、大型化の流れは最早留まることはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此処まで書いたところで、「稀勢の里引退」というニュースを聞いた。&lt;br /&gt;
昨日までの相撲を見ても、最早立ち直れる可能性は全く見られなかったから、驚きは無い。&lt;br /&gt;
むしろ遅きに失したと言う感さえある。&lt;br /&gt;
ＮＨＫを始めとして日本のマスコミは、彼の引退を惜しむ論評は同じだが、彼を横綱に押し上げた相撲協会やそのお先棒を担いだ横綱審議会の責任については触れていない。&lt;br /&gt;
「２場所連続優勝若しくはそれに準ずる成績」が横綱推挙の条件だそうだが、何とも曖昧だ。&lt;br /&gt;
プロ野球の「殿堂」入りの条件もそうだが、こういう場合必ず抜け道が用意されている。&lt;br /&gt;
優勝ゼロで横綱に推された「北尾（双羽黒）」のそれ以降は、無残としか言いようがない。&lt;br /&gt;
だが協会はその失態から何も学んではいなかったようだ。&lt;br /&gt;
「稀勢の里」は辛うじて１度の優勝を成し遂げているが、それ以前は物足りない星勘定に終始していた。&lt;br /&gt;
この場所、３横綱のうち「日馬富士」と「鶴竜」は途中休場し、「白鵬」のみが１５日間を勤め上げた。&lt;br /&gt;
場所後、「稀勢の里」の横綱推挙に尚早論も聞かれたが、数十年ぶりの日本人横綱に浮かれ立っていた相撲協会には聞く耳も無かったという状態。&lt;br /&gt;
しかし、昇進した場所の日馬富士戦での胸筋断裂の負傷は、不運だったとしか言いようがない。&lt;br /&gt;
「あの後無理して出場したのが命取りだった」という声もあるが、それは何とも言えない。&lt;br /&gt;
むしろ重傷を押して２場所連続優勝を達成したことの方が、ファンの心に響いたと私は思う。&lt;br /&gt;
いずれにせよ、それ以降の出場休場の繰り返しは避け難いものだっただろう。&lt;br /&gt;
「たら」「れば」は何の意味も無い架空の想定だが、若し彼が横綱になっていなければ、あの日馬富士戦は異なった形で取り組まれたろうし、あそこまでの重傷は負わなかっただろう。&lt;br /&gt;
だが現実に「日馬富士」は「稀勢の里」の左胸に激突してその筋肉を切り裂いたのだから、全ては天の配剤だったと受け止めるしかない。&lt;br /&gt;
「自分の相撲人生に一点の悔いも無い」とは引退表明の場で洩らした言葉だが、それは間違いない。&lt;br /&gt;
「稀勢の里」に恨む相手があるとすれば、無理矢理に日本人横綱を拵え上げた相撲協会であり、その尻馬に乗った横綱審議委員の相撲を知らない面々ということになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
相撲のみならず野球の「殿堂」にしても、首を捻らざるを得ない人選が行われることが多い。&lt;br /&gt;
その最たる理由は、そういう投票権を持つ記者たちが、その責任の重みを感じていないことにあるのだろう。&lt;br /&gt;
横綱審議会にしても、相撲協会の根回し通りに大関や横綱を推挙するのが慣例のようだ。&lt;br /&gt;
本人たちは真面目に選んでいるつもりかも知れないが、ファンにしてみれば納得出来ないことが多いように思われる。&lt;br /&gt;
過去に選ばれた力士の一覧を見てみれば、２場所連続優勝を達成していてもその前の場所では休場があったりするケースもあり、逆にコンスタントに１２勝１３勝を続けていても優勝に至らなかったケースもある。&lt;br /&gt;
数字で縛ったり優勝回数で決めたりが出来ないとすれば、誰にも納得出来る基準は有り得ないことになるだろう。&lt;br /&gt;
だとすれば、相撲協会だけで決めて、なまじ横綱審議会などを絡ませない方がすっきりするのではないか。&lt;br /&gt;
だがそうなると、公益財団法人であり続けるための支えが無くなる惧れがあるから難しい。&lt;br /&gt;
日本のスポーツ団体がややこしいのは、何処かで政治と繋がっていることが多いという点だ。&lt;br /&gt;
それはその団体に上部組織から天下りして来ている人の存在を意味しており、その人はその団体のために予算を確保する指名を帯びて天下って来ているのだから、簡単に引き下がることはないだろう。&lt;br /&gt;
新しいスポーツが現れるとすぐに団体が組織され、理事や監事などと称して役員が選ばれ、そこに政治家が関わって来るのが常であり、最早誰も不思議とは思わなくなっているようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「稀勢の里」が引退し、横綱は「白鵬」と「鶴竜」のモンゴル出身者になった。&lt;br /&gt;
既にメディアは、「御嶽海」と「貴景勝」に的を絞って新しいライバル物語を紡ぎだして行く気配だ。&lt;br /&gt;
彼ら２人が、周囲の思い通りに高みに上って行けるかどうか。&lt;br /&gt;
それともさらに新しい勢力が取って代わることになるか。&lt;br /&gt;
手垢のついた２人の横綱の角逐をみるより、確かにずっと面白味はありそうだ。&lt;br /&gt;
ついでに横綱審議会なる無用の長物も、奇麗さっぱり片付けてくれればありがたいのだが。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tyke0914/56926871.html</link>
			<pubDate>Fri, 18 Jan 2019 04:46:11 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>来年の正月？</title>
			<description>私が南米からニューヨークに到着したのは、１９７６年の１０月だった。&lt;br /&gt;
それ以来、アメリカで正月を迎えること４３回目になる。&lt;br /&gt;
実は１９８０年の正月は、永住権を手にして日本に帰っていたから正確には４２回だ。&lt;br /&gt;
そのうちのおそらく３０回程度は、形ばかりではあるが正月の支度をして客を招いている。&lt;br /&gt;
そんな高価な物を買うことは出来なかったし、買いたくとも売っている店も無かった。&lt;br /&gt;
これに関しては、私は日本食料品店のビルの５階に住んでいたから、間違いはない。&lt;br /&gt;
どんなものを客に供していたか、最早記憶から抜け落ちてしまっているようだが、それでも下の日本食料品店から「数の子」や「きんとん」などを買っただろうし、数少ないフィッシュマーケットを廻って何とか日本人に食べられる魚を獲得して来ただろうことは覚えている。&lt;br /&gt;
そろそろ日本から魚が入って来た頃でもあったし、知り合いの魚卸店に依頼して「真鯛」などを航空便で取り寄せて貰ったり、アラスカからイクラや鮭を取って貰ったりしたこともあった。&lt;br /&gt;
始めの頃は招く人も決めていなかったしその時限りのつもりだったのだが、何時の間にか決まった顔触れが必ず集まるようになり、知らぬ間に３０回近くになったような気がする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１０年ほど前までは、このまま行ったら未だ先は長いと思うようになったが、その頃から一人欠け二人欠けするようになって来、ひと頃の１０人近い常連が４，５人で固まって来た。&lt;br /&gt;
そして４，５年ほど前に参加者２人ということがあり、それを潮に集まりを止めることにした。&lt;br /&gt;
考えてみれば、支度する私たちも老いて来ているのだが、客である参加者もまた年老いて来ていたのだ。&lt;br /&gt;
マンハッタンに住んでいた頃は気軽にタクシーで来られた道のりだが、クイーンズに引っ越してからは電車の乗り継ぎもあり、来る人たちも結構難儀をしていたのだろう。&lt;br /&gt;
「全てのことには終わりがある」、なかなか含蓄のある古諺ではないか。&lt;br /&gt;
だが、人を寄せることは止めても別に正月を祝うことを止めたわけではない。&lt;br /&gt;
何をする気が無くとも、大晦日が近づけばやはり餅や蒲鉾を買い込むし、つい魚屋の店先を覗いたりもする。&lt;br /&gt;
年越し蕎麦の準備や元日の朝に食べるものの心配は、暦年の習い性になってしまったようだ。&lt;br /&gt;
悪口を言いながら、半日遅れの「紅白歌合戦」を横目で観ているのも似たようなものと言えそうだ。&lt;br /&gt;
「紅白歌合戦」と言えば、私が物心ついた頃は未だラジオ放送だけでテレビが始まるのは数年後の１９５３年。&lt;br /&gt;
未だほとんどの家にはテレビ受像機は無かったから、これを観ていた人はほんの一握りに過ぎないはずだ。&lt;br /&gt;
正月の準備を終えて、家族が炬燵に入ってラジオ放送に耳を傾ける。&lt;br /&gt;
どんな歌手がどんな歌を歌っていたか、ほとんど記憶に無い。&lt;br /&gt;
またＮＨＫのこの怪物番組に民放の各社がどのような番組をぶつけていたか、それも覚えていない。&lt;br /&gt;
ただ幾人かのクラシック歌手や民謡歌手が出ていたことは記憶に残っている。&lt;br /&gt;
それが大きく変化するのは、やはりテレビ受像機が各家庭に行き渡り始めてからだろう。&lt;br /&gt;
歌手は歌うだけではなく踊ったり寸劇を演じたりするようになり、「見た目」が人気に影響し始めた。&lt;br /&gt;
というか、歌の上手い下手より容貌やスタイルが全面に出て来た、と言えるかも知れない。&lt;br /&gt;
今までのように直立不動で歌えば良い、というわけには行かなくなったのだ。&lt;br /&gt;
それ故に消えて行った歌手もいたし、それ故に矢鱈と出番が増えた少女歌手もいた。&lt;br /&gt;
この年代の「紅白歌合戦」の出場歌手の顔触れを見ると、「実力」か「見かけ」かが良く分る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は１９７５年のこの番組を南米の大使館で観た覚えがある。&lt;br /&gt;
フィルムになった番組を各国の大使館に順番に廻したのだろう。&lt;br /&gt;
１月末頃、数十人の日本人が大使館に集り、「紅白歌合戦」を真面目な顔で観たのだから面白い。&lt;br /&gt;
ニューヨークに来て暫くしてから日本語放送が始まり、「紅白歌合戦」を自宅で観ることが出来るようになった。&lt;br /&gt;
それ以降４０年以上、半日遅れのこの番組を観続けて来たことになる。&lt;br /&gt;
一応ＮＨＫの番組は毎日観ているとは言え、歌われる歌曲の関しての知識はほとんど無い。&lt;br /&gt;
辛うじて演歌歌手の歌は聴き覚えがあるが、と言って好んで聴いているわけではない。&lt;br /&gt;
結局録画して興味の無い部分は飛ばしてしまう、という手法に終始することになる。&lt;br /&gt;
そして最近ではその飛ばす部分がどんどん増えている。&lt;br /&gt;
精々小一時間程度しか聴いていないのではないか。&lt;br /&gt;
そして普通の家庭でも世代が異なれば好む歌もそれぞれだろうから、全員が楽しめるとは思われない。&lt;br /&gt;
最早この番組の存在理由は無くなったのではないか、そう言われ続けて数十年。&lt;br /&gt;
役目を終えて消えて行く気配は感じられない。&lt;br /&gt;
勿論それなりに番組作りにも工夫を凝らしているのだろうが、その生命力には驚かされる。&lt;br /&gt;
師走ー正月支度ー紅白歌合戦ー年越し蕎麦ー初詣&lt;br /&gt;
こういう一連の流れは、この数十年で完全に日本人の脳裡に刷り込まれてしまったようである。&lt;br /&gt;
弱小とは言え民間放送各社も、それぞれに智慧を絞って対抗しているはずだが、いまのところ成功したとは言えそうにないし、それだけの企画力があるとも思われない。&lt;br /&gt;
残念ながらあと数年いや数十年は、この状態が続くのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が今年帰国するとすれば、来年は日本で正月を迎えることになる。&lt;br /&gt;
未だ住む所さえ正式に決まっているわけではないから、年末の計画など立つはずもない。&lt;br /&gt;
だが、一度くらい日本らしい正月を迎えてみたいと考えてはいる。&lt;br /&gt;
とは言っても、門松を立てて注連飾りを下げてなどという大袈裟なものではなく、ほんの形ばかりで構わない。&lt;br /&gt;
ただ贅沢を言えば、僅かで良いからホンモノを元旦の膳に飾りたい。&lt;br /&gt;
それは「干し数の子」であり「エソやイシモチの蒲鉾」、「丹波黒豆」そして「栗きんとん」辺り。&lt;br /&gt;
そして雑煮は昔懐かしい「博多風」で拵えたいものだ。&lt;br /&gt;
あご（飛魚）の出汁に「底引大根」「焼き鰤」そして可能なら「カツオ菜」があれば言うことなし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「棒ほど願って　針ほど叶う」という諺もあるが、これくらいのささやかな願いであれば何とかなりそうではないか。&lt;br /&gt;
とは言うものの、今列記した数々がささやかな願いかどうか、今浦島には知る由も無い。&lt;br /&gt;
日本に腰を落ち着けたら、じっくり考えることにしよう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tyke0914/56914620.html</link>
			<pubDate>Fri, 04 Jan 2019 06:50:00 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>再び「タンメン」を求めて</title>
			<description>だいぶ昔に書いた記憶があるが、私は「ラーメン」よりは「タンメン」が好きだ。&lt;br /&gt;
似たようなものだ、と思う人がいるかも知れないが、この２つは全く異なる麺類である。&lt;br /&gt;
その違いをだらだら書いても仕方がないが、はっきりしていることは、「ラーメンは今や日本の日常食の一方の旗手であり、「タンメン」はメニューの端っこにいるのかいないのか分らない程度の存在」だということ。&lt;br /&gt;
ラーメン屋のメニューに「タンメン」があったとして、オーダーする人は極端に少ないはずだ。&lt;br /&gt;
店主にしても、滅多に出ないオーダーに戸惑いの色を見せるかも知れない。&lt;br /&gt;
商売だから嫌な顔はしないだろうが、店内が込んでいる時などは大歓迎と言う雰囲気ではないだろう。&lt;br /&gt;
それくらいラーメンとタンメンでは作る工程も材料も異なる。&lt;br /&gt;
では何故店は「タンメン」をメニューに載せておくのだろうか。&lt;br /&gt;
そこら辺に関しては、私にも確たる答えは出て来ない。&lt;br /&gt;
おそらく材料は既にあるし手間だけの問題だから、と軽い気持ちだったのではないだろうか。&lt;br /&gt;
だからラーメンのオーダーでびっしりのところに「タンメン」という注文が飛び込んで来ると、店主の内心は腹立ちと悔恨がない交ぜになってしまうのだろう。&lt;br /&gt;
と言って、すっぱり切ってしまえないものが「タンメン」にはあると私は思っている。&lt;br /&gt;
この「タンメン」は主として関東地方で食べられて来たそうだ。&lt;br /&gt;
つまり関西や東北には「タンメン」はそれ程浸透していないらしい。&lt;br /&gt;
そしてラーメン業界がサッポロラーメンと博多トンコツラーメンに大きく侵食された時期に、「タンメン」は居場所を失ってしまった、ということではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「タンメン」は鶏の出汁に塩味をつけたスープが主体であり、多量のモヤシ、ニラ、ニンジン、キクラゲ、玉葱、豚肉を大鍋で炒め、麺は細い縮れたものが多い。&lt;br /&gt;
対するにラーメンの原型は鶏がらや煮干で出汁を取り、醤油主体の味付けが多く、麺以外にはシナチク、鳴門、チャーシュー、ほうれん草などが飾られている。&lt;br /&gt;
麺はスープによって変わるが、濃い目の汁には細めの麺、薄めの汁には太い縮れ麺、これと言って決まった形は既に失われたようで、地方地方の名前を冠した「ラーメン」が売られているようだ。&lt;br /&gt;
今は、豚骨出汁の「博多ラーメン」、味噌味の「札幌ラーメン」、昔ながらの醤油味の「東京ラーメン」などが入り混じり、さらに工夫が加えられているという。&lt;br /&gt;
だから「タンメン」と言えば一つの定型があるのだが、ラーメンは最早そういうベースになるものが失われてしまっている、と考えた方が正しいだろう。&lt;br /&gt;
考えてみれば不思議ではないか。&lt;br /&gt;
「ラーメン」という今やベストセラーとも言うべき国民食が、実はそのベースになるレシピが無いという事実。&lt;br /&gt;
いや、無いわけではなく、当時「支那蕎麦」とか「中華蕎麦」と呼んだ無国籍の麺の正式名称を決めるにはなかなか難しい問題が横たわっていたのだろうと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が子供の頃、渋谷には「恋文横丁」と呼ばれる１区画があった。&lt;br /&gt;
嘘か本当かは知らないが、此処に日本語を英文に訳す人たちがいて、戦後アメリカ兵たちと恋愛関係に陥っていた女性の手紙を英訳していたという。&lt;br /&gt;
今の道玄坂を上りかけた辺りだっただろうが、そういう逸話の残っている一帯に学生相手の安い食堂や中華飯店が続々と開店したと言われている。&lt;br /&gt;
私も大学生だった姉に連れられて幾度か其処を覗いた記憶があるが、溢れる活気に圧倒された。&lt;br /&gt;
大きな支那鍋を片手で振り回して、タンメンや餃子を手早く料理する手際は、目を瞠るほどだった。&lt;br /&gt;
そして思い出すと、「タンメン」を提供する店には餃子もあり、「ラーメン」は無い。&lt;br /&gt;
「ラーメン」を出す店に「タンメン」は無いが、「炒飯」はあってそれに添えられるラーメンスープもある。&lt;br /&gt;
今考えると、「タンメン」は北京地方の食べ物であり、又「餃子」の本場でもあった。&lt;br /&gt;
そして「タンメン」を料理するときに熱した支那鍋が発する「ジャーッ」という音は、腹を減らした我々若者の胃袋を刺激していたのだろう。&lt;br /&gt;
「タンメンは音を喰わせる」、私はそう思うようになった。&lt;br /&gt;
あの爆音に近い破裂音は、空腹の胃袋を昂揚させる力を持っている、と言っても良い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小さな島国である日本では想像も出来ないが、北京地方では米が採れないため粉物中心の食事に限られていて、一般的な食事は饅頭などの粉製品がほとんどだったらしい。&lt;br /&gt;
そして餃子はその北京地方の人たちの代表的な食べ物と言えるようだ。&lt;br /&gt;
日本では「鍋貼（クォーテル）」という「焼き餃子」が一番人気だが、北京では「餃子」と言えば「水餃子」。&lt;br /&gt;
「焼き餃子」は昨夜の水餃子の残り物を焼くものと決まっているそうだ。&lt;br /&gt;
面白いことに、北京地方では「餃子」はハレの日の食べ物だそうで、正月や故人を偲ぶ忌日などでは必ずこの水餃子が振舞われる慣わしだとか。&lt;br /&gt;
北京地方の家庭には、野球のバットをうんと小さくしたような麺棒が何本かある。&lt;br /&gt;
食べる直前に粉を捏ねてその麺棒で伸ばし、直系１０センチ強の餃子の皮を拵える。&lt;br /&gt;
中味は豚の挽肉と微塵切りの白菜、それにニラの細切りを混ぜるのが普通だそうだ。&lt;br /&gt;
日本人の好むニンニクは入れないのが一般的だそうだ。&lt;br /&gt;
そして出来上がった餃子を沸騰した湯に放り込んで２，３分待ち、好みのタレで食べる。&lt;br /&gt;
私も北京から来た中国人の家庭でご馳走になったが、その美味には驚かされた。&lt;br /&gt;
小麦粉を練ってすぐに伸ばし餡を包むだけでこんなに美味しくなるとは、中華料理は深い。&lt;br /&gt;
米の無い地域で食生活を豊かにするための、様々な工夫の果てなのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今中華料理の世界では、「辣（らー）と「酸（さん）」が幅を利かせているそうだ。&lt;br /&gt;
確かに中華街を歩けばその２文字が至るところに躍っている。&lt;br /&gt;
中華でも、地味に出汁を効かせる「広東料理」は落ち目だと言われているようだ。&lt;br /&gt;
日本料理にしても、じっくりと出汁を取って旨味を含ませる手法は過去のものになりつつある。&lt;br /&gt;
つまり、味がはっきりした食べ物が好まれる時代になって来たらしい。&lt;br /&gt;
甘ければとことん甘く、辛ければ思いっきり辛い方が良い、ということだろう。&lt;br /&gt;
それが時代であれば、文句を言うのは野暮というものだ。&lt;br /&gt;
だが、日本の味覚の主流は私が知らない間に大きな変化を遂げているのではないだろうか。&lt;br /&gt;
昔ながらの「タンメン」が片隅に追いやられているのも、それ故ではないか。&lt;br /&gt;
帰国を果たしたら、先ず旨い「タンメン」を探すことにしよう。&lt;br /&gt;
何事もすべからく原点に還るべし、ということか。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tyke0914/56903756.html</link>
			<pubDate>Mon, 24 Dec 2018 00:27:24 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>米戦争はもう始まっている？</title>
			<description>我が家では、自分が食べたいものは自分で作るのが不文律になっている。&lt;br /&gt;
勿論、作れなければ買って来ても構わない。&lt;br /&gt;
２人の住まいだが、それでも好みはかなり分かれているから協調するのはそれほど簡単ではない。&lt;br /&gt;
食料が豊かでない時代が少年期だった私は、食べられないものはほとんど無い。&lt;br /&gt;
勿論それでも旨い不味いはあったはずだから、給食などはどちらかと言えばいやいや食べていただろう。&lt;br /&gt;
家庭ではどうだったか、好みを主張出来た時代ではないから、文句を言わずに食べていたようだ。&lt;br /&gt;
兄や姉たちにも多少の好き嫌いはあっただろうが、正面切って母に文句は言えるはずも無い。&lt;br /&gt;
戦後数年の空気は、「食べられるだけでありがたい」といった辺りだったのではないか。&lt;br /&gt;
では何時も不味いものを我慢して食べていたのか、と考えてみるとそうでもなさそうだ。&lt;br /&gt;
「コシヒカリ」だとか「アキタコマチ」なんていうブランド米が出てくる数十年前の話。&lt;br /&gt;
米は全て配給の時代。&lt;br /&gt;
この「配給」を知る人もマイノリティになってしまっただろう。&lt;br /&gt;
「米穀通帳」なるものを役所から貰い、それに対して近所の米屋が米を届けて来るのだが、それがどこの米なのか、旨いのか不味いのか、配給されて炊いてみて食べてみるまで分らない。&lt;br /&gt;
まあそれでも、付き合いの長い米屋はそれなりに良さそうな米を届けて来たようだし、何処からか入って来た米を小声で届けて来たこともあったような記憶がある。&lt;br /&gt;
そんな手順でやって来る米だが、成長期には充分旨かったように思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この配給なるものが何時終わったのか、実はおぼえていない人の方が多いようだ。&lt;br /&gt;
気がついたら米屋から来る米は、最早配給ではなく「自主流通米」と称する自由販売のものに変わっていた。&lt;br /&gt;
そこら辺りから「何処其処の米は旨い」とか、「何処其処でもその中のナントカ村の米が最高だ」とか言う噂が流れ始め、またもや米屋が囁くような声で届けて来ていたような気がする。&lt;br /&gt;
無くてはならないはずだった「米穀通帳」は何処へ行ったのか、人々は気にも留めていなかっただろう。&lt;br /&gt;
もうその頃からスーパーでも米を売り始め、一気呵成にブランド米の販売競争が始まったということらしい。&lt;br /&gt;
私はそれほど米の出自に関心はなかったが、家庭の主婦はそうは行かない。&lt;br /&gt;
「ヒガシにコシヒカリがあると聞けば、持てるだけ買い込み」「ニシでアキタコマチが安いと聞けば友と連れ立って出かけ」るのが当たり前になり、「炊き立ての味」の最新式電気釜を張り込む。&lt;br /&gt;
私が日本を出たのは今から４３年前になるが、初めての海外生活を送ったのは南米のエクアドルだった。&lt;br /&gt;
日本人家庭に同居したから生活様式は日本と変わらないのだが、寝起きするところは標高２８００ｍの街。&lt;br /&gt;
富士山の８合目くらいの高さだから、高度に慣れるまでは暫くかかった。&lt;br /&gt;
走れば息切れがするし、酒を呑めば酔いの廻りは素晴らしく早い。&lt;br /&gt;
主食は知り合いの日本人から米を買っていたらしいが、気圧の関係で普通の釜では生煮えになってしまう。&lt;br /&gt;
圧力釜で炊いていたのだが、それでも何処となく生っぽい。&lt;br /&gt;
現地のエクアドル人も米を食べるのだが、調理方法が異なっていたようだ。&lt;br /&gt;
所謂「Long grain ロンググレイン（長粒）」を熱湯に放り込んで調理するらしいが、煮えた米を炒めて主食に添えて野菜の一種と看做しているらしい。&lt;br /&gt;
「Arroz con leche アロスコンレッチェ（米の牛乳添え）」や「Arroz con pollo アロスコンポリョ（米と若鶏）」などの一般的な料理にもしばしば米が使われている。&lt;br /&gt;
だが、やはり日本の米のような「Short grain ショートグレイン（短粒）」とは味わいが違い、口に馴染まない。&lt;br /&gt;
それでも面白いもので、レストランなどでメインに肉や魚に添える野菜類を訊ねられると、「ジャガイモ」や「トウモロコシ」などより、「Arroz アロス（米）」を選んでしまうから可笑しい。&lt;br /&gt;
とことん「米食民族」の血が流れていることを再確認してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「米食民族」と言えばその多くがアジアに住んでいるのだが、共通しているのは「醤油」やそれに近い調味料の類を日常的に使っていることだろう。&lt;br /&gt;
「醤油」は中国や韓国、ベトナムなどの漢字圏に浸透しているが、それ以外のベトナムやタイ、カンボジアなどには水産物などを塩漬けにした調味料が一般的だ。&lt;br /&gt;
ベトナムの「ニョクマム」はタイの「ナムプラー」とほとんど同じ小魚の&amp;#039;塩漬けを絞ったものだし、それは日本の裏日本地帯にある「い汁」や「しょっつる」などと同種類と考えても間違いではない。&lt;br /&gt;
起源は明らかではないにせよ、南アジアの海岸地帯から派生して来たことは確かなようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私がニューヨークに住み始めて４０数年、最初に住んだのが日本食料品店ビルの５階だったこともあり、日本食品に不自由したことはなかったし、味はともかく日本レストランも近くに幾つもあった。&lt;br /&gt;
日本料理とひと口に言うが、要は米と醤油があればそれらしい料理が出来るから不思議だ。&lt;br /&gt;
だが、食事の最後のひと口に「漬物」が無くては様にならない。&lt;br /&gt;
で、私は昔母に手伝わされた「漬物」をマンハッタンで作ることになった。&lt;br /&gt;
夏は胡瓜や大根を塩で浅漬けにし、冬は白菜を漬けた。&lt;br /&gt;
大家である日本食料品店にも漬物は色々売ってはいる。&lt;br /&gt;
だが商品に貼られたラベルを読めば、日本や西海岸から送られて来た物がほとんど。&lt;br /&gt;
ご多分に漏れず防腐剤や添加物がどっさりと使われている。&lt;br /&gt;
それでいて価格は日本以上なのだから食べる気も起こらない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
夏場の漬物は気温の関係もあって簡単ではないが、冬場は楽だ。&lt;br /&gt;
中華系のスーパーへ行けば白菜は山ほど売っていて、しかも安い。&lt;br /&gt;
６つに割って塩をまぶし、バケツに隙間無く詰めて上から重石をかければ良い。&lt;br /&gt;
一晩で塩気が廻り、水が上がってくればそれでほとんど完成に近い。&lt;br /&gt;
水気を減らして塩を足し、さらに一晩くらい軽めにした重石を置いておく。&lt;br /&gt;
もうそこら辺で食べられるのだが、もう２日くらい置けば旨味が増して来るはず。&lt;br /&gt;
この白菜漬けはニューヨークに住んだ４０年間、ほとんど毎年漬けていたような覚えがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２年ほど前肺炎に罹って以後、暫く漬物から遠ざかっていた。&lt;br /&gt;
食欲が無くなったこともあったが、病人が漬物でもないだろうという気が働いたこともある。&lt;br /&gt;
だが白飯を喰えば、どうしても最後にちょっと漬物が欲しくなってしまう。&lt;br /&gt;
日本スーパーで沢庵を買ったり高菜漬を買ったりするが、どれをとってもそれほど旨くない。&lt;br /&gt;
さらに当然ではあるが、様々な添加物がくっついて来る。&lt;br /&gt;
やはりここは自分で漬けるしかないだろう、と思うようになった。&lt;br /&gt;
久しぶりに中華スーパーで小ぶりな白菜を買い込んだ。&lt;br /&gt;
帰宅して４つ割にしてテラスで日光に干す。&lt;br /&gt;
朝ｊ干して夕方塩をまぶしバケツに詰めて上から重石をかける。&lt;br /&gt;
この重石は随分昔に道端で拾ったものだが、年月を経て丸みを帯びて風格さえ感じるようだ。&lt;br /&gt;
重みが足りない分は、昔買ったが使っていないバーベルを２本足しておく。&lt;br /&gt;
ひと晩漬けて置くと、翌朝には水が上がって来ている。&lt;br /&gt;
水を減らし塩を少し足して、重石を軽くしてもうひと晩。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２日目の朝には、白菜はどっぷりと水に使っているようだ。&lt;br /&gt;
内側のほの黄色い葉を摘んで口に入れると、すでに一丁前の漬物の味を伝えてくる。&lt;br /&gt;
少年時代は、飯とこの漬物があれば丼２，３杯は喰えた。&lt;br /&gt;
今は流石にそんな乱暴なことは出来ないが、茶碗の最後のひと口に合わせるにはこれが最高だ。&lt;br /&gt;
その場合、飯は炊き立てである必要はない。&lt;br /&gt;
というか、むしろ多少冷めている方が米の味がじっくり味わえる。&lt;br /&gt;
「炊き立て」というフレーズは電器釜の販売競争の副産物だろう。&lt;br /&gt;
日本酒の「燗」と同じで、熱過ぎても冷め過ぎても米本来の味は出て来ない。&lt;br /&gt;
高級料亭の最後の白飯は決して炊き立てではないはずだ。&lt;br /&gt;
炊き上げてお櫃で適度な温度に保持された飯が、板前自慢の香の物にぴったりと合う。&lt;br /&gt;
熱い飯は卵かけか丼物でこそ本領が発揮出来る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニューヨークでもカリフォルニアの新米が出盛っている。&lt;br /&gt;
「田牧米」「かがやき」などが人気ブランドだが、いまや決して安いものではない。&lt;br /&gt;
１５ポンド（６．８ｋｇ）で３０ドル以上するから、日本との差はどんどん詰まって来ている。&lt;br /&gt;
とは言え、「ロンググレイン」のタイ米や中華米の価格はその半値以下だ。&lt;br /&gt;
しかし中国人や韓国人でも、米にうるさい人は日本米を買っているらしい。&lt;br /&gt;
そのうち、彼らに旨い米を買い占められる日が来るかも知れない。&lt;br /&gt;
工夫が上手な日本人のことだから、安い「ロンググレイン米」を美味しく食べる方法を考えつくのではないか。&lt;br /&gt;
今までだって、そうやって生き延びて来たのだから。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tyke0914/56902654.html</link>
			<pubDate>Sat, 22 Dec 2018 21:07:04 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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