(^ム^) 直江兼続紀行:山形

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観光案内所で頂いた旧町名の入ったマップを見ながら歩いているとこのような住所が・・・


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急いでマップを・・・・・いくら探しても載っていない。
『何で・・・』と思い、近くにお住まいの方に聞いてみるとこの住所は現在のものと・・・
だからこのマップには載っていなかったようです。

その方にお聞きしたことを纏めると
現在の西部小学校のあたりに直江田屋があったそうです。


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田屋では田の管理、直江兼続の年貢米(6万石)を貯蔵、それらを田屋町の侍が住込みで見張りをしていた。

田屋町は25軒ほどの小さな町。
一軒一軒の間口は広く、そこに住んでいた侍は越後から来た兼続に信頼された侍たちだったようです。

直江田屋の前を東西に走る街道は館山、三沢、広幡へと抜けられる道だったため、その方面から不審者が
来ないように直江田屋の前に検問所を設け監視していたとのこと。
館山の方には伊達の残党が住んでいたため、睨みを利かす役割もあったようです。

上杉30万石のうち6万石が兼続の取り分。
当時、1万石あれば大名と呼ばれていたが、兼続の6万石ともなれば相当なものだと分かる。
ここは米沢城の西にあたり家老の特権で管理の眼が届きやすい城下付近にあったようです。


当初は西川堰。帯刀堰(たいとうぜき)と木場川の由来を伝える碑


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上杉は会津から米沢に移封。
家臣を殆んど減らさなかったため、町・屋敷の数を増やしたがそれだけの人々を養う生活用水が足りなかった。
米沢は西部が高く東北が低い地形。
松川だけでは米沢西部が潤せず大樽川、鬼面川から水を引く必要があった。
そのため、慶長15年(1610)鬼面川から水を引くために造らせた堰が帯刀堰。


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帯刀堰は当初は西川堰と名付けられた。
腰に刀を携えた侍たちも工夫に混じり工事に参加したことから帯刀堰と改名された。


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帯刀堰から引かれた水は木場川を通って西北部に住む中・下級家臣団の生活用水として使われた。
鬼面川から引いた水は兼続の年貢のとれる田に使用、これにより広幡の辺りの田が今までの倍以上・・・

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また木場川は、米沢藩の薪木の供給手段として木流しによる運搬に利用された。
そのようなことから木場川と呼ばれるように・・・



直江町は上杉御廟所の西側で、直江田屋があった西部小学校も米沢市直江町
なんか嬉しいですよねぇ〜〜直江の名が残されていたなんて・・・
ちなみに御廟所のある辺りは米沢市御廟

直峰町と御清水町

 慶長6年(1601)上杉家は会津より米沢に移封、上杉景勝をはじめ数万の家臣やその家族が移り住んだ

大河ドラマ天地人の最後に米沢には直峰町という町名があったと紹介していたので行ってみることに・・・


                          直峰町の由来

新潟県の上越市の北に位置した安塚町に直峰城があり、古くから府中より関東へ通じる三国街道の要衝と
して重視された。南北朝時代南朝に属した風間信濃守信昭はこの城を拠点として大活躍しました。
上杉家の国替となった時、重臣・家臣は景勝公に従って直峰衆として、奥只見は六十里越・西会津を経て
米沢城下のこの地に住むようになり、直峰町を作り現在に至る。            (説明板より)



                        直峰町会館が建てられています

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 新潟県にある直峰城はのうみねじょうと読みますが、米沢の直峰町はのみねちょうと読むそうです

  現在この地名は城西や城南に変更され、直峰町の地名は町内会名として残っているだけとのことです



          直峰城主だった兼続の父・樋口惣右衛門兼豊の屋敷跡が神達明神の近くにある


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  かつてこの辺りには上杉謙信公の詞堂に供え、お城でのお茶の水に使用されていた美味しい清水があった
                  このような理由からこの地域は御清水町とつけられていた


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                この道路は清水町通りと呼ばれ江戸時代初期からのもの


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米沢を歩いていると歴史を感じる地名がいろいろあり、このような地名が変更されてしまったのは残念ですね
五色温泉 宗川旅館のHPより
今より1300年前、諸国を行脚中行者の祖とされる役小角が吾妻連峰の木々の狭間より
鮮やかに漏れ出す五彩の湯煙を発見したのが始まりとされている。
以後、 その五彩の宝は伊達、蒲生そして上杉氏へと稀代の秘湯として受け継がれたとされている。


                   五色温泉は標高800メートルの山中にある1軒宿


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      直江兼続が奇病にかかり、医薬で治らなかったものが五色温泉で快癒したことも・・・


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  兼続の嫡男・景明(竹松)は病弱で両目を患い、兼続が足軽に警備させ五色温泉で治療させたと伝えられる


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                           直江兼続の生涯

永禄3年(1560) 坂戸城主・長尾政景の家臣・樋口兼豊の長子として生まれる。幼名は与六。
            非凡な才能を仙桃院に見出され、6歳から景勝の小姓として仕える。
            景勝(喜平次)と兼続(与六)は雲洞庵の住職・北高全祝や通天存達の下
            互いに切磋琢磨し南魚沼で過ごす。

天正2年(1574) 景勝に従って春日山城に入り上杉謙信より「愛と義」の教えを受ける。

天正6年(1578) 謙信が死去。御館の乱では景勝を勝利に導く。

        兼続の妻お船の方は与板城主直江景綱の娘として弘治3年(1557)に生まれる

天正9年(1581) 直江家は上野国総社長尾顕吉の子・信綱を婿に迎えたが、御館の乱の後信綱が死去。
            景勝の命で樋口与六兼続が直江家の婿に入る。
            そのとき兼続22歳 お船25歳。1男2女をもうける。

慶長3年(1598) 上杉氏の会津移封に伴い、米沢城6万石の城主となる。
            関が原の合戦では敗れ、上杉氏は米沢30万石へと減封。
            兼続の働きにより上杉家の存続が許された。
            上杉家を守るため本多正信の次男・政重を娘婿として迎える。
            米沢には家臣団6千騎と約3万人が移ったが、城下町づくりと民政に尽力する。

慶長9年(1604) 景勝の正室・菊姫京都で死去。
            景勝の側室・四辻大納言公遠の姫が玉丸(定勝)を出産。
            産後の肥立ちが悪く死去。お船が玉丸の母代わりとなって養育をした。

慶長10年(1605)兼続の次女・お梅、長女・お松と相次いで死去。
            その後、養子の政重は本多に復姓して上杉家を離れて前田家に移る。

元和元年(1615) 大阪夏の陣で大阪城が落城。秀頼、淀君が自害し豊臣家は滅亡。
             この年、兼続の嫡男・景明が病死。直江家は後継者を失う。

元和2年(1616) 4月17日 家康死去。享年75。 

元和5年(1619) 12月19日 兼続江戸鱗屋敷で死去。享年60。

元和9年(1623) 3月20日 景勝米沢で死去。享年68。





                     お船の方は兼続の死後は後室と呼ばれ
             定勝の政治に裏から尽力し、女性としては異例の禄3千石を与えられています


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
母代わりをつとめた定勝とは大変深い交流があったようで、景勝が元和9年(1623)に死去し、
定勝が米沢藩主になった後も、お船は化粧料3000石に加え手明組40人を与えられている。
また寛永13年(1636)にお船が病に倒れると、定勝は自ら見舞いに訪れ病気平癒を祈願した。
しかし定勝の願いは通じず、翌寛永14年(1637)1月4日死去。享年81。

戒名は宝林院殿月桂貞心大姉。墓所は米沢市の徳昌寺。のちに改葬されて林泉寺。
和歌山県高野山清浄心院にも分骨されている。
定勝は高野山に使者を派遣し、お船のために墓石を立てたという。



直江夫妻の墓も当初直江家菩提寺・徳昌寺にあったが、上杉家菩提寺・林泉寺との争いの末林泉寺に移された
その際直江家に属する与板衆は林泉寺への移転に反対、兼続の位牌は母の実家の菩提寺・東源寺に移された


                   上杉家中でも兼続を奸臣扱いした時期があったが
第九代米沢藩主・上杉鷹山が「直江夫妻の法要を営まないのは人情にあらず」と百回忌の法要を行ったという




   <背が高く、容姿端麗で頭脳明晰、文武両道に秀でた武将であった>と伝えられている直江兼続

                 兜の<愛>の文字は、「愛染明王」・「愛宕権現」への
        信仰からきたものであるという説と兼続の「愛民」の精神からきているという説があります

               上杉謙信は死の間際に「そなたの義を求めよ」という言葉を残し
     謙信の<義>の教えに従い、その遺志を継ぎ、迷いながら己の<愛と義>を生涯貫き通しました




長い間 直江兼続紀行 新潟・福島・山形 を読んで頂き有難うございました。

兼続に興味を持ったきっかけは当時としては珍しく兼続は生涯側室を一人も持ちませんでしたのこの一文。
まさか歴史苦手の私がここまで追っかけをするようになるとは・・・

新潟のゆかりの地めぐりでは不思議なことがいろいろありました。
車での移動中には雷や集中豪雨に悩まされたが、目的地に着く頃には雨も上がり写真撮影ができたり
城跡に登ろうか、どうしようかと迷っていると、いきなり雨が降り出し濡れずに済んだりと・・・
また、午前中の観光客は豪雨で見学できなかった城跡が見学でき、「貴方たち運がいいねぇ〜」といわれたり
<兼続様に守られているのでは・・・>と勘違いしたくなりそうな不思議な現象が幾度もありました。


大河ドラマ天地人も終盤に入りまもなく(11月末)終了ですね。
これから<米沢の町づくり>の放送を楽しみにしたいと思います。


                       本当に長い間有難うございました
              関興庵は、越後の関興寺が上杉の米沢移封に従い移ってきたお寺



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南魚沼市上野にある600年の歴史のある臨済宗・円覚寺派の寺院・関興寺が慶長6年上杉景勝の
米沢・伊達・信夫30万石に減封を命ぜられ、米沢への移封に従い東岩和尚が米沢に建立。



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                      大国実頼のお墓には花が供えられていました



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                            大国実頼

永禄5年(1562)樋口兼豊の次男として生まれる。幼名は与七。
          兄・与六(兼続)の2歳年下。御館の乱では上杉景勝方として戦う。
天正10年(1582)景勝の命により
           天神山城主・小国重頼の養子となり小国氏の家督を相続する。

天正14年(1586)新発田重家の乱では新発田重家討伐に参陣。
           豊臣秀吉の聚楽第新築のときには、上杉家の使者を務める。
           このとき、従五位下但馬守に任じられ苗字を小国から大国に改める。

慶長3年(1598)上杉景勝の会津移封に伴い、鴫山城主として2万1千石を与えられる。
慶長5年(1600)景勝が会津に神指城を築城したときには、兄の兼続と共に普請奉行を務める。
          関ヶ原の合戦後、出羽高畠城7千石の城主となるが城には移らず上洛伏見に滞留。

慶長9年(1604)直江兼続と本多政重との養子縁組に反対し
          迎えにきた兼続の使者を京都伏見宿で切り、上杉家を出奔し高野山に逃れる。

元和5年(1619)兼続の死後、密かに米沢北郊の中小松村に戻る。
元和8年(1622)に61歳で死去。



                 


お墓はなかなか見つからず、住職さんにお聞きしましたが、ご高齢で耳が遠くとても苦労しました。
資料によれば、実頼のお墓の近くには兼続・実頼の父・樋口兼豊のお墓もあるようだが見つかりませんでした。
住職さんにこれ以上お聞きするのは無理と思い、今回は諦めて戻りました。



                             別当 関興庵です

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                               ★西明寺 本堂



創建は鎌倉時代中期と伝えられ、元々は越後にあった寺で、上杉家が会津・米沢と移封に伴い移動してきた寺。



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                    西明寺は高台にあるため米沢市街がよく見渡せ
            直江兼続は、米沢の町が出来て行く様子を眺めるため時々この寺を訪れている。
 


                              直江兼続の詩が刻まれた碑



             鷹狩りの際に寺に立ち寄り詠まれたという詩碑が、寺院内に建てられている。


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                             西明寺展望に題す

                             直江山城守兼続詩
                             遠山西に望む 西明寺
                             はるかに憶う 最明寺投宿の秋
                             暮日林間まさに 外にめぐらんとし
                             無端の衣色 金風に満つ
 




                             上杉綱勝が再建した薬師堂



                      上杉綱勝が再建した薬師堂で本尊は薬師如来像。


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                             トラノオモミの木



   上杉綱勝公が夫人媛姫の病気全快を祈願して、会津若松から取り寄せて手植えしたトラノオモミの木。


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                  薬師堂の近くにある周囲が3m高さ22m樹齢300余年の巨木。
           この地方には珍しい木として、山形県指定文化財(天然記念物)に指定されている。




                             十一面観音堂



                    直江兼続の詩碑からすぐのところにある観音堂。



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                米沢市指定文化財である「西明寺十一面観音坐像」が祀られている。

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