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安積艮斎(あさかごんさい)は郡山市にある安積国造神社の第55代宮司・安藤親重の三男として誕生。
今年は安積艮斎生誕150年の記念ということで、各地方紙で特集が組まれ掲載されていました。
それによれば・・・
当時宮司の安藤家は、安積国造神社と城下の二本松神社を兼務していたので、7〜13歳頃まで
二本松に住んでいました。二本松藩葉藩儒に学び、将来学問で身を立てようとの志望を持っていたと・・
文化4年(1807)2月、17歳で艮斎は江戸へ出奔。
旅費が足りず、煎り豆に醤油をかけて包み持って食料の足しにしたとか。。。
後に、艮斎は若き日の出奔を懐かしみ、
「あの煎り豆が砂糖の衣を着せた豆だったら、飢えも少しはしのげたのだが・・・」と語ったそうです。
この立身出世を後世に伝えようと、艮斎誕生の地・郡山に、銘菓”ごんさい豆”(柏屋)が誕生しました。
24歳で神田駿河台に私塾を開いた艮斎は、門弟の指導とともに数多くの著作や論文の発表を行い、
41歳の時に出版した「艮斎文略」で学者としての評価が高まり、一躍全国的に名を知られるように・・・
そして、没後150年の記念の年に、NHK大河ドラマ「龍馬伝」で、安積艮斎の名が再び登場。
それは、岩崎弥太郎の「江戸に行って、天下第一の安積艮斎先生に弟子入りするぜよ」のセリフです。
岩崎弥太郎は、土佐藩の地下郎人の息子で、遊学など望める身分ではなかったが、
藩儒に必死に懇願、その従者となって江戸へ行き、紆余曲折を経て藩の許可を得、艮斎の門人へ・・・
念願かなった弥太郎は江戸に来て、
念願の安積艮斎の見山楼に入りました。
弥太郎の親戚の者が
筆頭塾生をつとめていたので、
そこに寄宿したようです。
弥太郎はペリー来航を受け、海外貿易の
必要性を説いた艮斎著「洋外紀略」を
熱心に学びます。
安政2年11月11日の夜、安政の大地震の時には、すぐに艮斎を探し無事な姿を見て涙をながしたと・・・
塾の同窓生たちは弥太郎のことを「生きたる二十一史だ」と評していたそうです。
12月に弥太郎は事情で土佐に戻ったが、土佐藩に弥太郎の復学を要望した手紙まで送っています。
土佐藩の傑出した人物に安積艮斎の私塾の出身者が多いです。
積極的な藩政改革推進の最中、土佐勤王党に暗殺された吉田東洋も門人でした。
龍馬の親友・真先哲馬や近藤長次郎、また、藩主・山内容堂は、艮斎を宴に招く形で学んでいます。
県重要文化財の安積艮斎門人帳には、2282人の門人が記されているそうです。
その中には、小栗上野介・吉田松陰・高杉晋作・秋月悌次郎などが名を連ねているそうです。
安積艮斎は万延元年(1860)11月21日、昌平坂学問所の宿舎で亡くなりました。享年70歳。
昌平坂学問所の史跡を継承しているが、JR御茶ノ水駅の近くに湯島聖堂です。
明治になって昌平坂学問所の史跡湯島聖堂を管理、儒学の研究宣揚を図る団体として
会が創設され、岩崎弥太郎は一万円を寄付したそうです。今の五億円に相当するそうです。
また、国営安積開拓において、土佐藩士族が安積郡に移住の時には、汽船での輸送費を寄付。
境内には、
艮斎の銅像や誕生の地の碑などがあります。
安積艮斎記念館には、
「艮斎文略」や「安積艮斎門人帳(県重要文化財)」などの貴重な資料が展示されています。
地元なのに「安積艮斎特集記事」を読むまで全く知りませんでした。
郡山では有名な神社で、お正月や御祭りなどにも何度もお参りしていたはずなのに・・・
早速神社にお参りに行って、艮斎さんにお会いしてきました。
それに、”ごんさい豆”も子供の頃よく食べましたよ。
まさか、安積艮斎ゆかりのお菓子だったとは・・・
素朴で懐かしい味のするお菓子です。今度探してみよう!!
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^。^*龍馬ゆかりの地巡り:東京
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いよいよ龍馬伝も来週が最終回ですね。
以前巡ったのものですが、お蔵入りにするのも勿体無いので・・・
御茶ノ水にあるニコライ堂の正式名は、東京復活大聖堂といい、ドーム型の屋根が象徴的です。
このニコライ堂の建設には、武市半平太率いる土佐勤王党の山本琢磨が関わっています。
山本琢磨はかつて江戸で盗品の
時計を拾い、一緒の飲んでいた
他の藩の侍に唆され、古道具屋に
持ち込んだのが発覚、切腹となりかけた琢磨は、龍馬の助けによって
脱走、その後、北海道へと・・・・・
当時函館に赴任していた
ロシア正教会の神父・ニコライの
知遇を得、日本人初の司祭に
叙階され、ニコライ堂建設に・・・・
大河ドラマでは触れられていませんでしたが・・・・
龍馬の父・ 八平は山本家の出身で、坂本家には養子として入っています。
ちなみに武市半平太の妻・富子の父は、山本琢磨の叔父です。
なので、坂本龍馬・武市半平太・山本琢磨は親戚関係だったんですよ。
坂本龍馬が靖国神社に祀られていることを今回初めて知りました。
靖国神社の歴史は、戊辰戦争での政府軍戦死者の慰霊に始まり、当時は東京招魂社と称されたと・・・
やがて西南戦争で殉職した政府軍を合祀されることが決定。
ここに龍馬や高杉晋作、
吉田松陰などが合祀されたそうです。
境内には幕末に使用された
大砲などが残されています。
東京には、坂本龍馬ゆかりの人達のお墓が残されています。
土佐藩郷士・平井収二郎の妹で、龍馬の初恋の人と云われています。
龍馬と加尾が近づくのを警戒した収二郎によって、
二人の間は引き裂かれ、尊王攘夷を進める土佐藩の朝廷工作のため京に送られた。
収二郎の切腹後、勤王党員の西山志澄と結婚。
土佐の漁師で漁の最中に遭難しアメリカの船に救助、船長の郷里マサチューセッツ州で教育を受けた。10年後に帰国し、土佐藩で英語を教え、書物の翻訳や軍艦操練所の教官を務めた。
龍馬は万次郎の話を通して、アメリカ社会の仕組みを知り、刺激を受けたと・・・
維新後、開成学校(現・東京大学)の教授に就任した。
土佐藩の上士。叔父の吉田東洋の推挙で藩に登用されるが暗殺されると失脚。
尊王攘夷派の衰退とともに反省に返り咲き、土佐勤王党弾圧し、武市半平太切腹にに追いやった。
後に脱藩した龍馬を許し、海援隊を援助。龍馬と大政奉還の実現に奔走。
維新後は、新政府の要職を歴任、板垣退助と結成し、精力的に政治活動を続けた。
木戸孝允、西郷隆盛とともに維新三傑のひとり。
西郷隆盛らと藩の中枢として活躍。
慶応3年王政復古のクーデターを実行。
政府の要職に就き、版籍奉還、廃藩置県を断行。
岩倉遣外使節団の随行から帰国後は
西郷隆盛と対立し、辞職に追い込み政権を掌握。
地租改正、殖産興業など重要施策を推進するも
明治11年5月14日東京の紀尾井坂で暗殺された。
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第5代将軍・徳川綱吉の信任が厚かった川越藩主・柳沢吉保が自ら設計・指揮し、7年の歳月をかけ
元禄15年(1702)に築園、和歌の趣味を基調とした 回遊式築山泉水 の日本庭園です。
園名の由来 六義園の名は、中国の詩の分類法
(詩の六義)にならった古今集の序にある
和歌の分類の六体
(そえ歌・かぞえ歌・なぞらえ歌・たとえ歌
ただごと歌・いわい歌)に由来したもの。
柳沢吉保自身の撰した「六義園記」では
日本風に「むくさのその」と呼んでいましたが
現在では漢音読みで「六義」を「りくぎ」と
読む習わしから、「りくぎえん」と・・・。
〜〜パンフレットより抜粋〜〜 六義園は小石川後楽園とともに、江戸の二大庭園に数えられたほど・・・
7代柳沢保伸の頃に明治維新を迎え、新政府に上地され173年間にわたる柳沢家別邸も終わりに・・・
その後、明治11年(1878)三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎が、近隣の土地・屋敷とともに
この地を手に入れ、六義園に岩崎家別邸を設けます。
あまりにも広すぎる土地に「この土地をどうするつもりなのか?・・・」と尋ねたところ
弥太郎は「俺は板橋辺りまで土地を買い、国家の役に立つことをやってみるつもりだ」と・・・
出汐の湊からの眺め
玉藻の磯からの眺め
蓬莱島(洞窟石組・アーチ型の島)
弥太郎は若い頃から、庭園に興味があり、土佐の井ノ口村(現・安芸市井ノ口)の生家には 青年時代に造ったという大小の石を配した小庭が残っているそうです。
六義園八十八景の一つ 水分石
説明板には
「六義園記」に「水を三つに分けたる石なり。東山殿の図にも水分石といへる石あり」と・・・
土橋(山陰)
千鳥・白鴎・山陰・藤浪と名の付いた園内に
四箇所ある土橋のひとつ。
ささかにの道
ささかにとは
クモの古い呼び名で
老が峰の北側を通る樹幹の小道は
クモの糸のように細いところから
そう名付けられたとか・・・ つつじ茶屋
説明板には
「明治年間、岩崎氏の代に
つつじの古木材を用いて建てられたこの四阿(あずまや)は
幸いにも戦災を免れ、現代にその
希少な姿を伝えています。
11月下旬には、紅葉したモミジに
囲まれ、見事な景観となる」と・・・
渡月橋
「和歌のうら 芦辺の田鶴の鳴声に 夜わたる月の 影そさひしき」の歌から名づけられた石の橋。
明治38年(1905)10月、日露戦争から凱旋した連合艦隊司令長官・東郷平八郎をはじめとする
将兵6000人を岩崎家が招待、この六義園を中心とし、一大戦勝祝賀会を催したそうです。
大正後期から、12万坪に及ぶ岩崎家の地所は「大和郷(やまとむら)」と名付けた都市開発により
高級住宅地として分譲、その中心にあった六義園を昭和13年(1938)に東京市に寄付され
昭和28年(1953)3月31日に国の特別名勝に指定されました。
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コメント(10)
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江東区にある清澄庭園は泉水・築山・枯山水を主体にした明治の代表的回遊式林泉庭園です。
一説には江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています。 その後、享保年間(1716〜1736)には、下総国・関宿の城主・久世大和守の下屋敷と・・・
明治11年(1878)に、岩崎弥太郎が荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を
招待する場所として庭園造成を計画、明治13年(1880)に深川親睦園を開園。
弥太郎の亡きあとも造園工事は進められ
隅田川の水を引いた大泉水をはじめ
周囲には全国から取り寄せた名石を配し
明治の庭園を代表する
回遊式林泉庭園が完成しました。
関東大震災以前は隅田川から水を引いていました。
そのため潮の干満によって池の景観が微妙に変化したといわれます。
震災で川へ通じる水門が崩れてしまったため、現在は雨水でまかなっていると・・・
正面に見える建物が大正記念館で、大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移設したもの。
しかし、戦災で焼失したため、昭和28年に貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建されました。
現在の建物は、平成元年4月に全面的に改築され、集会場として利用できるそうですよ。
この松は
昭和28年、大正記念館の
再建を記念して
高松宮殿下が植樹されたもの。
なつめ水鉢
生駒石
涼亭は明治42年国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が建てたものです。
池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの建物がこの庭園を引立てています。
震災と戦火の被害からまぬがれ
現在に至っていますが
昭和60年度に全面改築工事を
行っています。
集会場として利用できます。
平成17年には
東京都選定歴史的建造物に
選定されました。
この庭園で最も高く大きな築山
庭園に置かれた多くの庭石のうち代表的なものが
伊豆磯・、伊予青・、紀州青石・生駒石・伊豆式根島石・佐渡赤玉石・備中御影石・讃岐御影石。
これらの庭石は岩崎家が自社の汽船を用いて全国の石の産地から集めたもの・・・・ 伊豆式根島石
紀州青石
傘亭
川と海に近いこともあって種々の野鳥が飛んでくるそうですよ。
清澄庭園は関東大震災で大きな被害を受けましたが
災害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命を救ったそうです。
翌大正13年破損の少なかった東側半分(現庭園部分)を公園用地として東京市に寄付。
市ではこれを整備して昭和7年7月に一般公開しました。
昭和54年3月31日に東京都の名勝に指定されています。
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海援隊で財務的な役割を担当、龍馬たちの活動を金銭面で支えた岩崎弥太郎。
日本三大財閥のひとつ三菱財閥は岩崎弥太郎と弟・岩崎弥之助(三菱の2代目総帥)から始まります。
台東区池之端にある旧岩崎庭園に建てられている岩崎邸は
三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が購入した邸地に3代目の久弥が明治29年に建てたものです。
三菱の3代目総帥・岩崎久弥は弥太郎の長男です。
4代目総帥の岩崎小弥太は弟・弥之助の長男で弥太郎の甥にあたります。
家紋は 三階菱 です。
岩崎家は甲斐武田の末裔だと云われています。それゆえに、家紋も武田菱に由来する 三階菱 。
塀にも岩崎家の家紋の 三階菱 が・・・
創業時の九十九商会が船旗号として採用した三角菱のマークが
現在のスリーダイヤ・マークの原型
だそうです。
岩崎家の家紋「重ね三階菱」と
土佐山内家の家紋「三ツ柏」の
組合せに由来します。
後に社名を三菱と定める
機縁ともなりました。
旧岩崎庭園の洋館は、ジョサイア・コンドルの設計により、明治29年(1896) に完成しています。
現在、現存するのは洋館・撞球室・和館の3棟です。
洋館 3棟のうちの1棟が木造2階建・地下室付きの洋館で本格的な洋風建築。
英国人ジョサイア・コンドルの設計による明治期の上層階級の邸宅を代表する西洋木造建築です。
17世紀の英国ジャコビアン様式を基調に、全体はルネサンス様式を基調に
洋館南側のベランダは1階列柱はトスカナ式、2階列柱はイオニア式の装飾が特徴だそうです。
主に年1回の岩崎家の集まりや、外国人・賓客を招いてのパーティーのみに使用されていたようです。
1階部分に玄関・食堂・厨房・客室、地下には倉庫・機械室・通路が設けられています。
第二次世界大戦後国有財産となり、最高裁判所司法研修所などとして昭和45年まで利用されました。
撞球室
コンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は、洋館から少し離れた位置に別棟として建っています。
ジャコビアン様式の洋館とは異なり、当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の造りです。
全体は
木造建築で校倉造り風の壁に
刻みの入った柱。
軒を深く差し出した大屋根
などのデザインです。
この撞球室は洋館と地下道で
つながっているそうですよ。
和館
洋館と連結されている和館は、書院造りを基調にしています。
完成当時は建坪550坪に及び、洋館を遥かにしのぐ規模を誇っていたようです。
広間奥に設けられた岩崎家の居住空間は、南北に分けられ南に主人と夫人部屋、子供部屋など。
書院造りの広間には、橋本雅邦作といわれる障壁画が残っています。
北には使用人部屋、台所、事務方詰所、倉庫などがあったようです。
庭園
パンフレットには
「江戸期に越後高田藩江戸屋敷、及び明治初期は旧舞鶴藩知事・牧野氏の屋敷であった
岩崎邸の庭は大名庭園の形式を一部踏襲していた。
建築様式同様に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残している。」と・・・
庭園を散策し、素敵な写真を・・・と思いましたが
岩崎邸の洋館・和館があまりにも広く、一通り見物するだけで疲れてしまいました。
まったく情けない・・・
なので写真は一枚もありません
旧岩崎庭園は平成6年(1994)に文化庁の管轄となり、平成13年(2001)東京都の管轄となりました。
昭和36年(1961)に洋館と撞球室が重要文化財に指定。
和館大広間は洋館東脇にある袖塀とともに昭和44年(1969)に、
さらに宅地、煉瓦塀を含めた屋敷全体と実測図が平成11年(1999)に重要文化財に指定されました。
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