伏見城は現在の京都市伏見区桃山町周辺にあった城で、厳密に言えば3度に渡って築城されています
最初は文禄元年(1592)に豊臣秀吉が隠居城として、指月山に指月城と呼ばれた城の建設を開始。
築城開始から2年後の文禄3年(1594)に秀吉が入城、しかし、2年後に慶長伏見地震によって倒壊。
秀吉はこの大地震の経験を生かし、指月城の近くの地盤の強固な木幡山(桃山)に二度目の城を築く。
現在の伏見桃山陵のあたりを中心に本丸・五重の天守、他に、二の丸・松の丸・名護屋丸などを配置、
御花畑、舟入御殿などの絢爛豪華な桃山時代の粋を集めた名城だったと・・・・
絢爛豪華な伏見城は慶長2年(1597)完成。しかし、築城からわずか4年で秀吉は城内で没した。
秀吉の死後、遺言により豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって伏見城には徳川家康が入城。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際、石田三成率いる西軍の攻撃を受けて建物の大半を焼失したが、
勝利した家康により直ちに再建され、慶長8年(1603)の徳川家康将軍宣下の儀はこの城で行われた。
家康は晩年の殆どをこの伏見城で過ごし、三代将軍・徳川家光の将軍就任まで活用されている。
慶長6年(1601)5月 、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として二条城を築城。
大坂の陣で豊臣氏が滅亡、一国一城令により二条城と伏見城の2つの城を維持する名目がなくなり、 徳川家光の将軍就任後の元和9年(1623)、伏見城は次第に用をなさなくなり廃城となった。
廃城となった伏見城の建物は全国各地の城郭や寺社仏閣に移築された。
建物の殆どは豊臣秀吉時代の伏見城ではなく、徳川家康時代の伏見城の遺構と考えられています。
伏見城の遺構で現存しているものでは江戸城伏見櫓と福山城伏見櫓が有名です。
大阪城にも三層の伏見櫓が移築されたが、この伏見櫓は空襲で焼失してしまったとか。。。。
京都の寺院を巡っていると、たくさんの「伏見城の遺構」が残されているのに気づかされます。
最初に訪れたのが、明治天皇・昭憲皇太后陵の近くにある御香宮神社です。
御香宮神社
京都市伏見区桃山御香宮門前町に鎮座。
神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神をお祀りしています。
また、神功皇后の神話における伝承から、安産の神として広く信仰を集めています。
貞観4年(862)
境内より良い香りの水が湧き出し
その水を飲むとたちまち病が癒えたので
時の清和天皇から御香宮の名を賜った
この湧き出した水は「御香水」として
名水百選に選定されている。
豊臣秀吉は伏見城築城の際に御香宮神社を城内に移し、鬼門の守護神とした。
後に、慶長10年(1605)、徳川家康によって元の位置に戻され、本殿が造営されている。
表門は伏見城の大手門を移したもので国の重要文化財に指定されている。
慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは、薩摩軍が本陣を置いたが本殿含め焼失することなく残った。
寛永2年(1625)徳川頼宣の寄進によって建立。割拝殿の構造となっている。
本殿(重要文化財)
慶長10年(1605)徳川家康によって建立。平成2年(1990年)の修理で、極彩色の彫刻が復元された。
表門(重要文化財)
豊臣秀吉が築城した伏見城の大手門を水戸光圀の父・徳川頼房が寄進したものと伝えられています。三間一戸、切妻造りの単層門で幅約9メートル、高さ約8メートルで本瓦葺きの屋根の両端に鯱が・・・

表門には伏見城大手門の表札が・・・
庇の4個の蟇股(かえるまた)にそれぞれ中国の故事「二十四孝」を題材にした彫刻が施されています。
孟宗 唐夫人
郭巨 楊香
〜〜撮影日:2010年9月21日・11月24日〜〜
坂本龍馬ゆかりの地めぐりで一度訪問しているのに、大手門の写真がなかった。
このようなこと時々あります。
撮影しようと思っても、参拝者や撮影している人が多数その場所にいた場合、
後で撮影しようと思い、別な場所を撮影して満足してしまい、つい忘れてしまうことがよくあります(汗)
注意力が足りないというか・・・・
物忘れが酷いというか・・・・困ったものですね。