^。^*龍馬ゆかりの地巡り:京都

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慶応3年11月15日、
坂本龍馬は京の近江屋において、何者かに襲われ、同志・中岡慎太郎とともにその生涯を閉じます。
 
NHK大河ドラマストーリー「龍馬伝(完結編)」には、
「龍馬暗殺は誰の指示で、実行犯は誰なのか?」の歴史特集が組まれ、とても興味深く読みました。
 
その内容は・・・
 
(1)諸説が錯綜する黒幕と実行犯
 
暗殺の黒幕は京都守護職か?、紀州藩か?、それとも薩摩藩か?。
実行犯は新選組なのか?、京都見廻り組なのか?、当時からさまざまな噂が飛び交っていた。
 
・黒幕としてまず名が挙がったのは、京都守護職・松平容保と目付け役・榎本道章。
・紀州藩の黒幕説も・・・
 4月に起こったいろは丸と紀州藩の明光丸の衝突事件で、紀州藩は海援隊に莫大な補償金を
 支払うことになったが、それを恨んで紀州藩の三浦休太郎が暗殺を企てたというもの。
 
海援隊の陸奥陽之助は紀州藩の策謀と断定、慶応3年12月7日、三浦の宿泊する天満屋を急襲。
三浦他、紀州藩士3名、新撰組10名と大乱戦となった天満屋事件を起こした。
 
・薩摩藩の黒幕説も存在したと・・・
 薩摩藩は武力による討幕を主張していたが、龍馬が提示した策を受けて大政奉還がなされ、
 徳川家を存続する道が開かれたため、龍馬の存在が邪魔になったのではと・・・
 
 (2)諸記録から真相に迫る
 
実行犯として最初に疑われたのが新選組で、
土佐藩が主張する「黒幕は紀州藩、実行犯は新撰組」説が長らく信じられてきた。
 
尾張藩の「尾張藩雑記・慶応三年ノ四」と鳥取藩の「慶応丁卯筆記」には、近江屋には犯人の遺留品
らしきものとして、刀の鞘一本と、二足の下駄が残され、下駄は料亭の「中村屋」と「噲々堂」のものと・・
近江屋の主人井口新介は下駄は「瓢邸」の一足で、新選組が借りたものだと証言したと記されている。
刀の鞘については、新選組の原田左之助のものという説と京都見廻組の渡辺篤のものという説が・・・
 
鳥取藩は、新選組を早く吟味するよう、土佐藩が幕府に強く迫ったと伝えている。
新選組の近藤勇が新政府軍に捕えられたとき、早々に斬首されたのは土佐藩の強硬な主張からと・・・
 
函館の戦いで捕えられた京都見廻組の今井信郎の明治3年の供述では、
実行犯は見廻組で、指示は京都守護職(松平容保)から出ていたのかもしれないと語っている。
今井はこの時、「自分は見張り役だった」と・・・
その後、明治33年の取材では自分が直接手を下したと全言を変えている。
そして明治44年、今井と同じ京都見廻組の渡辺篤が、
今井の話を裏付ける書を発表し、再び見廻組説が再び注目されるように・・・・
 
(3)慶応3年11月15日とその後・・・・
幕府や実行犯について異説があるように、暗殺当日の経緯や訪問者にも異なる証言が残され、
当日の経緯についても異説が多いとか・・・
 
11月15日、白川の陸援隊に事件を知らせたのは当時龍馬の使い走りをしていた菊屋峯吉だった。
事件を陸援隊に知らせるように頼んだのは中岡本人だという証言と、土佐藩士だったという証言が・・・
 
近江屋の悲劇は手紙で関係者に伝えられ、松平春嶽は16日土佐藩の福岡藤次から直接知らされた。
中岡慎太郎の実家には、故郷が同じ海援隊士が24日付の手紙で知らされた。
藩邸で知らせを聞いた西郷隆盛は、龍馬をなぜ匿わなかったと後藤象二郎を非難し、慟哭したという。
 
長崎の海援隊本部はすぐさま、龍馬の支援者で下関の商人・伊藤助太夫に知らせた。
伊藤家には龍馬の妻・お龍が身を寄せていたから・・・その知らせが届いたのは12月2日だったと・・・
伊藤から長府の三吉慎三らに、お龍にどのように知らせたらと相談の手紙を書いている。
 
海援隊は、大阪では長岡謙吉が実質的な隊長となり、旧幕府領の伊豆諸島に乗り込んで島を管理。
長崎では土佐藩の大監察・佐々木高行が指揮して、慶応4年1月には長崎奉行所を接収した。
しかし、4月には解散を命じられ、大阪、長崎ともに新政府軍に加えられ、海援隊の名はここで消滅。
 
陸援隊は天満屋襲撃後、高野山で挙兵して、紀伊方面の佐幕派の諸藩を牽制したが、
鳥羽・伏見の戦いを経て新政府軍に合流。
 
明治3年8月、朝廷において、龍馬と中岡の家督相続が問題に・・・
坂本家では龍馬の甥・高松太郎が家督相続を認められ、坂本直と改名、永世15人扶持を与えられた。
 
土佐勤王党弾圧で自刃した武市半平太は、
明治24年、龍馬や中岡、吉村虎太郎とともに朝廷から正四位を贈られている。
 
 
 
 
短くも激動の生涯を駆け抜けた坂本龍馬。
夢に向かってまっしぐらに突き進み、日本を改革に導いた。
数々の偉業を成し遂げた龍馬は、時に熱く、時にユーモアを交えた言葉で人々の心を動かしました。
33年の人生を縦横無尽に駆け抜け、龍馬は道半ばで新しい時代を見ることなく、この世を去ったが、
その志と夢はその後、さまざまな形で人々に受け継がれていったことは云うまでもありません。
 
大河ドラマ 龍馬伝も来週で最終回ですね。
この「坂本龍馬ゆかりの地巡り」のブログも今回で終了です。
 
最後まで読んで頂き有難うございました
未熟な内容にも関わらず、毎回お越し頂き、また、コメントまで頂き嬉しかったです。
 
 
来年の大河ドラマは、浅井長政とお市さまの三女・江(ごう)姫が主人公のようですね。
長女・茶々姫(淀)は有名なので知っていますが、江姫はまったく知りませんでした
 
 
 
 
 
明日から龍馬さんを偲びながら京都の紅葉見物に。。。
 
なので、
 
暫くの間、ブログはお休みです。
 
 
本当に長い間有難うございました 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伏見と幕末と云えば戊辰戦争の発端となった ”鳥羽伏見の戦い”の舞台としても有名です。
 
慶応2年(1866)1月24日、龍馬と三吉慎蔵が襲撃された寺田屋事件では、松平容保の命を受けて
伏見奉行所の捕り方約100人が寺田屋を取りを囲んだが、二人とも取り逃がすという大失態を演じた。
 
衰えた幕府に見切りをつけた薩摩は、龍馬立ち合いで、宿敵と見なしていた長州と薩長同盟を締結。
両藩が手を組んだことで、幕府の第二次長州征伐は敗北に終わります。
 
これにより幕府は急速に求心力を失い、公武合体派だった土佐藩藩主・山内容堂も薩土盟約を結ぶ。
龍馬は大政奉還の基となる船中八策を後藤象二郎に示し、これにより土佐藩は大政奉還を建白
 
 
慶応3年(1867)10月14日
徳川慶喜はこれを受け入れ、二条城二の丸御殿の大広間でついに大政奉還を表明します。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 1
大政奉還を表明したその一か月後の11月15日、
坂本龍馬は河原町・近江屋にて中岡慎太郎とともに刺客に襲撃され死亡。
この非業の死の翌月、王政復古の大号令が発せられ新生日本が誕生しました。
 
 
 
 
あくまで倒幕を目指していた薩摩・長州は
明治天皇の王政復活の大号令の後、
慶応3年12月9日
討幕派公爵・岩倉具視らとともに
小御所会議で、徳川慶喜の辞官・納地が決定。
 
 
 
 
 
王政復古の大号令のあと、幕府は新選組を伏見奉行所へと・・・・・
 
慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)は徳川慶喜の辞官・納地を不服とする
旧幕府軍と、これを迎え討つ薩長軍(新政府軍)との間で勃発しました。
 
 
会津・桑名藩を主力とする約1万5000人の幕府軍は、1月2日の朝、大阪を出発して淀に入り、
そこから二手に分かれ、主力部隊は3日未明に伏見奉行所へ、別部隊は鳥羽へと向かった。
 
 
 
 
 
            
          伏見奉行所と薩摩藩が本陣を構えた御香宮神社は目と鼻の先です
 
 
伏見の御香宮神社に陣取った薩摩軍と伏見奉行所にいた幕府軍との間で、朝から睨み合いが続いた。
1月3日の午後4時頃、鳥羽方面から砲声が轟いたのをきっかけに、伏見でも戦闘が始まった。
 
 
伏見奉行所に陣取っていた土方歳三率いる新選組と幕府軍は新政府軍を切り離して墨染まで撃退。
しかし、薩摩藩の近代兵器の前に幕府軍は惨敗、伏見奉行所は炎上、町に火を放ちながら逃走した。
 
寺田屋は、この鳥羽伏見の戦いで焼失しました。
 
 
魚三楼
明和元年(1764)創業の京料理の老舗です。
 
伏見港に水揚げされる瀬戸内の魚介や
京野菜を使って、
各藩の大名屋敷の料理方などを務めていました。
 
鳥羽伏見の戦いでは店の前の京町通で
銃撃戦が繰り広げられ、伏見の町の南半分が焼失、町は焼け野原に・・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
     薩摩軍の炊事方を務めていたことから、
    薩摩軍に庇護されたと云われ、
    店は奇跡的に戦火を免れたと・・・・
    
    現在でも玄関の出格子には
    刀傷や弾痕跡が残っています。 
 
 
薩長軍は近代兵器で幕府軍を攻撃、さらに、皇軍の印錦の御旗を掲げ自らを官軍、幕府軍を賊軍と・・・
これにより淀藩・津藩が新政府側につき、旧幕府軍は敗退。慶喜は江戸城へ逃れ恭順の意を示した。
 
 
 
 
  大打撃を受けた新選組は
  ”甲陽鎮撫隊”と名を変え
  甲府へと進軍するが敗退。
 
  慶応4年(1868)4月11日、
  西郷隆盛と勝海舟の話し合いにより
  江戸城は無血開城された。
 
 
 
 
 
 旧幕府軍や新選組は北を目指すが会津でも敗北。
翌年の明治2年(1869)5月11日、
土方歳三は函館・五稜郭で戦死(享年35歳)、榎本武揚の降伏により戊辰戦争は終結しました。
 
 
 
 
 
 
 
淀川は古くから京・大阪・瀬戸内海を結び
また、琵琶湖を経て東海道や北陸へも連なった交通の大動脈でありました。
  
 
 
 
  寺田屋は百姓だった伊助が
  慶長2年(1597)に現在の地
  伏見京橋に移って船宿を開業。
 
  出身の寺田村の村名から
  屋号を寺田屋に・・・・
 
 
 
 
 
 
 
 大阪と京都間の通船三十石船の
 京側の発着地のひとつ南浜に
 寺田屋浜という船着き場を
 持つ大きな船宿でした。
 
 
 
 
 二時間ごとに30名余りの客の食事、休息、入浴などの世話をするので大変忙しい日々でした。
しかし、一人三百文(慶応期)の船賃のうち二割が収入となるので豊かな船宿が多かったそうです。
 
 
寺田屋は幕末の頃に二度、歴史の舞台に登場します。
その一つが、坂本龍馬と三吉慎蔵が襲撃された寺田屋事件です。
 
 
 
 もう一つが
 寺田屋事件の約4年前の
 文久2年(1862)4月23日
 討幕の挙兵を決行せんと計画する
 薩摩藩急進派と他藩士達が
 寺田屋に集合し、薩摩藩士9名が
 犠牲となった寺田屋騒動です。
 
 
 
 寺田屋の玄関横には伏見寺田屋殉難九烈士之碑があり
また、隣の敷地には坂本龍馬像と薩藩九烈士遺蹟志の碑が建てられています。
 
 
勝海舟は"薩長連合、大政奉還、あれはぜんぶ龍馬一人がやったこと"と・・・・
 
  
 
 
6代目寺田屋伊助の女房のお登勢は
多くの志士たちを助けたことで、
寺田屋といえばお登勢と
云われるほどに・・・・
 
寺田屋騒動の後、
即座に畳や襖を取り替えて、
船宿を営業できるようにした女傑ぶりが伝っている。
 
 
 
 
龍馬はお登勢のことを"この人学問のある女で人物也"と評していたとか・・・ 
 
 
 
龍馬の部屋の床の間に掲げられている
坂本龍馬の掛け軸です。
 
この肖像画は寺田屋の女将お登勢が
嫌がる坂本龍馬を説得し
画家に描かせたものです。
 
円山公園の銅像は
この肖像画がもとになっているそうです。
 


 
 
 
 
 
 
高杉晋作が龍馬に贈った銃のレプリカが・・・
寺田屋事件ではこの銃を使用
しかし、事件の際この銃を紛失。
 
後に、銃を買い求め、妻・お龍とともに1丁ずつ所持
近江屋で襲撃されたときには
発砲することなく殺害されたと・・・・

  
 
 
寺田屋保存会によって建立されたお登勢明神
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  カップルの守り神として建てられたもの。
  龍馬さんとお龍さんのご利益があるかも…♪
 
 
 
 
 
 
 
一命を取り留めた龍馬が身を寄せた薩摩島津伏見屋敷の近くに大黒寺があります。
 
 
この寺は薩摩藩の祈願所で、通称・薩摩寺とも呼ばれています。
境内には西郷隆盛によって建立された寺田屋騒動で命を落とした薩摩藩士の墓があります。
また、西郷隆盛と大久保利通が国事について語り合った一室が残されているとか・・・・
 
 
大黒寺の真向かいにある寺田屋の菩提寺・松林院があります。
 
 
 
   
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
墓地には当時の当主寺田屋伊助と
女将お登勢のお墓が並んで建てられています。
 
 
 
 
 
 
 
 
ここ寺田屋は、三つ目の寺田屋騒動として、数年前に週刊誌を賑わせたことがありましたね。
寺田屋が再現され、展示されている品々がレプリカでも当時の様子を思い巡らすことができるのは、有難いことだと・・・・
近江屋のように石碑だけで、その場所に不似合いなコンビニよりは・・・
 
 
 
午前中に京都御苑と御所を見学、そのあと伏見へ・・・・・
 
イメージ 2
 
 
伏見は大阪からの三十石舟と、二条への高瀬舟の乗り換え地という交通・物流の要衝として発展。
土佐、長州、薩摩といった西国から京に入る際は、必ずこの伏見が入り口となっていました。
 
 
 
 
 
伏見は酒蔵の町としても有名で
酒蔵(月桂冠)が並ぶ風情豊かな
景色は新京都百景のひとつです。
 
濠川には当時の面影漂う
十石舟が・・・
 
 
 
 
 
 
 
港の中心だった京橋付近には本陣が4軒、脇本陣2軒、船宿や旅籠が39軒あったと云われています。
寺田屋は伏見でも五本の指に入る大きな船宿だったと・・・・
 
 
 
伏見の船宿の寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失したものの、その後、当時の姿に再建されています。
 
 
 
 
女将のお登勢は、放蕩者の主人が亡くなった後も、女手ひとつで切り盛りし船宿を繁盛させていた。
寺田屋は薩摩藩の定宿であったことから、藩邸と連絡を取るために龍馬も常連客となったとか・・・
面倒見のいいお登勢は志士たちに献身的に援助、龍馬はおかあと呼んで慕い、妻のお龍を預けます。
 
 
 犬猿の仲と云われた
 長州藩の桂小五郎と薩摩藩の西郷隆盛が会見し
 薩長同盟を締結させた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  薩長同盟直後の慶応2年(1866)1月23日
  坂本龍馬は長州藩の三吉慎蔵とともに
  寺田屋に宿泊します。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  その寺田屋を取り囲む不穏な気配を
  察知したのが入浴中のお龍でした。
 
 
  風呂に入っていたお龍が
  幕吏に取り囲まれたのをいち早く察知
  裸で二階の龍馬らに急を告げ
  お龍は伏見の薩摩藩邸に救援を求めます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  捕り方に対して龍馬は銃で三吉慎蔵は槍で
  反撃するが、龍馬は瀕死の重傷を・・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
負傷した龍馬を肩に掛けふたりは二階の窓から屋根伝いに逃げます。
 
 
途中の寺に伏見奉行所の捕り方がいるのに気付いた三吉慎蔵は、濠川沿いの近江屋三郎兵衛の
材木小屋に龍馬を隠し、救助を頼むため伏見薩摩藩邸へと・・・・・
 
 
 
 
 
 
寺田屋で襲撃され、傷を負った龍馬が運び込まれたのが薩摩島津伏見屋敷跡でした。
 
イメージ 1
 
 
お龍が助けを求め、それに応じて屋敷の留守居役が龍馬の潜む濠川沿いの材木屋へ船をだし救出。
龍馬はお龍とともに暫くの間匿われたのち、傷を癒すためにお龍と鹿児島へと・・・・
これが日本で最初の新婚旅行だと云われています。
 
 
 
この薩摩島津伏見屋敷は薩摩藩が江戸と薩摩を行き来するときの滞在地だったようです。
13代将軍・徳川家定の正妻・篤姫も江戸への道中にこの屋敷に滞在していたとか・・・・
 
 
 
 
 
 
京都御苑は砂利を敷いた広い苑路と芝生や松林で構成されています。
御苑内には約5万本の樹木が生育され、楠や銀杏・欅などの巨木は御苑の風格を高め
梅や桃、桜、楓などの樹木は御苑の四季を彩り、自然と歴史あふれた庭園として親しまれています。
 
現在の穏やかな風景からは想像できないが、幕末、この地は血塗られた戦闘の舞台に・・・・・
 
 
 
 
 
 
小御所(京都御所内
京都御所内にあり、立太子の儀や元服などが行われました。
 
       
 
 
慶応3年(1867)12月9日
王政復古の大号令が発せられ、小御所会議で徳川慶喜の辞官・納地が決まりました。
 
 
 
皇女和宮生誕の地
孝明天皇の異母妹・和宮は生まれてからここで14年間を過ごしました。
 

 
 
公武合体政策のために有栖川宮熾仁親王との婚約を破棄され、14代将軍・徳川家茂に降嫁します。

 
   桂宮邸跡地
 
 和宮が徳川14代将軍家茂に
 嫁ぐ前に住んでいたところです。
 
 明治維新後は、徳川慶喜の
 助命にも尽力しました。
 
 明治10年(1877)
 療養先の箱根で没し、増上寺の
 徳川家茂公の墓所に並んで
 葬られています。 
 
 
 
 
 
猿ヶ辻
御所の鬼門にあたる東北部分の築地塀は、直角を避けて内側にへこんだ形状となっています。
 
 
 
文久3年(1863)5月、公家の中で攘夷派の中心人物であった姉小路公知(あねがこうじきんとも)が
朝議からの帰途この辺りで刺客に襲われ、暗殺された猿ヶ辻の変はここで起こっています。
 
 
 
築地塀が折り曲がった部分の
屋根裏に一匹の木彫りの猿が
置かれています。
 
烏帽子姿に御幣を担いだ猿は
御所の鬼門を守る日吉山王神社の死者ですが、夜になるとうろつき
いたずらをしたため
閉じ込められたと云われています。
 
 
 
 
 
 
  学習院跡地
 
 閑院宮出身の光格天皇は
公家の教育振興に取り組みました。
 
次の仁孝天皇の代で幕府より
学習院の創設が認められ
孝明天皇が在位中に開講された。
 
 
 
 
 
 
 
 
明治天皇生誕の地(中山邸跡)
 
 
後の明治天皇となる祐宮(さちのみや)は、幕末期の公家・権大納言中山忠能(ただやす)邸跡で
その娘権典待慶子を母として寛永5年(1852)に生まれました。
 
 
 祐宮はここで4年間養育されたと
 云われています。
 
 敷地内の井戸は、祐宮2歳の夏
 干天で井戸が枯れたため
 新たに掘られたもので
 その名に因んで
 祐井と名付けられています。 
 
 
 
 
 
 
薩摩藩邸跡碑
薩長同盟締結の舞台となった薩摩藩邸は二本松藩邸といわれ、同志社大学の西側一帯にあった。
 
 
現在は二本松薩摩藩邸の跡を示す石碑は、同志社大学の西側の門近くに立てられています。
 
 
 薩摩藩の動向が幕末の情勢を左右。
 慶応2年、ここで桂小五郎と西郷隆盛により
 薩長同盟が締結されたという。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  御所の北側に有る今出川通りを隔てて
  近衛家の屋敷(御苑内)と向かい合うように
  藩邸は建っていたようです。
 
 
 
 
 
同志社大学の塀は凄かった  w(゚ー゚;)wワオッ!!
まるで薩摩藩邸が現在も置かれているのでは・・と思ってしまうほど。。。
 
 
 
 
 
大久保利通旧邸跡地
薩摩藩士・大久保利通は、藩邸から離れ、民家に隠れ住んでいました。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩倉具視らと討幕の為の朝廷工作に携わり大政奉還から王政復古に尽力しました。
新政府の参与や初代内務卿などを歴任するも、明治11年に暗殺されています。維新三傑の一人。

 
 
 
 
 
 

 

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