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厚真の震災以後、死ぬ前にもう一度行ってみたいと思っていた上厚真に行ってきました。以前は浜厚真までJRで行って、そこから生まれ育った五区を歩いて上厚真へ行ったんですが、歩き疲れてもタクシーを拾うというわけにもいかない地域ですから、沼ノ端からバスで上厚真に行って、厚南会館で自転車を借り、五区を通って浜厚真へ行きました。私が生まれ、14才まで住んだところは苫東工業地帯で草ぼうぼう、原生林のようなありさまでしたが、道1本挟んで隣の佐藤さんも向かいの石田さんも元の場所に住んでいました。福沢さん、川戸さん、曽我さん、国本さんもありました。子供のころ苗植え、稲刈りを手伝わされた水田は、牧草地か芋畑に代わっていました。
上厚真に戻って昼のバスで帰るつもりが乗り遅れてしまったので、軽舞まで足を延ばしました。油田の痕跡を見たかったのですが、現地の人に聞いても、エ!油田なんてあったの?って調子でガッカリでした。北海道150年とか言ってますが、郷土史なんて学校で教えないのかな?
昔親父が浜で魚を仕入れて、石油で景気の良かった軽舞で売って儲けたという話を聞いていたのですが、自転車でも結構な距離(片道10キロくらい?)、当時は徒歩だったはずです
。14歳で死に別れた親父を偲びました。 1
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自分史メモ
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断捨離しようと古い日記帳などを整理しいていると、なかなかに面白いものが見つかります。
もっとも、面白いと思うのは私の基準であり、他人様にとっては面白くも可笑しくもない、所詮年寄りの昔語りです。
固有名詞は時々仮名を使います。それでもなお、差し障りのある文がありましたら、ボケに免じてお許しください。
もっとも、面白いと思うのは私の基準であり、他人様にとっては面白くも可笑しくもない、所詮年寄りの昔語りです。
固有名詞は時々仮名を使います。それでもなお、差し障りのある文がありましたら、ボケに免じてお許しください。
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と言っても、私の生まれた上厚真地区は被害の大きかった北部の山岳?地帯と違って苫東に続く平べったい地域なんで、山崩れのような直接の被害はなかったようなんですが…。
当時、浜厚真にもチョットした市街地があって、わが家は上厚真と浜厚真のちょうど中間地点、どっちにも2キロくらいのとこにありました。苫東工業地帯に入るということで立ち退きを食らい浜厚真の市街もなくなりました。道1本挟んだ隣は残ったんですが、どっちが良かったことやら。
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身内に戦死者はいないって書いたけど(↓「原爆の日から敗戦の日まで」)、戦死ではないけど、私のカミサンの父親が、1942年5月26日、オホーツク海の湧別の海岸に漂着した機雷の処理に駆り出され、爆破によって死んでいます。当時、カミサンは1歳半、上に姉1人、兄2人。4人の子供を抱え、あの戦時下を生きた母親の苦労は察するに余りある。 もっとも、カミサンも苦労したでしょうが。
僕の古くからの友人がフェミニストで、妻とか、女房という呼び方を嫌い、「お連れ合い」と呼んでいます。男にも女にも使えて良いなとは思いますが、何となく照れ臭くて、色々考えたうえ、余り差別的な意味を持たない「かみさん」にしてみました。男の場合は・・・?やっぱり「連れ合い」かなあ。
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この10日間前後は、敗戦の年を思い出すことが多い。
僕は小学校2年生だったから、勿論、兵隊には行かなかったし、幸い、身内にも戦死した者はいません。上の兄は、当時警察官だったせいか、招集されたのは敗戦直前で、戦地には行かずに、敗戦と同時に帰ってきました。下の兄は旧制の中学1年生で、クソ真面目な男だったから、もう少し戦争が長引いていたら、特攻隊になっていたかもしれません。
何かの話の折、親父が、「兵隊も、戦争のない時は良いけど、戦争の時の兵隊はだめダンダ」と言ったのを憶えています。日中戦争の始まった1937年に生まれた僕には、戦争のない時の兵隊など、想像できないことでした。
当時、先生から、将来何になりたいかと聞かれたことがあります。農村ですから、ほとんどの子が百姓と答えました。市街地の子で、お菓子屋さんと言った子もいました。そんな中、僕は「陸軍大将」と答えていました。先生のリアクションは記憶がありませんが、ガキどもからは、「ヨオ、陸軍大将」と冷やかされたものです。
そんなのどかな田舎でも、一度、空襲がありました。ネットで調べると、1945年7月14,15日の北海道空襲のことだと思います。
家から2キロほどの浜厚真の浜で、爆発音とともに水柱が上がりました。道路を歩いていた僕は、急いで側溝に伏せました。多分同じ頃、裏の林の中に避難したこともありました。
軍事工場も何もない地域ですが、海岸にトーチカがいくつか作られていました。
14日には浜厚真の漁場主と漁民が機銃掃射を受け死亡した。ともに氏名は判明している。
15日には浜厚真の沖合で、駐屯部隊の漁労班乗り込みの漁船が攻撃された。この時2人の兵士が即死しているが、『厚真村史』『北海道空襲』などには氏名は掲載されていない。
【厚真空襲の犠牲者】 氏名判明・・・民間2、船員0、軍人1 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人1 |

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鵡川のはずれ、いもっぺの地蔵さんのお祭りが賑やかで、多分5、6年生の頃だと思いますが、小遣銭を握り締めて、友達と一緒に歩いて行った記憶があります。カーバイトで明々と夜店が並び、大きなお堂に泊ったような覚えもありますが、こっちの方はもっと幼いころで、親と一緒に行ったのだと思います。
私の記憶では、「いもっぺ」というのは、鵡川から浜厚真よりの海岸にありました。私たち子供は、行きも帰りも徒歩で、いもっぺから西に歩きました。汽車に乗る人は、東へ、鵡川駅に向かって歩いたはずでした。
ところが、インターネットで調べたところ、いもっぺは鵡川より日高寄りにあるということです。
子どもの記憶というか、年寄りの記憶というか、ずいぶんとあいまいなものです。
591 :天之御名無主:04/02/14 18:33
シシャモ漁で有名な胆振の鵡川。町名の由来である一級河川・鵡川の支流 イモッペ川に沿うた宮戸地区に、円空作とも言われている木製の地蔵菩薩像があります。 1825(文政8)年、ここに漂着していたものをアイヌの若者が発見し、 コタンの神様としておまつりしていたのが始まりです。 やがて鵡川町の開拓が進み、鵡川大漁地蔵尊、通称「イモッペ地蔵さん」として 多くの人の崇敬を集めるようになりました。イモッペ地蔵は大漁、厄除けの お地蔵様であるのと同時に、縁結びのご利益があると専らの評判でした。 やがて何時の頃からか、毎年8月の例祭の晩に限り、未婚既婚に関わらず 男女がお互い好き同士に交わっても許されると言われるようになりました。 お蔭で祭りの期間は住民は勿論のこと、噂を聞きつけた近在の男女が大勢押しかけ、 いつも大賑わいの様相を見せていたということです。そして祭りの晩に 授かった子は地蔵の申し子として、父親が誰であろうと大切に育てたということです。 戦後はそうした不思議な風習もすっかり廃れ、祭りも以前とは比べ物にならぬ程 小規模なものになってしまいましたが、 イモッペ地蔵尊は今でも境内のお堂の中で、昔と変わらぬ微笑を浮かべながら、 町を見守り続けております。 |

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