「『グレート・ギャツビイ』を三回読む男なら俺と友だちになれそうだな」と彼は自分に言いきかせるように言った。そして我々は友だちになった。十月のことだった」(村上春樹『ノルウェイの森』)
『グレート・ギャツビー』の翻訳本は、すでに5人の訳者によって6社から出版されているそうだ。
橋本福夫訳の早川書房版と大貫三郎訳の角川書店版では『華麗なるギャツビー』と邦題がついており、現在『グレート・ギャツビー』として刊行されている野崎孝訳の新潮文庫版も当初は『偉大なるギャツビー』となっていた。
――『グレート・ギャツビー』は、幾人もに翻訳され、題名にバリエーションがある特異な小説だといえる。
昨年の11月に出版された村上春樹訳も、内容はもちろんのこと、「題名はどうなるのか?」が大きな話題だった。
そして、村上訳が――『偉大なる』でも『華麗な』でもなく――結果的に『グレート・ギャツビー』として刊行されたことは、「成功」だったように、私は思う。
それは原作の「グレート」という意味合いには、どんな日本語を使ってみたところで「届かない」ように感じられるからである。
それは、春樹さんがギャツビーの口癖である「old sport」(野崎訳では「親友」)を、「old sportはオールド・スポートとしか言いようがない。日本語では表せない」と原語のまま「オールドスポート」と訳したのと同様に、その「言語」の微妙なニュアンスをそっくりそのまま翻訳することがいかに難しいかの証左でもある。
大晦日、「ギャツビーはいかにグレートなのかしらん?」と本作をむさぼるように読んでいて、知らぬ間に年を越していた。「うわああ、大失態だ」などと思いながらも、そのまま読み続け一気に読了した。
そうして得た結論として、彼の「グレートさ」というのは、少なくとも「華麗」だからではないと思うのである。
いや、もちろん「華麗さ」というのはジェイ・ギャツビーの「グレートさ」の一端を担うものなのだが、それは強調されるべきものではない。
連夜パーティーを開き、大勢の人間を――主催者であるギャツビーの顔すら知らないような人まで――集め、豪奢な屋敷に住む資産家。
にも関わらず、素性は謎に包まれており、誰も彼の「正確な」人生を知らない。
――などと聞けば、金持ちが道楽で刹那的な享楽を求めているだけのようにも感じられる。
しかし、ギャツビーの過去が明らかになるにつれて、少しずつ彼の本当の意味での「グレートさ」が浮き上がってくる。
なぜ彼はパーティーを開いていたのか――?
そこに秘められた謎にこそ、ギャツビーの「グレートさ」が隠されている。
これは恋愛の物語であり、「失われたもの」を取り戻すための物語であり、そして何より「悲劇」である。
彼の「グレートさ」は悲しく儚いものであった――そして、それゆえに美しいものでもあった。
作者のスコット・フィッツジェラルドは俗に“失われた世代”と呼ばれる作家たちの一人である。
第一次世界大戦後の大きな「空白的」虚無感の中で、彼は自らの創造したギャツビーの手によって「失われたもの」を必死に掬い取らせようとする――それは、フィッツジェラルド自身の「願い」そのものにも見える。
しかし、「失われたもの」がギャツビーの手に再び「(失われる前と)同じように」戻ってくることはなかった――実際のフィッツジェラルドがそうであったように、決して。
(ここらへんの「事情」については、「訳者あとがき」に詳しく載っている)
連夜ギャツビーの家で狂乱じみたパーティーは繰り返されるが、その表層的な「華やぎ」の裏には、多くの虚無が――恐らく、意識的に――隠されている。
最終章で浮き彫りになるその「虚無」が、ギャツビーの「華やぎの裏」に隠された――「失われたもの」を取り戻そうとする――「グレートさ」を、より一層引き立てているように思えた。
待ち受けるラストは、あまりに悲しく胸に迫る。
30ページ近くもある「訳者あとがき」には、春樹さんの『グレート・ギャツビー』への熱き思いが詰まっている。
春樹さんにとって『グレート・ギャツビー』は「きわめて重要な意味を持つ作品」なのだという。
人生で巡りあった最も重要な一冊を挙げろと言われれば、「迷うことなく」『グレート・ギャツビー』を選ぶと語るほどに。
「もし『グレート・ギャツビー』という作品に巡り会わなかったら、僕はたぶん今とは違う小説を書いていたのではあるまいかという気がするほどである(あるいは何も書いていなかったかもしれない。そのへんは純粋な仮説の領域の話だから、もちろん正確なところはわからないわけだが)。」
カッコよく言えば『グレート・ギャツビー』は、
「村上春樹を作家へと導いた本」
ということになるだろう。
春樹さんほどの「熱」をもって本作を受け入れられるかは、また別の問題ではあるが、
本作が少なくとも一人の世界的作家を生み出した傑作であることは間違いない。
【余談】
今日1月12日は春樹さんの誕生日。
それに合わせて本作の記事を載せてみました。
07年に読んだ本としては初の記事です。
今年も何卒よろしくお願いします、オールドスポート。
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おぉ〜ギャッツビーだ!!なるほど。やっぱり彼はグレートでしたか。じゃ、今ならそれがわかると信じて読んでみることにします☆翻訳本を読む時によく感じることだけど、タイトルの力って大きいですよね。「華麗」なのか「偉大」なのか、はたまた「グレート」なのかで、ギャッツビーへのイメージが結構変わりますもん。しかし、直訳でいける場合ばかりでもないだろうし、原題をそのままカタカナにしたら伝わりにくくなる場合もあるだろうし、かといって捻った訳を考えるのも難しいだろうし、、、翻訳家も大変ですよね〜
2007/1/12(金) 午前 2:34 [ さら ]
やっぱり彼は「グレート」でした(笑)映画版のタイトルも『華麗なるギャツビー』でしたし、正直、金持ちだから「グレート」なのかな?くらいの気持ちで読み始めたのですが、想像を上回る「グレートさ」に、「おおお!!」、とw『華麗な』と『偉大なる』でも、ずいぶんイメージ違いますし、翻訳って奥が深いですよねぇ☆「訳者あとがき」を読んでいて、もはや、翻訳家が違えば、違う作品なんじゃないかとすら感じました。高校生以来の『グレート・ギャツビー』リベンジですねw良かったら感想聞かせてください♪
2007/1/12(金) 午後 0:22 [ typhooon_number23 ]
TBさせていただきました。 素晴らしい本に出会えた喜びがしばらくおさまりませんでした。
2007/2/27(火) 午後 11:53 [ taumu ]
私も同感です☆春樹さんのおっしゃることが決して大袈裟ではないとわかり、感無量でした。同士ですね、オールドスポート(笑)
2007/2/28(水) 午前 0:00 [ typhooon_number23 ]