「時として問いは、答えを圧倒する」(米ドラマ『HEROS』)
4月25日、私は長野駅に降りたった。
中国によるチベットの人権侵害問題に端を発し、全世界で妨害行動が続発する北京五輪の聖火リレーが翌日にせまっていた。わが社からは、私を含めキャップ、野球担当、五輪担当、写真部の5人が取材のために派遣された。
街はにわかに浮き足だっていた。
当初のスタート地点だった善光寺は、チベット問題をかんがみて場所提供を辞退。出発地はかつて刑務所のあった県勤労者福祉センター跡地という「空き地」へと変更された。
リレーコース上には、万一、街が混乱に陥ったときのために26日が休校になった学校もあった。道路には、右翼などの街宣車が溢れ、聖火リレー中止を訴える声が響き渡っていた。
夜には、興奮した人々が駅前で花火を打ち上げる始末。
朝まで街が眠ることはなかった。
翌朝5時ごろ、シャトルバスで大勢の中国人留学生が長野入りした――その数5000人。
6時ごろには、すでに赤い中国国旗を振り回す中国側と、チベット国旗をもった日本の、チベット問題を憂いた人々、騒動を一目見ようと集まった野次馬、聖火リレーにかこつけて政府批判を展開しようとやってきた活動家たちが道路を隔てて「応援合戦」を始めていた――「ワン、チャイナ(中国はひとつ)」VS「フリー、チベット(チベットに自由を)」。
お互いに声で負けてなるものかと、どこか本質を見失った声の枯らしあいが1時間以上も続いた。
そして、リレーの結果はご存知の通りである。
逮捕者5人。卓球・福原愛ちゃんの走っている最中には妨害者が現れ、欽ちゃんには、ゴミが投げつけられた。
リレー終了後の虚脱感はすごかった。途中から雨が降り出したこともあり、疲労感たっぷりで原稿を書き始めたのを覚えている。
たくさんの「なぜ?」があった。
「なぜ、こんなことになってしまったんだろう?」
「何が、人々をここまで駆り立てたのだろう?」
問いが、答えを圧倒した。
敵はあまりにも大きすぎた――それらしき「答え」が世間には溢れ、声高に叫ばれ、そして浮かんでは消えていった(その気持ちは、その3ヵ月後に秋葉原通り魔事件で再び味わうことになる)
ただ、何にもまして全身を覆うのは「もう2度と起きないであろう、未曾有の出来事に遭遇しているのだ。その現場に自分はいるのだ」という奇妙な高揚感だった。「その軌跡を自分は残しているのだ」、と。
「俺は『新聞』を作りたいんだ。『新聞紙』を作るのはもう真っ平だ。忙しさに紛れて見えないだけだ。北関は死に掛けてる」
1985年8月12日。蝉の声が聞こえる、うだるような夏。
日本航空123便墜落事故――通称・御巣鷹山墜落事故の起きた夏。
そのとき、もし自分がこの事故に立ち向かうことになっていたとしたら――。
一体どうなっていただろう、と考えずにいられない。あの山に太刀打ちできただろうか。「いや・・・」、とその想像をすぐに打ち消したくもなる。
『クライマーズ・ハイ』で記者としての人生観を変えられてしまった。
記者とは、このような人たちを言うのだ、と。
横山秀夫が、デビュー前に勤めていた上毛新聞/記者時代に遭遇した、この、墜落事故を元に書き上げた渾身の作品。確かな大傑作であった。
未曾有の大事故である。
それこそ、聖火リレーなんて、霞に霞んで姿すら見えないほどの。
乗員乗客524人を乗せた旅客機が墜落。520人の命が、一度に飲み込まれた。
想像することはできても、決して「届くこと」のできない事故だと言っていい。
舞台は上毛新聞社をモデルにした北関東新聞社(上毛はライバル社の設定)。
日航事件の全権デスクを任されたベテラン遊軍記者・悠木を軸に、地元・群馬に墜落した日航墜落事故という巨大な相手との戦い、社内の政治的腐敗、編集/広告/販売/出版など部署間のすれ違い、地方紙VS全国紙の図式、記者の力量、スクープの難しさ――大事件を前に噴出した新聞社の内情/問題点がこれでもかと描かれていく。
公開中の映画では、リアルさにこだわり、同社の編集社員50人をすべてオーディションし、全員に名前、肩書き、癖、バックボーンを設定。墜落を知らせる共同電の緊急速報チャイムは本物同様で、仕事では絶対に聞きたくないものだけにえらく緊張させられる。(一度、ロシアのゴルバチョフ元書記長が亡くなったときにリアルタイムで聞いたことがある。社内はシーンと静まりかえり、全員がすーっと耳を澄ませた)
悠木役の堤真一、エース記者・佐山を演じた堺雅人の演技には鬼気迫るものがある。
「結局 言葉は真実を伝えるものではなく 石器や武器と同じ 単なる武器でしかないってことだ」(漫画『営業の牧田です。』かわすみひろし)
本作の最大の魅力は、記者の生き様である。
問いに圧倒されながら、答えを出そうともがく――闘う姿勢である。
なんども踏みにじられ、なんども絶望する。
それでもドラマの発掘とスクープの発見と記者の意地を通そうとあがく。
当たり前だ。520人が、目と鼻の先で、死んだ。もはや、数人の記者が抱えきれるレベルの話ではない。それでもペンを走らせ続けなければいけない。
その苦悩が、行間を黒く塗りつぶすようににじむ。
小説と映画版では、異なるエンディングが用意されているが、その本質は変わらない。
「目を逸らさない」姿勢、最後にペンが読者を向くという在り方。
記者以外の人がこの作品をどうとらえるのかにも興味があるが、ひとつの「職人たち」の戦いの歴史として、長く語り継がれるべき物語ではないかと思う。
(08年映画◎+/小説◎)
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私はあなたの文章に圧倒されました。
2008/7/31(木) 午前 7:04 [ masujimayutaka ]
褒めたおしですかい(笑)小説も映画も本当に素晴らしいのでオススメです。個人的には――意外なことに――映画版の方が好きでした☆
2008/8/8(金) 午後 2:15 [ typhooon_number23 ]
お久しぶりです^^今日、友達と見てきました。いつも何気なく読んでいる新聞ですが、紙面一つ一つに記者の様々な思いが込められているのだと思い、今日の夕刊の読み方と感じ方が昨日の新聞とは違っていました。もっと詳しく『記者としての生き様』を知りたくなりました。明日本屋に走ります。堤真一や堺正人の演技もよかったですね。まるで堤真一の隣で一緒に仕事をしているかのように、血圧があがったり下がったりしていましたww臨場感たっぷりの映画でしたね^^
2年前にNHKで佐藤浩一主演の前後編ドラマが放送されていたらしいですね。そちらも見たかったです。
モグラさん、素晴らしいお仕事ですね。がんばってください!!!
2008/8/12(火) 午前 0:15 [ posso ]