モグラのあくび

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乙一の乙な味

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少年リンツの住む国では、富豪の家を狙った盗難事件が多発していた。
「英雄の金貨」「おもいでのサファイア」「ろくでなしティアラ」「なきむしルビー」……
犯行現場にはいつもカードが残されたおり、そこには「GODIVA」の文字があると伝えられていた。
人々はその文字を泥棒の名とし、犯人を怪盗ゴディバと呼んだ。
一方、怪盗ゴディバを追う探偵ロイズはみんなのヒーロー。
誰もがロイズに憧れていた。

ある日リンツは、父の形見の聖書の中から古びた地図を発見する。
ゴディバの残すカードとの類似点を見つけたリンツは、早速ロイズに手紙を出すのだが、果たして……

「わたしは英雄なんかではない。でも、英雄でありたいとおもっていることもたしかだ。ふくざつでこころの中はばらばらだ。」

「不良少年」のドゥバイヨル、「いつもやさしいお母さん」のメリー、「臆病者」のブラウニー、「ヒーロー」のロイズ、「悪党」のゴディバ……
分かりやすいまでに「類型化」された登場人物たちが主人公の前に現れる。
しかし、物語が進むに連れて、登場人物たちは本性を表し、「キャラ」を変化させ、コロコロと「善」と「悪」が入れ替わっていく――キャラたちの「役割」が入れ替わっていく。

「ヒーロー」だからって「正義」?――そもそも「ヒーロー」って何?
「泥棒」だからって「悪」?――そもそも何で盗んでいるの?
一体なにが「正義」で、なにが「悪」なのか?
読者の脳内が揺さぶられていく。

「中盤の広場の場面は、書いててホントに辛くて。ああ、これは最悪でいいなって(笑)。そういったところで、子供にトラウマを植え付けられたらいいんですけど(笑)。僕も子供のころ、怖かった本とかいろいろとありましたけど、そういう本が記憶に残っていて、(のちに)おもしろくなりましたから」
「ウォーカープラス東京」乙一インタビュー

まさに「トラウマを植え付ける」ような、「黒乙一的世界観を子供向けに味付けした作品」である。


本作は、
「かつて子どもだったあなたと少年少女のために……」
――というキャッチコピーを持つ講談社ミステリーランドの第十回配本。
乙一の、小説としては2年半ぶりの新刊である。

もともと、乙一の読者層は「小学生から大人まで」という幅の広いものだろう。
そういった点では、別段「ミステリーランド」向けにわざと異色作品を書いたという感じでもなく、既刊作品との差異はそこまで見られなかったように思う。
(もちろん、子供が読む用に文字は大きく、ひらがなは多いのだが)

では、乙一は「かつて子どもだったあなたと少年少女のために……」という、この「特異なシリーズで書く」ことを特に「意識する」ことはなかったのだろうか?
――いや、私には、乙一は「このシリーズだからこそできた」ある試みを本作に盛り込んでいるように思えた。


それは、
「“かつて”私たちが少年少女時代に読んだ探偵小説へのアンチテーゼ」
であろう。
端的に言えば、
「探偵(味方)が正義、泥棒(相手)が悪」
という二項対立的勧善懲悪的世界観への挑戦である。

例えば、私たちは江戸川乱歩の『少年探偵団シリーズ』を読んでいるときに、
「実は明智小五郎は悪いやつなのではないか?」
とは疑わないと思う。
ホームズも然り、である。
――「“かつて”少年少女」が読んだような「子供向け探偵小説」というのは、ある程度、勧善懲悪的な世界観を基盤にしていたように思う。


乙一が狙ったのは、
「“かつて”勧善懲悪ものの探偵小説を読んで育った人」

「現在進行形で読んでいる少年少女」
に向けて、この「少年少女向け探偵小説のベタ」とも言える設定を脱構築してみせることだったのではないだろうか?
だからこそ、この作品は「ミステリーランド」というシリーズの中で出すことによって一層の輝きを放つのだと思う。

そして、この試みはそのまま
「キャラ類型優先主義へのアンチテーゼ」
にもなっているという点で、「ライトノベル」というジャンルに熱い想いを持つ乙一の「心意気」を垣間見たような気までする。

やはり、乙一、只者ではない。


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「ライトノベルは出版業界において極めて特殊な位置にある」と、乙一は言う。
「その証拠に、つきあいのある編集者でライトノベルを読んでいる人などほとんどいない。同じ出版業界にありながら、普通の本とライトノベルとの間には深い断絶があるのだ。」

本作『失はれる物語』は、これまで角川スニーカー文庫に収録されていた――、
つまり、「ライトノベルという形態で発表された」
『Colling You』
『失はれる物語』(『失はれた物語』改題)
『傷』
『手を握る泥棒の物語』
『しあわせは子猫のかたち』
の五作に書き下ろしの『マリアの指』を加え、「一般向けの装幀に作り直したもの」である。

それを踏まえた上で、作者はあとがきでこう吐露する。
「私の読書体験においてライトノベルは重要な位置を占めていた。私は活字よりも漫画やゲームの方が好きだったため、有名漫画家やイラストレータ−を挿絵に起用するライトノベルは無視できないジャンルだった。(中略)ライトノベルという形式から一般書の形式に作り直した本書の存在は、私にとってのある種の敗北である。ライトノベルのままでは手にとってもらえない客層がいるという、当然の事実を覆せなかった証明だ」

本書が出版されたのは2003年の12月である。
『ライトノベル完全読本』の登場が2004年の7月。
『このライトノベルがすごい』シリーズの始まり「2005年度版」が同11月末に、『ライトノベルめった斬り!』が同12月に発売され、翌年3月末の『このライトノベル作家がすごい』まで、ライトノベル系のムックが雨後の竹の子のように顔を出すようになる。
私(ライト・ライトノベルユーザーの下の下)の個人的な見解によれば、ここにきてライトノベルは一躍社会的に認知されるようになった。
乙一の「叫び」から約一年が経っていたことになる。

2004年後期から一気にライトノベルは出版界における「地位――立ち位置」を確立していった。

私が残念に思うのは、「レーベル」的なくくりで――、
つまり、スニーカー文庫だから、電撃文庫だから、といった理由で、そのレーベルから出ている作品すべてが「ライトノベル」という大きなくくりの中に入れられてしまうことである。
つまり、それはただ装丁の問題でしかないのだ。
内容のよしあしではなく、イラストがあり、装丁が少年少女向けであるというだけで、「ライトノベルだから」と言われてしまう。
そうじゃないだろ――、と私は思う。

「もしバラの名前が違ったとしても、その香りは同じ」
『ロミオとジュリエット』に出てくる言葉である。
「外見」に囚われて、「中身」を見失ってはいけない。
ライトノベルの状況を振り返り、そういった言葉が浮かぶ。
本作は、「中身」をそのまま入れ替えて、「外見」を変えた。
けれど、ハードカバーになって読んでみてもまったく違和感はないと思う。
ライトノベルが軽んじられてきた背景には、「外見」への先入観から「中身」を見ようとしていなかったという現実があるのではないだろうか。

乙一は本書の存在を「ある種の敗北」という。
しかし、本作の存在は未来のライトノベル業界の「道」を開いた(もちろん、それは直截的ではないかもしれないが)、「ある種の挑戦」でもあったはずだ。
つまり、「まずは中身を見てくれ」、と。
「ここに載っているのはライトノベルって言われてた作品だぜ。どうだ。別にライトノベルだなんて関係ないだろ?面白いだろ?だったら――、もっと俺らを認めてくれよ」
乙一本人はこんなこと言ってないけど、そういうことなのではないかな、と思った。

角川スニーカー文庫で一回読んだ作品である。
書き下ろしが含まれていることを除けば、内容に違いもない。
けれど、あとがきを読み終わったとき、本作の存在する「意義」を知る。
こうしてライトノベルが認められ始めた今、「かつてライトノベル業界の現状に向けて叫び続けた男がいた」という事実はあまりにもカッコいいように思えた。

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転校生が言った。「未来が見えるんだ」そして、「おまえたち2人、どちらかが死ななければ、いつか結婚するぜ」そう言われた小泉は、接点のほとんどなかった幼馴染を意識するようになる。しかし、病弱な彼女は・・・『未来予報』

おんぼろホテルの薄い壁に穴を開け、中にあるお金を盗もうとした泥棒。しかし、そこにあったのはお金ではなく、人の手だった。離したら人を呼ばれてしまう。緊迫した状況下での交流と、その顛末。『手を握る泥棒の物語』

映画研究会の部室で見つかった謎の8ミリフィルム。そこに映っていた、いるはずのない少女の後姿。少女の謎を追ううちに明らかにされる、悲しい結末とは・・・『フィルムの中の少女』

交通事故によって、右腕の感覚以外を失ってしまった男。妻は毎日、男の元を訪れ、唯一感覚の残った腕を鍵盤に見立てて、「音」を奏でた。「失われた」世界での交流。男の脳内で流れる、妻の音楽。しかし、「失はれた」世界にいながらも、男は生の中で「失はれ」続けることになる。『失はれた物語』


作者が『未来予報』を書いたのは、大学を卒業して初めて迎えた初夏だった。
『GOTH』の第一話を書く、少し前。
「雑誌でせつない話の特集をするから書いてくれ」と編集者さんに依頼される。
しかし、
「小説のアイデアが何も浮かばなかった」
なぜか?
「『せつない』というしばりがきつかった。」

それでもなんとか書き上げたわけだが、
そんなわけで、「もう『なんとか特集』の時は金に目がくらんで仕事を引き受けたりしないぞ」と、固く誓ったのだという。
しかし、数ヵ月後。
「こわい話特集に何か書いてください」
「わかりました」
引き受けたものの、やはり何も浮かばなかった。
やはりしばりがキツかった。

「ともかくも、そんな状態で『フィルムの中の少女』を書き上げた。この二つの仕事を経て小生は理解した。
小生は自分から書きたいと思うまで小説を書き始めてはいけなかった。テーマを決められると途端にわけがわからなくなって缶詰を探し出すらしかった。だからもう金のため簡単に仕事を引き受けないようにしたいと思った。」

「その意味で小生は『手を握る泥棒の話』が気に入っていた。書きたいと思ったから書いたという、単純な理由がそこにあった。」
書下ろしの『失われた物語』も、同様のようである。


村上春樹氏は、「来たるべき時がきたら書く」というスタンスで長い作家生活を送っている。
つまり、簡単にいえば「自分のペース」で書いているわけだ。
もちろん、今の彼が「お金のため」に嫌な仕事を引き受けるメリットはほとんどないわけで、一見当たり前のようにも聞こえるけど、私の知っている限りの知識によれば、彼のこの基本的なスタンスはデビュー当時からのものである。
そこには、ベストの作品を書くための「決断――哲学」のようなものがあるのだと思う。

「依頼されて書ける作家」と「自分のペースで書き続ける作家」、どちらがいいというわけでもないし、両立している作家さんだっているはずだ。
でも、本人も自覚しているように、乙一の場合は明らかに前者では「なかった」。

この部分に意識して読むと(あるいは、読んだあとに聞いてみると)、「なるほどな」というものがある。
『手を握る泥棒の話』や『失われた物語』――、
つまり、「書きたいと思って書いた」作品のほうが、作者独特の「ホラー+ファンタジー÷2」といった雰囲気が良く出ているように思う。
無駄な気負いがない。
『未来予報』『フィルムの中の少女』も嫌いではないのだけど、彼特有の「状況設定の妙」のようなものが弱いように思えた。

作者は、あとがきの最後でこんなことを言っている。
「ちなみに、小生の新作はこれを最後に当分、発表されない予定である。そのうち小生の死亡説が流れることは請け合っても良い。(中略)今は『GOTH』の印税を食いつぶしながら半ば趣味のような小説(某社のノベライズ)をゆっくり書いている。締め切りを完璧に無視した仕事ぶりに周囲から呆れられているはずである。しかし今は幸せである。
2002年11月24日」

本作のあとには、今までの雑誌掲載分をまとめた『ZOO』と『失われる物語』が出ただけで、純粋な小説は2003年を最後に出版されていない。
そして、今年。
満を持して『銃とチョコレート』という長編が講談社から出るらしい。
なんとも作者自身が期待のハードルを上げてしまった形だが、楽しみに待ちたいと思う。

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こうして乙一氏の作品を読んできて、改めて『GOTH』を読み、思う。
「やはり、こいつは乙一の最高傑作だ」、と。

乙一作品の「核」とはなにか?

第一に、乙一自らが語る「友人のいなかった学生時代」の影響である。
その影響は、「自意識の拡大」と「集団における孤独」という「青春時代の寂寥」を行間に滲ませる。
中学高校時代、誰もが、クラスの中でふとした瞬間に「自分だけ浮いている」感覚に陥ったことがあると思う。
あるいは、時にはみんなと離れ、一人で静かにいることを望んだことがあるのではないかと思う。
乙一の作品は、そうした、学生時代の「間隙」に生じる「寂寥感」を思い出させる。
そこには「懐かしさ」がある。
読んでいて、忘れかけていた(あるいは、現在進行形の)「あの日」を思い出させる「何か」があるのである。

『GOTH』に登場する、「人間の持つ暗黒面への興味」を持った主人公と友人・森野夜は、徹底的なまでにクラスメイトとの関係を希薄化させ、客観視して考えている。
主人公は、「内面で友人を無視しながらも、外面的には話を取り繕う」人物として描かれ、自分から「独り」になることを選択している。
ここに「拡大された自尊心」があるように思う。

さすがにこの主人公ほど特殊ではないにしろ、友人と休み時間に話す会話――昨日みたテレビドラマについて、好きな芸能人について――のくだらなさを、ある面で客観視しながら学生生活を過ごした人は多いのではないか、と私は思う。
例えば、
たくさん友人がいて、笑顔で話をしているが、その実、内心では「家で独りでいるのが好きなんだよね」と思っている人。
ふと我に返って、「なんで私、こんな話してんだろ。こんな話になんの意味があるのだろ」などと思ったことのある人。
そういった人は、案外多いのではないだろうか。
だからこそ、本作の主人公に「自分を重ねてしまう」=「懐かしさ」を感じてしまう人も少なくないはずだ、と私は思う。
この共感が、『GOTH』の成功の秘密だというのが、私の見解である。


また、『GOTH』を成功たらしめているもう一つの理由は、「ミステリ的どんでん返し」が「初めて」効果的に使われている点である。
今までの作品は、あくまでも「ミステリを組み込んだラノベ」であったように思う。
しかし、本作は「ラノベ的な本格ミステリ」となっている。
なりえている。
両者の差は、「ミステリに置かれる比重」の差である。

『GOTH』以前の作品では、「ミステリは一つの要素」に過ぎなかった。
もちろん、デビュー作『夏と花火と私の死体』をはじめ『暗黒童話』『暗いところで待ち合わせ』などの作品は、ミステリとしても素晴らしい作品である。
しかし、それらにおいては、「ミステリ的要素」というものは、設定や文体の妙を生かすための――あるいは、物語を終わらせるための「道具の一つ」に過ぎなかったように思うのである。

しかし、『GOTH』は違う。
これでもか、これでもかと「叙述トリック」が構築されており、「本格ミステリのための本格ミステリ」として描かれている。
内容は「ラノベ」、味付けは「ミステリ」だったそれまでと違い、
内容は「ミステリ」、味付けは「ラノベ」になっているのである。
だからこそ、いままでにない「どんでん返し」のキレが本作にはある。


「青春時代の寂寥」を読者に共感させながら、「ミステリをミステリ」として描き、「ラノベ風」に読みやすく味付けしている。
それが『GOTH』だ。
そこには、「中途半端さ」がない。
乙一氏は、なんだかんで「ラノベ作家」なのだと思っていた。
その考えを改めなければいけない。
乙一氏は、本作によって、名実共に「ミステリ作家」となった。
少なくとも私は、そう思う。

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黒乙一全開の作品である。
どぎつい描写が嫌いな人は、うおっ、と自分が脳裏に作った映像に目を背けてしまうかもしれない。
白乙一しか読んだことのない人が、「乙一さんの作品って心温まるわぁ」と手を出したとしたら、なんとも「悲劇」である。



「左の眼球は、少し離れた道路上に泥と雪の混じる奇怪な塊となっているところを発見された。行き交う人々の靴に何度も踏み潰され、原型を留めていなかった。

その日、前日から続く雪で街は白かった。傘を差した多くの人がひしめいていた。私はその中の一人で、不運にも、だれかの傘が顔にぶつかってしまったのだ。傘の先端は偶然、左の瞼と眼球の間に押し入り、ぷつんと視神経を断ち切る。眼球をかき出されて地面に落ちる。」

こうして、主人公の菜深は左目を失う。
そして、運の悪いことに、事件のショックによって記憶もをなくしてしまう。
記憶の欠落とともに、今まで学校で中心的人物だった菜深は、暗く、勉強も運動もできない生徒になってしまう。
クラスメイトも両親も、「駄目な子」になってしまった菜深に失望し、「できる子」だったころの菜深と今の菜深を比較しては、なじるようになる。
記憶を失った菜深は、「自分」と皆の語る「菜深」が同一人物であると感じられず、「本質=今ある自分自身」と「記号=昔の優秀だった自分」の乖離によって「アイデンティティ」の置き場を失っていく。

「みんなは、記憶があったときの私に会いたがっているのだ。今の私は、どこにも行き場所がなかった。話しかけてくれる人も、決して私の知り合いというわけではなく、みんな『菜深』の知り合いなのだ」

そんななか、見た目だけでも元に戻そうと、祖父が眼球移植を取り計らう。
「移植用の眼球を手に入れるために、正規の手続きを踏んでいないから、小さな病院で手術するんだよ。でもちゃんとした医者だから心配いらない」
――「手術はすぐに終わった」

見た目は元の「菜深」になった。
しかし、記憶は戻らない。
そんななか、移植された左眼が熱をもつ。
突如、左眼が見せるビジョン。
それは、「眼球の持ち主」の記憶を映し出したものだった。
細切れにいくつも映し出される、「持ち主」の記憶。
菜深は、その「記憶の断片」を集め、「眼の持ち主の故郷」に向かい、物語の――「暗黒童話」としての動きを加速させていく。



しかし、私が注目したいのは、
記憶を失った主人公が置かれる、学校での境遇である。

私は、乙一作品の原動力を「(作者の)友人のいなかった高専時代がもたらしたコンプレックス」からくるものだと思っている。
「友人がいない」とはどのようなものなのか?
学校の持つ「閉鎖性の闇」とは何か?
乙一の作品には、どこか「孤独」がにじみ出ているように思う。

しかし、「友人がいない」(孤独である)ということに関して、乙一は「容姿がよくないから」とか「性格が暗いから」などと単純化しはしない。
「本人」だけに原因があるのではなく、そこに「周囲の生み出す権力関係」が影響していることにも意識的なのである。
だからこそ、乙一の作品は物語の最後――物語を通した主人公の成長によって、「権力関係」を動かすことができるのだという「救い」を描く。
「自分が変わる」ということは、むしろ目的としては「周囲の意識を変える」ことなのだ、と気付かせるのである。

「高専時代が作者にもたらした影響」は、黒乙一にも白乙一にも通底しているものであろう。
たとえ「料理」の仕方が違ったとしても、そこには変わることのない「核」がある。
この「核」が、誰もが一度は経験する「青春時代の寂寥」と深く結びついているからこそ、乙一には中高生を中心に多くのファンがいるのだと思う。

『石ノ目』の推薦文で、綾辻行人は乙一作品を「斬新な懐かしさ」という表現で評している。
この「懐かしさ」こそが、「青春/学生時代の寂寥」であり、それを設定や文章で「斬新」に「料理」できるところに、乙一の作家的成功の謎が秘められているのだと感じた。

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