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「バカ・ザ・バッカ」という会社を知っているだろうか?
ヒント。
『バック・トウ・ザ・フューチャー』『トップガン』『羊たちの沈黙』『ボディガード』『フォレスト・ガンプ』『HANA-BI』『ノッティングヒルの恋人』『ショコラ』『ショーシャンクの空に』『オースティン・パワーズ』『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』……
――これらは、「予告篇制作会社」バカ・ザ・バッカが「予告篇を制作した」作品である。
「この本を手に取った方は、ほぼ全員、映画の予告篇をご覧になったことがあるでしょう。けれどもその予告篇を専門に作っている人間の存在をご存じの方は、ほんの一部しかいないのではないでしょうか」
私は、映画館に行く時、本編と同じくらい予告篇を楽しみにしている。
これからどんな映画が公開されるのか、期待していた映画はどのような映像に仕上がっているのか――大袈裟に言えば、本編が始まったとき「もっと予告篇を見てたかったな」と思うときすらある。
「予告篇は、もちろん本篇の宣伝のためにあります。しかしその本篇は、予告篇にとってはバラバラの素材の集まりなのです。(中略)ここが「売り」というシーンがあって、それを盛り上げていくために、徹底的に素材として本篇を生かすのです」
――予告篇を観て期待して本編に行ったら、そこまで面白くなかった、ということが(たまに・まれに・よく)ある。
そのある種の「騙しあい」こそが予告篇の醍醐味である。
しかし、予告篇がどのような過程を経て、上映されるに至るのかは思いのほか知られていないように思う。
私なんかは、映画の編集をするときに現場の人が一緒に作るものだと思っていたくちだ。
予告篇制作会社?――そんなのがあるんだ、とひとりごちる。
では、それはどのような会社なのだろう?
どのようにして予告篇を作り、そこにはどのような苦労があるのだろう?
謎に包まれていた「予告篇制作の現場」を予告篇制作の第一人者が語る――それが本作『映画は予告篇が面白い』である。
予告篇の目的は、お客さんの足を劇場に向わせること。
だから、想定するターゲットによって内容もガラっと変わってくる。
アクション映画なのに、それでは「女性客がこない」と判断されれば、無理やりラブストーリー仕立てに制作することもある。
著作権や契約上の問題で音楽やシーンに制約があることも珍しくない。
何十、何百時間ものフィルムを2時間前後にまとめ出来上がった本編を、さらに90秒に短縮し、制約のある中で面白さをキャッチーに伝えなくてはいけない――「予告篇」制作は、もはや職人芸だとすらいえる。
最近では、『スタンドアップ』の予告篇が印象的だった。
暴力夫から逃れ、子供を育てるために就職した鉱山は、いまだ女性労働者への偏見と嫌悪感の強い職場だった。
セロンは嫌がらせを受け、暴力を振るわれ、仲間から職を奪っているという男たちの「逆恨み」は、やがて暴行を受けるまでにエスカレートする。
そこにいたり、ついにセロンは、立ち上がる。
性差別を黙認したとして企業を訴えるのだが、果たして。。
重いテーマ性を秘めた映画である。
日本での予告篇は、端的に言えば「女性が幸せを目指して頑張る!」という感じのものだった。
女性をめぐる労働問題、醜く根付く男性の労働観などの複雑なテーマは排除され、とてもシンプルな予告篇に――「女性がつらい現実を跳ね除け頑張る映画」という作り方になっていた。
恐らく、テーマ性を前面に出しても「客が入らない」と判断されたのだと思う。
(『SHOWBIZ COUNTDOWN』(日曜深夜、東京テレビ系列)で見たアメリカでの予告篇は、しっかりとテーマを受けたものになっていた。こういうところからも、日本でのジェンダー問題への関心の薄さが透けて見える)
読んでいくと、予告篇制作ではつねにこのような「商業的かけひき」が行われていることがわかる。
本作では、『チョコレート』の予告篇でも同じような「かけひき」があったことがうかがえる。
予告篇は「起承転結」ではなく「起承承承」「起承転転」だ!
現場で作る予告篇は面白くない!
予告篇制作は映画好きには向かない仕事である!
――「予告篇制作」の生の声には目からウロコが出るものも少なくない。
予告篇の見方が変わること間違いなしの一冊。
きっと、ウズウズと映画館に行きたくなると思う――他でもない「予告篇」を観るために。
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