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ドストエフスキー週間

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「『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーの数ある名作の中でも、一種神話的な人気と影響力をもっているようです。僕もこれまでに実にいろんな本を読んできたけれど、いちばんすごい本というと、この『カラマーゾフの兄弟』をあげないわけにはいかないと思います。ほんとうに深い深い井戸の底からまぶしい光を見上げているような、絶望と救いの絶え間ない交換があります。僕もがんばってそういう小説を書いていきたいと思います(望んでいます)」
(村上春樹『スメルジャコフ対織田信長家臣団』朝日新聞社)
ドストエフスキーの生涯を振り返ってみると、それが「小説に負けず劣らず」すごいということがわかる。
本作の解説から引用してみよう。

1821年11月11日。
ドストエフスキーは外科医の息子としてモスクワで生まれる。
怒りっぽく、気難しい父と、愛情豊かな母のもとで次男として育った。
15歳のときに母マリヤが結核を患い他界。
18歳のときには、「妻の死後その性格がますます残忍になった」父ミハイルが、「アル中で、百姓たちを虐待したり、器量のよい14,5歳の村の娘たちを女中奉公に取り上げては、つぎつぎと手をつけたりしていたので」、百姓たちの恨みを買い、惨殺(!!)される。


十代で両親を失ったドストエフスキーは、ペテルブルグの陸軍中央工兵士官学校で文学に目覚める。
「プーシキン、ゴーゴリ、シェイクスピア、シラー、スコット、バルザック、ユゴーなどを熱心に読みふけり」、自分でも二編の歴史劇を書いた。

21歳で学校を卒業後、工兵局製図課に回されるが馴染めず、翌年すぐに退役。
翻訳などをしながら、「筆一本で身を立てる」決意を固めたのである。
23歳で処女作『貧しき人びと』を発表し、文壇で注目を集める。

翌1847年ごろから、ドストエフスキーは「空想的社会主義を奉ずる革命的思想家ペトラシュフスキー」のサークルに出入りするようになるのだが、しかし革命の気運が高まる中で秘密警察に目をつけられたこのサークルは、49年に一斉逮捕されてしまう。
そして、全会員39名中21名に死刑宣告が下されるのである――もちろん、その中にはドストエフスキーもいた。

しかし、刑執行直前に恩赦の下されたドストエフスキーは、懲役4年(シベリア流刑)と兵卒勤務5年の判決に変更される。
この、死刑から刑期満了までの経験は、人生に決定的な影響を及ぼす出来事となった。
この獄中体験によって無神論者からロシア正教徒への回心があったといわれている。
刑期を終えたのは59年の末、38歳のことだった。
それからは61年の『虐げられた人びと』を皮切りに、階段を駆け上がるようにして文壇での地位を確固たるものにしていくのである。


――『カラ兄』の読了後、こうして作者の経歴を振り返ってみると、
「この作品に出てきたのは、“全員”ドストエフスキーじゃないか!」
という気持ちにさせられる。

親と子の在り方、空想的社会主義や無神論からロシア正教への思想的変化、獄中での聖書精読により喚起された「自由」「悪魔」「神」の問題……
――もちろん、「作品」に「作者の分身」が反映されることなど珍しいことではない。
しかし、「たった数日」を描いた長大なるこの物語は、「思想的自伝作品」とでも呼べるような、彼の人生における「思想の変遷」が極めて象徴的に描き出された作品だったように思う。

そして、なによりも本作の魅力となっているのは、その「思想」の肉付けとなるキャラクター描写の爆発であろう。
そりゃ、こんだけ短い期間(数日)を描くのに2000ページ近くもかけてるのだから、描写も多くなりましょう。

――とにかく、しゃべる。

――とにかく、テンションが高い。

――とにかく、言動がめちゃくちゃ。

でも、その総和として浮かび上がる一人ひとりの人間像がしっかりと読者の中で定まる。
なんだか酷くめちゃくちゃな人たちだなぁ……という地点を越えて、「人間ってそもそも、そういうものなんじゃないか?」と思えてくるのだから不思議だ。

(そういえば、『カラマーゾフの兄弟』で一番人気があるのは誰なんだろう?
私は断然、イワンが好きなのだけど、やっぱりアレクセイが人気なんだろうなぁ。
ドミートリイは……「破滅型」の傾向がある人じゃないと、ちょっとついていけないと思う。
スメルジャコフは結局、最後まで掴めない人だったなぁ)


――今は、読み終わったという妙な達成感だけがある。
これからジワジワと「カラマーゾフ的実感」が沸いてくるのかもしれないけれど、今はまだない。
ただ、読んでいて

「恐らく、自分はこの先どこかで、この本を再読するだろうな」

と思った。

こんだけバカ長くて、日本人のうちで100人に一人も読んでないんじゃないかと思う作品だけど、
「きっと再読するはずだ」、と。
それがいつのことになるかはわからないけれども。
――きっと「そういった」種類の本なのだと思う。
そして、「これだけ長い」にも関わらず、「再読したくなった」ということ、それ自体が、本作の「凄さ・素晴らしさ・魅力」を表しているように思うのである。

ドミートリイの激情に、イワンの知性。
アリョーシャの博愛と、フョードルの道化。
スメルジャコフの嫌悪に、カテリーナの本音。
グルーシェンカは心多く、ラキーチンは出世欲に巻かれる。
数々の言葉、数々の滑稽、数々の絶望。

「皆さん、またいつか会いましょう」

三冊をそっと本棚にしまいながら思った。

(読了!!)


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周囲の人というのは何か企んでいるようにしか思えないものだが、そういえば自分も何かを企んでいる
――荒井理恵『ペケ』
甲子園もたけなわ、暑い日が続き、夏は盛りである。
この季節になると毎年『タッチ』(あだち充)を読みたくなる。
――私が最も展開の意外さに驚かされた漫画は、この作品かもしれない。
「そこ」に至りやっと、読者は『タッチ』という題名の宿命を知る。
連載をリアルタイムで読んでいた人の驚愕たるや、想像を絶するものであったことだろう。


『カラ兄』における「それ」も、実は2000ページ近くにも及ぶこの長大な小説の冒頭で予告されていた。
しかしやはり、私は「それ」を驚愕とともに迎えることとなる。
(この文章は「ネタバレ」としての「力」が強いかもしれません。これから読もうとしている人は、注意してください)
「今からちょうど13年前、悲劇的な謎の死をとげて当時たいそう有名になった(いや、今でもまだ人々の口にのぼる)この郡の地主、フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフ(中略)。この悲劇的な死に関しては、いずれしかるべき個所でお話することにする」
――「なんということだろうか!!」
私は思う。
あるいは、作中人物のように思わず叫びそうになった。

――フョードルが死ぬなんて!!!

それもただの死ではない。
――そう、「悲劇的な謎の死」!!
「殺・さ・れ・た」のである。


途端に、物語は「推理小説」の様相を呈し始める。
まさかまさかの展開。
――犯人は誰なのか?

第一の容疑者は、長男ドミートリイ。
なんせ、彼はグルーシェンカという女性をめぐって父と対立をしていたし、金銭面でも揉め事を起こしていた。
そもそも、彼は殺害直前のフョードルの屋敷で不審者として目撃されており、だけでなく、追いかけた召使に怪我を負わせ逃亡、その後、血まみれで友人の家に押しかけ、どこからか手に入れた大金で豪遊しにいく、という奇行を起こしており、「誰がどう考えても犯人以外の何者でもない」限りなく「クロ」に近い立場にあった。

しかしドミートリイは、召使への殴打は認めても、父殺しの犯行は否定している。
「それでは、あなたはご尊父フョードル・パーヴロウィチの死に関しては無実だと、あくまでも主張なさるんですね?」穏やかではあるが、執拗な口調で予審調査官がたずねた。
「無実です。罪があるのは、ほかの血、つまりもう一人の老人の血に関してで、親父のじゃありません」
そして、三男アレクセイもこう主張する。
「犯人は兄さんじゃないんですから。あの人じゃありませんよ!」
――では、犯人は誰なのか?


第二の容疑者は、フョードルの館で料理人を務める私生児のスメルジャコフ。
犯人がドミートリイでないとなると、状況的にみて怪しいのは彼だった。
――しかし当日、スメルジャコフは持病の癲癇の発作を起こし、倒れていたのである。
スメルジャコフを診た医師は、「彼は仮病を使ったんじゃありませんか?」という次男イワンの質問に対して、「この発作がむしろ並大抵のものではなく、数日にわたってつづき、くりかえされたため、患者の生命はまったく危険にさらされていた」ことを告げた。
――つまり、「彼は犯行当時、“そんなこと”をできるような状態ではなかった」ことを裏付けてみせたのである。

とはいえ、イワンはスメルジャコフを疑ってみせる。
なぜなら、スメルジャコフは犯行の前日にイワンに向って、「自分が明日、癲癇の発作で倒れること」を宣言していたからである。
しかも、「自分は穴蔵で倒れる」と場所まで指定して!!
「第一にだ」イワンは糾明にとりかかった。「癲癇は前もって予告できないことを、俺は知っている。しらべてきたんだから、ごまかしてもだめだ。日時を予告することはできないんだよ。それなのに、あのときお前が日時まで俺に予告したのはどういうわけだ、おまけに穴蔵という場所まで指定してな?あの発作が仮病でないとしたら、いったいどうして、まさしくあの穴蔵へ発作を起こしてころげ落ちることが、前もってわかったんだ?」
――発作は本物、状況は「シロ」。
しかし……


考えようによっては、4兄弟には全員に「動機」があるように思う。
それは、自分に流れる忌まわしき「カラマーゾフの血」という現実であり、その象徴としてのフョードルへの「憎しみ」である。
――誰が犯人でもおかしくはない。

状況は「明らかに」ドミートリイを「クロ」として指し示している。
しかし、どうやらドミートリイは犯人ではなさそうなのだ。
では、スメルジャコフ?
でも、彼は病気で動けずにいた。
イワンは、犯行当時、遠く離れたモスクワにいて、物理的に不可能。
かといって、アレクセイが犯人の「わけがない」。
――では、犯人は誰なのか?
「カラマーゾフの兄弟」ではないのだろうか?

「こいつは一体、何小説なんだ!?」
加速度を上げる恐るべき展開に、ページをめくる手が止まらない。

(下巻250ページまで読了)


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「上巻半分を読むのに約3ヵ月。何なんだこのつまらなさ! と彼に怒りをぶりまけもしたものの、もう少し読めば面白くなる、という言葉に疑いを持ちつつも読み続ける事、更に一ヶ月。上巻の終わり辺りから本当に面白くなってきた事に戸惑っている内に、物語は加速していった。悪魔との対話、理性と愛と信仰、善とは、悪とは、神とは、息もつけない展開に思考も止まらず貪るように、中巻と下巻を私はほぼ三日ほどで読み終えたのだ。
何だなんだこれはこんなに面白い小説があるなんて!」
(読売新聞5月7日付『たいせつな本』金原ひとみ)
ドストエフスキーは、1881年1月28日、晩年を悩ませた持病を悪化させ急逝した。
59歳だった偉大なる作家の死を多くの人が悲しんだ。
家から埋葬地まで棺を運ぶ間、沿道には約三万人の人々が押し寄せ、付き従ったといわれている。
(参考「ドストエフスキー好きのページ」)

『カラマーゾフの兄弟』が完成したのは、1880年の11月である。
ドストエフスキーが亡くなる80日前のことだった。
――本作は、思想的にも技巧的にも作者の集大成であり、近づく死期を感じながら入魂した畢生の大作だと言っても過言ではない。


彼は、カラマーゾフの三兄弟に、「過去」「現在(19世紀)」「未来」の祖国・ロシア人像を象徴させて描いたのだと言われている。(参考「ドストエフスキー好きのページ・「カラマーゾフの兄弟」について」
長男・ドミートリイには「“過去”の伝統的ロシア人像」、
次男・イワンには「科学的合理主義的なヨーロッパ思想の影響を受けた“現在(19世紀)”のロシア人像」
そして、三男・アレクセイには「作者の理想的願いが込められた“未来”のロシア人像」が書き分けられているそうだ。

上巻の最後で「大審問官」を始めとした合理主義的無神論を唱えたイワンに続き、
中巻の前半ではアレクセイの、中盤ではドミートリイの「人間像」や「思想」というものが入念に描かれていく。
――冒頭の金原ひとみが語るように、この辺りから物語は加速を始めたように思う。


アレクセイの考えは、ここでは彼の師匠でもあるゾシマ長老の声としても語られる。
(アレクセイは、長老の語る「理想的人間像」の具現として描かれているように、私には思えた。)
長老は、己の死期の近さを悟りながら、幼き日の物語を出発点に自分の思想――信仰観、宗教観、善悪について、神について、愛について――を、アレクセイを含む側近の神父たちに語る。

「誰もが「愛」を抱き合う、憎しみ合いのない世界の到来はあるか?」との問いに、若き日の長老はこう答える。
「人間はどんな学問やどんな利益によっても、財産や権利を恨みつらみなく分け合うことができないのです。各人が自分の分け前を少ないと思い、のべつ不平を言ったり、妬んだり、お互いに殺しあったりするでしょう。あなたは今、いつそれが実現するかと、おたずねでしたね。必ず実現します、しかし最初にまず人間の孤立の時代が終わらなければならないのです」
質問者である友人は言う。
「孤立とはどういうことです?」
「現在、それも特に今世紀になって、いたるところに君臨している孤立ですよ。でも、その時代は終わっていませんし、終るべき時期も来ていません。なぜなら今はあらゆる人間が自分の個性をもっとも際立たせようと志し、自分自身の内に人生の充実を味わおうと望んでいるからです。ところが実際には、そうしたいっさいの努力から生ずるのは、人生の充実の代わりに、完全な自殺にすぎません」
――この長老の話しをアレクセイの、つまり“未来のロシア人”の問題として考えた時、しかしそれが「ロシア」だけの問題ではないことに気付くだろう。
「現代においては何もかもが個々の単位に分かれてしまい、あらゆる人が自分の穴蔵に閉じこもり、他の人から遠ざかって隠れ、自分の持っているものを隠そうとする、そして最後には自分から人々を突き放す(中略)。自分一人を頼ることに慣れて、一個の単位として全体から遊離し、人の助けも人間も人類も信じないように自分の心を教えこんでしまったために、自分の金や、やっと手に入れたさまざまの権利がふいになりはせぬかと、ただそればかり恐れおののく始末ですからね」

――これは、なんとも「現代的」な問題ではないだろうか?

亀田親子への徹底した批判論陣を張るやくみつるは、今日のワイドショーでこう語っていた。
「亀田さんたちは、『自分さえよければ』という最近の風潮のシンボリックな存在となっている」
――もちろん、私はここで「亀田問題」への言及をしたいわけではない。
彼らが「シンボリックな存在」になっている、とも私は思わない。
ただ、「『自分だけがよければ』という風潮」を、最近の社会に感じる人間がいる
――という一つの例として挙げたまでのことである。

19世紀のロシアで、ドストエフスキーはそういった風潮を「孤立の時代」と呼んだ。
そして、21世紀の日本においても、その「時代」は終わっていない。
アレクセイに託した“未来のロシア人像”――“作者の理想としての人間像”は、しかし現代においても叶えられていないのである。
もし、まだドストエフスキーが生きていたとしたら、彼は一体何と語っただろうか?

長老が唱えたのは、「利己心と欲望からの解放」なのであろう。
「孤独な富者と、物質や習慣の横暴から解放された者と、はたしてどちらが偉大な思想を称揚し、それに奉仕する力を持っているだろう?」
――もちろん、「正解」などない。
読者の胸にどう響くかという一点だけが真実なのだと思う。

(中巻363ページまで読了)


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「僕はいつか年をとったら「スメルジャコフ」というバーを経営したいと思っています。するめとジャコと麩をおつまみに出します。くだらないですね。でも素敵な店名だと思いませんか?」(村上春樹『スメルジャコフ対織田信長家臣団』朝日新聞)
ドミートリイ、イワン、アレクセイ。
以前、「カラマーゾフの兄弟は3人だ」と書いたように思う。
――しかし、正確にいえば本作には4人目の兄弟がいる。
それがスメルジャコフである。

カラマーゾフ家の料理人である、「せいぜい24かそこら」のこの青年の出生には、悲劇の物語が存在している――。
彼は、フョードルが「白痴」と思われる家なし子の娘に身ごもらせた私生児なのである。


フョードルに仕える召使夫婦は、ある晩、屋敷の外に女性の呻き声を聞く。
二人はやがて、「呻き声が庭の木戸の近くにある風呂場からきこえてくる」ことに気づき、風呂の戸を開け、「呆然と立ちすくむような光景を見いだした」。
「巷をいつもさまよい歩いて、町じゅうに有名な、リザヴェータ・スメルジャーシチャチ(悪臭のひどい女という意味)という綽名の、神がかり行者が、風呂場に入り込み、たった今赤ん坊をい産みおとしたところだったのである。赤ん坊はかたわらにころがり、女は虫の息だった」
――その赤ん坊が、のちのスメルジャコフである。
女はスメルジャコフを産み、生を譲り渡すかのように息絶えた。

子宝に恵まれなかった召使夫婦は、「神の御子であるみなし児は、すべての人にとって血縁というが、わしらにはなおさらのことだ」と語り、スメルジャコフを育てることにした。
「父はフョードルである」という噂は町中で囁かれており、スメルジャコフの父称は「だれ言うともなくひとりでに」“フョードルの息子”を表すフョードロウィチとなった。
しかし、「フョードルはすべてを必死に否定しつづけていたものの、べつに反対もせず、むしろおもしろがってさえいた」のであった。

――ここにまた一つ「カラマーゾフの血」が存在している。
「カラマーゾフの血」に怯え、嫌悪する「第4の血」が存在している。
「兄弟」でありながら、「召使兼料理人」としてこき使われるスメルジャコフ。
彼は、出生をめぐり父への憎しみを抱えている。


さて、「スメルジャコフ」と聞いて、『スメルジャコフ対織田信長家臣団』を思い浮かべた人はいないだろうか。
これは、村上春樹が「村上朝日堂」というサイトで、ファンのメールに返事を書いたものをまとめたデータディスク付きの書籍である。
この本の後半では、『カラマーゾフの兄弟』についてのやりとりが特集されている。
――これがまた『カラ兄』読書中の身にはすこぶる面白いのである。

例えば、千葉県の<あおい>さんは、こんなことを言っている。
「新潮文庫版で読んでいて、けっこう現代語調の和訳なのだと思いますが、しかしなんというか作品の時代柄、「……とアリョーシャは叫んだ」とか言って、すぐに叫んじゃうんですよね(笑)「兄さん、兄さんは本当にそう思っているんですか!」みたいな(これは適当に作ったセリフですが)。あと、「どちらかといえばむしろ」なんてすごい日本語になっていたり。うーん、時代がかっちゃって好きだなぁ! でも書かれている内容は全然古くないと思います。「現代」的状況って、19世紀からたいして変わってないのでしょうか」

この「時代がかっちゃって」というのが、本作の一つのポイントであるように思う。
なんたって、一見するとギャグみたいな表現になっていたりするのである。
特に会話は「舞台的」というか、妙な言い回しのものが多い。
(個人的には、「とにかくお前は抜作だよ!」「このお茶っぴいが!」といった貶し言葉こそが真骨頂であるように思います。「抜作」なんて言われたら、むしろ、なんだか恥ずかしくなっちゃいますよね)

そして、人物がとにかく「叫ぶ」のである。
小説における「話す」動詞って、「……と言った」あたりが多いと思うのだけど、『カラ兄』の場合、断然「叫ぶ」が多数派。
とにかく、「叫ぶ」!
とにかく、テンションが高い!
「!」とか「?」なんか、小説平均の2倍ぐらいは使用されているような気がする。

だから、
「つまりさ、こんな俺にも愛する人間がいる、ほら、あれがそうだ、俺がこの世でだれよりも愛し、俺がただ一人愛しているのはあの男なんだ、俺のかわいい弟なんだ!(中略)と思ったほどさ!(中略)彼女、何ていってた?俺をぶっつぶしてくれ、たたきのめしてくれよ、容赦せずに!」
みたいな感じで、もうしゃべるしゃべる、叫ぶ叫ぶで、しかも一度火がつくと、軽く2ページくらい話が止まらないこともある。
そういう小説って、ちょっと、いままで読んだことがない。
「登場人物がえんえんときりなく(今となってはどーでもいいようなことを)しゃべるところが、19世紀ロシア小説のとんでもない魅力のひとつです。そのうちにだんだん中毒になって、しゃべりが短いと腹が立つようになります。こうなれば本物です(なにの本物なんだか)」
――この「語りの無駄なハイテンション」もまた、確かに本作の魅力のひとつなのであろう。
物語は、「時代がかった」「無駄なハイテンション会話」を繰り返しながら、中盤へ向っています。

(中巻92ページまで読了)


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「もし神が存在しないのなら、考え出すべきである」
――ヴォルテール『三人の偽君子に関する書の著者へあてた手紙』の一節
『カラマーゾフの兄弟』上巻における最大のクライマックスはやはり、かの有名な「大審問官」の章であろう。
松岡正剛も「千夜千冊」の中で、この「大審問官」の問題について考察を行っている。
――しかし、正直なところ、この「大審問官」なる章の読解には全然自信がもてない。
「なんとなくわかったような気もするけど、まったくの的外れかもしれない」
といった微妙な気分である。


「大審問官」とは、イワンがアリョーシャに語って聞かせる自作の叙事詩である。
「あのね、アリョーシャ、笑わないでくれよ、俺はいつだったか、そう一年くらい前に、叙事詩を一つ作ったんだよ。もし、あと十分くらい付き合ってくれるんなら、そいつを話したいんだけどな」
――イワンの無神論主義的価値観のすべてがつまった作品であると言っても過言ではない。

舞台は16世紀のスペイン。
異端審問官によって、「ほとんどまる百人におよぶ」異端者が火刑で一度に焼き殺され、火は爆ぜ、人の焼ける臭いが立ち込める中に、キリストが人の姿を借りてそっと姿を現す。
15世紀前の姿など誰も知るはずはないのだが、「ふしぎなことに、だれもが正体を見破」り、キリストは民衆に囲まれてしまう。

懇願されるままに人々の病を治し、死者を甦らせ、次々と「奇跡」を起こすキリストの前に、90歳に近い老人――大審問官が通りかかる。
そして――、
「彼は指を突き出し、キリストを引っ捕えるよう護衛に命じた」
そのまま牢獄にぶち込まれたキリストに対峙し、大審問官は言う。
「なぜわれわれの邪魔をしにきた?」、と。
それは、つまりこういう意味であった。
「なぜ人間に“自由”を与えたのだ。そして、なぜ今頃になった“再び自由を与えに来たのだ”」


「われわれが彼ら(かよわい人間)の先頭に立って、自由の重荷に堪え、彼らを支配することを承認してくれたという理由から、われわれを神と見なすようになることだろう、――それほど最後には自由の身であることが彼らには恐ろしくなるのだ!」
15世紀前、キリストの行ったことは、「人々に自由を与える」ことだった。
しかし、大審問官は「人間は、もはや論議の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている」のだと語る。
「(われわれにも)≪大切なのは心の自由な決定でもなければ愛でもなく、良心に反してでも盲目的に従わなければならぬ神秘なのだ≫と教えこむ権利があるわけだ。われわれがやったのは、まさにそれさ。われわれはお前の偉業を修正し、奇蹟と神秘と権威の上にそれを築き直した」
――人々は何かを「(盲目的にでも)信じたい」のであり、「すがりたい」のであり、さらに極端な言い方をしてしまえば「奴隷になりたがっている」のだ、ということであろう。
それは、「宗教的神」へだけではなく、例えば「占い(師)」や、「カリスマ(芸能人、アーテティストなど)」への傾倒に対しての「それ」もまた同様なのだと思う。
「人間の自由を支配すべきところなのに、お前はかえってそれを増やしてやり、人間の心の王国に自由の苦悩という重荷を永久に背負わせてしまったのだ」
ある種の「自由」とは、人々にとって「つらいものでしかない」
それゆえに、大審問官たちは、つまり「教会」は、15世紀前に語られたキリストの教えを、「修正」して「権威」の上に築き直したのである。
そして、人々から「自由」を奪い、盲目的信仰を広めた――人々は「自由」に耐えられるほど強くはないから。
こうして、大審問官は「自由なし」による、ある種の服従を強いる「幸福」のあり方をキリストに向って述べるのである。
「人々がわれわれのために自由を放棄し、われわれに服従するときこそ、はじめて自由になれるということを、われわれは納得させてやる」


この「大審問官」に、「イワン的無神論主義」の影響が顕著であることは否定のしようがないだろう。
イワンは以前、アリョーシャに向かってこう言っている。
「俺が認めないのは神じゃないんだよ(中略)俺は神の創った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できないのだ」
それは、「神が世界を(つまり人間を)創ったのか、人々が神を創ったのか」という問題なのだと思う。
そして、(あるいは無神論者のほとんどがそうであるように)イワンは後者の立場を取っている。

大審問官はキリストに向って言う。
「どうせ人間どもは偶像の前にひれ伏すのだからな」
――本質的に「弱さ」を持った人間は、「神」(あるいは「神的」な存在)を求める。
そして、彼らへの「全面的な服従」をもって「自由」を委ねることによって、「個人の自由な決定という現在の恐ろしい苦しみや、たいへんな苦労から」解放される、というのだ。


かつてフランスの哲学者サルトルは、「人間は自由の刑に処されている」と言った。
それほど、真に「自由」たろうという生き方は難しいということだと思う。

この「人間が“自由”から逃れるために神というシステムを創り出した」式の考え方は、無神論者にとっての「常套句」であるように思う。
ここで――つまり、上巻の最後で――イワンにこの語りをさせることによって、「それを覆すような展開」が、中巻以降で飛び出すのではないかという期待感がある。

『カラマーゾフの兄弟』は、当初『無神論者(無神論)』という題名で構想されていたのだという。
完成の実に12年前(!!)のことである。
そういった意味でも、このイワンの「無神論主義的言説」が本作の中で少なからざるウェイトを占めていることは想像に難くない。
「大審問官」を過ぎ、いよいよ物語は中巻へと進む。

(上巻読了)


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