「『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーの数ある名作の中でも、一種神話的な人気と影響力をもっているようです。僕もこれまでに実にいろんな本を読んできたけれど、いちばんすごい本というと、この『カラマーゾフの兄弟』をあげないわけにはいかないと思います。ほんとうに深い深い井戸の底からまぶしい光を見上げているような、絶望と救いの絶え間ない交換があります。僕もがんばってそういう小説を書いていきたいと思います(望んでいます)」 (村上春樹『スメルジャコフ対織田信長家臣団』朝日新聞社)ドストエフスキーの生涯を振り返ってみると、それが「小説に負けず劣らず」すごいということがわかる。 本作の解説から引用してみよう。 1821年11月11日。 ドストエフスキーは外科医の息子としてモスクワで生まれる。 怒りっぽく、気難しい父と、愛情豊かな母のもとで次男として育った。 15歳のときに母マリヤが結核を患い他界。 18歳のときには、「妻の死後その性格がますます残忍になった」父ミハイルが、「アル中で、百姓たちを虐待したり、器量のよい14,5歳の村の娘たちを女中奉公に取り上げては、つぎつぎと手をつけたりしていたので」、百姓たちの恨みを買い、惨殺(!!)される。 十代で両親を失ったドストエフスキーは、ペテルブルグの陸軍中央工兵士官学校で文学に目覚める。 「プーシキン、ゴーゴリ、シェイクスピア、シラー、スコット、バルザック、ユゴーなどを熱心に読みふけり」、自分でも二編の歴史劇を書いた。 21歳で学校を卒業後、工兵局製図課に回されるが馴染めず、翌年すぐに退役。 翻訳などをしながら、「筆一本で身を立てる」決意を固めたのである。 23歳で処女作『貧しき人びと』を発表し、文壇で注目を集める。 翌1847年ごろから、ドストエフスキーは「空想的社会主義を奉ずる革命的思想家ペトラシュフスキー」のサークルに出入りするようになるのだが、しかし革命の気運が高まる中で秘密警察に目をつけられたこのサークルは、49年に一斉逮捕されてしまう。 そして、全会員39名中21名に死刑宣告が下されるのである――もちろん、その中にはドストエフスキーもいた。 しかし、刑執行直前に恩赦の下されたドストエフスキーは、懲役4年(シベリア流刑)と兵卒勤務5年の判決に変更される。 この、死刑から刑期満了までの経験は、人生に決定的な影響を及ぼす出来事となった。 この獄中体験によって無神論者からロシア正教徒への回心があったといわれている。 刑期を終えたのは59年の末、38歳のことだった。 それからは61年の『虐げられた人びと』を皮切りに、階段を駆け上がるようにして文壇での地位を確固たるものにしていくのである。 ――『カラ兄』の読了後、こうして作者の経歴を振り返ってみると、 「この作品に出てきたのは、“全員”ドストエフスキーじゃないか!」 という気持ちにさせられる。 親と子の在り方、空想的社会主義や無神論からロシア正教への思想的変化、獄中での聖書精読により喚起された「自由」「悪魔」「神」の問題…… ――もちろん、「作品」に「作者の分身」が反映されることなど珍しいことではない。 しかし、「たった数日」を描いた長大なるこの物語は、「思想的自伝作品」とでも呼べるような、彼の人生における「思想の変遷」が極めて象徴的に描き出された作品だったように思う。 そして、なによりも本作の魅力となっているのは、その「思想」の肉付けとなるキャラクター描写の爆発であろう。 そりゃ、こんだけ短い期間(数日)を描くのに2000ページ近くもかけてるのだから、描写も多くなりましょう。 でも、その総和として浮かび上がる一人ひとりの人間像がしっかりと読者の中で定まる。 なんだか酷くめちゃくちゃな人たちだなぁ……という地点を越えて、「人間ってそもそも、そういうものなんじゃないか?」と思えてくるのだから不思議だ。 (そういえば、『カラマーゾフの兄弟』で一番人気があるのは誰なんだろう? 私は断然、イワンが好きなのだけど、やっぱりアレクセイが人気なんだろうなぁ。 ドミートリイは……「破滅型」の傾向がある人じゃないと、ちょっとついていけないと思う。 スメルジャコフは結局、最後まで掴めない人だったなぁ) ――今は、読み終わったという妙な達成感だけがある。 これからジワジワと「カラマーゾフ的実感」が沸いてくるのかもしれないけれど、今はまだない。 ただ、読んでいて と思った。 こんだけバカ長くて、日本人のうちで100人に一人も読んでないんじゃないかと思う作品だけど、 「きっと再読するはずだ」、と。 それがいつのことになるかはわからないけれども。 ――きっと「そういった」種類の本なのだと思う。 そして、「これだけ長い」にも関わらず、「再読したくなった」ということ、それ自体が、本作の「凄さ・素晴らしさ・魅力」を表しているように思うのである。 ドミートリイの激情に、イワンの知性。 アリョーシャの博愛と、フョードルの道化。 スメルジャコフの嫌悪に、カテリーナの本音。 グルーシェンカは心多く、ラキーチンは出世欲に巻かれる。 数々の言葉、数々の滑稽、数々の絶望。 三冊をそっと本棚にしまいながら思った。 (読了!!) |
ドストエフスキー週間
[ リスト | 詳細 ]
「上巻半分を読むのに約3ヵ月。何なんだこのつまらなさ! と彼に怒りをぶりまけもしたものの、もう少し読めば面白くなる、という言葉に疑いを持ちつつも読み続ける事、更に一ヶ月。上巻の終わり辺りから本当に面白くなってきた事に戸惑っている内に、物語は加速していった。悪魔との対話、理性と愛と信仰、善とは、悪とは、神とは、息もつけない展開に思考も止まらず貪るように、中巻と下巻を私はほぼ三日ほどで読み終えたのだ。 何だなんだこれはこんなに面白い小説があるなんて!」 (読売新聞5月7日付『たいせつな本』金原ひとみ)ドストエフスキーは、1881年1月28日、晩年を悩ませた持病を悪化させ急逝した。 59歳だった偉大なる作家の死を多くの人が悲しんだ。 家から埋葬地まで棺を運ぶ間、沿道には約三万人の人々が押し寄せ、付き従ったといわれている。 (参考「ドストエフスキー好きのページ」) 『カラマーゾフの兄弟』が完成したのは、1880年の11月である。 ドストエフスキーが亡くなる80日前のことだった。 ――本作は、思想的にも技巧的にも作者の集大成であり、近づく死期を感じながら入魂した畢生の大作だと言っても過言ではない。 彼は、カラマーゾフの三兄弟に、「過去」「現在(19世紀)」「未来」の祖国・ロシア人像を象徴させて描いたのだと言われている。(参考「ドストエフスキー好きのページ・「カラマーゾフの兄弟」について」) 長男・ドミートリイには「“過去”の伝統的ロシア人像」、 次男・イワンには「科学的合理主義的なヨーロッパ思想の影響を受けた“現在(19世紀)”のロシア人像」 そして、三男・アレクセイには「作者の理想的願いが込められた“未来”のロシア人像」が書き分けられているそうだ。 上巻の最後で「大審問官」を始めとした合理主義的無神論を唱えたイワンに続き、 中巻の前半ではアレクセイの、中盤ではドミートリイの「人間像」や「思想」というものが入念に描かれていく。 ――冒頭の金原ひとみが語るように、この辺りから物語は加速を始めたように思う。 アレクセイの考えは、ここでは彼の師匠でもあるゾシマ長老の声としても語られる。 (アレクセイは、長老の語る「理想的人間像」の具現として描かれているように、私には思えた。) 長老は、己の死期の近さを悟りながら、幼き日の物語を出発点に自分の思想――信仰観、宗教観、善悪について、神について、愛について――を、アレクセイを含む側近の神父たちに語る。 「誰もが「愛」を抱き合う、憎しみ合いのない世界の到来はあるか?」との問いに、若き日の長老はこう答える。 「人間はどんな学問やどんな利益によっても、財産や権利を恨みつらみなく分け合うことができないのです。各人が自分の分け前を少ないと思い、のべつ不平を言ったり、妬んだり、お互いに殺しあったりするでしょう。あなたは今、いつそれが実現するかと、おたずねでしたね。必ず実現します、しかし最初にまず人間の孤立の時代が終わらなければならないのです」「孤立とはどういうことです?」 「現在、それも特に今世紀になって、いたるところに君臨している孤立ですよ。でも、その時代は終わっていませんし、終るべき時期も来ていません。なぜなら今はあらゆる人間が自分の個性をもっとも際立たせようと志し、自分自身の内に人生の充実を味わおうと望んでいるからです。ところが実際には、そうしたいっさいの努力から生ずるのは、人生の充実の代わりに、完全な自殺にすぎません」「現代においては何もかもが個々の単位に分かれてしまい、あらゆる人が自分の穴蔵に閉じこもり、他の人から遠ざかって隠れ、自分の持っているものを隠そうとする、そして最後には自分から人々を突き放す(中略)。自分一人を頼ることに慣れて、一個の単位として全体から遊離し、人の助けも人間も人類も信じないように自分の心を教えこんでしまったために、自分の金や、やっと手に入れたさまざまの権利がふいになりはせぬかと、ただそればかり恐れおののく始末ですからね」亀田親子への徹底した批判論陣を張るやくみつるは、今日のワイドショーでこう語っていた。 「亀田さんたちは、『自分さえよければ』という最近の風潮のシンボリックな存在となっている」 ――もちろん、私はここで「亀田問題」への言及をしたいわけではない。 彼らが「シンボリックな存在」になっている、とも私は思わない。 ただ、「『自分だけがよければ』という風潮」を、最近の社会に感じる人間がいる ――という一つの例として挙げたまでのことである。 19世紀のロシアで、ドストエフスキーはそういった風潮を「孤立の時代」と呼んだ。 そして、21世紀の日本においても、その「時代」は終わっていない。 アレクセイに託した“未来のロシア人像”――“作者の理想としての人間像”は、しかし現代においても叶えられていないのである。 もし、まだドストエフスキーが生きていたとしたら、彼は一体何と語っただろうか? 長老が唱えたのは、「利己心と欲望からの解放」なのであろう。 ――もちろん、「正解」などない。 読者の胸にどう響くかという一点だけが真実なのだと思う。 (中巻363ページまで読了) |
「もし神が存在しないのなら、考え出すべきである」 ――ヴォルテール『三人の偽君子に関する書の著者へあてた手紙』の一節『カラマーゾフの兄弟』上巻における最大のクライマックスはやはり、かの有名な「大審問官」の章であろう。 松岡正剛も「千夜千冊」の中で、この「大審問官」の問題について考察を行っている。 ――しかし、正直なところ、この「大審問官」なる章の読解には全然自信がもてない。 「なんとなくわかったような気もするけど、まったくの的外れかもしれない」 といった微妙な気分である。 「大審問官」とは、イワンがアリョーシャに語って聞かせる自作の叙事詩である。 ――イワンの無神論主義的価値観のすべてがつまった作品であると言っても過言ではない。 舞台は16世紀のスペイン。 異端審問官によって、「ほとんどまる百人におよぶ」異端者が火刑で一度に焼き殺され、火は爆ぜ、人の焼ける臭いが立ち込める中に、キリストが人の姿を借りてそっと姿を現す。 15世紀前の姿など誰も知るはずはないのだが、「ふしぎなことに、だれもが正体を見破」り、キリストは民衆に囲まれてしまう。 懇願されるままに人々の病を治し、死者を甦らせ、次々と「奇跡」を起こすキリストの前に、90歳に近い老人――大審問官が通りかかる。 そして――、 そのまま牢獄にぶち込まれたキリストに対峙し、大審問官は言う。 「なぜわれわれの邪魔をしにきた?」、と。 それは、つまりこういう意味であった。 「なぜ人間に“自由”を与えたのだ。そして、なぜ今頃になった“再び自由を与えに来たのだ”」 「われわれが彼ら(かよわい人間)の先頭に立って、自由の重荷に堪え、彼らを支配することを承認してくれたという理由から、われわれを神と見なすようになることだろう、――それほど最後には自由の身であることが彼らには恐ろしくなるのだ!」しかし、大審問官は「人間は、もはや論議の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている」のだと語る。 「(われわれにも)≪大切なのは心の自由な決定でもなければ愛でもなく、良心に反してでも盲目的に従わなければならぬ神秘なのだ≫と教えこむ権利があるわけだ。われわれがやったのは、まさにそれさ。われわれはお前の偉業を修正し、奇蹟と神秘と権威の上にそれを築き直した」それは、「宗教的神」へだけではなく、例えば「占い(師)」や、「カリスマ(芸能人、アーテティストなど)」への傾倒に対しての「それ」もまた同様なのだと思う。 ある種の「自由」とは、人々にとって「つらいものでしかない」 それゆえに、大審問官たちは、つまり「教会」は、15世紀前に語られたキリストの教えを、「修正」して「権威」の上に築き直したのである。 そして、人々から「自由」を奪い、盲目的信仰を広めた――人々は「自由」に耐えられるほど強くはないから。 こうして、大審問官は「自由なし」による、ある種の服従を強いる「幸福」のあり方をキリストに向って述べるのである。 この「大審問官」に、「イワン的無神論主義」の影響が顕著であることは否定のしようがないだろう。 イワンは以前、アリョーシャに向かってこう言っている。 それは、「神が世界を(つまり人間を)創ったのか、人々が神を創ったのか」という問題なのだと思う。 そして、(あるいは無神論者のほとんどがそうであるように)イワンは後者の立場を取っている。 大審問官はキリストに向って言う。 ――本質的に「弱さ」を持った人間は、「神」(あるいは「神的」な存在)を求める。 そして、彼らへの「全面的な服従」をもって「自由」を委ねることによって、「個人の自由な決定という現在の恐ろしい苦しみや、たいへんな苦労から」解放される、というのだ。 かつてフランスの哲学者サルトルは、「人間は自由の刑に処されている」と言った。 それほど、真に「自由」たろうという生き方は難しいということだと思う。 この「人間が“自由”から逃れるために神というシステムを創り出した」式の考え方は、無神論者にとっての「常套句」であるように思う。 ここで――つまり、上巻の最後で――イワンにこの語りをさせることによって、「それを覆すような展開」が、中巻以降で飛び出すのではないかという期待感がある。 『カラマーゾフの兄弟』は、当初『無神論者(無神論)』という題名で構想されていたのだという。 完成の実に12年前(!!)のことである。 そういった意味でも、このイワンの「無神論主義的言説」が本作の中で少なからざるウェイトを占めていることは想像に難くない。 「大審問官」を過ぎ、いよいよ物語は中巻へと進む。 (上巻読了) |




