モグラのあくび

シンプルでシャープに。そんな感じに

小説家、本谷有希子

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「絶望を知るには、まず幸せを知らなければならない」

とは、使い古されたクリシェだ。
得られたものを失ったときの空洞――それは確かに、どこか「絶望」を思わせる。

本作で描かれるのは、猿岩石を彷彿とさせる元芸人の苦悩である。
「ロシア人の鼻は本当に高いのか」を確かめに、1年6ヶ月にも及ぶ極貧旅行に向わされた若手お笑いコンビ「ピロチキ」――その片割れ、戸越が主人公。
旅の模様は放送され、茶の間の話題を呼び、最高瞬間視聴率25%にも及ぶ大ブームが起こる――帰国した彼らを迎えたのは国民の熱狂的歓迎だった。
「旅の記録や写真集などの関連書籍はすべてバカ売れ」し、「彼らを出しておけばとりあえず数字が取れると番組出演オファー」は殺到、一躍売れっ子芸人となるが――、
すぐに飽きられる。
そして、

「過度の露出で飽きられ始めていた戸越に用意されていた人生は、転落の一途だった。」

へたに顔を知られているためどこへいっても「馬鹿にされ、同情され、後ろ指をさされ、腫れもの扱い」される。
周りにいた人々は手の平を返し、自尊心はズタボロ、次第に家にこもるようになり、生計は在宅ワークでなんとか、不眠症も重なって人生はどん底。
「自分の中身は何一つ変わっていないはずであるのに、芸能人という肩書きを失っただけでこうもこうなる人間の表と裏を目の当たりにした戸越は、もう誰も信じるものか。人の気持ちなどどうせ変わる。と、頑なに心を閉ざしたのだった」


紆余曲折を経て、ど田舎の空き家を紹介された戸越は、誰もいないはずのその家で見知らぬ女性と出会い、気付けば「夫婦だ」という設定にされてしまう――女はシズミと名乗り、戸越のファンなのだと告げた。
狭い村では噂はあっという間に広がる――まず、「夫婦」だということが既成事実となる。
人々は誰も純粋で人を疑うことを知らない。
お年寄りばかりだから、戸越を知るものもなく、シズミも余計なことは言わないので、後ろ指を差されることもない。

「ねえ、戸越さん。くだらないって無意味で最高ですよね」

シズミは言う。

「私、戸越さんの旅に勇気もらったんですよ。人間に意味なんてなくていいんだって。くだらないのが一番いいんだって」

不眠症の戸越に対して、シズミは寝て寝て寝まくる――実に、16時間睡眠。
こうなってもなお「芸能人」として「肥大した自意識」を捨てきれない戸越は、シズミを軽蔑することでなんとか自分を保とうとする。
「俺が、俺が見ている世界はもっと絶望で隙間なくふさがれていて。窒息しそうなくらい絶望で覆われていて。絶望、とにかく絶望しかなくて。あんたみたいに適当に生きている人間には到底分からないだろうが、俺の苦しみは半端じゃないんだ。」


やがて明らかになるのは、戸越の「絶望」が「絶望のための絶望」になってしまっているのだということ。
自分の中で「絶望」を保つために、「自分は絶望していなければいけないのだ」と無言の強制、自分は苦しんでいる、自分は不幸だ、自分は絶望なのだと自己暗示するように、思い込むように、「絶望的な言動」に自分を落とし込む。

戸越自身は、それを何度も自己否定している。
「初めて会った日にシズミに言われた「くだらないって無意味で最高ですよね」という言葉を思い出し、あの時なぜか自分は「どうでもいい悩みでシリアスぶりやがって」と遠まわしに否定、馬鹿にされたように感じたのだと今になって気がついた。自分が悩んでいるふりをして心配されたがっている人間だと思われた気がして、心の底で激しい劣等感を覚えていたのだった」
思われた気がして?――いや、違う。実際にそうなのだ、と私は思う。彼がどんなに否定しようとも、紛れもなく。
始めは確かに「不幸」だったのかもしれない。
それは確かに「絶望」だったのかもしれない。
しかし、シズミと会ってからの戸越は「不幸な自分」、「絶望している自分」に酔って、それを言い訳にして、絶望の中に「安住」してしまっているように思える――「心配されたがっている人間」だと思われたくないがために。
自分は「本当に絶望した人間だ。それゆえに苦しんでいるのだ。苦しんでいる自分は、のうのうと生きるお前よりも“上の人間”なのだ」と訴えたいがために。

言い訳としての「不幸自慢」。「不幸な自分」という優越感。
長い孤独の中で、育て上げてしまった「“絶望”している自分」という「肥大した自意識」が、ここにはある。


ラスト、「ある人物」の発言によって、戸越とシズミの「関係」は逆転する。
戸越のことをファンだと言ったシズミの、「ファン」という言葉の意味は何か?
そこにきて、お互いがお互いをどう「利用」していたのかが明らかになる。

しかし私には、「その人物」の言っていることは本質的な部分で「シズミを理解できていない」ように思えるのである――「彼」は、シズミのことを「分かっていない」のではないだろうか。
でも、戸越は気付いている――きっと。

「確かにくだらないよなあ、こんな複雑なことをするくらいなら」

そういって、悟る。

「絶望は証明された」

――とはいえ、本作は決してバッドエンドではない。

「絶望を知るには、まず幸せを知らなければならない」とは、使い古されたクリシェだ。
しかし、また逆も真なりとはいえまいか。
不眠症だった戸越がラスト、深い眠りにつき、物語は閉じる。
絶望のそのまた先には光があったのだと私は思いたい。


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「あたしは特別な人間なのだ。」

主宰する「劇団、本谷有希子」の第一回公演演目を大幅に改編し、小説化した本作は、三島賞候補に選ばれた出世作でもある。
山本直樹のイラストを配した抜群の装丁が目を引く。

事故死した両親の葬儀に合わせて、長男とその嫁、次女の住む実家に長女が帰ってくる。
カラマーゾフを凌駕する、「血」の宿命。
「家族」という名の呪縛。
「肥大した自意識」と、それを冷静に観察する「外部」の目。

現時点での、本谷文学の最高傑作であろう。

読み終わったあと、そのあまりの迫力にしばらく動けなかった。


中心となるのは、姉妹の物語。
お互いの人間性をむき出しにしながら、利用しあい、傷つけあい、もたれあい、関わり合いながら、その実――、
考えているのは「己のこと」のみ。

とにかく、長女の描写が圧倒的である。

「あたしはあいつらとは違う人間」

女優を目指して上京し、「肥大した自意識」が“何者でもない自分”を認めることを許さず――暴走する。
「姉の日記は三年前から始まっているにもかかわらず、どこを開いても「いかに自分が特別な人間であるか」について細かく小さな字で延々と書き記されていた。」
自分は特別、自分は人とは違う、自分は唯一無二、自分を認めない奴はクズ、自分、自分、自分、自分が、自分は、自分だけは――。


そして、その姉を「観察」する妹の存在がある。
「姉の人格を決定付けているだろう「自分が特別である」という思い込みの激しさには目を見張るものがあった。容姿がいいという以外、他人より優れているもののないように思われる姉に何故あれほどの自信が存在するのか。清深の研究テーマはほとんどその一点に集約していった(攻略)」
やがて「清深の興味は今後姉がいかにして現実を生きていくのかという方向へ少しずつ移行」していく。

「姉が社会に出ていくことは「姉の超自我と現実との闘いなのだ」と、清深は思った。」

「肥大した私、私、私、私……」が通用するほど、社会は甘くない――。

「現実が姉を呑み込むか、姉が現実を取り込むか。」


そう考える妹だったが、しかし、彼女は自分の中にある「歪んだ感情」にも気付いてしまう。
「これほど危ういバランスを保ちながら生きている姉の姿は隠されるべきではなく、むしろ多くの人間に知ってもらうべきだ」と自分が強く切望していることに気付いて」しまう。
そして、もうそれは押しとどめていられないほどの大きさまで膨らんでおり――、
静かに爆発する。


これは「戦い」の物語である。

姉の、そして妹の。
クライマックスを読むと、そのことがよくわかる。

「最高におもしろいよ」

ラストのこの一言で、動けなくなってしまった。鳥肌がたった。目を離せなくなった。
175ページから先。
もはや言葉にならない。
ただ貪るように読み、心の、大事な部分を鷲づかみにされたかのような読後感の中で、しばらく呆然としてしまった。


ちなみに、本作は映画化が決定している。
佐藤江梨子が長女、佐津川愛美が次女、永瀬正敏が長男で、永作博美がその嫁。
キャッチコピーは「なにものにもなれない、あなたの物語」
来夏公開らしいが、今から楽しみでならない。


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「エリ、こいつの名前『絶対』にする」
本谷有希子の処女作品集。
小説デビュー作となった表題作『江利子と絶対』を含め、『生垣の女』、『暗狩』と三本の短篇が収められている。

表題の中に「絶対」という言葉があるが、むしろ本作に通底するのは、「相対」の意識だ。

例えば、『江利子と絶対』に出てくる江利子は、「誰からも相手にされないと思って、そういうことを考えたり悩んだり何とかしなきゃって頑張るのが全部めんどくさくなって、家から出るのがもう嫌になって」引き篭もっている。
ある日、電車事故のニュースを見て、「前向きに生きる」と誓うのだが、それだって「引き篭もりというハンデを背負いながらポジティブに生きていく。引き篭もってるのにポジティブ。いいとか悪いとかじゃなくて、なんか、こう、新しいでしょ? いじけてないところが人生を大事にしてる感じでしょ?」という意味でしかない。

家に引き篭もりながら、自分だけの「絶対」の世界で安住する江利子だが、やがて彼女は同居する姉につれられ「二ヶ月ぶりになる、散歩とゴミ捨て以外の外出」に出かける。
それまで隔絶していた「社会」に足を踏み入れ――自分にとって「嫌なもの」を見せつけられ――「絶対」は崩壊していく。
自分を中心にしていた「絶対」世界は崩れ、自分は誰かとの関係性の中で生きているのだと自己を「相対」化し、「客観視」するのである。


本書が描くのは、「自分(たち)だけの世界」における「絶対」が、人との関係性の中で「相対」化されゆく様だ。

「42年間彼が孤独に耐え続けられたのは「強かったから」みたいなことでも何でもなく、ただ単に孤独じゃない状況を「知らなかった」ってだけで(略)」
『生垣の女』では、42年間を一人ぼっちで生きてきた男が、ひょんなことからアパートの隣人のストーカー女に目をつけられてしまう。
これまたその女性も「とんでもない」感じのキャラクターなのだが、彼女との「とんでもない」やり取りを通して、彼はそこに「孤独の闇の中」から這い出るような感覚を抱くようになる。
ここにも、それまでの男の「絶対」的世界観が崩されていく様が描かれている。
そして、その世界が崩れることで、今度は「絶対だった世界」は「新しい世界」と「相対」化されるのである。


『暗狩』においても同様。
「学校一凶暴な波多野君が僕や吉見君にとってどれほど驚異的ないじめっ子であったとしても、所詮は何の力もないただの子供でしかないのだ。大人には勝てない。」
「子供の世界」におけるカーストは、彼らにとっては「絶対」であるが、しかし、そこに「大人」が加われば、例えガキ大将であろうと一人の「子供」でしかない。

このように、本書では「絶対」の崩壊と「新しい世界」の構築が描かれているのだと思う。
そして読者は、一度崩された「絶対」は、いい意味でも悪い意味でももう「元通り」にはならないのだと気付かされるのである。


「肥大した自意識」をテーマに、「絶対」の世界で生きる人間を描き続ける本谷の、まさに「原点」とも呼べる作品群である。
もちろん、それまでにも多くの舞台脚本を書いてきた作家ではあるが、こと小説に限って言えば「処女作にはその作家のすべてが詰まっている」ともいえるかもしれない。
読んでいて、いや〜な気持ちになるのだが、ラストで妙に切なくなってしまうのはなぜなのだろう。
好きじゃないのに嫌いになれない、しかも読まされてしまうという不思議な魅力を持った小説を描く作家である。
舞台『遭難、』も面白かったし、近いうちに芥川賞を受賞するのではないかと期待している。


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「迷ったあと、まだ全然温まっていない牛丼を中から取り出す。特にこれが食べたかったわけでもないので、まあいいや冷たくてもという妥協だ。自分という女は、妥協におっぱいがついて歩いてるみたいなところがあって、津奈木と付き合ったのも当然のように妥協だった」

高校を卒業してデザインの専門学校に通うも、早々にばっくれ、「グラフィックデザイナーと付き合ったり歌人と付き合ったり特撮監督と付き合ったり」しているうちに22歳になってしまった妥協+おっぱいの寧子は、駅ビルの本屋でバイトを始め、人数合わせのコンパで「つまんね〜」とぶすっとしたまま日本酒を飲み続けた挙句に泥酔し、すったもんだの末に、同じく人数合わせ・男代表の津奈木と同棲することになる。
それから、かれこれ3年。
なまじ外見がいいから無駄なトラブルに巻き込まれ、社会性もないためどのバイトも長く続かず、現在無職の25歳、しかも鬱病です。さてさて。
――といった感じで物語は始まる。

しかも、直近のバイトも「からし色のセーターにからし色のコーディロイパンツを平気で合わせるようなストッキングをかぶっている」みたいな顔をした男にデートに誘われ、それだけで鬱なのに、その男を好きだった「獅子唐の素揚げみたいな女」による嫌がらせが始まり、まじ勘弁、ついには「お前らの安い恋のトライアングルに勝手に巻き込むんじゃねえよ」と叫び、暴れ、取り押さえられ、あえなく解雇という壮絶さである。
それから鬱病になって、ほとんど家を――どころか部屋を出ない日が続いている。


「女子高生の頃、なんとなく学校生活がかったるいという理由で体中に生えているあらゆる毛を剃ってみたことがある。(中略)そういうのってたとえば今こうやって、テレビでホットドックの早食いに挑戦しているフードファイターにだって通じるところがあるじゃないだろうか。優勝を目指してはいるけど、この人はきっと食事自体にもっと手応えみたいなものがほしくて、ソーセージを抜き取ったパンを紙コップの水に浸して喉の奥に押し込んでいるに違いない」
この冒頭で暗示されるように、寧子が探し続けているものは、そして得られず苛立っているものは「手応え」なのである。
鬱病になって現実感のなくなった世界で、終始一貫して寧子は、自分が生きているという感触を、自分が「必要な人間なのだ=必要とされない人間ではないのだ」という「手応え」を探している。

家が停電になるシーンでも、突然の「暗闇」はこうした寧子の現状を象徴的に描き出す。
「そばにあるはずの本部屋の扉も見えない。あたしは手応えがほしくて壁を何度も手のひらで叩いて確認した。擦るように撫で、ざらついた壁紙の感触を必死で脳へ送る。でもなぜかここに本当の壁があるのかどうか、どうしても確信できない。壁の堅さってこんなだっけ?」
長い鬱によるひきこもり生活が、寧子の「現実感」を奪い取り、どんなに「壁=社会」に触れても、「壁の堅さ=社会との接し方」を思い出すことができない。
しかし、これは別に「鬱病者」だけの問題ではないだろう。
「壁」の感触を忘れてしまった人が増えているのは、時代的現実ではないだろうか。
「あたしはベッドの中で目覚めた自分が実はまだ夢を見ているのか本当に起きているのか分からないことがよくある。現実と同じようにして目覚まし時計や電気のスイッチを何度も触って確かめるのだが、たしかに押した指先に返ってくる手応えがあるような気がして、夢を夢と見抜けたためしはない。ひどい時はどれだけ起きても夢の中だ。このままエンドレスに寝ながら起き続けるんじゃないかという恐怖と闘いながら、必死に今度こそと手応えを求め続ける」
この想いは後半、津奈木との愛の手応えへと移行していく。
自分(=内側)だけの問題だった「手応え」への希求が他人(=外側)に向き、それによって自分を再発見し始める中盤からは、ページを読む手が止まらない。


また、個人的に面白かったのは「ディティール」である。
作者が「寧子は社会とつながりたいと願っている。“あたしを分かってほしい”と思っているのに伝わらない。結局さみしいから行動がめちゃくちゃになるんですね」とインタビューで答えているように、自分の思うようにいかない社会に対して寧子はつねに「キレて」いる。
で、その怒り方というか、社会に向ける「なに、これ?バカじゃないの」という視点が思わずにんまりしてしまうものばかりなのだ。

例えば、鬱で過眠症になり、なんで自分こんなに寝れるわけ?普通の人は普通に朝起きれるのにそれが無理難題みたいにのしかかるなんて意味わかんないと「気持ちが沈んでいくのを止められないまま津奈木の携帯に『死にたいかも』とメールを送信」する寧子。
「しばらくしてから返信があって画面を見ると、『大丈夫たよ』という文章が書かれていて、あたしは激しい怒りを覚える。なんだ、たよって。人の生死に関わるメールなんだから読み返すくらいしろ。こんな短い言葉、打ち間違えんな眼鏡うんこ。お前が死ね」
と吐き捨てる場面や、
「ディズニーの七人の小人の置物が通行人から見えるように並べられている一軒家」の表札に向って、
何が『MURAKAWA』だ。日本人のくせに名前にアルファベット使ってんじゃねえ、死ね死ね村川
と雪を投げつける場面など、「わかるわかる(笑)」と思わせる描写がてんこ盛りなのである。


先頃の135回芥川賞で、受賞作『八月の路上に捨てる』と最後まで選を争った本作。
選評には、主人公を鬱病に設定したのは文学的に安易ではないか、という指摘があった。それに対して、作者はこう語っている。
「エキセントリックな人間の恋愛を描くとき、鬱病は欠かせなかった。上の世代には、鬱を選んで書いたように見えたかもしれないけど、私の周囲では選んだ意識さえないほど身近な病気です」
「私の周囲では」というところがポイントだろう。
いろいろな意味で、現代的な小説だったことは間違いない。


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