モグラのあくび

シンプルでシャープに。そんな感じに

今日は観劇、明日はライブ

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「初演はねぇ、ものすごく不評だったんだよ、これが。ほんとにつまんないって言われたし、怒って帰る人もいたからね(笑)」

阿佐ヶ谷スパイダースで作・演出を務める長塚圭史は、当時を振り返ってこう語っている。

『イヌの日』が初演されたのは、今から6年前、2000年のこと。
当時、長塚は25歳だった。
今回、再演するにあたってずいぶんと加筆・修正をしたという。
初演台本を自ら「ガサツで乱暴な本」と呼んでもいる。

その一方、『イヌの日』は阿佐ヶ谷スパイダースにとって大きな転機となった作品でもある。
96年、長塚が早稲田大学第二文学部在籍の大学3年生のとき、阿佐ヶ谷スパイダースは旗揚げされた。
やがて伊達暁、中山祐一朗が固定メンバーとなり、00年に現プロデューサーの伊藤達哉が加わる。
現在の阿佐ヶ谷スパイーダースのカタチが確立しての初公演が『イヌの日』初演だった。
長塚は、『イヌの日』を「自分にとって、ひとつの転機になった作品」だと語っている。


11月25日(土)、夜の部で再演『イヌの日』を観た。

阿佐ヶ谷スパイダース初観劇である。
小劇場の聖地、下北は本多劇場に足を運ぶのも初めてで、というか、そもそも下北に降り立つこと自体、ほとんど初めてみたいなもの。
駅前ではあちらこちらで弾き語りやら何やらパフォーマンスが行われていて、「こ、これが下北!!」と一人テンションが上がる。

劇場に入って、まず圧倒されるのが舞台上のセット。
二階建てになっており、上に洋間が左右二部屋、下には洞穴が広がっている。
洋間の向って左にはベッドがあり寝室、右には机やソファがあって居間を思わせる。
二階の二部屋の真ん中を上から洞穴へとハシゴが貫いており、一階がどこかの地下だとわかる。
立体感溢れる舞台に、いやがおうにも期待が高まるというもの。

今回の目的は、「阿佐ヶ谷スパイダースを観る」と同時に、「八嶋智人さんを観る」であった。
大好きなのです、八嶋さん。
テレビでもお馴染みの、緩急を使った間の取り方、抜群の瞬発力で見せる笑いなど、いかにも「舞台俳優」といった感じで、彼が出ているとついつい目がいってしまう。
生八嶋さんにワクワク。


邸宅に住む中津は、17年前から4人の男女を監禁している。
監禁場所は防空壕、舞台の下に位置する“洞穴”である。
4人は子供のころから「地下」で暮らしており、精神的に幼さを感じさせる。
中津は、彼らを監禁し、「外の世界は危ない」と教え込んで、閉じ込めている。

今回、前述したように初演からの変更点は少なくない。
パンフレットで、長塚はこう語っている。
「前回のホンには、監禁してる人間の動機みたいなものがなかったんですね。単なる仕事をしていない記号としての“若者”が、少年達を子どもの頃監禁したみたいなところから始まって、なぜそうしたのかもわからずに、そのまま終わっちゃってて。ベースに純愛があることはあるんだけど、今芝居にするなら、『じゃあそれが許される状況って、どういう状況なのかな?』ってところまで考えないと面白くない。(中略)『これどうして?』って。その『どうして?』に向かい合わないことには、これを今再演しても意味ないなって思って」
こうして、初演にはいなかった「中津の母」という役が加わった。
「なぜ中津は監禁をしたのか?」
――この疑問に対する答えをより明確にするために。

恐らく、長塚の言葉にもあるように、初演では「監禁」を、その背後にある「純愛」に直截に結びつけたのだと思う。
しかし、ここに「母」性が加わることによって、長塚は「では、なぜ中津は“このような歪な形”でしか純愛を表せなかったのだろうか?」という疑問にも答えを与えている。

中津の母を演じた美保純は、自分の役をこう分析している。
「自分は母になりたいんだけど、お母さんに抱きしめられなかった人だから、どうしていいかわからない。そういう連鎖って、確実にあると思うんですよ。だから稽古では、脚本にはまったく出てこない和子のお母さんのことまで、想像しながら演るようにしてるんです」
目から鱗の、まさに「演じる者」の視点だろう。
舞台を構成する「地上」と「地下」のように、本作は表層(地上)を始まりにして「血」という人間の血脈的、人体的「地下」へと帰結する。
「(台本上には不在の)祖母」―「中津の母」――「中津」という連なりを想像することによって、本作の明度はぐっと強まったように思う。


八嶋さんは、当初「地上」の人間でありながら、「地下」に適応し自主的に降り、上下の世界観の違いを「見せつける」重要な役を演じている。
話が進むにしたがって、観客は、「監禁」されているはずの「地下」住民のほうが自由に生き、「地上」の人間たちのほうが色々なものに縛られ、不自由に生きていることに気付かされる。
その象徴的が、「地上」で借金を作り、在日として差別される「宮本」役の八嶋さんなのである。

「地上」では礼儀正しく、異常なまでに腰の低い宮本は、「地下」で精神的な幼さを持つ4人に出会い、子供に戻ったようにはしゃぎ回る。

ここにも「在日」という「血」の問題が表れる。


宮本は「地下――血脈的、体内的地下」を求めて、防空壕で4人と暮らし始める。
「地下」には制度的な差別など存在しない。
ここでの舞台としての「地下」は、象徴としての「地下」を差別しない。
それは「地上」のみの問題であり、宮本は「地下」的「血」的劣等感から解放されるのである。
4人と合流した宮本は「地上に帰りたくない」といって、最後まで「地下」に留まる。


このように、「中津の母」を加えたことによって、全編が「地上―地下」(これは何も、「物理的意味」においての「地上」「地下」だけではない)の物語として、よりしっかりとした柱になったように思う。

「勢いでやった作品を、何度も再演していくことで育てていく」

長塚は、すでに『イヌの日』の2度目の再上演をも考えているのだという。
いつの日か、さらにパワーアップした『イヌの日』に出会えることを願っている。


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「PE'Z」REALIVE 2006 秋 〜茜 AKANE〜追加公演〜@渋谷公会堂に行ってきました。
思い起こせば、PE'Zとの出会いは高校3年生のころだったろうか。
休日に昼頃のろのろと起きだし、CSの音楽番組をつけながらブランチとでもしゃれ込もうとした瞬間、映し出されたのが彼らのメジャーデビュー曲「Akatsuki」のPV。
一瞬で鷲づかみにされた。
圧倒的だった。
それまで音楽に関しては、どちらかといえば淡白な興味しかなかったのだけど、初めて「すげえ」と思わされてしまった。

PE'Zとは、トランペット、テナーサックス、ウッドベース、キーボード、ドラムで構成される五人組のインストジャズバンド。
現在、期間限定でPVを視聴できるサイトもあるので、興味のある方はどうぞ。
特に一押しは、椎名林檎率いる「東京事変」初期メンバーでもあったキーボードのヒイズミさん!!
超絶テクと爆笑パフォーマンスは一見の価値ありであります。


とにかく、そんな彼らのライブ、盛り上がらないわけがない。
席は二階の舞台向って左側、前から4列目。
ズミさんの猫背気味の背中を真ん前に捉える良席でした。

『用心棒』で幕を開けたライブは、カバーアルバム『日本のジャズ』を中心にした序盤からして一気に客を引き込んでいく。
人はなぜ、CDでも音楽を聞けるのに、高い金を払ってライブに行くのだろう?
――この問いへの答えが、PE'Zのライブには詰まっていたように思う。
もう「聴く」とか「観る」を超越した「感じる」という極地。

『日本のジャズ』の中でも好きな『鈴懸の径』、『どんたく』にうっとり。
ズミさんのピアノソロで始まった『Amny』で、彼の神レベルの指さばきを堪能。
『のだめカンタービレ』のだめを再現できるのは、ズミさんだけです!!
『ハリヨの夏』のしっとりとした引きもよかったなぁ。
後半にいくにしたがってピョンピョンしながら弾く度合いがどんどん上がっていき、仕舞いにはイスの上に寝っころがり、ほぼ盤面など見なくなって、それでも弾き続ける姿は、私の目には神々しいまでに見えました。
ああ、ズミさん最高です。

音楽に詳しくないので、技術的なことはわからないのですが、とにかく「元気のもらえるライブ」であることは間違いない。
本気でここ最近の悩みが吹き飛んだように思う――ぐじぐじしてても仕方ないですしね。ヘイヘイ。

『情熱の行方』メドレーでは、「自分たちの情熱の行方」を模索しながら曲を作っていったという大山さんのMCによって、ぐっと曲のイメージが広がったように思う。
そこまで贔屓の曲ではなかったのだけど、自分の中で再評価。

『さらば愛しきストレンジャー』、『Hale no sola sita』、『I'M A SLUGGER』と浴びせ倒しての、『夢のエンアレ』での締めは思わず鳥肌が立つほどのパフォーマンス。
こんなに満足した4200円は初めてかも。
ああ、そういえば『みずいろの雨』もよかったなぁ。
個人的に一番好きな『アンダルシア』をやらなかったのだけが残念といえば残念。


実は、これでPE'Zのライブは2回目なのだけど、やっぱりライブに行くとガツンと頭を打たれるものがある。
ああ、次のライブはいつかなと思っていたら、来る12月25日(月)、クリスマスにスペシャルライブが決定しているそうです!!
そこでは新曲発表があり(激アツだ)、来場者には漏れなく記念Tシャツがプレゼントされるのだとか。
しかも、「カップルで来た人にはサインを上げる」と大山さんが高らかに宣言したため会場は騒然。
めちゃくちゃ行きたい!!
こいつは並んでチケ取りですな!!(戦場に行くかのような面持ちで)


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『下妻物語』『嫌われ松子の一生』など中島哲也監督作品でおなじみの江本純子作・演出、毛皮族公演に行ってきた。
毛皮族のアングラ経験劇場『コーヒー&シガレッツ的な軽演劇』と銘打たれた今回の公演には、A〜Eまでの5つのプログラムがあり、演目が日変わりになっている。
一本あたり50~70分の「軽演劇」であり、料金も前売り1800円、当日2000円と比較的安くなっているのが特徴的だ。

5つの演目は、
A『元始、女は太陽だったような』
B『からす食堂〜二丁目の夕日〜』
C『ゴドーを待ちわびた私』
D『OSOBA』
あまけ演目E『純子の黒い部屋』(江本純子による歌謡リサイタル。猥談付)
と、それぞれどこかで聞いたことのあるようなタイトルをしており、そのイメージが喚起するように、内容もまったく異なっているようで。
例えば、Aは「松本清張度」の高い「渾身の本格ヒステリー」になっているらしい。
(といわれても、どんなやねん、といった感じではあるが)


私が観に行ったのは、13日(土)昼のC演目。

パンフレットにおいて「アングラ度」★5つ(マックス値!!)の称号を与えられた、アングラ中のアングラ、アングラにもほどがあるわ!!な演目であった。
全身真っ白な不精な姫・白過姫(町田マリー)を嫁にするため、全身真っ黒な盗賊・黒柳(江本純子)は、「山の雪はあなたよりも白い」といって、自分の家まで姫を連れてくることに成功。
ここらへんのやり取りは、正直「すべってる」のか「(むしろ、それを)狙っている」のか判別のつけ難い、微妙な空気だった。
静かに話は流れていく。

その後も、黒柳の醜い前妻や、盗んできた都の年増女などが入り乱れ、あ〜だこ〜だと物語は進み、なんとまあ、驚くことに気付けば盗賊の家はエステに早変わり(!!)。
「どうみてもさっきの黒いやつだろ」と突っ込みたくなるエステティシャンが出てきて、びっくりするほどのやりたい放題――具体的に書きたいけど、ネタバレになるのでさすがに書けない。その、あまりの「やりたい放題」っぷりは、思わず出演者自身も笑い出してしまうほど。今、思い出してみても……凄かったなぁ――をやったあと、なんとなくな雰囲気で舞台が閉じるという衝撃の展開。

アングラというか、シュールの極地のような演目であった。

私は、エステのくだりがツボに入り、ラストは笑い通し。

しかも、肝心なところで江本さん扮するエステティシャンが、セリフの「黒」と「白」を間違え、自分もそれに気付いて「ああ、失礼」と苦笑い、みたいな、「ただでさえシュールな脚本が、なおいっそう混迷の色合いを強める」舞台ならではのハプニングもあり、それまた個人的にツボ。
本当は起きてはいけないことなのだろうけど、「面白ければいいじゃない」の精神である。


終演後の江本さんのトークによると、演目ごとに客層がはっきりと違ってくるそうで、

C演目は「おっさんの比率が高い」らしい。

これがA演目になると「毛皮族初心者っぽい人が多い」のだとか。
「まあ、わかりませんけどね(笑)なんとなく」とは言っていましたが(笑)

江本さんが話している横で、旅行トランクにグッズを入れた物販がスタート。
江本さんのサイン入り本(『股間』……凄いタイトルだ。。)を買って、会場を後にした。


立教大の演劇サークル出身である、江本純子と町田マリーを中心に2000年9月に結成した毛皮族。
下北は本多劇場で公演をするまでの人気劇団が、「ここまで」小さな会場で公演をするというのも異例なのかもしれない。
なんといっても、各回限定50名。
出版社としてもお馴染みのリトルモアの地下、普通の事務所に無理やり舞台を作ったかのようなその場所に、座布団を敷いてうんしょと腰を下ろし観るカタチである。
まあ、隣の人とギチギチですよね、えぇ。

しかし、当然ながら、役者さんはもろ目の前である。

中でも江本さんは、夏に著書も出し、これからジャンルを超えて注目の人物であろう。
めったにない機会だと思うので、興味のある方は是非どうぞ。


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本公演のチケットには、

「未就学児童のご入場はご遠慮ください」

と書かれている。
観て納得。
なるほど「ご遠慮ください」、である。
舞台でのクドカンがここまで、まるで何かの呪縛から「解き放たれた」かのような脚本を書くとは知らなかった。
映画、ドラマと多岐に渡って活躍する脚本家であるが、きっと、内容的にもこっちのほうが「ホーム」なんだろう。

下ネタ、ブラックジョーク、「間」の取り方――、

どれも、ある意味「ベタ」なのだが、「笑わされて」しまう。

雑誌『hon・nin』の中で宮藤官九郎は、松尾スズキに倣い、「『俺も1ページにギャグを3コ入れなきゃ』と思って実践してきた」と語っているが、まさにそんな感じである。


「ウーマンリブVol.10」ということで、大人計画の公演と何が違うのかと思えば、“ウーマンリブ”はクドカンの作・演出公演のプロジェクト名だそうだ。

ある官能小説家(松尾スズキ)が、新作のため旅館で「缶詰」になっている。
編集者(宮藤官九郎)は原稿を待つが、いっこうに上がる気配はない。
愛人を連れ込み、女子大生を呼びと、真面目に執筆する気はなさそうだ。
そこへ「ウーマン文学賞」選考委員を名乗る男(古田新太)とその秘書(伊勢志摩)が現われ、小説家に落選を告げる。
「じゃあ、受賞者は?」と小説家。
「あなたの奥さんです」と委員。
愛人のいる旅館に、泥酔したその奥さんまでやってきて……とドタバタ劇が行われる。
ここまでが構成的には第一部。

選考委員が実は小説家のファンであることを告げ、ゴーストライターを始めるくだりから、物語は急展開を迎える。
そこからラストまでが見所だろう。
それまでギャグに覆い隠されていた様々な事実が、一つの場所へと圧縮していく。


ドタバタ劇が伏線となって、見事ラストに「回収」されるカタルシス。
あるいは、言葉の「ふざけ方」や、デフォルメされた日常など、クドカン脚本には独特の世界観がある。

そのあまりにも「独特すぎる」世界観ゆえに、テレビ放映時の視聴率がよくないのは有名な話。
しかし、DVDセールス及びレンタルはどの作品も好調で、深夜の再放送で高視聴率を上げるものも少なくない。
『池袋ウエストゲートパーク』のように2時間枠のSPドラマを放送したものや、『木更津キャッツアイ』のように映画化までされた作品があるなど、熱狂的なファン層を抱えている。

『ウーマンリブ先生』は、その(作品的にもファン層的にも)決して“マス”ではないが“ディープ”なクドカンワールドを「煮詰めた」ような公演だった。

ドラマでは見られないであろうギャグの際どさもそうだが、ラストにそれまでの伏線を回収しながらオチをつける構成は、さすがの一言。

間違いなくテレビ放送できるような作品ではないし、かといって「テレビドラマの脚本家としてのクドカン」から乖離しているわけでもない。

「舞台のクドカン」は、「テレビのクドカン」と“別”なのではなく、いっそう“極端”なのである。

あるいは、「大人計画」や「ウーマンリブ」の公演をずっと観てきた人にとっては、これが「いつもどおり」なのかもしれないが、「テレビのクドカン」しか知らない人にとってすれば、いい意味での「裏切り」になっているように思う。
それは、そこにあるのが「クドカンの世界」でありながら、「テレビのクドカン」とは少し違う「舞台のクドカン」を観ることができるからである。


「脚本」もそうだが、やはり舞台に欠かせないのは「役者」の「存在感」であろう。
それは、プロ野球のテレビ視聴率が低迷する中、甲子園や札幌ドームが満員になる理由にも通ずるものがあると思う。

その点、本公演に関しては心配する必要はない。
松尾スズキ、古田新太、荒川良々、宮藤官九郎と、テレビでもお馴染みの役者が自己の存在感――ある種のオーラ――だけで場を支えられるから、全体が緩まない。
中でも皆川猿時さんには、目を離したくないと思わせる「何か」があった。

人気のあるものは、やっぱりそれだけのものなのだと大満足の2時間10分。
当日券もあるようなので、気になった方は是非どうぞ。


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「ただどうしても私はいつもいろんなことを見失いがちというか、特に自分。自分のためならなんでもやってしまうのだ。これは本当、我ながらすごいタチが悪い。でもたとえばそのために他人をおとしいれたりすることが誰かに「あんた最悪―」とか言われたりしても、やっぱり私は「うるせー。自分がかわいくて何が悪いんだ」とか言い返しちゃう気もするし、まあさすがにそこまでは言わなかったとしても、たぶん私は私が最悪な人間だとは思わない。だって私は自分がめちゃくちゃかわいいってだけだし。自分大好き。私は私のことが好きすぎて、それでたまに他人を傷つけちゃうこともなくはないってだけなのだ」

「劇団、本谷有希子」の第11回公演『遭難、』に行ってきた。
15日(日曜)の夜の部。

本谷作品は初観劇なので、行く前に本谷さんの“妄想日記”主演の松永玲子さんの稽古場日誌を読んでみる。
演出側と演じる側の感想が忌憚なく語られていて本当に面白い。
これから観に行くという人も、もう観たという人も、というかこの際、本谷有希子に興味のあるすべての人は一回読んでみて損はないと思う。


冒頭の一人語りは、『遭難、』のパンフレットに書かれている、主人公の独白ともとれる文章。
私は、本谷演劇は前述のように初観劇だし、小説も『生きてるだけで、愛』と雑誌『hon・nin』(太田出版)で連載中の『改めて!ほんたにちゃん』しか読んだことがない。
この『改めて!ほんたにちゃん』は、本谷有希子が「19歳のときに生まれて初めて書いた小説『ほんたにちゃん』をなるべく当時の勢いをそのままに読みやすく改稿した」ものであり、「処女作には、その作者のすべてがつまっている」という格言の通り、すでにこの小説には『遭難、』と共通するテーマの萌芽がすでに見受けられる。

なんたって、『改めて!ほんたにちゃん』の冒頭は、こんな感じなのである。
「生まれてこのかた、何よりかっこいいものが好きだ。ものっつうか、自分? そう、私、かっこいい自分が大、好き、だ」
クールぶって、かっこつけて、不思議ちゃんを演出しようとして、でも誰にも相手にされず、ただの勘違いちゃんになってしまっている「ほんたにちゃん」。
誰かに構ってもらいたいし、一人でいるのなんて本当は好きじゃない。なのに、自分からは人との距離を縮められず、誰かが来るのを待っていて、でも黙ってクールぶってかっこつけていて誰かが近づいてくる――好意を持ってくれる――わけもなく、結局ただただ自分が好きってことだけで世界が閉じてしまう。
自分だけの世界で、自分だけを愛して、それで終わっちゃう。

「ほんたにちゃん」の語りは、あまりにも『遭難、』のパンフレットの一人語りに似ている。
そんなわけで、私は本谷有希子作品の通底にあるテーマは、

「自分大好き」

ってことなんじゃないかと思っている。
「肥大した自意識」とか「過剰な自尊心」とか。
「私のこの、血を吐くほどの生きづらさは一体何の形に換算されて返ってくるのかな?」
「ほんたにちゃん」はぽつりつぶやく。
誰もが知っている通り、「自分大好き」っていうのは――自分しか「見えない」っていうのは、本当に生きづらいものなのだ。
――この「大好き」はあまりにも哀しい諦観の上に築かれている。
(とりあえず、他の小説も読んでみます)


「笑えますが、嗤えません」

というのが、私が『遭難、』につけたコピーである。

飛び降り自殺を図り、意識不明になった生徒。
その母親は、毎日学校に来て担任教師を責めたてる。
「息子の書いた相談の手紙をお前はもらっていたはずだ」
知らない、と担任の女教師は言う。
「隠蔽する気か」
と、母親は声を荒げる。
ついに泣き出した女教師をかばう同僚。
しかし、その同僚こそがある秘密を隠していた……

シリアスな展開にも関わらず、ブラックな笑いが随所にちりばめられていて2時間を飽きさせない。
ギャグが、あまりにも場違いでシリアスな中に投げ込まれるため、笑いのツボもお客さんによってまちまち、「あ、ここで笑う人もいるんだ」と意外に思うことも多かった。

本谷曰く「松永のキャラクターで引っ張っていく」作品。
出演者はたったの5人で、その全員が役にはまっていて、特に松永さんとつぐみさんには圧倒されるばかり。
正直、ハマリそうです。
来年の6月に次回公演が予定されているらしく、早くも楽しみである。


異常時に人間の本性がむき出しになるのは、誰もが「自分大好き」――「自分が一番」なのに、それを隠して生きているからだろう。
別にそれを否定しているわけではなくて、そもそもそんなことは誰もが知っていることなのだ。

汚くたって、むなくそ悪くたって、歪んでたって、いいじゃない人間だもの。
じゃないけれど、『遭難、』にはどこか、そんな人間の否定的な部分を肯定しようという――あるいは、受け入れようという、ある種のやさしさがあるように思えた。

最後に二つだけ。
・果たして、電話の向こうに「先生」はいたのか?
・果たして、里見は「あのシーン」で何と言ったのか?


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