モグラのあくび

シンプルでシャープに。そんな感じに

坂木司は「専門家」

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「私はね、どんな仕事でもプロフェッショナルが好きなの。自分でやっていることをきちんと把握して、なすべきことをしている人がね」
前作『切れない糸』の舞台は「クリーニング店」。
そして今回は「歯医者」である。
『本ミス』の「新作近況会」によると次は「宅配便」だそうで、“ひきこもり”三部作から脈々と続く、作者の「プロフェッショナル志向」が垣間見える。

そう、坂木作品に共通するテーマ、それは「プロフェッショナル」なのである。


“ひきこもり”三部作では、鳥井は「料理」のプロフェッショナルであった。
もちろん彼の本業はプログラマーなわけなのだが、そんな描写はほとんど皆無。
三部作を通してプロ料理人かのごとく鳥井は料理を作ってきた。
『動物園の鳥』に特別付録として「鳥井家の食卓」レシピが載っているくらいである。
作者がどれだけ意識して、「料理」のプロフェッショナルとして鳥井を描いてきたのかわかるというものだ。

栄三郎さんや安藤さんはもろにプロフェッショナルの職についている(いた)人だし、他にも、それぞれの道に精通している人が多くでてくる。


また、4作目となる『切れない糸』には、作者の「プロフェッショナル」に対する熱き想いが溢れている。

アイロン職人・シゲさんの例を出すまでもなく、主人公のクリーニング店そのものが「プロフェッショナルな店」の象徴であるとすらいえるだろう。
「落ち着けよ、和也。アライクリーニング店みたいにきちんとした店で起こる事件じゃないんだ。カウンターのチャックが甘くて、客の言い分なら何でも聞いてしまうような、そんな店で起こることなんだよ」
そして、それはチェーン化、マニュアル化に対する批判にもつながっていく。
「そうだな、イメージとしては最近流行りのチェーン店だ。二十四時間営業、早い、安いが合い言葉で、クリーニング師は置いてない。カウンターはマニュアルどおりの対応しかできない、アルバイト。そんな感じじゃないかな?」
もちろん「プロフェッショナルな店」と「チェーン店」、どちらにもメリット、デメリットがある。
チェーン店を毛嫌いし、貶めようとしているわけではないだろう。

しかし、商店街が減少し、大型デパートや外資のスーパーに席巻される昨今の状況を鑑み、「プロフェッショナル」が消えゆくことに警鐘を鳴らすかのように作者は書く。
「きちんと機能してる商店街ってのは、小さな規模のプロフェッショナル集団だと俺は思う」(中略)
「別にその業界で一番じゃなくても、経験と知識があって、自分の判断で動くことができる人材が各店にいる。それって、結構贅沢な状態だぜ」
部位の指定と、それによって切り方を変えてくれる肉屋。旬と調理法を教えてくれる魚屋。そして熟れる頃合いを予言できる八百屋。俺の頭の中には、それぞれの店のおっさんやおばちゃんの顔が浮かんできた
坂木司はプロフェッショナルが好きなのだ。
そう、「自分でやっていることをきちんと把握して、なすべきことをしている人」、が。


本作『シンデレラ・ティース』には様々な「歯」のプロフェッショナルたちが登場する。

読んでいるだけで業界の細かい事情を知ることができるのは今作でも同様。
身の回りの普段ほとんど気にしないような部分へのプロフェッショナルさを突きつけられ、読後、自分の感覚が一段鋭くなったように感じられる。
――これが、坂木“プロフェッショナル”小説の効用である。

歯医者嫌いの咲子は、ひょんなことから歯医者の受付バイトをすることになってしまう。
咲子をワトソン役とし、「奇妙なお客様」とともにもちこまれる「謎」を、ホームズ役の歯科技工士・四谷が解いていく構成は、これまでの坂木作品と変わりない。

なんでも、作者自身が虫歯になって「どうせ歯科治療を受けるなら、取材してみたらどうか」と取材を始めたのが執筆のきっかけだそうで、「取材してからアイデアをこじつけた」ため(かどうかはわからないが)、肝心のミステリ部分はかなり「弱い」。
その代わり、咲子と四谷の恋愛要素なんかもあり、人間ドラマによりバイアスがかかっている印象である。


また、少しずつ「説教臭さ」や「毒」がなくなっているのは残念。
いい意味でも悪い意味でも、あの「説教臭さ」は坂木作品のスパイスだったので。
年内に2冊くらいの出版が予定されているそうなので、次回作がどうなるのか楽しみにしている。


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「私は、小説の中で家族を作りたかったんですよ」

『青空の卵』の単行本巻末対談で作者が言った言葉である。
本書の「解説」で引用されている。

「初めは二人なんですけれど、老人――おじさんとおばさん、それに若い女性、男性、という具合に加わっていって、最後にみんなで食卓を囲めるのが理想だったんです」


「ひきこもり」三部作の展開は、まさに作者の言葉通り――最初は鳥井と坂木の2人、やがて出会った人々は仲間となり、擬似家族を形成、食卓を囲むようになる。
そして、この基本的なスタンスは、本作『切れない糸』にも受け継がれている。

父の急逝によって実家のクリーニング店を継ぐことになった新井和也。
流されるまま「二代目」となり、不慣れな仕事に愚痴もこぼすが、顧客とのやりとりを通じて少しずつ成長していく――クリーニング屋という仕事の「楽しさ」に気付いていく。
主な仕事は、クリーニング品の出張集荷。
「人が着た衣服というのは、現代風にいうならば個人情報の固まりです。そこの家の人の年齢、体格、体臭、癖など探ろうと思えばいくらでも知ることができます」
持ち込まれる品の変化、奇妙さ、渡す際の態度や挙動の不審――。
顧客が困っていると放っておけない和也は、仕事中に出会う「謎」を前にして、おせっかいと知りつつも、「困っていること」を解決してあげたいと考える。

4つの短篇とプロローグ、エピローグで構成された本作でも、人々は和也の近くに留まり、仲間となって擬似家族を形成、人の「輪」を広げていく。


冒頭の対談で、坂木司はこうも言っている。

「ミステリでいつも不満だったのは、一話限りで去ってしまう、使い捨ての人物が多かったこと。だから、「死ねば事件だ」のような話だけは書きたくなかった」のだ、と

本作のホームズ役は喫茶店バイトの友人、沢田。
和也は言う。
「不思議なことがあって、その謎を解く。けれど謎を解いた後には、残るものがある。それは謎に関わってしまった人たちの心のもつれだ。推理小説じゃないんだから、謎を解いて「さあどうだ。合ってるだろう」と言ったところで現実はなにも進展しない。原因がわかったなら、次はどうするかを考えなきゃ、前に進むことはできないんだ。そして、沢田は、関わった人の「その先」まできちんと考えているような気がする」
沢田もまた、鳥井ほど極端でないにしろ、人と距離を置いて生きてきた。
しかし鳥井がそうであったように、彼も「謎の先」までを解決しようとする――「謎」が暴かれた先にある、感情のもつれを(「糸」を)解こうとする。
だからこそ、人々は彼らのもとに集まってくる。
「本当に解決が必要なのは、もう一つの問題の方だ。違うかな」
意識的な「擬似家族の形成」に、しっかりと裏づけがあり違和感がない。

クリーニング店に勤めるアイロン職人・シゲさんとパートのおばさん3人組、そして母親。
加わりゆく仲間とともに「家族」は拡張され、賑やかになっていく――物語が「広がっていく」。

この「物語の拡張」が、坂木文学の真骨頂だろう。



共依存状態だった鳥井―坂木コンビに比べ、沢田―和也の関係は健全に見える。
「和也には見えないものが見えてるだけさ」
時には、切り捨てるかのような発言もするし、
「おまえが、どこかだったらいいのに」
時には、頼ろうとする姿勢を見せることもできる。
おんぶに抱っこすることなく、尊敬し合える関係――。
ホームズとワトソンの関係が、「ひきこもり」シリーズよりも受け入れやすいのは確かだろう。

だが、「ひきこもり」シリーズほどの「熱」は感じられなかった。
三部作で賛否両論大きく分かれた「説教臭さ」(ある種の「毒」)は、あれはあれで「味」であり、じわじわと「癖」になるスパイスだったように思う。
だが、本作ではそれがやや薄れた印象。
そういう意味でも、受け入れやすくはあるのだが、物足りないといえば物足りない作品よなっている。


独特の「温かい」作風をした作家である。
しかし、「温かい」だけではなく、そこに「毒」があるからこそ、ここまで人気が出ているのだろう。
「温かさ」と「毒」――この2つのバランスは本当に難しく、配分を間違えると、それだけで拒否反応の出る作品になってしまう。
今のところ、坂木氏の調合バランスは「危うい」ゆえに「絶妙」といった、ギリギリのライン上にあるように思う。
彼の作品がこれからどうなっていくのか、楽しみにしている。


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いじめのトラウマからひきこもり、ワトソン役・坂木以外とのコミュニケーションを拒絶していたホームズ・「鳥」井が、「卵」の殻を破り、「巣」立った末に、本作で羽ばたいていく――。
……そう思っていたら、読んでビックリ。
これは鳥井ではなく、坂木の「旅立ち」の物語だったのである。

「そう。僕は鳥井を守るふりをして、鳥井にすがっていたのだ」

『青空の卵』、『仔羊の巣』、『動物園の鳥』と続いた三部作には、露骨なまでに「卵」「巣」「鳥」の文字があり、鳥井が“ひきこもり”から「羽ばたいていく」様を象徴しているかのように見える。
しかし、「羽ばたか」なければいけないのは鳥井だけではない。
なぜなら、鳥井だけが坂木なしで生きられるようになったとしても、坂木は鳥井の不在を埋めることができないからである――今のままでは。


鳥井と坂木、2人の関係をBL的だとする指摘もあるが、それ以上に共依存的であるように思う。

「LOVE」と「依存」は違う。
鳥井の「依存」は実にわかりやすい――坂木がいなければ鳥井は外出することもままならない。
鳥井が坂木にわかりやすい「依存」を見せるがゆえに、坂木の鳥井への「依存」はその影に隠されてしまっている――両者は背中合わせの表と裏にも関わらず。

坂木は、シリーズ中に幾度も「自分のほうこそ坂木に「依存」しているのだ」と煩悶している。
だが、いずれも結局はうやむやにしてしまう。
「“認める”ことから始める」のは、精神治療の第一歩である。
そういった意味で、異常が明らかな鳥井の「羽ばたき」よりも、自覚症状の少ない坂木の方が根が深いように思える。

しかし三部作最終章となる本作で、坂木はついに「気付く」。
こころが弱くて、とても弱くて。
いつも誰かに喜ばれたりありがたがられたていないと不安で。
僕はこうやって生きてきた。
僕を手放しで必要としてくれる人の手をとって。
その人に支えられて。
そうやって生きてきた
そうして坂木がどのような行動をとり、鳥井との関係がどうなるのかは読んでのお楽しみだろう。

ただ、これで解決できたのかといえば「?」ではある。
大きな一歩であることは確かだろうが、肝心の鳥井はまったく「羽ばたけて」いないように思うからだ。

『仔羊の巣』の「解説」で有栖川有栖が指摘したように、「鳥井が好きになれない」という人は私の周りにも多い。
本書の単行本の解説で、はやみねかおる氏は、前作『青空の卵』を読んで鳥井の性格が「好きになれなかった」、『仔羊の巣』を読んでも「やっぱり、好きになれない……」と書いている。解説で主人公が腐されるのは異例のことだろうが、紳士のはやみね氏に続けて、私も書いてしまう。「鳥井を好きになれない」
――そして、これは本作の大きな特徴でもある。

これまで鳥井は、いくつもの謎を解き、その根本となる、犯人の「心の弱さ」を指摘してきた。
しかし、鳥井は自分自身もそれと同種の「心の弱さ」を持っていることに盲目的である。
いや、恐らく――、
彼はわかっていながら、意識的に「見ない」ようにしているのだと思う。

だから、平気で人に向って
「あいつは、守っているつもりでその相手にすがっているからだ」
などと、言ってしまう。
もちろんその指摘は図星なのだが、自分を棚に上げて……と思えるのも確か。
本当の意味で鳥井が「羽ばたく」ためには、この部分の解決が必要不可欠なのではないだろうか。
しかし、本作で解消されたとはとても言いがたい。


そうした意味でも、本作で「旅立った」のはあくまでも坂木であり、鳥井ではないのだと私は思っている。

鳥井の「羽ばたき」は、まだなのだ――その一歩は踏み出されたとはいえ。
完結編と銘打たれているが、なんだかモヤモヤが残る。
「物語は終わったところで、先に向って踏み出している。始まっているのだ」
とは「解説」にある言葉。
続編を書いてくれとは言わない。
「その後」を想像するのは、読者たる私たちの特権なのだろう。


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「つまり、想像力です。わからないものは怖い。これは普遍的な人間の心理なんでしょうな。ギリシャ神話の頃から、変わりません」
事件が起きる。
謎が生まれる。
その謎を解くために必要なものは、他でもない「想像力」だろう。

誰が犯人なのか? 犯行動機はなんなのか? どうやって犯行を行ったのか?
探偵役は――私たちは「想像」する。
断片をつなぎあわせて、見えないものを見ようとする。

しかし、「想像力」は事件を解決するためのものだけではない。
その「欠如」は事件を引き起こしもする。
本作が描くのはまさにそこ――探偵役が「想像力」を武器にして、人々の「想像力の欠如」を看破する作品――それが本作『仔羊の巣』である。

「想像力が足りねぇんだよ。自分のしたいことばっか考えて、他人がどうなるかなんて考えちゃいない。それが犯罪者の心理ってやつさ」
犯罪ならばなおさらだが、日常にだって「想像力の欠如」は溢れていて、決して他人事ではなく、少し間違えば自分だってその一員となってしまう。
そのことがわかっているから読んでいる読者は苦しい。
さらけ出される日常に潜む「想像力の欠如」は、辛らつだ。
――「ひきこもり探偵」シリーズ2作目もまた、やはり「苦しい」小説である。

本作の本質は、「トリック」や「犯人探し」といったミステリの部分ではないように思う。

本作からは、例えば、子供の悪ふざけを戒めるために鬼の寓話を作るように、“何か”を伝えたいがために、たまたまミステリのカタチをとっている“だけ”という印象を受ける。

「すべての物語はミステリである」

とは友人の言葉だ。
恋愛小説にだって、冒険小説にだって、経済小説にだって、すべてにミステリ的要素というものは含まれている――含まれていないものなんてない。
なぜなら、「人と人が関わり合って、そこにミステリ(謎)が存在しないはずがないからだ」、と友人は言う。

本作は、ミステリ小説である以上に、その「人と人との関わり合い」によって展開されていく小説である(有栖川有栖も同様のことを「解説」で「生じているのはコミュニケーションをめぐる問題なのだ」と語っている)。
きっと伝えたいのはこの部分なのだと私は思う――つまり、「人と人との結びつき」について、を。


誰も死なない「日常の謎」系ミステリである。
ワトソン役の坂木が同僚の変化の謎を追う『野性のチェシャ・キャット』。
地下鉄のホームで不審な行動をとる少年の目的を探る『銀河鉄道を待ちながら』。
思い当たることのないまま坂木が受けるいやがらせの原因とは?『カキの中のサンタクロース』。
本シリーズでは、これらの事件の謎はただ「暴かれる」だけではない――犯人を指摘し、動機を暴露して、それで一件落着ではない。

本シリーズでは、謎を暴くだけでなく、その一歩先、犯人の心の闇を癒すまでが描かれる。


犯人は改心し、再び主人公たちの前に姿を現す。
シリーズ第1作『青空の卵』の人物がたくさん登場したりと、人々の「輪」が次々と広がっていくのが本シリーズの特徴でもある。
しかし、それゆえに本シリーズには「美談」のにおいが溢れている――物語が進むに従って、作品内は「いい人」で一杯になっていく――出来すぎていると感じるのも確か。
肌に合わない読者がいるのも頷ける気がする。


ホームズ役の鳥井は、俗に言う「ひきこもり」でコミュニケーションに問題を抱えている。
彼は過去のトラウマから「人を信じる」ことができない。
その類まれな「想像力」で、事件を解決する鳥井は、にもかかわらず人を信じるという「想像力が欠如」しているのである。
それゆえに、人に説教をするも――そして、それらは全て適切なのだが――逆説的に読者は彼が持つ欠陥をも強く意識させられてしまう。
「でも、もしかしたら鳥井が一番、利明くんに近いのかもしれないよ?」
「考えるだけで寒気がすらぁ」
しかし、確実に変化の兆しは出始めている。
人々を変えることのできる鳥井だが、では彼自身はどう変わりゆくのか――。
完結編となる次作が本当に楽しみだ。

「今、読まれるべき小説である」

とは、有栖川有栖の「解説」の結び。
私は、この言葉に大賛成である。


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なんとも「苦しい」小説である。

語り口はやわらか、キャラクターは魅力的、展開もそれなりに意外で、勉強にもなる。
しかし――、
「苦しい」。

作者はあとがきでこう語っている。
「書き進めながら、私は登場人物たちの動きに戸惑っていました。傍若無人な鳥井は私の内面をどんどん暴いてゆくし、坂木は私の中にある醜さを目の当たりにしては涙を流すからです」
ここでの「私」とは作者のことであるが、読者もまた読んでいてまったく同じ気持ちにさせられることと思う。
ホームズ役を務める、ひきこもりのプログラマー・鳥井は、「人間」の「内面を暴」くかのように「事件」を解決に導き、
ワトソン役を務める作者と同名の外資系保険会社員・坂木は、「人間」の「中にある醜さ」を知り、涙を流す。

本作は、皆そうじゃん、なんて、自分だけじゃないじゃん、なんて、そんな言い訳をしながら目をつむってきた、自分の内面にある「醜さ」を「暴き」出していく。
「醜い」もの――無自覚に見ないようにしていたものを眼前につきつけるのだ。
だから、そう――、
「苦しい」。

あるいは「大げさなっ」と思うかもしれない。
しかし、読んでいくにしたがって、それが決して「大げさ」ではないことがわかってくると思う。


連作短編集である本作には、夏の終わりから翌年の初夏にかけての4つの「事件」と後日談が収められている。
とはいえ、誰も「死なない」。
多くの場合、人間の「醜さ」というものは日常の中にあるのだと再認識させられ、それでまた私たちは「苦しく」なってしまう。

「加害者を罵るんじゃなく、弱い者の方の落ち度をほじくり返して喜ぶ体質が、日本にはある」

見て見ぬふりをすること。

「だって、薄幸の青年っぽい方がいいじゃない。みんなそのイメージで納得してくれてたよ?」

「思い込み」と「決め付け」で人を知らず知らずに貶めること。

「『中川夫人』とか『とし子夫人』なんてのは、このばばあの人権を奪うだけの呼び方だってのが、本当に、わかんねぇのか?」

無自覚な呪縛。

「『誤っても許してもらえないなんて、初めてだ』と。これだけでも、かなり世間知らずなのがわかる」

身勝手で、利己的なさま。

読んでいると、「暴き」出される「醜さ」が、自分にも絶対的に存在していることをどうしても自覚してしまう。
少なくとも私は、強く否定することができなかった。
いくつかは、まさしく自分のことを言われているようで、ひどく居心地が悪く、「苦しみ」ですらあった。


しかし、作者はこうも言っている。
「自分の汚さを自覚するということは、世界の優しさや美しさに気づくことでもありました。(中略)そのおかげか、この二人の物語を書くことによって、私自身も少しですが成長したように思います」
「醜さ」は常に「見えないように」なっている(している)ものだから、それゆえにそれを「見る」ことは「苦しく」、また、意義あることでもあるのだろう。
「苦しく」とも、目を背けるのではなく、むしろ向かっていきたくなるのが本作の特徴ではないだろうか。


もちろん、本書を読んだからといってすぐに「変われる」ものではない。
そしてまた、「醜さ」を知ったうえで、それでもあまり変われていない自分をも知ってしまうためにもう一度そこに「醜さ」を見てしまう。
なんとも「苦しい」小説である。

でも、この小説に出会えてよかったと、心から思う。
この「苦しみ」はきっと無駄にはならない――そういった種類の作品だった。


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