モグラのあくび

シンプルでシャープに。そんな感じに

多才なり荻原浩

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荻原浩は、広告制作会社でコピーライターをしていた。

――今なおコピーライティングをしているとも言えるが、それはさておき。
大学時代に所属していた広告研究会の影響で、軽い気持ちで入社したのだという。
35歳で独立した。自由な時間が増えた。学生時代に読み漁ったという読書の習慣が戻った。
特にこだわりを持たずに乱読した。つまらない本は途中で読むのを止めた。「つまらない本を読むことに残り少ない人生の時間を使いたくない」と思った。
そして、じゃあ面白い本って何だ?と考え、とりあえず自分で書いてみようじゃないか、と立ち上がる。
39歳だった。
1年ほどかけて執筆、小説すばる新人賞に応募したところ見事、受賞した。1997年。処女作だった。


そんな荻原浩のデビュー作には、

氏の広告制作会社時代のエッセンスが豊富にもりこまれている。

なんたって、テーマは「村おこし」。
人口わずか300人の山奥の村が、起死回生の策として広告代理店に村のキャンペーンを依頼する。全資金は500万とちょっと。大手代理店が振り向くはずもなく、話を聞いてくれたのは倒産寸前の弱小プロダクション・ユニバーサル広告社だけ。
果たして、過疎の村と崖っぷち会社の“負け犬”コンビが繰り出す一手とは?
果たして、村おこしは成功するのか、どうなのか?
――ドタバタ・コメディ風に物語は進んでいく。


全14章にはすべて「プレゼンテーション」、「ヒアリング」、「パブリシティ」などと、業界用語(でもないか?)が付けられ、物語は広告制作の一連の流れにのっとって構成されている。
業界への皮肉をユーモラスに取り入れたりと、広告会社時代の経験が強く表面に出ているといえる。
そういった意味では、同じ広告畑出身の作家でも『ウランバーナの森』でデビューした奥田英朗とはやはり、志向するものが違うように思われる。もちろん、2人の通底には業界で働いていた経験が――まごうことなき要素として――存在しているのだろうが、アプローチの問題として大きな差異が、この2人にはあるように思う。


本作は予定調和的なハッピーエンドで、のちのち作品が醸す、余韻を残すようなラストには至っていないが、荻原独特の“毒”と“ユーモア”は行間ににじんでいる。
「デビュー作には、その作家の――」と言われれば、なるほど。まさにその通りだなぁ、と思える1作であった。
(07年 49冊目○)


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――固有名詞が出てこない。

最初はちょっとした物忘れだった。
しかし、少しずつ「何か」がおかしいことに気付き始める。
直前のやり取りが飛ぶ。約束をすっぽかす。人の顔と名前を思い出せない。
広告代理店で働く佐伯を襲った若年性アルツハイマー病。
第2回本屋大賞で2位となり、映画化もされた荻原浩の出世作である。

「かつては自分の体は自分のものだった。しかし、だんだん自分の体に裏切られることが多くなってきた。この体は本当は自分のものではなく、誰かからの預かりものではないだろうかと思えてくる」
ところどころに挿入される佐伯の日記は、『アルジャーノンに花束を』を彷彿とさせる――少しずつ顕著になる漢字の減少や誤り、同じことを繰り返すといったミスは「失われていく」様を――じわじわと「損なわれていく」様を、リアルな怖さとともに伝えてくれる。

アルツハイマーなんて他人事だと思っていた――きっと誰だってそうだ。
「なぜだ。なにが悪かったんだ。どこで間違えたんだ。教えてくれれば、そこからやり直す。
私は頭をかかえた。こぼれ落ちていく砂をつかみとめるように。そして泣いた」
自分の体が自分を裏切っていく。
「自分を守るのだ。自分自身から」

佐伯は、父をアルツハイマーで亡くしている。
どうしても、父の末期と自分が重なる。
何度も自殺の衝動に駆られた。
「人生の半ばを過ぎれば、さすがに自分があと何年生きられるのだろうかと漠然と考えることはある。しかし、いま思えば、それは死というより自分に残された寿命について考えていただけだ」
一人娘は結婚を控え、結婚式の日まではなんとか「会社で部長を務める父」でありたい。
しかし、ミスは続き、閑職へと追いやられてしまう。部下の醜い本性も露になった。

妻は気遣って食事はもとより、様々な面で「病気に効くもの」を揃えてくれる。
ありがたい。ありがたいのに……苛立っていく。苛立っていく自分がまた辛い。

趣味で通っている、唯一の行き場ともいえた陶芸教室でも悲劇は起きる。
行き場はなくなっていく。追い詰められていく。
しかし――、

「闘うのだ。この病気と。残されている時間と」



どこまでも暗くなりそうな話を、絶妙なバランス感覚で「晴れやかさ」を残しながら描く荻原さんの文章が、なにより素晴らしい。

あるのは、「絶望」だけ、ではないのだ。

それを支える妻がおり、いつまでも励ましてくれる部下たちがおり、必死に自分と戦う佐伯自身がいる。

メモで背広をパンパンにしながら、失われゆく自分に向き合い、賢明に恐怖に耐える。
本作の悲惨さは、演出されることなく、ただ「そこにあるもの」として描かれている。
そして、ただ「そこにあるもの」であるからこそ、それをとりまく人々の描写にも「作り物感」が一切ない。

そして、ラスト、だ。

前々から荻原浩は「終わらせ方」のうまい作家だと思っていたが、本作のそれはあまりにも素晴らしい。
こんなにも哀しく美しいラストにはそうそうめぐり合えないだろう。


66ページから70ページにかけて、簡易知能評価スケールというアルツハイマー病の簡易テストが載っている。
さすがにまだスラスラ答えられたが、「まさかね……」と怯え、緊張してしまった。

純粋に優れた小説として、そして、いつかの「覚悟」のために――、
多くの人に読んでもらいたい作品である。
(07年 14冊目◎)


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荻原さん初の短編集。
表題作『押入れのちよ』を含めた、「ぞくりと切ない、9夜の物語」。
「怖いのに、切ない。/笑えるけど、哀しい」と帯コピーにあるように、どれも揺らめくような独特の雰囲気で描かれた物語たちである。
99年から04年までに『小説新潮』『小説現代』『小説すばる』『文芸ポスト』で書いた作品がまとめられている。


個人的に一番良かったのは、『お母さまのロシアのスープ』。

オチまではとにかく退屈で、読んでいて世界観になかなかハマれなかったのだが、真相が明らかになった瞬間、狭かった物語がいっきに「広がった」――まるで洞窟を抜けたかのように――オチが判ったという「だけ」ではない衝撃があった。
短篇だからこそ最後まで読み進められたのかもしれないし、短篇だからこその「落とし方」でもあると思う。
へたをすると、陰湿で暗く重なってしまいそうな話を温かく描き出したところに、荻原さんの巧さを感じる。

大きな枠組みで言えば、『押入れのちよ』も同じ系統の小説だろう。

それは、どちらにも「時代が生んだ哀しさ」というものが通底に流れているからである。

引っ越し先の格安アパートに憑く幽霊、ちよ(14歳・ただし明治生まれ)。
彼女は生前の記憶を失くしている――そして、少しずつ思い出していく記憶の断片が、彼女の哀しい過去を教えてくれる。
哀しい過去が、「現代」を舞台に、ちよの「無邪気さ」の中で語られるからこそ、読むものの心に沁み込むのだと思う。

また、ネタバレになるのでいえないが、『コール』『しんちゃんの自転車』も、共通点をもつ2作品である。
序盤だけ読んでいれば、本当になんでもない物語なのだ。しかし、ふとした「仕掛け」によって――それを知った読者の中で――物語はぐっ深みを増す。
その「仕掛け」自体は、短篇的にはベタな手法なのかな、とも思うけれど。

異色なのは、『殺人のレシピ』、『介護の鬼』、『予期せぬ訪問者』の“ブラックユーモア三部作”(勝手に名づけました)。

一発ネタを料理したような作品で、完全にオチは読めるし、既視感も否めない――でも、なんとなく読まされてしまう。
なんとも短篇らしい作品群である。
雑誌によって作風を書き分けた結果なのか、初出はすべて『小説すばる』となっている。

『老猫』はホラーだろうか。
読んでいて怖いし、不気味だし、なんだか気持ち悪い。
「猫は他の動物とは違う。人に支配されるんじゃなく、人を支配するんですよ」
これが犬だと、ここまでの「雰囲気」は作りだせないように思う。
実に猫的な不穏が溢れた1作である。

『木下闇』は、サスペンス調。
15年前、かくれんぼ中に行方不明となった妹はどこにいるのか?
かつて「鬼」だった姉は、長い長いかくれんぼに終止符を打つ。


とにかく、多才。荻原浩ここにあり、といった短編集である。
ちなみに、私のベスト3は、
1位『お母さまのロシアのスープ』
2位『押入れのちよ』
3位『木下闇』
オチありきで、それから行間を埋めている印象。長篇とはずいぶん肌ざわりが違う。
総じて、面白いのだが突き抜けるものもない。
あるいは、器用貧乏なのかも、などと思ったりもした。
(07年 8冊目▲)


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ある女性が海外旅行中に行方不明になった。ブティックの更衣室で着替えていたはずが、気付いたらいなくなっていた。一緒に旅行をしていた友人が必死に捜すも、行方は杳として掴めなかった。
それから数年後、中国の奥地に旅行した別の友人が、両腕両足を切断され、まるで「だるま」のようになって見せ物にされている彼女の姿を見たのだという。
彼女は目が合うと「助けて」と口を開いた。声は聞こえなかった。のどを潰されていたのかもしれない。
怖くなった友人は逃げ出してしまったのだと怯えながら語った。
今となっては、それが本当に行方不明の彼女だったのかは誰にもわからない。
――これは、俗に「日本だるま」と呼ばれる都市伝説である。
ディティールは違うかもしれないが、似たような大筋は誰もが知っているのではないだろうか。

他にも、「ケンタッキーは、モモ肉がたくさんとれるように遺伝子操作で四本足で生まれてくる鶏を使っている」とか、「アメリカで、濡れたペットを乾かそうと電子レンジに入れた老婆がいた。しかし、温めたところペットは爆死。取説に“ペットを入れてはいけません”と書かれていなかったせいでペットが死んだのだと訴訟を起こし、莫大な損害賠償金を得た」など、
誰もが知っている、しかし、真偽は定かではない話――都市伝説というものは、山の数ほど存在している。

そして、その出所はいつもこうなのだ。
「○○さんが、友達から聞いた話らしいんだけどね」
架空の他者が襷をつないでいく――不確かなのに、どこか真実味がある。
「誰も知らない」はずなのに「誰もが知っている」――「誰もが知っている」からそれは真実じみてくる。

「何でもわかるってことは、何にもわからないってことと同じなんですよ」

情報の波の中で、どれが――何が――正しいのかわからなくなっていく。


「ミリエルの香水をつけないとレインマンに足を切られちゃうんだって」

新ブランドの香水の販促戦略として、口コミが広められた。
渋谷の女子高生を発信源に恐怖を煽り、商品を売ろうという狙いは当たって、香水は大ヒットするのだが――、
やがて噂は現実のものとなる。
――足を切られた少女が発見され、連続殺人事件へと発展していくのである。
広告代理店、企画会社、警察、女子高生……
絡み合うそれぞれの思惑がもたらす衝撃の結末とは――。
果たして、犯人は誰なのか?
「噂」をテーマにした、広告制作会社出身である作者ならではの着眼が素晴らしい。


警察の捜査上にも、いくつもの「噂」が存在している。
事件が起こり、聞き込みを開始するも、
「たいていがあいまいで根拠のない話だ。独身で一人暮らしの男、失業者、不登校児童、夜の仕事の人間、近所づきあいの悪い一家……近隣で疎まれていたり気味悪がられている住人は、たちまち犯人に仕立て上げられる。そんな人間のもとに警察が訪ねて行こうものなら、話に尾ひれがついて逮捕間近などというデマが広がる。じゅうぶんに注意しないと、捜査官が噂に振り回されることも少なくないのだ」
「噂」とは、人の想像力が伝播させていくものなのだと思う。
「〜らしい」は、人の口を介することで「確からしさ」を身に着けていく。
「らしい」と「確からしさ」の間にある「空白」を埋めるのは、他でもない人間の想像力なのであろう。

しかし、問題は「その想像力に疑問をもつ想像力」をもてるかどうかなのだと思う。
警察は、自分の作った(=想像した)「犯人像」に固執し、その先を思考することを忘れてしまう。
企画会社は、自分の作った口コミが、どのように自分たちに跳ね返ってくるのかを考えない。
そして、鑑みて私たち読者は――、
というところに、本作の「罠」が仕掛けられている。
「噂」=「話しを聞いて」=「物語を読んで」“勝手に”膨らませた想像は多くの場合、裏切られるものなのである。


友人に

「最後の一行を先にみちゃうくらいなら、いっそ読まない方がまし」

と言われ、「一体どんなラストなんだ!!」と乗せられるように読了してしまった。
うむ、確かに――ぞくりとするものがある。なるほど。
伏線も多く、わりと予想しやすい連続殺人犯の逮捕を経て、その先に待つ、まさかまさかの結末。

若干、冗長な気もするが、
警察の凸凹コンビや企画会社の社員など、キャラの描き方も巧く、なんだかんだで「読ませる」技術は荻原さんの面目躍如。
それにしても、本当に多才な作家である。
ミステリを書かせてもこんなに巧いとは。
(07年 3冊目○)


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「生まれた時から、親のいない人間の気持ちがわかるかい。
ひとことで言えばそれは、体の中に見えない穴ぼこをひとつ開けたまま生まれてきたようなものだ。
(中略)
ぼくはその穴ぼこを埋めるのに十七年十一ヵ月かかった。来月、十八歳になるぼくには人生のすべての時間だ。」

これは、「自分探し」の物語である。

母子家庭に育ったワタルは、ある日、自分が「他人とは違う」と感じ始める。
髪の色が違うし、目の色も違う。運動神経がよく、走り出せばみんなは置き去り。幼稚園の先生も置き去り。「ハーフ?」って聞かれることもある。まあ、あと、他にもいろいろね。
母は言う。
「いい、ワタル。これはあなたの個性なの。少し個性が強すぎるだけ。」
そう言って、いつもワタルを支えてくれる。

やがて、遺伝子学者の母の部屋で、1万2000年前、四度目の氷河期に生きていたとされる“アイスマン”のミイラの記事を見つけたワタルは――、

「シベリアの氷河が溶けるように、事実が姿を現した。ぼくにはそう思えた。ぼくはすべてを理解した。自分が何者なのかを。」

――こう考えるようになる。

「ぼくはクロマニヨン人の子どもだ」



こうして、ワタルは「クロマニヨン人の子ども」としての人生を歩み始める。
氷河期とクロマニヨン人のことを調べた。
時には「バウボ・ンバボ・ダム」と架空のクロマニヨン語を発したりする。
「学校の授業は、クロマニヨン人として必要なものだけを聞くことにした」。
我流で勉強して石器を作ったり、槍投げの練習をしたりする。
そうして、小学生にしてワタルは、こう思うのであった。
「自分の血の半分は、クロマニヨン人――まだアイデンティティという言葉を知らないうちに、ぼくはアイデンティティを獲得した。」

しかし、本当に彼はクロマニヨン人の子どもなのだろうか?

読んでいると、どうしてもそう考えてしまうはずだ。
これはSFなのか、それとも……と。
そこは読んでのお楽しみ。

やがてワタルは、中学、高校と年を重ね、恋をし、陸上の選手になり、挫折を味わったり苦い思いをしながら成長していく。
なんせ「クロマニヨン人の子ども」、である――当然、生半可な学生時代じゃない。
読んでいるほうも「クロマニヨン説」に半信半疑だから、物語に不思議な味わいが出てグイグイ読まされてしまう。


タイミングよく、本日付の読売新聞夕刊に荻原浩さんのインタビューが載っていた。
その中で、本作についてこう語っている。
「クロマニヨン人というキーワードで、一人の少年の小さな物語と、人類1万年みたいな大きな物語が同時にできるかなと思った。とんでもない『自分探し』にしたかったんです」
ああ、と思った。なるほど、と。
なぜなら、荻原さんの試みは本作において成功しているように思われたからである。
「クロマニヨン人」という異色の題材を用いながら、成長物語として綺麗にまとまっている――違和感がない――本当に“うまい”。

「男の子は父親を一度否定し、乗り越えてこそ大人になれる」
と荻原さん。

本作のラストで、ワタルは「父」と対面し――自分の「穴ぼこ」を埋める。
それは、「自分の血の半分は、クロマニヨン人というアイデンティティ」とはまた違った、本当の意味での「穴埋め」になる。
「父」を乗り越え、「自分」を知る。
ずっとずっと「人とは違う」と思い続けてきたワタルが最後に気付くものとは何か――?
読後感のいい、ストレートな「自分探し」の成長物語。
本を閉じた瞬間、思わずにんまりしてしまった。


本作を書いた動機を、荻原さんは
「いつまでも『明日の記憶』の荻原浩でいたくなかったから」
だと語っている。
「自分は中年男の悲哀だけじゃないぞ、という思いがあって」
有言実行、おみそれしました。

荻原さんの本は初めて読んだけれど、人気作家なのも頷ける読みやすさ、面白さ、読後感。
作風にも幅がありそうだし、他の作品も楽しみ。
要チェックです。


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