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映画から感じ取った何か
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学生時代には、よく喫茶店でコーヒーを飲みながら読書をして、「ああ、大学生しているなぁ」とむふむふ浸っていたものである。 今でもコーヒーはよく飲む。スタバでラテを飲み、マックでローストコーヒーを飲み、ルノアールでアイスコーヒーを飲み、できれば電源を借りつつ原稿を書き書きする。気分はプチJ・K・ローリングである。正直、味の良し悪しが分かるとは言い難いが、一言いわせてもらえば「私はコーヒーが好きだ」、とこうなる。 コーヒーの一日あたりの消費量は全世界でおよそ20億杯と言われている。1秒に約3400杯が飲まれているとのデータもある。途方もない量である。年間800億ドル以上をはじきだす石油に次ぐ取引規模を誇る国際商品だという。 それだけの人気商品にも関わらず、南米を始めとする世界で2500万人のコーヒー生産者は貧困に喘いでいる。2002年には、コーヒーの原産国である“コーヒー発祥の地”エチオピアが飢餓に突入したことが発表された。 なぜか? なぜ、コーヒーブームは農家を助けないのか、助けられないのか? そこに本作のスタートラインが存在する。 描かれるのは、原産国で豆が誕生してから、世界の主要都市でコーヒーが消費者の喉を潤すまでの道のり。いかに一次産業者が搾取され、貿易会社や輸入業者が利益をすくいあげているかの記録である。 加えて、劇中ではニューヨーク商品取引所で現物のコーヒーや生産者のことなど考えもせぬ投機家たちが、あくまでも1つの投機対象としてコーヒーの「国際価格」を設定しているという制度的問題点も挙げられる。 そして、もちろんこれは「コーヒー業界」にだけ適用されるケーススタディではない。 「世界のしくみ」の現状そのものの一例なのである。 だから、監督のマーク&ニック・フランシス兄弟は「例えば綿花や石油、ゴムといった同じように農家が搾取されているもので、この映画を作ることもできた」と指摘することを忘れない。「でもコーヒーが世界で一番飲まれている飲み物で、多くの観客にアピールできるものだったんだ」。 ――その試みは成功しているように思う。 作中でアメリカのスタバの店員が、うれしそうにコーヒーについて語っている映像は、どこかしら私たちになじみのあるシーンだ。だが、次の瞬間、舞台がエチオピアの農家へと移ったとき、私たちは違和感を感じずにいられない。その2つは、私たちの生活においては「つながる」ものではないから。 しかし、その2つのシーンはコーヒーを通して地続きで、そして、そのスタバの店員も私たちもそのことには無意識である、ということを痛烈に意識させられるのである。 そこに本作の意義があるのだろう。 2人の兄弟監督は言う。「人々に現在の国際商取引システムが何百人という人々を奴隷化していて、早急に変革する必要があることを知らせることだった。僕たちは観客に、コーヒーの匂いでそのことに目覚めてほしかったんだ」。
誰かにとってのたったコーヒー一杯が、まったく別なものへと変わる。 ドキュメンタリーとは、恐らくそういうものなのであろう。 生産者たちが反転し、ぐるりと「裏側」に切り込むかのようなポスタービジュアルが、なんとも秀逸である。 |

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スペイン・サラマンカ。各国首脳が集うテロ撲滅サミット。 アメリカのテレビクルーが合衆国大統領の一挙手一投足を追う。 プレジデントの隣には、ノイローゼ気味の伝説のシークレットサービス。 大統領が壇上に登り、マイクの前に立った。 群衆の前でビデオカメラを回す観光客。地元警察の目。ミステリアスな美女――映し出される、のちに“アングル”となる幾人かの顔、顔。 ――そして銃声は鳴る。 2発。大統領が崩れ落ちる。続いて、“遠からざるどこか”からの爆音。1拍あけて演説のステージが爆発する。巻き起こる噴煙のごとく事件の真相は謎に包まれている。まだ。 時間は巻き戻され事件前へ。 第一の物語となるテレビプロデューサーの視点を皮切りに、シークレットサービスやビデオカメラを回していた旅行者、大統領本人…と“主人公”が次々と移り変わり、 同時刻からの“8つの視点”が展開される。立場の違いやそれぞれの思惑が、新しい視点を物語に与え、少しずつ“暗殺の謎”を明らかにする、というわけだ。 本作のチラシには、「大統領を狙撃した1発の銃弾。しかし、彼らが見たものは、くい違っていた。8つの異なる視点の先に潜む、隠された真実とは――。」とある。 だが、それら8つは“視点が違う”というだけで、例えば黒澤明の『羅生門』のように、“話が各人によってまったく食い違っている”という、“出来事の主観的解釈の曖昧さ”を描くものではない。 あくまでも8つの視点は、1つのベクトルへと向かっており、“どれが事実なのかわからない”という錯覚を描くことはない。立場の違いによる、見えるもの見えないもの、分かること分からないことの差異、つまり、あくまでも“現実の積み重ね”を描いていくことになる。エンターテインメントとしては――明白な結末と、一定レベルのカタルシスを演出するためには、そうならざるをえなかったのだろうが。 とはいえ、幾重もの視点から真実を突き詰め、クライマックスへ向け加速度的に展開していくという本作のプロットは、やはり魅力的である。 実際、その“武器”を活かすためのこだわりも半端ではない。 同時間帯の同シーンを何回も繰り返すために、8つの視点はすべてレンズやフィルム、照明の種類を変え、ハンディ、固定などカメラを工夫し、、あらゆる方法で“飽きさせない”よう撮影されている。主演のデニス・クエイド(シークレットサービス役)にいたっては「自分の視点で語られるストーリーと、他のキャラクターの視点で語られるストーリーで、役の演じ方を変え」ることまでしたのだという(残念ながら、私にはその違いはまったくわからなかったのだけれど) それでいて上映時間は90分と非常に手頃。 しっかりと構成されたプロットの妙を感じさせる、サスペンス映画の佳作である。 ちなみに過去、アメリカ合衆国大統領は4人が暗殺されている。
フォード劇場で観劇中に至近距離から銃撃されたリンカーン、 列車内で「神が殺すことを命じた」という神経症歴を持つ男に撃たれたガーフィールド、 無政府主義者の男に至近距離から狙われたマッキンリー、 そして、言わずとしれたJFK。 4人。それが多いのか少ないのかは分からない。だが、銃社会の最高権力者がすべて銃殺されているとは、なんたる皮肉なのだろう。 |

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生きるってドラマだ。 あるいは、こうもいえるかもしれない。 生きてるだけでドラマだ。特に野生におけるそれは。 週刊文春で、上野樹里がインタビューに答えている。 いわく「アフリカの動物は、誰1人顔を“決めて”いない。それはすでに“決まっている”から」。そうして、演技をする者としての一抹の寂寞を感じたのだという。 本作で映し出されるのは、驚異の映像の連打だ。 北極から赤道を通って、南極まで。 シロクマは、朝のこぬ(白夜の逆!!)北極の極夜を必死にしのぐ。 アフリカゾウの群れは、水を求めて砂漠を横断する。 ザトウクジラもまた、命の危険を顧みず、長い長い海の旅に出る。 そこには、“そうしなければいけない”=生きるための必然があり、だからこそ明日も知れぬ旅路を強行する彼らの姿には、命の煌めきともいえる美しさがある。いや、そのように美しくドラマチックに彩ることに=“作り上げることに”本作が成功している、というだけのことなのかもしれないが。 また、吹き替え版で観たのだが、中でも秀逸だったのは渡辺謙のナレーション。 過酷な野生社会の中で淘汰されゆく動物たちや圧倒的ビジュアルの自然環境シーンでの冷静かつ毅然とした読み口と、ジャングルの極楽鳥たちが踊る求愛ダンスシーンのおどけたナレーションの間にある緩急が素晴らしく、「ノッてますね、謙さん!!」と思わず頬が緩んでしまう。作品に通底する環境問題への提起も嫌みがなく、声高でもなく、淡々とした調子で逆に好感がもてる。 TVシリーズ「プラネット・アース」の総集編とも呼べる作品だが、この迫力は是非スクリーンで観ていただきたい。
最先端のカメラを使い、全編「いったいどう撮ってんの!?」なシーンの浴びせ倒し。 科学の進化が自然の“みることのできなかった”部分までを眼前に提出させてくれたが、それが逆説的に“人間ではどうにもできぬ自然の大きさ”を知らしめてくれているようでもある。 ストーリーはないに等しい。演技をしているものは誰1人いない。しかし、すべてが“決まっている”。 あえて言おう。これは最強の“ドラマ映画”だ。 |

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