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			<title>モグラのあくび</title>
			<description>いろんな世界を見て、いろんな人に出会って、いろんな経験を踏んで、最終的には村上春樹の小説に出てくる主人公みたいな人間になりたいとか考えてる大学生のお話――だったけれど、今は社会人２年生。更新もめっきりになってしまいました。でも、まあ、まったりとやっていきます。そんなブログです。そんなこんなです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/typhoon_number23</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>モグラのあくび</title>
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			<description>いろんな世界を見て、いろんな人に出会って、いろんな経験を踏んで、最終的には村上春樹の小説に出てくる主人公みたいな人間になりたいとか考えてる大学生のお話――だったけれど、今は社会人２年生。更新もめっきりになってしまいました。でも、まあ、まったりとやっていきます。そんなブログです。そんなこんなです。</description>
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			<title>イチローが老いる日</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「（マリナーズの）ワカマツ監督が『５０歳までやることを真剣に考えているじゃないか』と話していましたが？」&lt;br /&gt;
「考えたことないけど、５０歳で（ヒットを）２００本は打っていたくない。そのころはちゃんと衰えていたい。５０歳で３０盗塁もどうかと思いますよ」&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;イチローが、メジャー２０００本安打を達成した。&lt;br /&gt;
前日に王手をかけ、第一打席で右翼線に２ベース。「今の僕が（王手という）圧力によってパフォーマンスが変わるとは全く感じていない。そういう自分は少なくとも現状では過去のものだと思っている」。なんともイチローらしい言い回しである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;そんな数あるイチロー語録の中でも、冒頭のコメントは個人的に最も印象深いものだった。&lt;br /&gt;
1973年10月22日生まれの３５歳。&lt;br /&gt;
体力的なピークとは言い難い年齢である。&lt;br /&gt;
だが――。&lt;br /&gt;
野球中継を観ている限りでは、イチローのパフォーマンスは、まったくといって衰えを見せていない。いや、あえていえば“イチローが衰えることが想像できない”とさえ思う。&lt;br /&gt;
そのイチローが「衰え」を口にした。&lt;br /&gt;
もちろん、韜晦もあろう。&lt;br /&gt;
自信が――イチロー自身にも、自分の衰えが見えていないからこそ――そう言わせたのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;アメリカでイチローは「ルーティン・マニア」というあだ名で呼ばれているという。&lt;br /&gt;
理由は、そのものズバリ、だ。&lt;br /&gt;
イチローは、家を出てから試合場に着き、グラウンドに出て、試合に臨むまでのすべてをルーティン化させている。&lt;br /&gt;
つまり、すべてが毎日、同じ、なのだ。昨日も、今日も、そして明日も。&lt;br /&gt;
そうすることにより「自然と“鈴木一朗”から“イチロー”に切り替わる」のだという。&lt;br /&gt;
究極のマンネリズム。&lt;br /&gt;
しかし、だからこそブレない。&lt;br /&gt;
どんな不調でも、どんな好調でも、身体の真ん真ん中にはしっかりとした軸があり、歪むことがない。&lt;br /&gt;
昼飯はいつも夫人の作ったカレーライスを食べる。守備についたあとの体操、帽子やヘルメットをかぶる順番、打席でバッティングフォームに入るまでの構えも同じだ。&lt;br /&gt;
そのルーティンがいつか崩れたとき――そのルーティンをルーティンとしてこなせなくなったとき――イチローは、自分をどうマネージメントするのだろうか？&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;老いのない人間はいない。&lt;br /&gt;
生きる伝説はいつか必ず死ぬ。&lt;br /&gt;
「ちゃんと衰えていたい」&lt;br /&gt;
なんだか、そのコメントは祈りに似ているような気がした。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/typhoon_number23/59680872.html</link>
			<pubDate>Wed, 09 Sep 2009 00:41:13 +0900</pubDate>
			<category>野球</category>
		</item>
		<item>
			<title>花巻東・菊地、最後の夏。</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「神様、あしたは投げさせて下さい」―。&lt;br /&gt;
そう、野球の神様に願いを捧げ、花巻東の菊地は布団に入った。ＭＡＸ１５５舛鯏蠅犬觝枯咾嚢典紊魄りしめながら。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;痛み止めの注射が効かないほどの背筋痛。医者は「無理をすれば後遺症が残るかもしれない」と現実を告げた。前日は電気治療とマッサージに専念。酸素カプセルにも入った。&lt;br /&gt;
「もう一生、野球ができなくなってもいい」。&lt;br /&gt;
覚悟はできている、つもりだった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;わずか１１球。満塁の場面で２番手として救援し、わずか１３９舛猟承紊鯀坩豼櫃裡確歛任気譴拭「人生最後の試合だと思って投げたけど…」&lt;br /&gt;
“柱”を叩き折られたチームは、粘りきれず敗れた。夏が終わり、涙は止まらなかった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;今年春のセンバツ決勝で長崎・清峰に０―１で完投負けしてから、忘れものを取り戻すように甲子園に戻ってきた。日々の些事すら野球ノートに書き込み、力勝負に頼らない投球術を磨いた。股関節を徹底的に鍛え、体重移動とフォームを修正した。頂点への道は、順調に開かれている、はずだった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;異変は準々決勝の大分・明豊戦。５回に入って、投球のたびに腰を押さえるほど背中に違和感が生じた。「自分がベストの状態で投げることができれば日本一になれたのに…」。&lt;br /&gt;
だが―。&lt;br /&gt;
現実を塗り替えることは出来ない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ひとまず、高校球児としての物語は終わる。&lt;br /&gt;
以前、東国原・宮崎県知事がこんなことを言っていた。&lt;br /&gt;
「僕は人のもつ“物語”にとても興味があるんです。かなわないな、と思う人もいる」。&lt;br /&gt;
花巻東・菊地。&lt;br /&gt;
こんなにドラマチックな物語をもつ男が、これからはどんな道を進むのか――。&lt;br /&gt;
有力視されるのは、ご存じの通りプロ入り。&lt;br /&gt;
次はどれだけ“かなわないな”と思うストーリーを魅せてくれるのだろう。&lt;br /&gt;
“もっている”人間こそがスターなのだと、再認識させてくれた夏。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;（２３日、甲子園　花巻東１―１１中京大中京）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/typhoon_number23/59608205.html</link>
			<pubDate>Mon, 24 Aug 2009 22:26:04 +0900</pubDate>
			<category>野球</category>
		</item>
		<item>
			<title>ボルトが“生み出した”言葉たち</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;世界陸上２００メートル決勝。その、前。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;すでに１００メートルで９秒５８の世界記録を樹立しているボルトを、&lt;br /&gt;
モーリス・グリーン（米国）がこう評した。&lt;br /&gt;
「彼が最も愛しているのは２００メートルで、１００メートルは浮気の相手みたいなもの。&lt;br /&gt;
２００メートル決勝はすごい走りをするだろう」&lt;br /&gt;
――結果、彼の“予言”は的中する。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;１９秒１９。&lt;br /&gt;
競馬ならば、５馬身以上つけているであろう圧勝劇だった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;１００メートル決勝後に、２着に終わったタイソン・ゲイ（米国）はこう嘆息した。&lt;br /&gt;
「人間がこんなに速く走れることがわかった。残念ながらオレじゃなかったが」&lt;br /&gt;
極限の極限まで鍛錬を積み、それでも届かない壁を目の前にしたゲイの気持ちが凝縮された言葉である。&lt;br /&gt;
そして、だからこそ誰よりも適切にボルトの凄さを表現した言葉になっているようにも思う。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;２００メートルのレース後、ボルトは告げた。&lt;br /&gt;
「僕は“伝説”になるために走っているんだ」&lt;br /&gt;
限られた人間だけが口にできる言葉だ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;今年の世界陸上中継の序盤は、おなじみとなった織田裕二のリアクションが見られず、&lt;br /&gt;
「テンションが低い」と話題になっていた。&lt;br /&gt;
一部で報じられた、TBSの番組プロデューサーが「あまり過剰に煽らず、純粋なスポーツ中継として番組を仕切ってほしい」と“お達し”したとの報道も、なんとなく真実味を帯びてきていたところだった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;そんな“場外戦”を、ボルトは完全に吹き飛ばした。&lt;br /&gt;
――トラックで、その走りで、風を切り裂くように。&lt;br /&gt;
人体の限界を純粋に追究し、解放する。&lt;br /&gt;
スポーツとはかくも美しいものなのかと再認識させられる偉業であった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/typhoon_number23/59592886.html</link>
			<pubDate>Fri, 21 Aug 2009 19:47:35 +0900</pubDate>
			<category>オリンピック</category>
		</item>
		<item>
			<title>「赤塚弔辞」白紙伝説　～天才タモリの「これでいいのだ」～</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-87-d2/typhoon_number23/folder/146823/68/55599768/img_0?1301384045&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_367_275&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;（青梅の赤塚不二夫記念館のバカボンのパパには、喪章がつけられた）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;８月の７日。北京五輪の開会式を前日に控えたこの日、赤塚不二夫さんが荼毘に付された。&lt;br /&gt;
私は通夜を取材するため、この日午前に中野へと向かった。&lt;br /&gt;
赤塚さんによって見出され、芸能界への道を切り開いたタモリ。その一挙手一投足に注目が集まった。中でも弔辞に。&lt;br /&gt;
素晴らしい別れの言葉であった。本当に素晴らしい言霊による葬送曲だった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;通夜は１０時半に始まった。「笑っていいとも」の前の時間である。&lt;br /&gt;
最前列に座ったタモリは、じっと、目を逸らすことなく、ただただ遺影をみつめていた。サングラスの横からのぞく眼差しは、寂しげでもあり、愛おしげでもあり、無感情にも見えた。&lt;br /&gt;
遺影では、生前の赤塚さんが笑っている。３年４カ月。赤塚さんは、昏睡状態のまま、ベッドで眠り続けた――果てしない時間だ。それこそ、永遠みたいに。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;やがて弔辞の時間が訪れる。&lt;br /&gt;
タモリはすっ、と立ち、遺影から目を離さず、胸元から紙を取り出して、口を開いた。&lt;br /&gt;
緊張感に満ちた第一声だった。手は僅かに震えていた。&lt;br /&gt;
その最期の会話は、８分間にも及んだ。&lt;br /&gt;
&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;「８月の２日に、あなたの訃報に接しました。６年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。１０代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。
何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています。

終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ。８月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ』と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。

あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。

あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。

私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。平成２０年８月７日、森田一義」
&lt;/pre&gt;

&lt;h1&gt;&lt;a name=&#039;section-1&#039;&gt;&lt;/a&gt;言葉の１つ１つに鳥肌が立った。&lt;/h1&gt;
タモリは、区切るように、噛みしめるように、しかし淀みなく、赤塚さんに語りかけた。&lt;br /&gt;
最後には、サングラスの向こう側にまっ赤になった目が見えてくるようだった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;そして、その日の夜のニュースで、この弔辞が“白紙を読み上げていたのではないか？”と報じられた。&lt;br /&gt;
「バカな…」と最初、私は思った。真偽はさておき愕然とした。「おいおい、待ってくれよ。あの弔辞をそらで話しただって」、と。&lt;br /&gt;
確かに、読み上げているにしては、そしてタモリが作り上げたにしては、日本語としておかしな部分がある。しかし、白紙であったにしては、この弔辞はあまりにも完璧すぎた。考え得る限りで、これ以上の弔辞は存在しないとすら思えた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;そして、今日の夕刊フジの記事である。&lt;br /&gt;
&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;「今月７日に営まれた漫画家、赤塚不二夫さんの葬儀・告別式で参列者の涙を誘ったタレント、タモリ（６２）の弔辞は、やはり白紙だった。元テレビプロデューサーの横澤彪さん（７０）にタモリが明かしていた。 

１１日に別の通夜で偶然、タモリに会ったという横澤さんが明かす。 
横澤さんが単刀直入に「（弔辞の紙は）どうだったの？」と問いかけると、タモリは、あっさりと「勧進帳ですよ」と認めたという。義経一行を関所から逃げ延びさせるため弁慶が白紙の勧進帳を読み上げた史実になぞらえた。 

「『最初は紙に書こうと思っていたんだけど酒を飲んで帰ったら、面倒になって“赤塚さんならギャグでいこう”って』ことになったんだって」と横澤さん。天国に捧ぐ名演技だった」
&lt;/pre&gt;

もちろん、ある程度、何を話すかは考えていたのだろう――尽きることのない言葉のうち、何を告げるか、は。&lt;br /&gt;
タモリは最期の言葉を残すと、一礼し、椅子に戻ることなく、そのまま新宿のアルタまで向かった。「いいとも」の時間がすぐそこに迫っていた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;当日、タモリの弔辞を取材していたものとして、私は失格である。&lt;br /&gt;
白紙だなんて、思いもしなかった。頭の片隅にも浮かばなかった。それだけ、その言葉たちは美しすぎた。&lt;br /&gt;
あるいは、と思わずにいられない。あるいは、あれは“生の会話”だったからこそ、生まれた言葉たちだったのかもしれないな、と。飾りを廃したものだけが放つことのできる、“それそのもの”の輝き。&lt;br /&gt;
伝説、と呼んでいいだろう。あるいは、奇跡、と。&lt;br /&gt;
こんな芸当のできる（であろう）人間を、私はタモリしか知らない。&lt;br /&gt;
「赤塚さん、見ていますか？　聞いていますか？　これが僕です」&lt;br /&gt;
弔辞の内容以上に、そう、雄弁にタモリの想いが伝わってくるかのようだ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;私が今の仕事を始めて――つまり、スポーツ新聞社の芸能部に配属されて、最も痛感させられるのは「芸」と呼ばれるものの凄さだ。&lt;br /&gt;
あの日、目の前で起きたことは「芸術」だった――それも、超弩級の。歴史的な。と、私は思っている。&lt;br /&gt;
恩人の葬儀で、白紙の弔辞を読むなんてバカげたことなのかもしれない。&lt;br /&gt;
けれども、「天才」と「バカ」は紙一重。そう描いたのは、他でもない赤塚さんだ。&lt;br /&gt;
&lt;h1&gt;&lt;a name=&#039;section-2&#039;&gt;&lt;/a&gt;「私もあなたの数多くの作品の一つです」――。&lt;/h1&gt;
きっと赤塚不二夫は天国でうんうんと頷き、こう言っているに違いない。&lt;br /&gt;
「これでいいのだ」、と。&lt;br /&gt;
素晴らしい葬儀だったと思う。改めて、合掌。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/typhoon_number23/55599768.html</link>
			<pubDate>Thu, 21 Aug 2008 01:10:42 +0900</pubDate>
			<category>その他文学</category>
		</item>
		<item>
			<title>『風の歌を聴け』村上春樹　～風の歌を聴く季節～</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-87-d2/typhoon_number23/folder/690928/87/55518687/img_0?1305963911&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_193_265&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h1&gt;&lt;a name=&#039;section-1&#039;&gt;&lt;/a&gt;「今、僕は語ろうと思う。」&lt;/h1&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;夏が来ると、この本を無性に読みたくなる。&lt;br /&gt;
物語が「そろそろ、いいんじゃないかな？」と囁きかけてくるかのような趣すら感じる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;初めて読んだのは、大学２年生の夏だった。&lt;br /&gt;
友人に「村上春樹とミスチルを知らないなんて、人生の８割を損してるようなもんだぞ」と紹介されたのを覚えている。&lt;br /&gt;
「８割っすか？」と、私は目を丸くした。ほとんど、すべてじゃないか！！、と。&lt;br /&gt;
そして、本屋で黄色い背表紙に出合い、私の人生の８割を村上春樹は埋め尽くした――しかも、その表現はそこまで大げさなものではない。と思う。&lt;br /&gt;
夏の訪れとともに、私は一冊、惜しげもなくこの本の新刊を買うことにしている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;そんなわけで、今年も私の本棚には６冊目の『風の歌を聴け』が並べられることになった（そのうちの一冊は全集だけれども）。&lt;br /&gt;
この世の中には、読んでも読んでも尽きないほどの物語があるというのに、同じ作品ばかりをある種の神聖な儀式かのように読み続けるという行為は、なかなかに贅沢なものであるように思う。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「ハートフィールドが良い文章についてこんな風に書いている。&lt;br /&gt;
『文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ』」&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

読書をするとき、気になった文章に付箋を付けていくことにしている。&lt;br /&gt;
そうやって自分の足跡を残していくことで、読み始めたときの自分と、読み終わった後の自分が「違う人間」だということに気付くことができる気がするからだ。&lt;br /&gt;
６冊の『風の歌を聴け』に残された、６つの足跡を比べてみるとなかなか妙なものである。&lt;br /&gt;
同じ場所を何年も続けてチェックしているかと思えば、新たな標識が立つこともあり、忘れていた言葉に数年後、再び気付くこともある。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;私が今年、読んでいて感じたのは、この作品に出逢ってからの６年間で“最もくだらないこと”であった――少なくとも少なからざる人数を失笑させるには十分な発想であるように思う。&lt;br /&gt;
「鼠」が「鼠先輩」に思えて仕方なかったのだ。「ぽっぽ、ぽっぽ♪」の、あの、である。つまり、鼠の抱える虚無は、ムード歌謡の世界なのではないか、と。&lt;br /&gt;
主人公の「僕」の物語を読み、私は鼠の物語を想像する。&lt;br /&gt;
そして、鼠がクリスマスごとに「僕」へ送る彼の物語を想像する。&lt;br /&gt;
鼠の物語でも、鼠先輩の歌――物語でも、セックスはなく、誰も死なない。&lt;br /&gt;
哀愁は漂う。でも、希望は残っている。そんなところが、とても似ているように思えた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h1&gt;&lt;a name=&#039;section-2&#039;&gt;&lt;/a&gt;「巨大さってのは時々ね、物事の本質を全く別のものにかえちまう」&lt;/h1&gt;
作品で描かれた僕と鼠の出会い。&lt;br /&gt;
「オレのことは鼠って呼んでくれ」と鼠は言う。&lt;br /&gt;
「何故そんな名前がついたんだ？」当然、そう聞きたくもなるだろう。&lt;br /&gt;
「忘れたね」と鼠はひどくクールだ。それこそ、老成しつくしたように。「随分昔のことさ。初めのうちはそう呼ばれると嫌な気もしたがね、今じゃなんともない。何にだって慣れちまうもんさ」&lt;br /&gt;
６年間。変わらないのは、本作がファンタジーだと感じることだけだ。鼠先輩が持つ、ファンタジックなキャラクター性が、変な脳内リンクを呼び起こしたのかも知れない。&lt;br /&gt;
だが、どんなファンタジーであろうと、あまりにも現実を看破しすぎてしまっている作品の手触りは、どこまでいっても、もの哀しい。&lt;br /&gt;
その哀しさが、どこか夏の終わりに似ているからこそ、私は夏になるとこの物語で準備を始めるのかもしれない。「いつか、この夏も終わる」という寂寥に負けぬための心の準備を、そっとする、みたいな感じで。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;社会人になって、すぐの時、「自分には、もう２度と村上春樹を読むことなんてできないんじゃないか？」と思ったことがある。その作品群のほとんどが、会社に従事して働くサラリーマンの実感とは遠いところを舞台にしていたからだ。&lt;br /&gt;
でも、大事なのは「生き方」なのだと、ようやく分かってきた。&lt;br /&gt;
風は強く吹いている――上司には怒られるし、物事は想うようには進まない――ともすれば、吹き飛ばされてしまいそうな時もある。&lt;br /&gt;
だが、それは「外」からの現象に過ぎないのだな、と。自分がそのときどのような生き方を選ぶのか、その外からの「風」の音を聴いて、どのように動くのか／考えるのか。&lt;br /&gt;
村上春樹のストイックさを想う。&lt;br /&gt;
例え、その風の音が歌ではなかったとしても、何かしらの教訓があるものであると私は思いたい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/typhoon_number23/55518687.html</link>
			<pubDate>Thu, 14 Aug 2008 11:55:02 +0900</pubDate>
			<category>読書</category>
		</item>
		<item>
			<title>『マルドゥック・ヴェロシティ』沖方丁　～物語力による解釈の殺人～</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-87-d2/typhoon_number23/folder/1492583/16/55448816/img_0?1218200170&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_510_240&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;「３回くらいアタマがおかしくなって、というのは、記憶がなくなるわけ。30分くらいなくなって、その間なにしてたかわからなくなる。妻に『俺いま何してた？』って訊いて、「え、普通にしてたよ」って言うんだけど、全部記憶が飛んでて、ものすごく怖かった。自分を引くずったままあっちに行っちゃってるっていう感じで、おかしなことになっていた。ただ、作られている作品がすごいことは、よくわかった」（『ユリイカ06年8月号　古川日出男』――古川氏による『アラビアの夜の種族』解説）
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h1&gt;&lt;a name=&#039;section-1&#039;&gt;&lt;/a&gt;圧倒的な物語力の前で、解釈は死ぬ。&lt;/h1&gt;
そこでは、「なぜこうなった？」、「どうして彼はそう言った」という分析、謎、疑問は沈黙するしかない。ただ、物語の圧力に押しつぶされ、その力の前で驚愕する――立ち尽くす――そして、思う。「なんて物語なんだ！！」、と。それですべてだ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;沖方丁の出世作となった『マルドゥック・スクランブル』の続編、にして、そのエピソード０を描く本作。そのあとがきとなる「精神の血――その最悪の輝き」で沖方は、こう書いている。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「『何を・どうやって』書くかはよく悩むが、『なぜ』について本気で悩んだのは本書が初めてである。そのせいか執筆が進むにつれて精神状態があまりよろしくなくなり、終盤にさしかかると、突然、全ての疑念が衝動と化した。&lt;br /&gt;
家庭も他の仕事も全て放り出して、僅かな仕事道具だけを手に家を飛び出し、どことも知れぬホテルを転々としながら書き続けたのである。追ってくる人間には『殺すぞ』『消えろ』などといったメッセージを返し、ホテルのエレベーターで『こんにちは』と優しく声をかけてくれた他の客を、憎悪を込めて睨み返した。近づく者全てに怒りを剥き出しにし、半月ほど誰とも会話せず、気づけばゴールデンウィーク中のラッシュの新幹線内で、トイレを占拠してエピローグを書いていた。」&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

はっきり言って、「異常」である。&lt;br /&gt;
だが、私は、そんな風にして――自分の精神の限界値まで脳髄を絞り、摩擦し、捩じ切りながら物語とランデブーした男を知っている。それが冒頭の古川日出男の言葉であり、彼の書いた『アラビアの夜の種族』は、どこか本書『マルドゥック・ヴェロシティ』と似ている――“異母兄弟”という言葉がぴったりかもしれない。もちろん、アラビアと架空都市マルドゥック市を描いた本作の、内容が似ているわけではない。その手触り、いうなれば精神の質感が似ているのである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h1&gt;&lt;a name=&#039;section-2&#039;&gt;&lt;/a&gt;「特殊な力を持った集団同士が戦い合う娯楽活劇」――。&lt;/h1&gt;
一言で本作をあらわせば、こうなる。沖方の当初の構想は、その一言だった。&lt;br /&gt;
戦時中に生み出された特殊能力を持つ10人の戦士――不死身、擬似重力、ユニバーサル変化、身体の鋼鉄化、変身、集極音波、不可視･･･――スクランブル－０９。&lt;br /&gt;
戦争の終わりと共に“スクラップ”にされそうかけた彼らは、街で特別捜査組織を立ち上げ、自らの「有用性」を証明するために事件を解決していく。&lt;br /&gt;
その中で、あるギャングの世代間抗争を追ううちに、彼らは、自らと同様に戦中の特殊技術によって機械化された先頭集団の影を見る――そして、激突する。&lt;br /&gt;
しかし、彼らも「駒」でしかない。&lt;br /&gt;
その背後には都市システム全体を巻き込んだ陰謀が渦巻いている――狂った個人の虚無が暴走している。&lt;br /&gt;
『マルドゥック・スクランブル』で敵対している擬似重力＆不眠活動能力を持つボイルドと、あらゆるアイテムに変形可能な黄金の知能を持ったネズミ・ウフコックは、本作では強固な信頼関係で結びついたパートナーとして描かれる――そして、終局に至り訪れる、絶望的な相対。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;表層的な説明をすれば、本書は『Ｘメン』や『ファンタスティックフォー』、『スパイダーマン』といったアメコミ的ヒーロー物でしかない。&lt;br /&gt;
だが、その体内で煮えたぎるのは、絶対的な正義への諧謔と、暴力の虚無性、そして、絶望的なまでに行間を埋め尽くす人間の業である。&lt;br /&gt;
それは、沖方が本書の執筆時に――あの、憎悪に満ち満ちながら放浪した日々に知ったという「決して肯定されるべきではないもの――衝動的な憎悪、憤怒、悪意、破滅的な熱狂といったものは、自分が思うよりも遥かに身近で、いつでも起こりうること」だという、ある種の“悟り”そのものであるようにも思える。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;自分の作品が、現代における「パンドラの箱」であると分かっているからこそ沖方は言う。「ときとして暴力は、素晴らしい効果を発揮するのだと公言する意義は。そんなものはない。そう言い切れる楽観こそ、本書の意義であって欲しい」、と。&lt;br /&gt;
そして、続ける。&lt;br /&gt;
「最善であれ最悪であれ、人は精神の血の輝きによって生きている。そしてエンターテイメントは、最悪の輝きさえも明らかにするのだ」。&lt;br /&gt;
かつて「箱」の中に詰められたあらゆる災い、その現代版としての人間の業の執拗な書き込みは、だが、その最後に「残された希望」をも描いていく――あるいは、それは最悪の行為だったのかもしれない。現に本作の主人公ボイルドは、『―スクランブル』で虚無の深みにはまりきっている。&lt;br /&gt;
しかし――。&lt;br /&gt;
と、沖方は言いたいのだろう。&lt;br /&gt;
そして、私もそう言いたい。&lt;br /&gt;
そこに描かれるものが例え「精神の血の最悪の輝き」であったとしても――最悪な行動による、最悪な出来事の、最悪な報告であったとしても、そこで輝く男たちの生き様が、物語の力が否定されることは決してない。&lt;br /&gt;
繰り返して、私は、言いたい。&lt;br /&gt;
&lt;h1&gt;&lt;a name=&#039;section-3&#039;&gt;&lt;/a&gt;圧倒的な物語力の前で、解釈は死ぬ。&lt;/h1&gt;
その物語の力の前では、否定も、肯定も、したり顔の評価も消えるしかない。&lt;br /&gt;
そこに描かれる男たちの精神の血の輝きの前で、ただ、物語の波に身をゆだねるしかない。&lt;br /&gt;
『アラビアの夜の種族』の衝撃再び。どうか、この「パンドラの箱」を是非とも開けてもらいたい。&lt;br /&gt;
（08年　☆）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;a href=&quot;https://www.blogmura.com/img/www80_15.gif&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://www.blogmura.com/img/www80_15.gif&quot; alt=&quot;https://www.blogmura.com/img/www80_15.gif&quot; border=&quot;0&quot;&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/typhoon_number23/55448816.html</link>
			<pubDate>Fri, 08 Aug 2008 13:58:18 +0900</pubDate>
			<category>読書</category>
		</item>
		<item>
			<title>映画&amp;小説『クライマーズ・ハイ』横山秀夫　～問いに圧倒された答え～</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-87-d2/typhoon_number23/folder/293789/80/55322980/img_0?1218467719&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_297_204&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;「時として問いは、答えを圧倒する」（米ドラマ『ＨＥＲＯＳ』）
&lt;/pre&gt;

４月25日、私は長野駅に降りたった。&lt;br /&gt;
中国によるチベットの人権侵害問題に端を発し、全世界で妨害行動が続発する北京五輪の聖火リレーが翌日にせまっていた。わが社からは、私を含めキャップ、野球担当、五輪担当、写真部の５人が取材のために派遣された。&lt;br /&gt;
&lt;h1&gt;&lt;a name=&#039;section-1&#039;&gt;&lt;/a&gt;街はにわかに浮き足だっていた。&lt;/h1&gt;
当初のスタート地点だった善光寺は、チベット問題をかんがみて場所提供を辞退。出発地はかつて刑務所のあった県勤労者福祉センター跡地という「空き地」へと変更された。&lt;br /&gt;
リレーコース上には、万一、街が混乱に陥ったときのために26日が休校になった学校もあった。道路には、右翼などの街宣車が溢れ、聖火リレー中止を訴える声が響き渡っていた。&lt;br /&gt;
夜には、興奮した人々が駅前で花火を打ち上げる始末。&lt;br /&gt;
朝まで街が眠ることはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;翌朝５時ごろ、シャトルバスで大勢の中国人留学生が長野入りした――その数５０００人。&lt;br /&gt;
６時ごろには、すでに赤い中国国旗を振り回す中国側と、チベット国旗をもった日本の、チベット問題を憂いた人々、騒動を一目見ようと集まった野次馬、聖火リレーにかこつけて政府批判を展開しようとやってきた活動家たちが道路を隔てて「応援合戦」を始めていた――「ワン、チャイナ（中国はひとつ）」ＶＳ「フリー、チベット（チベットに自由を）」。&lt;br /&gt;
お互いに声で負けてなるものかと、どこか本質を見失った声の枯らしあいが１時間以上も続いた。&lt;br /&gt;
そして、リレーの結果はご存知の通りである。&lt;br /&gt;
逮捕者５人。卓球・福原愛ちゃんの走っている最中には妨害者が現れ、欽ちゃんには、ゴミが投げつけられた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;リレー終了後の虚脱感はすごかった。途中から雨が降り出したこともあり、疲労感たっぷりで原稿を書き始めたのを覚えている。&lt;br /&gt;
たくさんの「なぜ？」があった。&lt;br /&gt;
「なぜ、こんなことになってしまったんだろう？」&lt;br /&gt;
「何が、人々をここまで駆り立てたのだろう？」&lt;br /&gt;
&lt;h1&gt;&lt;a name=&#039;section-2&#039;&gt;&lt;/a&gt;問いが、答えを圧倒した。&lt;/h1&gt;
敵はあまりにも大きすぎた――それらしき「答え」が世間には溢れ、声高に叫ばれ、そして浮かんでは消えていった（その気持ちは、その３ヵ月後に秋葉原通り魔事件で再び味わうことになる）&lt;br /&gt;
ただ、何にもまして全身を覆うのは「もう２度と起きないであろう、未曾有の出来事に遭遇しているのだ。その現場に自分はいるのだ」という奇妙な高揚感だった。「その軌跡を自分は残しているのだ」、と。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;「俺は『新聞』を作りたいんだ。『新聞紙』を作るのはもう真っ平だ。忙しさに紛れて見えないだけだ。北関は死に掛けてる」
&lt;/pre&gt;

１９８５年８月12日。蝉の声が聞こえる、うだるような夏。&lt;br /&gt;
日本航空123便墜落事故――通称・御巣鷹山墜落事故の起きた夏。&lt;br /&gt;
そのとき、もし自分がこの事故に立ち向かうことになっていたとしたら――。&lt;br /&gt;
一体どうなっていただろう、と考えずにいられない。あの山に太刀打ちできただろうか。「いや･･･」、とその想像をすぐに打ち消したくもなる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h1&gt;&lt;a name=&#039;section-3&#039;&gt;&lt;/a&gt;『クライマーズ・ハイ』で記者としての人生観を変えられてしまった。&lt;/h1&gt;
記者とは、このような人たちを言うのだ、と。&lt;br /&gt;
横山秀夫が、デビュー前に勤めていた上毛新聞／記者時代に遭遇した、この、墜落事故を元に書き上げた渾身の作品。確かな大傑作であった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;未曾有の大事故である。&lt;br /&gt;
それこそ、聖火リレーなんて、霞に霞んで姿すら見えないほどの。&lt;br /&gt;
乗員乗客５２４人を乗せた旅客機が墜落。５２０人の命が、一度に飲み込まれた。&lt;br /&gt;
想像することはできても、決して「届くこと」のできない事故だと言っていい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;舞台は上毛新聞社をモデルにした北関東新聞社（上毛はライバル社の設定）。&lt;br /&gt;
日航事件の全権デスクを任されたベテラン遊軍記者・悠木を軸に、地元・群馬に墜落した日航墜落事故という巨大な相手との戦い、社内の政治的腐敗、編集／広告／販売／出版など部署間のすれ違い、地方紙ＶＳ全国紙の図式、記者の力量、スクープの難しさ――大事件を前に噴出した新聞社の内情／問題点がこれでもかと描かれていく。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;公開中の映画では、リアルさにこだわり、同社の編集社員50人をすべてオーディションし、全員に名前、肩書き、癖、バックボーンを設定。墜落を知らせる共同電の緊急速報チャイムは本物同様で、仕事では絶対に聞きたくないものだけにえらく緊張させられる。（一度、ロシアのゴルバチョフ元書記長が亡くなったときにリアルタイムで聞いたことがある。社内はシーンと静まりかえり、全員がすーっと耳を澄ませた）&lt;br /&gt;
悠木役の堤真一、エース記者・佐山を演じた堺雅人の演技には鬼気迫るものがある。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;「結局 言葉は真実を伝えるものではなく 石器や武器と同じ 単なる武器でしかないってことだ」（漫画『営業の牧田です。』かわすみひろし）
&lt;/pre&gt;

&lt;h1&gt;&lt;a name=&#039;section-4&#039;&gt;&lt;/a&gt;本作の最大の魅力は、記者の生き様である。&lt;/h1&gt;
問いに圧倒されながら、答えを出そうともがく――闘う姿勢である。&lt;br /&gt;
なんども踏みにじられ、なんども絶望する。&lt;br /&gt;
それでもドラマの発掘とスクープの発見と記者の意地を通そうとあがく。&lt;br /&gt;
当たり前だ。５２０人が、目と鼻の先で、死んだ。もはや、数人の記者が抱えきれるレベルの話ではない。それでもペンを走らせ続けなければいけない。&lt;br /&gt;
その苦悩が、行間を黒く塗りつぶすようににじむ。&lt;br /&gt;
小説と映画版では、異なるエンディングが用意されているが、その本質は変わらない。&lt;br /&gt;
「目を逸らさない」姿勢、最後にペンが読者を向くという在り方。&lt;br /&gt;
記者以外の人がこの作品をどうとらえるのかにも興味があるが、ひとつの「職人たち」の戦いの歴史として、長く語り継がれるべき物語ではないかと思う。&lt;br /&gt;
（08年映画◎＋／小説◎）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;a href=&quot;https://www.blogmura.com/img/www80_15.gif&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://www.blogmura.com/img/www80_15.gif&quot; alt=&quot;https://www.blogmura.com/img/www80_15.gif&quot; border=&quot;0&quot;&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/typhoon_number23/55322980.html</link>
			<pubDate>Tue, 29 Jul 2008 16:22:28 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>漫画『魔王　ジュブナイルリミックス』大須賀めぐみ</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-87-d2/typhoon_number23/folder/1444511/28/54919328/img_0?1217316845&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_204_204&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h1&gt;&lt;a name=&#039;section-1&#039;&gt;&lt;/a&gt;「嬉しい誤算でした」――。&lt;/h1&gt;
帯には、原作者・伊坂幸太郎の言葉として、そうあおり文が踊っている。&lt;br /&gt;
「へ～」と、思った。『魔王』が週刊少年サンデーで漫画化されていたとは。&lt;br /&gt;
まあ、週刊誌掲載だし、最近は漫画化することも少なくないからなぁ、と騙されたと思って試しに読んでみたのだが――。&lt;br /&gt;
これがまた、なんとも「嬉しい誤算」、なのである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h1&gt;&lt;a name=&#039;section-2&#039;&gt;&lt;/a&gt;「考えろ、考えろ」&lt;/h1&gt;
新都市計画で揺れる関東地方の架空の街・猫田市を舞台に、描かれるは安藤と犬養の戦い。原作では、新興政党の党首だった犬養は、自警団・グラスホッパーのリーダーとなり、新都市計画に異を唱えるカリスマとして街を掌握していく。高校生になった安藤は、周囲の犬養賛美のファシズム的違和感に危機感を抱き、「思ったことを人にしゃべらせることのできる」＝“腹話術”の能力で、犬養の「レシピ」を変えようと奮闘する。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h1&gt;&lt;a name=&#039;section-3&#039;&gt;&lt;/a&gt;「もし世界で自分だけが間違いに気付いてしまったら･･･どうする？」&lt;/h1&gt;
白眉なのが――犬養の所属団体名からも分かるように――『魔王』の世界観を残しながらもすでに既刊４冊の中に、鯨、蝉、スズメバチ（原作とは違い、メイド風戦闘美少女）という『グラスホッパー』のキャラクターが登場し、伊坂作品がリミックスされている点。社会的メッセージ性の強い『魔王』に『グラスホッパー』のエンタメ性が加わったことで、「少年漫画by伊坂」という作風が活きているように思う。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;indent&#039;&gt;
“一般人”として登場した『グラス―』の鈴木と違い、腹話術の能力をもつ安藤は、すでに蝉と一戦交えており、このままいけば犬飼ＶＳ蝉ＶＳ鯨ＶＳ安藤という、格闘漫画さながらの展開に突入する予感。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;
同人誌的伊坂作品へのリスペクトが、成功を収めた好例だろう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;私にとって、『グラスホッパー』は忘れられない作品である。&lt;br /&gt;
それまでに読んだ伊坂作品は、どちらかといえば「巧いなぁ」「面白いなぁ」という印象の作品だった。（これが村上春樹や古川日出男の作品になると「スゴい･･･」や「言葉も出ない」という状態になる）。&lt;br /&gt;
だが、『グラスホッパー』を――その最後の一行を読んだ時、脳内がクリンとひっくり返る音が聞こえた。ような気がした。そうか、これは「“そういう作品”だったのか」、と。&lt;br /&gt;
深夜１時ほどに読み終えて、すぐさまブログに感想をアップしたのを覚えている。&lt;br /&gt;
勢いのままに一気に書き上げた。見直しもしなかったし、それ以来、そのままにしている。&lt;br /&gt;
熱を封じ込めたかったのだ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;今回、漫画『魔王』に刺激を受けて、文庫版で『グラス―』を再読してみた。&lt;br /&gt;
&lt;h1&gt;&lt;a name=&#039;section-4&#039;&gt;&lt;/a&gt;「世の中は情報で作られているんだから。街ってのはさ、ビルとか道路とか通行人でできてるんじゃなくて、情報でできあがっているんだって」&lt;/h1&gt;
読み返してみると、改めて「この作品はこんなにも『魔王』とリンクしていたのかぁ」と思わされる。&lt;br /&gt;
世の中は情報で作られている――それも、加工された情報で。&lt;br /&gt;
耳あたりのいい言葉で、編集された映像、情報は＝人々はコントロールされている。&lt;br /&gt;
問題は――コントロールされていることに気付かないこと。&lt;br /&gt;
『魔王』で安藤は「考えろ」と、マクガイバーの言葉を繰り返すし、&lt;br /&gt;
『グラス―』で蝉は自分が岩西の支配下でコントロールされているだけなのではないかと怯える。だが、本当に怖いのはラストの鈴木のように、“気づかない”ことだ。&lt;br /&gt;
世の中は情報によって作られている――だが、その情報は“誰かによって”作られている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;『グラスホッパー』での危機感は、ファシズムという言葉に集約されて『魔王』で警告された。情報コントロールへの盲目と、その危険性。&lt;br /&gt;
そして、これは『ゴールデンスランバー』へとつながっているのではないか。&lt;br /&gt;
あのエンタメ性と社会的メッセージ性の融合は、そのまま『魔王』＋『グラスホッパー』なのではないか。&lt;br /&gt;
伊坂作品の一つの系譜。その連なりは、今、漫画として一つの作品に帰結しようとしているのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/typhoon_number23/54919328.html</link>
			<pubDate>Sun, 29 Jun 2008 19:44:57 +0900</pubDate>
			<category>読書</category>
		</item>
		<item>
			<title>『広告放浪記』浅暮三文　～社会人2年目の重要性～</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-87-d2/typhoon_number23/folder/1467630/87/53824187/img_0?1230104347&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_138_200&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;今年の春、プロ野球キャンプの話題を独占したのは、若干18歳のルーキーだった。&lt;br /&gt;
北海道日本ハム・ファイターズ、中田翔。「ススキノに行きたい」、「おこずかいは30万」などの奔放な発言とド派手なバッティングで連日、スポーツ紙の紙面をにぎわせた“平成の悪童”。&lt;br /&gt;
――あれから２ヶ月。&lt;br /&gt;
そのピカピカの１年生の姿は今、札幌ドームにはない。&lt;br /&gt;
「焦りはないッス。今はできることをできる限りやって少しでもレベルアップしたい」――。&lt;br /&gt;
そう、キャンプ時から半分以下に減った記者たちを前に、ファームで白い歯をみせる彼の言葉は本音か、それとも――。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;高校３年間で積み上げたホームラン87本は、これまでの通算記録を塗り替えた。名門・大阪桐蔭高校の４番でエース。バットを振るたびに生み出されドラマで、高校時代の中田は埋め尽くされていた。&lt;br /&gt;
そのすべてが“リセット”される――プロ１年目。&lt;br /&gt;
果たして新たに始まった中田の歴史は、これからどう紡がれていくのだろうか。&lt;br /&gt;
確かにまだ始まったばかりだ。&lt;br /&gt;
焦る必要はない。&lt;br /&gt;
だが、すでに始まっている――動き出してしまっている。それも確かだ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;“新たなる世界”の開闢となる、その社会人１年目が４月に終わった。これは大事件である。&lt;br /&gt;
あれから１年。まったく進歩も成長もせぬまま、あっという間に社会人２年目がニッコニコで「こんにちは」、加えて新人までやってきてしまった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;本書「広告放浪記」は、メフィスト賞作家・浅暮三文が、小さな広告代理店に営業として就職した社会人１年目からコピーライターになるまでの数年を綴った自伝的小説。&lt;br /&gt;
作家になるまで、でなく、あくまでコピーライターになるまで、というところがミソか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;舞台は80年代の大阪。三行広告をとるために飛び込み営業を繰り返し、繰り返すのを避けるためにさぼる口実を探し、時には夜逃げされ、時にはなにわの人情に触れ、といったサラリーマン１年生。自称ボンクラだが、「おお！」なヒラメキで商談を成立させることもある、ムラッ気営業マンである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;なもんで、最初は「なんだかんだ言って、謙遜半分の自慢半分でねえか！！」と読んでいったのだが、後半、営業職への限界を感じ、コピーライターを目指すくだりから、じわじわと“新社会人への教訓”めいたメッセージが登場し始める。&lt;br /&gt;
それは、やはり「目標のためにどれだけ自分を殉じられるか」ということなのだと思う。あるいは、「自分を殉じられる目標をいか見つけられるか」、ということなのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;浅暮氏がコピーライターになるまでの過程には、「なにがなんでも！！」というある種の悲壮感まで感じられる。営業時代との熱意のギャップもさることながら、“そうなりたいのであれば、そこまでやるべきなのだろう”と思わされる。&lt;br /&gt;
コピーライター養成講座に通い、朝から晩までコピーを考え、著名なコピーライターの先生に手紙を送って”通信講座”のように文通をはじめ――。すべてはコピーライターになるために。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;始まりの１年目を終え、私も“先”を見すえないといけないな、と思わされた。&lt;br /&gt;
２年目は何の年か。&lt;br /&gt;
あわただしく通り過ぎた１年を踏まえ、自分の将来図を描く。フリーでもやっていけるような文章力や専門性を身につける。では、どのジャンルで。&lt;br /&gt;
このまま今の会社にいるのであれば、自分は一体なにがしたいのか、できるのか。&lt;br /&gt;
入社前に抱いていたビジョンと、入社後の現実の差異を分析し、クレバーに歩むべき道を探さなければいけない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;本書は、まだ右も左もわからぬ「社会人1年生」が浅暮氏の自称ボンクラさを笑う一冊というよりも、むしろ、入社後の理想と現実のギャップに苦悩する「社会人２年目以降の人」がその先――自分が“本当に”できること、したいこと――をもう一度見つめなおすための書なのではないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/typhoon_number23/53824187.html</link>
			<pubDate>Fri, 18 Apr 2008 23:55:11 +0900</pubDate>
			<category>読書</category>
		</item>
		<item>
			<title>『ラットマン』道尾秀介　～巧すぎるがゆえの欠落～</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-87-d2/typhoon_number23/folder/1467630/24/53606524/img_0?1218173776&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_154_225&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;道尾氏の作品は、どこかトリックアートを思わせる。&lt;br /&gt;
提示されているものを誤読させ、最後の一言で“見方を反転させる”――すでにそこにあるものを、まったく別のストーリーで読ませ、かつ、もうひとつの読み方を開示したときに違和感なく受け入れさせる構成の巧みさにいつも唸らされてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;本作のタイトル「ラットマン」は、前後の文脈によって同じ絵が別物に見えることを示す、心理学上の有名な絵が由来。作中にもその絵が登場するのだが、確かに動物と並べられればネズミに、人間と並べられれば人間に見える。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;殺意の動機、不自然なアリバイ、男女の関係、意味深なセリフ･･･いかにも「こいつが犯人では！！」と思わせる描写の数々が列挙されていく。&lt;br /&gt;
しかし、ネズミに見えるからといって、ネズミであるとは限らない、といったところがミソ。なるほど。私たちの物事の認識は、あまりにも文脈に左右されすぎているのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;アマチュアバンドSundownerの練習中に、語り手である姫川の彼女が死んだ。&lt;br /&gt;
現場は防音処置のほどこされたライブスタジオの一室。明らかな密室空間で起きた惨劇に、メンバーの姫川とその同級生の谷尾、竹内、被害者の妹およびスタジオのマスターが容疑者となる。&lt;br /&gt;
真っ先に蓋然性のある犯行動機があがるのは姫川。&lt;br /&gt;
では、犯人は語り手である彼なのか？&lt;br /&gt;
物語は道尾作品独特の右往左往を繰り返しながら、“犯人らしき人物”をたゆたい、その巧妙なミスリードは、すべてラットマンの心理学的トリックさながらに私たちを揺さぶることになる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;道尾作品のプロットは、いかにも“週刊連載の漫画”的である。&lt;br /&gt;
つまり、引っぱりに引っぱり、思わせぶりな場面の展開、犯人を思わせるヒント＝ミスリードの連打と真相の保留が繰り返され、読者は何度も「こいつが犯人だ」という結末の予想を覆すことになる。&lt;br /&gt;
もちろん、その認識の反転は心地がいい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;だが、読後感はどこか空腹である。&lt;br /&gt;
それは、ミステリ要素の充足に比べ、明らかに感情的人間性が不足しているからに他ならない、と私は思う。当初、道尾作品に伊坂作品と通じるセリフ回しや雰囲気を感じていたけれども、やはり、違う。&lt;br /&gt;
道尾作品には最終的な根幹として、感情的な細部が欠けているように思う。&lt;br /&gt;
そこが残念なのだ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ミステリ・トリックは、本質的にはマジックのそれと同様である。&lt;br /&gt;
つまり、見えているのに見えない、という“意識の盲目”＝心理的ミスリードが核となっていく。&lt;br /&gt;
ラットマンとは、道尾作品に通底するトリックの総称だとすら言えるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;心理の隙間を道尾氏はストレートに突いてくる――道尾氏は心理学的な人間的欠陥に、非常に意識的である。&lt;br /&gt;
はっ！！とさせられる。&lt;br /&gt;
えっ！！と純粋に驚かされる。&lt;br /&gt;
だが、文章的ミスリード術の巧みさに比べ、物語としての魅力がどうも…。なのだ。&lt;br /&gt;
道尾氏のミステリ的魅力は本作に溢れているが、個人的には「ミステリのためのミステリ」になってしまっている印象。文章は好きなだけに、『片目の猿』のような“トリックとテーマが分かち難く結びついている”作品を望みたい。トリック＝罠の伏線の張り方が巧すぎて、巧さだけで書き上げてしまった1作、といった感を覚えてしまった。&lt;br /&gt;
間違いなく今後のミステリ界を担っていくだろう作家だけに、好きだからこその苦言を呈したいと思う。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/typhoon_number23/53606524.html</link>
			<pubDate>Sun, 06 Apr 2008 02:44:45 +0900</pubDate>
			<category>読書</category>
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