田上太秀著 「涅槃経」を読む

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いろいろ有って、UPが途切れ途切れになってしまいました。<m(__)m>

今回も、田上先生のご好意に甘えて、 『田上太秀著 「涅槃経」を読む』を転載させていただきます。

前回の『田上 太秀著 「仏陀のいいたかったこと」』50回の分割連載で転載させて頂きました。

この本も

毎日とはいきませんがポチポチ更新して参ります。よろしくお願いします。

田上先生には、ブッダの究極の教えである『大般涅槃経』全40巻を、はじめて現代語訳した『ブッダ臨終の説法―完訳 大般涅槃経』と言う全4巻の大部の完訳本もあります。

夫々400ページ近くもある本ですので、なかなか読むことも難しそうです。

ブッダの遺言集とも言われる涅槃経には、有名な成句も沢山ありますので楽しみです。

その涅槃経の入門書とも言うべき、この本を手にすることが出来て嬉しいことです。

少しずつ、転載させて頂きます。

 イメージ 1内容(「BOOK」データベースより)

死に直面したブッダは、自らの得た覚りを弟子たちに開示した。このブッダが最後に残した諸々の教えを、多彩な比喩を随所にちりばめ、明快な問答形式で記したのが『涅槃経』であり、数ある仏教経典のなかでも「仏性思想」を説いてひときわ異彩を放っている。中国・朝鮮・日本等、東アジアの仏教思想に多大な影響を与えた『涅槃経』の精髄を読み解く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

田上 太秀
1935年ペルー・リマ市生まれ。駒沢大学仏教学部卒業。東京大学大学院修士課程修了。同博士課程満期退学。駒沢大学仏教学部教授。駒沢大学禅研究所所長。文学博士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
目次
第1章 仏教の基礎知識(仏教は誤解されている
「仏教」の意味 ほか)
第2章 『涅槃経』について(編纂された『涅槃経』と創作された『涅槃経』
二つの『涅槃経』の内容の違い ほか)
第3章 仏性とはなにか―その意味するもの(「仏性」とはなにか
仏性はどこにあるのか ほか)
第4章 『大乗涅槃経』のユニークな思想(正法のためには破戒も許される
正法を見て、生まれを見るな ほか)
第5章 多彩な比喩説法を読む(乳と薬の譬え―仏性はアートマンである
四匹の毒蛇の譬え―仏教の身体観 ほか)
 
***** 以下本文その四十九 *****
 
『涅槃経』を読むブッダ臨終の説法
 
     あとがき
   私はかつて四十巻本『涅槃経』を現代語訳した。還暦を記念する意味で五十歳前半から翻訳に着手し、『ブッダ臨終の説法−完訳大般涅槃経』(大蔵出版)という題名で第一、二巻が一九九六年に、第三、四巻が一九九七年に刊行された。第一巻が刊行されたときはすでに六十一歳で還暦をすぎていたが、それでも大蔵出版の桑室一之編集長のご努力によって四巻が二年間で出版されたことは有り難かった。
 初版の第一巻を最初に恩師中村元博士に謹呈した。数日後、博士よりはがきで礼状を頂いた。文中に、この『涅槃経』の翻訳を最後に手掛けたかったが、体力的に無理で果たすことができなく、心残りであると書かれてあった。博士はすでに『原始涅槃経』を翻訳されていたが、この『大乗涅槃経』については部分訳も抄訳もまったくなされなかった。
 最近、東京書籍から「現代語訳 大乗仏典」シリーズが刊行され、大乗仏教思想を代表する重要な仏典が十七点収められているが、このなかに『涅槃経』の経名がない。博士は『涅槃経』を訳しておかなかったことを最後まで心底侮やんでおられたのではないかと忖度する。
 右の『ブッダ臨終の説法』が出版された後、『涅槃経』について、NHKラジオ第二放送「こころをよむ」の番組で、「ブッダ・最後のことばーー涅槃経を語る」と題して二十六回にわたって放送した。
   その後、大学でも『涅槃経』の講義を行い、そのときのノートをもとに『仏性とはなにか』(大蔵出版)を刊行した。
 従来、『涅槃経』の思想に関する放送は皆無であったが、NHK放送を通じて『涅槃経』 への関心が人々にもたれるようになったことを実感した。大学の『涅槃経』講義には関西の大学からわざわざ新幹線で通って聴講に来られた方もいるほどで、学生よりも聴講生が多いほど一般の関心度は高かった。
 既述のように、中国、朝鮮、日本における仏教は『涅槃経』の仏性思想を中心に展開したと言っても過言ではない。しかし、その仏性思想で有名になった『涅槃経』を読み通し、全体像を捉えている人、そして仏性の意味を熟知している人は必ずしも多いとは言えない。名前が有名なのに中身が知られていないという、仏典のなかでも希有な経典である。
 このたび、『涅槃経』の概説書が学術文庫に収められ、多数の人々の目に触れる機縁が得られたが、これによって中村元博士の心残りの一端でも果たすことができたのであれば、これに過ぎる喜びはない。
                                   著 者
**********
 
田上先生、長い間転載させていただきまして大変ありがとうございました。
 
先生のご好意で、当初の釈尊関連の3冊をUPすることが出来ました。
 
後半は、マンションなどの仕事に時間を取られ、UPがなかなか進まなくて申し訳ありませんでした。
 
最初の『田上 太秀著  ブッダが語る人間関係の智慧~『六方礼経』を手がかりに~』をUPさせて頂いたのが、ちょうど一年前の2010年11月29日でした。
今、記録を残していないのですが、今の訪問者数述べ数が20万2千人を超えて居ますから、少なくとも述べでは7万人以上の方に見て頂けたなかな?
と嬉しく思います。
 
今、巷に氾濫する仏教とは一味違った、本来の釈尊のあるべき姿の一端を知ることが出来たことを、心から感謝しております。
 
イメージ 2読者の方へ
次の候補として、「仏教と女性―――インド仏教が語る」を読み始めたのですが、どうも今まで様な形では難しそうなので、どのような形でUPするか検討中です。
いろいろ有って、最後に来てUPが途切れ途切れになってしまいました。<m(__)m>

今回も、田上先生のご好意に甘えて、 『田上太秀著 「涅槃経」を読む』を転載させていただきます。

前回の『田上 太秀著 「仏陀のいいたかったこと」』50回の分割連載で転載させて頂きました。

この本も

毎日とはいきませんがポチポチ更新して参ります。よろしくお願いします。

田上先生には、ブッダの究極の教えである『大般涅槃経』全40巻を、はじめて現代語訳した『ブッダ臨終の説法―完訳 大般涅槃経』と言う全4巻の大部の完訳本もあります。

夫々400ページ近くもある本ですので、なかなか読むことも難しそうです。

ブッダの遺言集とも言われる涅槃経には、有名な成句も沢山ありますので楽しみです。

その涅槃経の入門書とも言うべき、この本を手にすることが出来て嬉しいことです。

少しずつ、転載させて頂きます。

イメージ 1内容(「BOOK」データベースより)

死に直面したブッダは、自らの得た覚りを弟子たちに開示した。このブッダが最後に残した諸々の教えを、多彩な比喩を随所にちりばめ、明快な問答形式で記したのが『涅槃経』であり、数ある仏教経典のなかでも「仏性思想」を説いてひときわ異彩を放っている。中国・朝鮮・日本等、東アジアの仏教思想に多大な影響を与えた『涅槃経』の精髄を読み解く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

田上 太秀
1935年ペルー・リマ市生まれ。駒沢大学仏教学部卒業。東京大学大学院修士課程修了。同博士課程満期退学。駒沢大学仏教学部教授。駒沢大学禅研究所所長。文学博士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
目次
第1章 仏教の基礎知識(仏教は誤解されている
「仏教」の意味 ほか)
第2章 『涅槃経』について(編纂された『涅槃経』と創作された『涅槃経』
二つの『涅槃経』の内容の違い ほか)
第3章 仏性とはなにか―その意味するもの(「仏性」とはなにか
仏性はどこにあるのか ほか)
第4章 『大乗涅槃経』のユニークな思想(正法のためには破戒も許される
正法を見て、生まれを見るな ほか)
第5章 多彩な比喩説法を読む(乳と薬の譬え―仏性はアートマンである
四匹の毒蛇の譬え―仏教の身体観 ほか)
 
***** 以下本文その四十八 *****
 
『涅槃経』を読むブッダ臨終の説法
 
   第五章 多彩な比喩説法を読む   (続き)

     七 福の神と貧乏神の讐え 一生に執着しない生き方
 
   わが国では二月三日は節分の日とされ、「福は内、鬼は外」と叫んで豆をまく習慣がある。この「福は内、鬼は外」では福と鬼は対語になっているが、福の反対がどうして貧でないのか、疑問に思っている人がいるだろう。普通に考えると、福の神を招くのであれば、貧乏神には出ていってほしい。ところが貧乏神に出ていけとは叫んでいない。「鬼は外!」と叫んでいる。
   角を生やし、虎の縞模様のパンツを履いて、金棒を持っている鬼の姿を漫画などで見慣れているので、どうも貧乏神とは思えない。とすれば、「福は内、鬼は外」は福を呼んでも貧乏神は迫い出さず、災いを起こす鬼を追い出すという意味なのだろうか。
   この福の神と貧乏神の譬え話が『大乗涅槃経』にある。ここでは福の神を功徳天、貧乏神を黒闇天と、それぞれ呼んでいる。功徳天は別名、吉祥天とも、宝蔵天女とも言う。一方、黒間天は黒夜神とも黒闇女とも呼ばれている。功徳天は福の神と訳しても間違いではないが、黒閻天は閻魔天の妃で、容貌は醜悪、人に災禍をもたらす女神と考えられているので、その意味では貧乏神と訳しても許されるだろう。ところで、女神の黒闇天が節分の鬼に変えられたとは考えにくい。というのはこの鬼は男であるからだ。   (再掲出)
 
 
 功徳天と黒闇天の二神は女神である。この二神を譬えにして『大乗涅槃経』は、生まれることは苦しみを受けることであるから、次の世にこの世間に再生しないことを願って善根を積み、解脱を達成できるように努力せよと教えた。
   人は死後天に生まれたいとか、また、人間界に生まれたいとか願っているが、はたしてそれが本当に願わしい生まれ変わりであるかどうかをよく考えてみなければならない。人は天界を人間界より楽しい生活環境であるように考えているが、実は神々の世界でも悩みがあり、苦しみがあるので、決して幸せいっぱいの世界とは言えない。
  神々も悪業を積むと地獄に堕ち、生死を繰り返すのである。地獄から天界までのすべての生類は生死流転を繰り返しているかぎりいつまでも苦楽を味わい、煩悩に縛られるので、煩悩から離れるように努めるべきであると教えたのが次の譬えである。経文
は長いので要約して紹介したい。
 

    迦葉菩薩、人々は邪見にとらわれており、次の生まれを楽しみにしながら、老衰し、死ぬことを嫌がっている。しかし菩薩はそうではない。菩薩は初めて生まれたときのことを観察して、生まれによる患いがどんなものであるかをよく知っている。
 
    譬えで説明しよう。
    ある女が見知らぬ家を訪ねた。器量がよく、美人であった。派手なアクセサリーをつけて、飾っていた。その家の主人は彼女を見て、「君はなんという名前で、どういう身分の者ですか」と尋ねた。彼女は、「私は功徳天という者です。私は金銀や宝石類、車や召使いを差しあげようと思ってまいりました」
と答えた。これを聞いた主人は、「私にも運が向いてきた。さあ、どうぞ中にお入りください」と招き入れ、接待した。
 しばらくして、みすぼらしい身形の女が戸口に立った。女を見た主人は、
   「名前は? どんな素姓の者だね」
    と迷惑そうに尋ねた。女は、
   「私は黒闇天という者です。私が訪ねると、その家の財産はみななくなってしまうようです」
    と答えた。これを聞いて主人は、
   「君、すぐにここから立ち去らないと殺すぞ」
    とどなりつけた。女は、
   「ご主人さま、あなたは愚かですね、さきほど招き入れられた者は私の姉です。私
   といつも連れ立って旅しています。もしあなたが私を追い返されるなら、姉も一緒
   にここを立ち去ることになりますよ」
    と穏やかな口調で告げた。
    このことを姉に告げると、姉は、
   「彼女は私の妹です。いつも二人で、別々になったことはありません。私たちはい
   つも私が好ましいこと、妹は好ましくないことをし、私が利益になること、妹が不
   利益になることをします。もし私を愛してくださるなら、妹も愛してください。
       もし私を敬ってくださるなら、妹も同じように敬ってください」
    と語った。すると主人は、
   「両方を一緒に受け入れることは私にはできない。どうかあなたもここから出ていってくれ」
    と告げた。功徳天と黒闇天が連れ立ってゆく姿を見て、主人は躍り上がらんばかりに喜んだ。
    この後、彼女たちはある貧しい家に招き入れられた。その家の主人は、
   「私は功徳天さまにいつ会えるかと待ち望んでいました。
       もちろん黒闇天さまも一緒に受け入れます」
    と言って、快く招き入れた。
  さて、この譬えでは、菩薩の考え方は姉妹を追い払った主人と同じである。すなわち菩薩は天界に生まれることを願ってはいない。生まれると老いがあり、病があり、死がある。だから老いと病と死とともに生まれることも願わず、生への願いを捨てて、愛着がまったくない。愚者は老いと病と死によって得る患いがどんなものかまったく気付いていない。だから愚者は生と死にこだわっている。
               (聖行品第七の二〈大正蔵経十二巻四三五頁中〜下〉)
 
  福の神と貧乏神はいつも連れ添って旅する姉妹である。世俗の生活は楽もあり苦もありで、決して楽な生活ばかりでなく、むしろ苦しいことが多い。福の神にいつも居座っていてほしいと願うのが人情であるが、どういうわけか福の神はいつも貧乏神と一緒であると言う。福の神を招き入れると貧乏神も一緒に入ってくる。節分で福は内と叫ぶとき、貧乏神も呼び込んでいるのである。
  譬え話の最初の家人が貧乏神を招き入れたくないので、一緒に福の神を追い出したのは惜しいことをしたように思えるが、釈尊はこの人こそ人生を達観していると称えているのである。金銭や財産に血迷っている者は貧りや怒りや奢りの煩悩に縛られ、金銭や財産が少しでも減ることを恐れ、貧乏神の影におののいている。福の神も貧乏神も一緒に追い出した家人は世俗の欲楽に執着しないので、彼は常に貪りや怒りや奢りの煩悩に縛られることがなく、心が安らいでいると教える。
 
  一方、福の神と貧乏神を一緒に招き入れた家人は糾なえる縄のように苦樂を味わい、貪りと怒りと奢りの煩悩に縛られて生きていく人で、彼こそ凡夫だと言う。
 
・・・・・つづきは又明日?・・・・・

今回も、田上先生のご好意に甘えて、 『田上太秀著 「涅槃経」を読む』を転載させていただきます。

前回の『田上 太秀著 「仏陀のいいたかったこと」』50回の分割連載で転載させて頂きました。

この本も

毎日とはいきませんがポチポチ更新して参ります。よろしくお願いします。

田上先生には、ブッダの究極の教えである『大般涅槃経』全40巻を、はじめて現代語訳した『ブッダ臨終の説法―完訳 大般涅槃経』と言う全4巻の大部の完訳本もあります。

夫々400ページ近くもある本ですので、なかなか読むことも難しそうです。

ブッダの遺言集とも言われる涅槃経には、有名な成句も沢山ありますので楽しみです。

その涅槃経の入門書とも言うべき、この本を手にすることが出来て嬉しいことです。

少しずつ、転載させて頂きます。

イメージ 1内容(「BOOK」データベースより)

死に直面したブッダは、自らの得た覚りを弟子たちに開示した。このブッダが最後に残した諸々の教えを、多彩な比喩を随所にちりばめ、明快な問答形式で記したのが『涅槃経』であり、数ある仏教経典のなかでも「仏性思想」を説いてひときわ異彩を放っている。中国・朝鮮・日本等、東アジアの仏教思想に多大な影響を与えた『涅槃経』の精髄を読み解く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

田上 太秀
1935年ペルー・リマ市生まれ。駒沢大学仏教学部卒業。東京大学大学院修士課程修了。同博士課程満期退学。駒沢大学仏教学部教授。駒沢大学禅研究所所長。文学博士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
目次
第1章 仏教の基礎知識(仏教は誤解されている
「仏教」の意味 ほか)
第2章 『涅槃経』について(編纂された『涅槃経』と創作された『涅槃経』
二つの『涅槃経』の内容の違い ほか)
第3章 仏性とはなにか―その意味するもの(「仏性」とはなにか
仏性はどこにあるのか ほか)
第4章 『大乗涅槃経』のユニークな思想(正法のためには破戒も許される
正法を見て、生まれを見るな ほか)
第5章 多彩な比喩説法を読む(乳と薬の譬え―仏性はアートマンである
四匹の毒蛇の譬え―仏教の身体観 ほか)
 
***** 以下本文その四十七 *****
 
『涅槃経』を読むブッダ臨終の説法
  
   第五章 多彩な比喩説法を読む   (続き)
 
        六 仙陀婆の讐えーー− 一味の教え
  仙陀婆とは、サンスクリット語サイ(セ)ンダヴァの音訳である。この語は「海の、海に関わる」という意味の形容詞で、これを仙陀婆と漢訳した。仏典では河川の水が海に流れ込んで一味になることを仙陀婆になると言う。仙陀婆はその意味では種々の河川の水の味を呑み込んで、塩味という一味にしてしまうことを言う。
 これを踏まえて『大乗涅槃経』では、仙陀婆の一語は塩、器、水、馬の四つの意味をもち、状況に応じて、これら四つの意味に使い分けられることを教える。この使い分けに似た「どうも」という日本語がある。この一語で喜びも悲しみも表すことがで
きる。そして挨拶も済ませる―仙陀婆と比べることはできないが、一つのことばが状況に応じて意味が異なり、使い分けられることでは同じである。
 
釈尊が法身についての説明で、仙陀婆の譬えを使っている。

 私の秘密語は深奥であり、理解することが難しい。譬えて言えば王が家臣に「仙陀婆を持ってこい」と告げることと同じである。仙陀婆は四つの意味を持っている。 一は塩、二は器、三は水、四つは馬である。この四つの意味が仙陀婆の一語で表される
 だから王が顔を洗おうとしたとき「仙陀婆!」と告げたら、賢い家臣は水を持ってくる。食事時に「仙陀婆!」と告げたら、塩を持ってくる。食事の後「仙陀婆!」と告げたら、手洗いの器を持ってくる。外出しようとするとき「仙陀婆!」と告げたら、馬を連れてくる。賢い家臣はこのように王の秘密語をよく理解でき
る。
 
 もし私が涅槃に入ると言ったら、「世間には不滅のものがあると考える人に一切は無常であることを示したのだ」と理解しなければならない。
  もし私が正法は滅びるだろうと説いたら、「世間は自分の思い通りになると考える人に、世間は自分の思うようにならないと教えているのだ」と理解しなければならない。
  また、私はブッダそのものであると説いた。これは私だけが知るところであるが、不滅のものがあるという意味である。不滅のものがあるという信仰を弟子たちに徹底させるために示した教えである。これを信じて修行する者が私の弟子である
          (如来性品第四の六〈大正蔵経十二巻四二一頁上〜中〉)
 
 仙陀婆の意味はその場の状況によって塩であり、水であり、器であり、馬であること注意深く認識しなければならないと言う。経典の一語一語を普通のことばのように字面だけで理解すると真意をつかめない。ブッダの一語一語は仙陀婆である
 「涅槃に入る」という文句は生死を超えた究極の境地に入るという意味であるが、現実にはブッダがわれわれの目の前から消えるのだから、「ブッダは不滅」とこれまで説法してきたのとは違うのではないかと疑問が湧く。これに対して、釈尊は肉体が滅びるのであり、ブッダが滅びるのではないと教える。形あるものは滅びるという道理を教えるために肉体の生滅を示そうとしているのだと言う。
 「正法は滅びるだろう」とは正法は道理であるから消え去ることはないが、世間に正
法を守護する人がいないと滅びるという意味で、正法自体が受け入れられないために滅びるという意味ではないと理解しなければならない。ことばの真意がなにかを行間から読み取る努力が必要である。
 
       七 福の神と貧乏神の讐え 一生に執着しない生き方
  わが国では二月三日は節分の日とされ、「福は内、鬼は外」と叫んで豆をまく習慣がある。この「福は内、鬼は外」では福と鬼は対語になっているが、福の反対がどうして貧でないのか、疑問に思っている人がいるだろう。普通に考えると、福の神を招くのであれば、貧乏神には出ていってほしい。ところが貧乏神に出ていけとは叫んでいない。「鬼は外!」と叫んでいる。
 角を生やし、虎の縞模様のパンツを履いて、金棒を持っている鬼の姿を漫画などで見慣れているので、どうも貧乏神とは思えない。とすれば、「福は内、鬼は外」は福を呼んでも貧乏神は迫い出さず、災いを起こす鬼を追い出すという意味なのだろうか。
 この福の神と貧乏神の譬え話が『大乗涅槃経』にある。ここでは福の神を功徳天、貧乏神を黒闇天と、それぞれ呼んでいる。功徳天は別名、吉祥天とも、宝蔵天女とも言う。一方、黒間天は黒夜神とも黒闇女とも呼ばれている。功徳天は福の神と訳しても間違いではないが、黒閻天は閻魔天の妃で、容貌は醜悪、人に災禍をもたらす女神と考えられているので、その意味では貧乏神と訳しても許されるだろう。ところで、女神の黒闇天が節分の鬼に変えられたとは考えにくい。というのはこの鬼は男であるからだ。   (続く)
  
・・・・・つづきは又明日?・・・・・

今回も、田上先生のご好意に甘えて、 『田上太秀著 「涅槃経」を読む』を転載させていただきます。

前回の『田上 太秀著 「仏陀のいいたかったこと」』50回の分割連載で転載させて頂きました。

この本も

毎日とはいきませんがポチポチ更新して参ります。よろしくお願いします。

田上先生には、ブッダの究極の教えである『大般涅槃経』全40巻を、はじめて現代語訳した『ブッダ臨終の説法―完訳 大般涅槃経』と言う全4巻の大部の完訳本もあります。

夫々400ページ近くもある本ですので、なかなか読むことも難しそうです。

ブッダの遺言集とも言われる涅槃経には、有名な成句も沢山ありますので楽しみです。

その涅槃経の入門書とも言うべき、この本を手にすることが出来て嬉しいことです。

少しずつ、転載させて頂きます。

イメージ 1内容(「BOOK」データベースより)

死に直面したブッダは、自らの得た覚りを弟子たちに開示した。このブッダが最後に残した諸々の教えを、多彩な比喩を随所にちりばめ、明快な問答形式で記したのが『涅槃経』であり、数ある仏教経典のなかでも「仏性思想」を説いてひときわ異彩を放っている。中国・朝鮮・日本等、東アジアの仏教思想に多大な影響を与えた『涅槃経』の精髄を読み解く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

田上 太秀
1935年ペルー・リマ市生まれ。駒沢大学仏教学部卒業。東京大学大学院修士課程修了。同博士課程満期退学。駒沢大学仏教学部教授。駒沢大学禅研究所所長。文学博士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
目次
第1章 仏教の基礎知識(仏教は誤解されている
「仏教」の意味 ほか)
第2章 『涅槃経』について(編纂された『涅槃経』と創作された『涅槃経』
二つの『涅槃経』の内容の違い ほか)
第3章 仏性とはなにか―その意味するもの(「仏性」とはなにか
仏性はどこにあるのか ほか)
第4章 『大乗涅槃経』のユニークな思想(正法のためには破戒も許される
正法を見て、生まれを見るな ほか)
第5章 多彩な比喩説法を読む(乳と薬の譬え―仏性はアートマンである
四匹の毒蛇の譬え―仏教の身体観 ほか)
 
***** 以下本文その四十六 *****
 
『涅槃経』を読むブッダ臨終の説法
  
   第五章 多彩な比喩説法を読む   (続き)
       五 幼児の譬え−幼児に返ったブッダ
  ブッダは常住であり、不変であると言うが、それは涅槃に入った後の境地を教えたのである。そのブッダと現世で生きたブッダの姿を比べてみると、現世のブッダはさまざまな生き方をし、凡夫となんの変わりもないように見える。あまりにも人間臭い生き方をしたブッダを見ると、常住不変の法身であるとは考えられない。
 経典では幼児の振る舞いの特徴を挙げて、それとブッダの所行を比べ、ブッダの所行はまったく幼児に似ていると説いている。ここでは釈尊自身が菩薩にではなく、善男善女に対して説いていて、親しみをもって聞くことができる。次にその内容を紹介しよう。
 
  善男善女、いったい幼児の振る舞いとはなにか。立ち上がり、立ち止まり、行ったり来たり、話したりすることが十分にできないのが幼児の振る舞いである。
  実は私もそれと似ている。立ち上がれないとは、私が欲しいものを心に思い起こさないことである。立ち止まらないとは、私がすべてのものに執着しないことである。来ることができないとは、私の行動にまったく動揺がないことである。立ち去ることができないとは、私が涅槃に達していることである。話すことができないとは、私はすべての人々のためにあらゆることを演説しているが、実はなにも説いていないことである。なぜかと言うと、なにかを説けば、それは世間の在り方となるからだ。私は世間の在り方に従っていないのだから、なにも説かない。
 また、幼児の話すことばははっきりせず、ことばで語っているようでも実はことばではないように、私のことばもはっきりしない。というのは秘密のことばであるからだ。説いているが、人々は理解できないので、私にはことばがないことになる。
 幼児は口にする名称と指差すものとが一致せず、適切なことばを知らない。だからと言ってものを判別できないということではない。私も同じである。生類の種はおのおの異なり、話すことばも異なる。そこで私は接近して、それぞれの種のことばを使って語り、すべての生類が理解できるようにする。(中略)
 また、幼児は苦楽、昼夜、母父などをよく知らない。私も同じである。私は人々のために苦楽を意識せず、昼夜の区別さえ持たない。それは人々に対して等しく慈しみの心があるからである。したがって母とか父とか、親しい人とか親しくない人とかの差別はしない。(中略)
 また、幼児の行動とは、泣いている幼児に、母や父が黄色の柳の葉を持って「泣くでない、泣くでない。泣きやんだらこの黄色の葉をあげよう」と語りかけると、幼児はその葉を見て、純金の葉であると思って泣きやむと言う。実はこの柳の葉は黄金ではない。木製の牛や馬や、木製の男女の人形などを見せられて、幼児は本物の牛や馬や男女だと思って泣きやむが、牛でも馬でも男女でもないのに、それらを本物と思うのが幼児である。

 実は私も幼児と同じである。もし人々が種々の悪行をしようとしていたら、私は帝釈天が住む天上界のすばらしい生活、そこに住む神々の端正な姿、宮殿における感覚的快楽を説き、感覚するものはすべて楽しいことばかりであると説いて聞かせるだろう。人々はこういう安楽な生活が天上界にあると聞いたら、そこに生まれたいと考えて悪行をしなくなる。実は帝釈天が住む世界で善行に努めても、そこには
生死があり、無常があり、安楽がなく、自分の所有物がなく、不浄なものばかりである。つまり私は人々の眼を覚まさせようと思い、方便でこのような安楽の世界があるかのように説いているにすぎない。
 幼児が黄金でないものを黄金だと思い込んだのと同じように、私も不浄なものを清浄なものと説くことがある。そうではあるが、私はいつも最高の教えを説いているので、そこには偽りがない。
 幼児が牛や馬でないものを牛や馬と思い込んだのと同じように、人々が道でないものを本物の道であると思い込んでいたら、私は道でないものを道だと説くことがある。実際には道でないところに道があるわけはない。道を生み出すわずかな条件があれば、道でないものを説いても、そこから道を導き出すことができる。
 幼児は木製の男女を本物の男女だと思い込む。私も同じである。人でないことを知っていて人だと説くことがある。実際には人の姿はない。しかしそれをもって私が人は存在しないと説いたら、人々は間違った考えに固執する。だから私は人は存在すると説くのである。人について人という思いを抱く者は、人という思いを取り払うことはできない。もし人について人という思いを取り払うことができたら、その人は完全な解脱を得ることができよう。この解脱を得たら、泣くのをやめるだろう。これが幼児の行動である。
             (嬰児行品第九〈大正蔵経十二巻四八五真中〜四八六頁上〉)
 
 右に紹介した譬えをまとめてみると、たいそう興味ある内容を含んでいる。幼児の振る舞いのところでは、ブッダは欲に支配されないこと、ものに執着しないこと、俗事に心を動かされないこと、すでに解脱していること、世間を超えているので、一字も説法していないことを述べる。次に幼児のことばがわかりにくいことをブッダは秘密のことばを発しているので、凡人には理解しにくいことの譬えとする。つまりブッダのことばは仙陀婆(次頁を参照)のことばと同じだと言う
 次に幼児が指差すものとそれを言い表すことばが一致しないことを、ブッダは五道にいるあらゆる生類に対して相手のことばを使って説法するので、ことばと物とが一致しないことが多いことの譬えとする。さらに本物でないものを本物とみる幼児に譬える例では、ブッダは相手に応じて説き方を変えると言い、応病与薬を述べる。ここに方便説法が見られる。また、相手に応じて不浄を清浄と言って説法することもあると言い、嘘も方便の例を幼児の譬えから導き出している。ここに引用した文章は中略している箇所もあるので、原文を参照されたい。
 実はこの幼児の譬えを便った聖者の言行に関する説明は仏教以前にもある。たとえば『ブリハッド・アーラニャカ・ウ八二シャッド』(Ⅲ,5,1.〈cf.Brahma‐sntra,Ⅲ,4,47〉)に「それゆえに『真の』バラモンは学識を捨てて、『幼児のように』純真になろうと思うべきである。彼が学識と純真さとを捨てたときに、はじめて彼は聖者となる。聖者の位と聖者ではない位とを離れたときに、はじめて彼は『真の』バラモン
となる」という文言がある。内容は『涅槃経』とは異なるが、聖者の言行が幼児のそれと対比して考えられている点がおもしろい。
   注
   (I) 田上太秀『プッダ臨終の説法−完訳大般涅槃経」全四巻(大蔵出版)。
 
・・・・・つづきは又明日?・・・・・

今回も、田上先生のご好意に甘えて、 『田上太秀著 「涅槃経」を読む』を転載させていただきます。

前回の『田上 太秀著 「仏陀のいいたかったこと」』50回の分割連載で転載させて頂きました。

この本も

毎日とはいきませんがポチポチ更新して参ります。よろしくお願いします。

田上先生には、ブッダの究極の教えである『大般涅槃経』全40巻を、はじめて現代語訳した『ブッダ臨終の説法―完訳 大般涅槃経』と言う全4巻の大部の完訳本もあります。

夫々400ページ近くもある本ですので、なかなか読むことも難しそうです。

ブッダの遺言集とも言われる涅槃経には、有名な成句も沢山ありますので楽しみです。

その涅槃経の入門書とも言うべき、この本を手にすることが出来て嬉しいことです。

少しずつ、転載させて頂きます。

イメージ 1内容(「BOOK」データベースより)

死に直面したブッダは、自らの得た覚りを弟子たちに開示した。このブッダが最後に残した諸々の教えを、多彩な比喩を随所にちりばめ、明快な問答形式で記したのが『涅槃経』であり、数ある仏教経典のなかでも「仏性思想」を説いてひときわ異彩を放っている。中国・朝鮮・日本等、東アジアの仏教思想に多大な影響を与えた『涅槃経』の精髄を読み解く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

田上 太秀
1935年ペルー・リマ市生まれ。駒沢大学仏教学部卒業。東京大学大学院修士課程修了。同博士課程満期退学。駒沢大学仏教学部教授。駒沢大学禅研究所所長。文学博士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
目次
第1章 仏教の基礎知識(仏教は誤解されている
「仏教」の意味 ほか)
第2章 『涅槃経』について(編纂された『涅槃経』と創作された『涅槃経』
二つの『涅槃経』の内容の違い ほか)
第3章 仏性とはなにか―その意味するもの(「仏性」とはなにか
仏性はどこにあるのか ほか)
第4章 『大乗涅槃経』のユニークな思想(正法のためには破戒も許される
正法を見て、生まれを見るな ほか)
第5章 多彩な比喩説法を読む(乳と薬の譬え―仏性はアートマンである
四匹の毒蛇の譬え―仏教の身体観 ほか)
 
***** 以下本文その四十五 *****
『涅槃経』を読むブッダ臨終の説法
   第五章 多彩な比喩説法を読む   (続き)

        四 月の讐えーーー「ブッダは不滅」の教え
 これまで経典では、ブッダは死んでいないと説いてきた。それは大いなる禅定の境地に入って、これから数え切れないほど出現する生類を限りなく解脱に導くために生き続けているという意味であった。半眼を開いた涅槃像が意味しているのは、このことである。
 
  次に紹介する月の譬えはブッダの永遠性を教えたものである。
 たとえば、ある人が月が出ていないのを見て、もう月は西に沈んでしまったと思い込んでいることを考えてみよう。実際には月は西に沈んでいないのだ。一方、他の地方では月が現れているので、そこの人たちは月が出ていると言う。しかし実は月が出たのではない。なぜかと言うと、ヒマラヤ山に遮られて見えなかったにすぎないからだ。月はすでに空に懸かっており、月そのものが出たり、沈んだりしていたのではない。
 私も月と同じである。この三千大千世界に出現し、インド国内のある母父の間に生まれた姿を見て、人々はみな、私がインド国内に生まれたと言う。いまこの国土で涅槃に入る姿を示しているが、私そのものは改めて涅槃を示すことはない。しかし人々はみな、私が本当に涅槃に入ろうとしていると考えている。つまり月が沈むことと同じだと考えている。
 私そのものは生ずることも滅することもない。ただ生じたものは必ず滅することを人々に教えるために、涅槃に入ることを示したのである。
 月を一つの方角からは半月に見、他の方角からは満月に見ていることを考えてみよう。インド国内の人々は月が空に初めて出たときを、その月の第一日と言い、満月になると、その月の第十五日と言う。人々は日々に月が満ちていく形を見ているが、月そのものは満ちたり欠けたりしているわけではない。
 私もこの月と同じである。インドに初めて生まれ、そして涅槃に入ることを示した。初めて生まれる姿はちょうど月の満ち始めに譬えられる。人々は子供が初めて誕生したと言った。生まれてからすぐに七歩歩いた。これは月の二日目の姿である。また、成長して学校に行った。これは月の三日目の姿である。出家した。これは月の八日目の姿である。知慧を得て、その不可思議な光によって生類や悪魔たちを教化した。これは月の十五日目の満月の姿である。また、三十二相八十種好相の瑞相を示し、最後に涅槃に入る姿を示したのは、月が欠けてゆく姿を表したのである。
 このような姿は人々には同じには見えない。人々は半月を見たり、満月を見たり、あるいは月食を見たりするが、月そのものは実は大きくなったり小さくなったり、欠けたり満ちたりしているのではなく、いつも満月である。私もこの月そのものと同じである。だから私そのものは常住不変だと説いたのである。
 たとえば満月がどんな場所にも現れ、映し出されていることを考えてみよう。満月
はあらゆる町や村、山や谷、井戸や池などの水中にも、また、大きな瓶や釜などの水中にも現れる。また、どんな遠くに行っても満月はついてくる。町や村でも、家の窓からも満月を見たし、いま谷間にいても満月を見ているが、みな同じ月だろうか、それとも違う月だろうかと考え込む凡夫がいる。
 また、月の形に大小があり、それは釜の口のように見えると言う者がいる。また、車輪のようだと言う者もいる。また、直径一九六キロメートルの大きさがあると言う者がいる。また満月を見て金製のお盆のように丸いと言う者もいる。満月そのものは一つなのに、このように人々は種々の形があるように見ている。
 私が世間に出現することについても同じことが言える。神々や人々のなかには、ブッダはいま私の前におられると考える者がいる。また、耳が聞こえない人や口が利けない人には、ブッダは耳やことばに障害がある者のように映る。人々を含む生類はそれぞれもつ声が異なるが、生類はそれぞれブッダは自分たちのことばで話していると勝手に考えている。また、ある者は私の家に来て私だけから供養を受けられたと思い込んでいる。また、ある人は私の身体を広大で計り知れないと見、ある人は小さい身体と見ている。ある人は未熟な修行者の姿と同じと見ている。また外道の人たちは、ブッダは自分たちの教えを支持して、これによって出家し修行していると考えている。ある人はブッダは一人のために世間に出現されたと言い出す始末である。
 私を満月のようだと考えたまえ。私はすなわち教えの集まり(法身)であり、誕生することのない身体であり、生類を教化するための方便の身体だからである。世間の在り方にしたがって現れ、計り知れない過去に積んだ善業の因縁を示して、至るところに姿を表す。月が至るところでさまざまな形に見られるようにである。だから私は常住不変である。
                (如来性品第四の六〈大正蔵経十二巻四一六頁上〜下〉)
 

 やはり月の譬ええを使った例が、『宝行王正論』という仏典にある。そこではブッダを月に讐え、ブッダの説法は月の光がすべてのものを差別なく照らしている情景に似ている、と述べている。そして、月の影が相手の形にしたがって変化するのは、ブッダが相手に応じて、救済する手立てを講じていることを、また水がなければ月の影が映らないのは、凡夫がいなければブッダの教えは必要でなくなることを意味している。
 
・・・・・つづきは又明日?・・・・・
 

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