今回も、田上先生のご好意に甘えて、 『田上太秀著 「涅槃経」を読む』を転載させていただきます。
前回の『田上 太秀著 「仏陀のいいたかったこと」』50回の分割連載で転載させて頂きました。
この本も
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田上先生には、ブッダの究極の教えである『大般涅槃経』全40巻を、はじめて現代語訳した『ブッダ臨終の説法―完訳 大般涅槃経』と言う全4巻の大部の完訳本もあります。
夫々400ページ近くもある本ですので、なかなか読むことも難しそうです。
ブッダの遺言集とも言われる涅槃経には、有名な成句も沢山ありますので楽しみです。
その涅槃経の入門書とも言うべき、この本を手にすることが出来て嬉しいことです。
少しずつ、転載させて頂きます。
内容(「BOOK」データベースより)
死に直面したブッダは、自らの得た覚りを弟子たちに開示した。このブッダが最後に残した諸々の教えを、多彩な比喩を随所にちりばめ、明快な問答形式で記したのが『涅槃経』であり、数ある仏教経典のなかでも「仏性思想」を説いてひときわ異彩を放っている。中国・朝鮮・日本等、東アジアの仏教思想に多大な影響を与えた『涅槃経』の精髄を読み解く。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
田上 太秀
1935年ペルー・リマ市生まれ。駒沢大学仏教学部卒業。東京大学大学院修士課程修了。同博士課程満期退学。駒沢大学仏教学部教授。駒沢大学禅研究所所長。文学博士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
目次
第1章 仏教の基礎知識(仏教は誤解されている
「仏教」の意味 ほか)
第2章 『涅槃経』について(編纂された『涅槃経』と創作された『涅槃経』
二つの『涅槃経』の内容の違い ほか)
第3章 仏性とはなにか―その意味するもの(「仏性」とはなにか
仏性はどこにあるのか ほか)
第4章 『大乗涅槃経』のユニークな思想(正法のためには破戒も許される
正法を見て、生まれを見るな ほか)
第5章 多彩な比喩説法を読む(乳と薬の譬え―仏性はアートマンである
四匹の毒蛇の譬え―仏教の身体観 ほか)
***** 以下本文その四十六 *****
ブッダは常住であり、不変であると言うが、それは涅槃に入った後の境地を教えたのである。そのブッダと現世で生きたブッダの姿を比べてみると、現世のブッダはさまざまな生き方をし、凡夫となんの変わりもないように見える。あまりにも人間臭い生き方をしたブッダを見ると、常住不変の法身であるとは考えられない。
経典では幼児の振る舞いの特徴を挙げて、それとブッダの所行を比べ、ブッダの所行はまったく幼児に似ていると説いている。ここでは釈尊自身が菩薩にではなく、善男善女に対して説いていて、親しみをもって聞くことができる。次にその内容を紹介しよう。
善男善女、いったい幼児の振る舞いとはなにか。立ち上がり、立ち止まり、行ったり来たり、話したりすることが十分にできないのが幼児の振る舞いである。
実は私もそれと似ている。立ち上がれないとは、私が欲しいものを心に思い起こさないことである。立ち止まらないとは、私がすべてのものに執着しないことである。来ることができないとは、私の行動にまったく動揺がないことである。立ち去ることができないとは、私が涅槃に達していることである。話すことができないとは、私はすべての人々のためにあらゆることを演説しているが、実はなにも説いていないことである。なぜかと言うと、なにかを説けば、それは世間の在り方となるからだ。私は世間の在り方に従っていないのだから、なにも説かない。
また、幼児の話すことばははっきりせず、ことばで語っているようでも実はことばではないように、私のことばもはっきりしない。というのは秘密のことばであるからだ。説いているが、人々は理解できないので、私にはことばがないことになる。
幼児は口にする名称と指差すものとが一致せず、適切なことばを知らない。だからと言ってものを判別できないということではない。私も同じである。生類の種はおのおの異なり、話すことばも異なる。そこで私は接近して、それぞれの種のことばを使って語り、すべての生類が理解できるようにする。(中略)
また、幼児は苦楽、昼夜、母父などをよく知らない。私も同じである。私は人々のために苦楽を意識せず、昼夜の区別さえ持たない。それは人々に対して等しく慈しみの心があるからである。したがって母とか父とか、親しい人とか親しくない人とかの差別はしない。(中略)
また、幼児の行動とは、泣いている幼児に、母や父が黄色の柳の葉を持って「泣くでない、泣くでない。泣きやんだらこの黄色の葉をあげよう」と語りかけると、幼児はその葉を見て、純金の葉であると思って泣きやむと言う。実はこの柳の葉は黄金ではない。木製の牛や馬や、木製の男女の人形などを見せられて、幼児は本物の牛や馬や男女だと思って泣きやむが、牛でも馬でも男女でもないのに、それらを本物と思うのが幼児である。
実は私も幼児と同じである。もし人々が種々の悪行をしようとしていたら、私は帝釈天が住む天上界のすばらしい生活、そこに住む神々の端正な姿、宮殿における感覚的快楽を説き、感覚するものはすべて楽しいことばかりであると説いて聞かせるだろう。人々はこういう安楽な生活が天上界にあると聞いたら、そこに生まれたいと考えて悪行をしなくなる。実は帝釈天が住む世界で善行に努めても、そこには
生死があり、無常があり、安楽がなく、自分の所有物がなく、不浄なものばかりである。つまり私は人々の眼を覚まさせようと思い、方便でこのような安楽の世界があるかのように説いているにすぎない。
幼児が黄金でないものを黄金だと思い込んだのと同じように、私も不浄なものを清浄なものと説くことがある。そうではあるが、私はいつも最高の教えを説いているので、そこには偽りがない。
幼児が牛や馬でないものを牛や馬と思い込んだのと同じように、人々が道でないものを本物の道であると思い込んでいたら、私は道でないものを道だと説くことがある。実際には道でないところに道があるわけはない。道を生み出すわずかな条件があれば、道でないものを説いても、そこから道を導き出すことができる。
幼児は木製の男女を本物の男女だと思い込む。私も同じである。人でないことを知っていて人だと説くことがある。実際には人の姿はない。しかしそれをもって私が人は存在しないと説いたら、人々は間違った考えに固執する。だから私は人は存在すると説くのである。人について人という思いを抱く者は、人という思いを取り払うことはできない。もし人について人という思いを取り払うことができたら、その人は完全な解脱を得ることができよう。この解脱を得たら、泣くのをやめるだろう。これが幼児の行動である。
(嬰児行品第九〈大正蔵経十二巻四八五真中〜四八六頁上〉)
右に紹介した譬えをまとめてみると、たいそう興味ある内容を含んでいる。幼児の振る舞いのところでは、ブッダは欲に支配されないこと、ものに執着しないこと、俗事に心を動かされないこと、すでに解脱していること、世間を超えているので、一字も説法していないことを述べる。次に幼児のことばがわかりにくいことをブッダは秘密のことばを発しているので、凡人には理解しにくいことの譬えとする。つまりブッダのことばは仙陀婆(次頁を参照)のことばと同じだと言う。
次に幼児が指差すものとそれを言い表すことばが一致しないことを、ブッダは五道にいるあらゆる生類に対して相手のことばを使って説法するので、ことばと物とが一致しないことが多いことの譬えとする。さらに本物でないものを本物とみる幼児に譬える例では、ブッダは相手に応じて説き方を変えると言い、応病与薬を述べる。ここに方便説法が見られる。また、相手に応じて不浄を清浄と言って説法することもあると言い、嘘も方便の例を幼児の譬えから導き出している。ここに引用した文章は中略している箇所もあるので、原文を参照されたい。
実はこの幼児の譬えを便った聖者の言行に関する説明は仏教以前にもある。たとえば『ブリハッド・アーラニャカ・ウ八二シャッド』(Ⅲ,5,1.〈cf.Brahma‐sntra,Ⅲ,4,47〉)に「それゆえに『真の』バラモンは学識を捨てて、『幼児のように』純真になろうと思うべきである。彼が学識と純真さとを捨てたときに、はじめて彼は聖者となる。聖者の位と聖者ではない位とを離れたときに、はじめて彼は『真の』バラモン
となる」という文言がある。内容は『涅槃経』とは異なるが、聖者の言行が幼児のそれと対比して考えられている点がおもしろい。
注
(I) 田上太秀『プッダ臨終の説法−完訳大般涅槃経」全四巻(大蔵出版)。