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2011年3月11日は、いつもと変わらず当時の勤務地の茨城県内の事務所で仕事をしていました。
この日は金曜日で、翌日には九州新幹線開業がひかえていましたので、数日前に運転開始した東北新幹線はやぶさと九州新幹線に初乗りすべく新幹線の予約を済ませていたところで、新列車初乗りという楽しい週末になるはずでした。
15時まであと15分をきったところで地震が発生し、数日前に宮城県で地震(これはあとになって前震だったことが判明していますが)があったのでその余震かなと思っていました。
最初はゆれがそんなに大きくなかったものの、なかなか揺れが収まらず、だんだんと大きな揺れへと変わっていきます。上司が「机の下へ」といい、机の下へ身を隠しましたが、それでも揺れがおさまらず、机の引き出しが大きく動いたりして、そのうち電灯が消えてしまいました。
5分ほどたってようやく揺れが止まり、事務所前の広場へ全員避難。
幸いにしてけが人がいなかったものの、電気も止まっている状態で、余震も断続的に来る状態でしたので、
事務所内へは戻らずに、外での待機が続きます。
そのうち、子供や老人などの家族が家に残っている人は帰宅するように指示があり、
続いて安全関係の社員を除く全社員が帰宅するように指示が出ました。
とはいえ、電車は運転を見合わせていましたし、信号も停電の影響で止まっていましたので、
会社前の道は大渋滞で、車で通勤する人は何時間もかけてようやく自宅にたどり着いた人もいたようです。
幸いにして私は会社近くに住んでいましたので徒歩で帰宅。途中にコンビニによりましたが。弁当やおにぎりなどめぼしいものは売り切れていて、お菓子が少し残るだけ。コンビニも当然停電していましたので、暗い中で懐中電灯を照らしながら電卓をたたいてレジをすませていました。
売れ残りのお菓子を少し買って。自宅へ帰宅。
家はつぶれていませんでしたが、家具は倒れ、食器や本が床に散乱し、地デジ化に備えて冬のボーナスで買ったばかりのテレビも台から落っこちている状態でした。
また余震が来て倒れてきても困るので倒れた家具はそのままにして、寝るスペースと、脱出路だけ確保して、
電気もガスも水道もとまっているので、カップ麺すら食べられずに、買い置きしておいた菓子と先ほどコンビニで買った菓子を夕飯代わりにして、携帯ラジオを聞いていました。
携帯ラジオから入る情報も東北の被害は、ここの比ではないほど甚大であることは分かりましたが、
真っ暗なので早めに就寝することにしました。しかしながら、たびたび起こる余震で目が覚めてしまい、
なかなか落ち着きませんでした。
午前4時ごろに大きな揺れがあり、ラジオで聞いていると長野県北部で震度6強の地震発生とのニュース。
これから、日本はどうなってしまうのか…
明るくなったので、車で周辺を見て回ることにしました。
まだ寒かったですが燃料節約のため暖房は付けずに、シガーソケットで携帯電話の充電をしながらの運転です
まだ停電が続いていたので信号は消えていましたが、国道の信号は点灯していました。
国道の信号機には非常電源がついていたようです。
途中瓦屋根が落ちた家や塀が倒れた家を見ながら、市内中心部まで車を走らせると、駅周辺は電気が復旧しているようでした。
駅はしまっていましたが、駅員がいたので新幹線の切符の払い戻し証明をしてもらいました。
駅近くのコンビニも弁当やおにぎり、パンなどは売り切れ(というより補充できる状態ではなかったのでしょう)でしたが、売れ残りのお菓子を購入。
いったん、自宅に戻って車を置いた後、することもないので、会社へ行って様子を見てみました。
会社もまだ電気が復旧していませんでしたが、会社入り口わきの守衛所だけは非常用発電があったので、そこだけは電気がついていました。
テレビも見れましたが、東北のみならず、茨城県内の沿岸部も津波で水浸しになった様子が映し出されていました。
とても現実とは思えず、映画のワンシーンのようでもありました。
会社の被害状況の調査をすることになり、ヘルメットをかぶって社内を巡回することになりましたが、天井壁や側壁が崩落している箇所や敷地内に地割があるなど、すぐには通常通りに仕事再開とはいえない状況でした。
そのうち会社にも電気が復旧しましたので、電気ポットでお湯を沸かして、カップ麺を昼食に食べることにしました。
前日の昼食以来温かい食事がとれていませんでしたので、カップ麺とはいえ久々の温かい食事ができたのがうれしかったです。
午後にはテレビで福島第1原発の1号機で水素爆発の臨時ニュースがあり、今まで原子力発電所がここまでの状態になったことはなかったので、大変驚きました。とはいえ、一市民としての私はニュースを見て、これ以上被害が大きくならないことを祈るだけでした。
月曜日になって、会社へ再び出社しましたが、部屋によっては被害がひどく、職務室を分散しての勤務体制がしばらく続くことになりました。
また昼にはメニューは限られてしまったものの、社員食堂で昼食が提供されるとの連絡があり驚いたものです。早期に復旧させた食堂スタッフに感謝しながらの昼食となりました。
午後には計画停電で電気が止まるかもしれないということで、昼過ぎに自宅へ帰宅。
こんなわけで、比較的被害の少なかった当地でも、余震が続いたり、JRの運休が続きましたので、
その後1か月くらいは落ち着かない状態が続きました。
道路もいたるところでデコボコになっていましたが、震災後1年〜2年ぐらいでおよそ復旧したように思います。
昨年9月に一時帰国した際には気仙沼からBRTや鉄道を乗り継いで北上する旅行をしましたが、いまだ仮設店舗で営業している店や、震災当時のままの建物も残っていて、東北の沿岸部はまだ復興が終わっていないことを実感しました。
現在は仕事の都合で国外にいる一市民としての力はたかが知れていますが、東北の産品を購入する等、微力ながら誰かのためになればと現地の支援をできればいいなと思っています。
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