|
今日は読売新聞の記事からのエントリーです。
テーマは以前も取り上げさせていただきました空き家問題についてです。
実家をたたむ<上> 維持費かけ・・・持て余し売却
親や親戚が介護施設に入ったり亡くなったりして空き家となり、放置される家が増えてきている。空き家の数が過去最多となり、維持管理を十分にできないままだと、地域の景観や安全を脅かす存在になる。実家が空き家になった時どうしたらいいのかを考える。
「思い出の詰まった実家だったんですが、仕方ありません」。埼玉県に住む望月佾子さん(73)は昨年、愛知県新城市の実家を売りに出した。
名古屋から車で南東へ2〜3時間。板張りの壁に広い土間がある古民家が山の緑に埋もれるようにして立つ。
戦後すぐ父親を亡くし、祖父母が暮らすこの家に移り、10代半ばまで過ごした。40年前に祖父が亡くなり、結婚して東京で暮らしていた望月さんが家を相続。毎年夏休みには夫が車を運転し、子どもと数週間滞在し、屋根の修復や草刈りなどをして大切に管理してきた。
ところが、夫が認知症となって車を運転できなくなり、4年前からこの家に通えなくなった。管理は地元の友人に頼んでいるため気を使う上、土地建物にかかる固定資産税や草刈り代などの維持費に年間5万円以上かかる。「年金生活では負担が大きい」と感じ、手放すことにした。
子どもや親戚に譲ろうとしたが、「管理できない」と断られた。幸い、実家は間もなく、知人に紹介された不動産会社を通じ、古民家暮らしを望む若者に約200万円で売れた。「もし、売れなかったら維持費を払い続け、家を朽ち果てさせるだけ。ぞっとします」
望月さんのように誰も住まなくなった実家を持て余す人は多い。戦後の高度成長期に都市部に移り住んだ世代が、実家に住む親の死に直面したり、自らも介護が必要になったりして、実家の管理が十分にできなくなっているからだ。
実際、空き家は年々増え、総務省の2008年の調査では全国の住宅(5759万戸)のうち、空き家は13.1%(757万戸)で過去最多に。ところが交通手段など基盤整備に乏しい地方を中心に空き家の買い手や借り手が見つからず、長年放置されたまま社会問題化するケースもある。(後略)
(読売新聞 2012年11月21日(水)25面より一部抜粋)
空き家問題の深刻化の記事は、以前、山梨県の事例を読んだことがありました。その時にも書かせていただいたのですが、今は山間部や比較的地方の村や町を中心に顕在化しているような状況ですが、今後は愛知県などの新興住宅地と言われる地域においても、顕在化してくるのではと思っています。
新興住宅地はある一定期間に一気に開発がおこなわれるケースがほとんどであるため、住んでいる年代層も必然的に同じ層となってしまいます。となると、住民の高齢化の時期も一遍に来るため、子どもが後を取らない場合は、一気に問題となってしまうのです。特に新興住宅地で生まれ育った子ども世代には、あまり「後を取る」という感覚がないためか、就職、結婚などを機に都市部に出て行ってしまい、そこで新たにに住宅を購入するケースなどが多いような気がしています。
しかし、これはその行為自体が「薄情だ」とか「親を見捨ててひどい」とか「故郷に思い入れはないのか」と責めるべきものではなく、子ども世代にも様々な事情があり、世間の「空気」がそのように変化したのだということだと思います。そして、そのような状況を踏まえて、ゆくゆくは我々は「家」というものをどのようにとらえていくべきなのかと言うことを考え直す必要があるのだと考えています。
例えば、「家」というものを一生ものと考えずにちょっと高級な車のような感覚で自分の生活のステージに合わせて変えていく。若いうちは都市部のマンション、子どもができれば地方都市の戸建、老後は介護付きのマンションなどというように変えることができれば、おそらく、最も便益の高いライフスタイルが送れるのだと思うのですが、そのような仕組みを提案する会社はありませんし、日本人の土地や家に対する価値観は、まだまだ強固なものがあるため難しそうです。
逆に、その土地々がもっと独自性を持ち、住んでいる人が愛着を持って、そこから離れたがらないような街づくりをおこなうというのも一つの手です。しかし、独自性のある町というと京都などの一部を除いてはあまり思い浮かびませんね。
まあ、しかし、喫緊の課題はこの顕在化しつつある空き家問題をどうするかでしょうか。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
|
その他
[ リスト | 詳細 ]
|
今日は、読売新聞の記事からのエントリーです。
変わる住宅事情 〜「中古購入」税制で優遇〜 米山秀隆氏
日本の空き家率は、1948年には約0.4%だったが、その後は上昇し続けてきた。新設住宅着工数や取り壊される住宅の戸数がこのまま変わらなければ、2028年には23.7%に跳ね上がる計算だ。適正水準は確定できないが、アメリカなど諸外国の例を見ると8%から10%ぐらいではないか。
住宅種別では賃貸住宅の空き家率が最も高いが、地主の節税対策や相続対策のため、需給度外で視次々に供給されている。解体費に加え、更地の方が固定資産税が高くなることも、空き家除去率の障害になっている。
さらに、相続物件には荷物が残り、所有者が整理や再利用を躊躇することも多い。可能なものは、うまく次世代に利用されるようにしないと空き家は増える一方だ。
管理されない空き家が増えれば、放火などの犯罪、等価による近隣への被害、景観を損なうなどの問題が生じる。空き家のイメージは、今は放置された戸建だが、マンションも老朽化が進む。建て替えへの住民合意がかなり難しいため、管理がおろそかになればスラム化が深刻な問題となる。
朽ち果てる前の空き家を市場に出しやすくするため、新築住宅購入に対してのローン減税はやめ、中古購入を税制などで優遇すべきだ。中古購入が有利になれば、無駄な住宅をしんちくせずにすむ点で、資源配分上もいい。同時に、賃貸用に改修する場合の費用補助などの支援が必要だ。ただ、新築抑制はのかじは、一気に切りにくいとは思う。
戦後は技術進歩で受託にどんどん新設設備が入り、既存のものが陳腐化した。改修より建て替えという発想になりがちで、それが「新築信仰」の一因になった。ただ「スクラップ・アンド・ビルド」「新築取得が当たり前」との考え方は、高度経済成長期という特異な一時期のものに過ぎない。
高度成長期には住宅の質も落ちた。住宅難で供給が急がれ、買う方も不動産価格が上がり続けたため質を軽視した。棟梁が自らの責任で、長くもつものを造るという戦前までの伝統も、住宅産業の確立や丸投げなどで弱まった。引き継がれない空き家は、この時期に建てられた家が多い。長持ちするものを造りずっと住み継いでいくという、日本の戦前や他国では普通の考え方に回帰すべきで、今はその過程にある。
国全体の人口が減る中、地方の郊外などでは、空き家の撤去・活用以前に、地域からの撤退も考えなければならないだろう。拡張期に理由があって行っていた住宅政策や都市政策、税制は、すいぶん前から通用しなくなっている。利害関係者もあって難しいが、撤退、再利用をキーワードに、縮小過程に適合するよう制度をどう変えていくか。空き家率の上昇は、変化を迫る警鐘と言える。
(読売新聞 2012年9月3日 7面の記事からの引用)
私が住んでいる小牧市も実は新聞記事にあるような現実が顕在化しようとしています。かつては、新興住宅地として大規模な開発が計画されたが、新交通システム事業のとん挫や都市開発においても見積もりの甘さが影響し、住宅街においては成熟期から衰退期に移行すると思われる地区も存在します。また、私の同級生などにおいても職を求めたりや結婚などにより、かなりの割合で若者がこの地を離れて行っており、高齢化が進んでいる状況にあります。戸建に関しては我々の親世代がまだ、健在であるため問題は表面化していないが、10年後はどうなるのか。また、すでに今、問題が顕在化しつつあるのはマンションの方である。大規模マンションでは、毎週のように売り出し広告に掲載があるものの、なかなか新たな買い手は見つかりずらいような状況がうかがえます。マンションにおいても空き家が多くなり、歯抜け状況になった場合の維持管理や、最悪の場合における撤去などはどうなるのか、見通しの見えない状況であります。ゴーストタウンの象徴とならないようになることを祈るばかりです。
ただ、日本においては、家は新築を好む傾向がありますし、住宅そのものも設備や内装などで評価するシステムは依然として健在であります。実際、中古住宅などをまわっていると十年ひと昔といったように、十年前のものだと陳腐化を感じ、二十年前のものだとほぼ価値はゼロという評価は納得させられる部分もあります。まあ、これは業界における問題でもあるような気がしますけどね。建設業の論理は、いかにハウスメーカーが新築による需要を開拓し、そこから裾野へと広がっていくかという供給者サイドのモデルが今尚顕在です。そのため、猫の額ほどの土地でも見つけようものなら、ミニ戸建などをギュウギュウに建設するような傾向にあります。そう言った意味では、ヨーロッパのように景観などに配慮するような仕組みなどは(京都などの一部地域を除いて)あまり浸透していないですし、これからも少し難しいような気がします。
私個人としては、今後、バブル期のように住宅の価値が上昇するような状況はほとんどありえないと考えています。そう言った意味では、住宅を購入したら金銭的価値のみで測れば明らかに損となるような状況だと思っています。しかし、もし、住宅を購入するのであれば、金銭的価値以外のもので価値を感じられるようなものとなっていくべきであると思います。例えば、公園や学校などが整備されており、子育ての環境が良いというものであったり、歴史的文化遺産や美しい街並みが維持されていたりだとか、近所づきあいなどに代表されるようなコミュニティ機能が今も果たされていたりだとかと言ったところでしょうか。そのようなプライスレスな価値などと住宅そのもの価値が合わさって、購入金額よりも上回るような家づくり、街づくりをどう進めていくのかが今後の課題であると思います。
もうすぐ10,000アクセスです。よろしければワンクリックお願いします。
|
|
今日はインターネットの配信記事からのエントリーです。
「代数は必要ない」:全米を揺るがしたある教授の主張
「代数は何の役にも立たない。そして多くの生徒が代数のために退学していく」。これは、ニューヨーク市立大学のアンドリュー・ハッカーが『ニューヨーク・タイムズ』で表明した意見である。彼は正しいか、間違っているか。ある数学者の返答だ。
ニューヨーク市立大学の政治学名誉教授アンドリュー・ハッカーは、代数の勉強はそれほど有益ではなく、したがって高校のすべての生徒の必修である必要はないだろうと主張している。
もしハッカーが自分の意見を『ニューヨーク・タイムズ』紙上で(紙と電子版で)発表しなかったならば、それ自体は大ニュースとはならなかっただろう。7月29日の「代数は必要だろうか」という見出しの長い記事だ。 この記事に続いて、ネットで広く議論が起こり、『ニューヨーク・タイムズ』のサイトには約500ものコメントが付いた(この一部を報じたフランスの『ル・モンド』紙も同様だった)。 コメントは多くが反対の立場からだが、かなり辛辣なものもあった。例えばこのようなものだ。同様に否定的だがより落ち着いた返答は、『ワシントン・ポスト』で読むことができる。 しかし、まずはハッカーの立場をよりよく理解してみよう。
はっきりさせておこう。当然のことながら、わたしたちが議論しているのは、初歩的な代数についてだ(わかっている。あなた方の多くはすでに複素半単純リー代数のことを考えていたのだろう…)。 実際、著者は自問している(そして注意してほしい。これが彼の主要な論点だ)。果たして、美術や人文学研究のキャリアを始めるために、もしくは政治について意見をもったり社会を分析するために、この種の等式を証明できることが、本当に必要だろうか? 主な主張は2つに分かれる。 【1】数学は、アメリカにおいて学校を退学する主要因であり、有名大学に入れない原因となっている(厳密には自然科学ではない学科においても)。このため、別のところで偉大な才能をもっている人が、不当にも、数学のみのために勉強から排除されることになる。 【2】代数は何の役にも立たない。むしろ、ハッカーが「量的推論」と呼んでいる、インフレ率の計算やローンの利子のように、具体的な例についての計算を学ぶことで代替するべきだ。いったいいつ、医者や詩人や弁護士が、高校以降の二次方程式を解かなければならないだろうか? 直接、何か実践的で具体的なことを教えて、職業で応用できるようにする方がいいのではないだろうか? 実際のところ、第1の論拠は議論の余地がある。もし基礎的な数学的能力(わたしたちが問題にしているのはこれだ)が、高度にテクノロジーの発達した社会において市民として意識的に生きていくために本当に必要であるなら、解決は、教えるのをやめるのではなく、むしろ強化することだろう。 ハッカーはこの点を本当に否定しようとしているわけではなく、代数のようにあまりに技術的で一般に使わない問題は、後で自然科学を専攻する生徒たちだけのものにしておくべきだと主張している。すぐに次の論拠に移ろう。 まず、2)については、代数は無用ではないことを言っておくべきだろう。西洋においては、代数は13世紀にレオナルド・ピサーノ、通称フィボナッチの『計算の書』によって始まったことを忘れてはいけない。実践的な本で、これに基づいて何世代もの商人や会計係が教育を受けた。このような基礎をもとに、近代商業のシステムはつくられている。 そしてもし、この学問がその潜在能力を使い切ったと考えているなら、グーグルのような検索エンジンや、Facebookのようなソーシャルネットワーク、また携帯電話の使用やHD放送を観るのを可能にしているアルゴリズムの大部分が、何を基礎にしているかを理解すべきだろう。 中国や、インドや、韓国のように急速に発展している国々は、このことを非常によく知っていて、数学の徹底的な学習がこれらの国々の科学技術の急速な発展におけるストロングポイントのひとつとなっている。 しかし実際のところ、ハッカーは、このような代数がすべての生徒に教えられる必要はないと考えているようだ。12〜13歳ですでに生徒は、数学の高度な内容を学ぶコースに進むか進まないかを選ばなければならないだろう。確かに、コストは少なくなるだろう。恐らく、大部分の生徒はとても幸せだろう。しかし、こういう立場には2つの反論が必要であるようにわたしには思われる。
まず、数学の初歩的な基礎を学ぶことは(「数学」というのは、代数なしでは、どうやって三角法やデカルト幾何学や、微積分の基礎を学ぶことができるかわからないからだ)文化的な事柄で、将来の職業とは関係ない。「何の役にも立たない」といって、歴史や、文学や、文法を学ぶのをやめてしまうのと同じようなことだろう。 そしてハッカーが提案している「量的推論」も、ある程度の初歩的な代数なしでは、非常に難解なものになるだろう(代数なしで単純線形回帰を使ってみてほしい)。 さらに、科学技術、工学のような学問以外でも、わたしたちの生活やわたしたちの選択は、常によりしっかりした数学の知識を要求するようになっていることを指摘しておくのは有益だろう。金融や医学統計のような部門だけでなく、わたしたちの市民生活においても、これは事実だ(リスクの評価、統計を理解する能力、単純な最適化問題)。 どのレヴェルであれば、(初歩的な)数学を学びすぎたと判断して、やめることが適切なのだろうか? いずれにせよ、単純なもの(例えば初歩的な代数)から複雑なもの(複利、非線形回帰、加重平均、微分方程式)に進んでいく数学の学習が、今日唯一の数学を学ぶ効果的な方法で、そのうえで、新しい項目を次々と手早く学んでいく能力を身につけることができるのだ。 そして実現するには2つの方法がある。1つはアジアの国々のようにすること。社会的な上昇志向が非常に強いので、生徒が心身ともに数学の学習に専心するように仕向けられる。もしくは、よりよい教え方を学び、なおかつ、生徒たちに好奇心と熱狂を呼び起こすようにすること。 イタリアでは、アメリカと同様、2つめの道を進むことが不可欠で、そうせざるをえないだろう。 筆者のロベルト・ナタリーニはCNR(Consiglio Nazionale delle Ricerche: イタリア学術会議)の学術責任者で数学者。 (WIRED.jp 8月21日配信記事より引用)
記事は、代数の必要性についての議論でありましたが、もう少し拡張して「数学」が必要であるかということについて議論してみたいと思います。よく、中学校や高校の教育現場において耳にする話が、「数学なんて将来役に立つの?」という生徒側の主張です。また、大学などにおいても、就職難などの影響から資格取得などに重点を置いた実学志向の大学も増えているような状況をみてみると、数学に対する消費者サイド(数学を教えてもらう側の立場)のニーズとしては、「数学」に対する期待度がやや低いようにも思えます。
しかし、実際に教育から「数学」を省いてしまうことによるデメリットはないのだろうか。記事の中にも述べられているようにグーグルのような検索エンジンや、Facebookのようなソーシャルネットワーク、また携帯電話の使用やHD放送など、生活の中に溶け込んでいるようなものは、数学に依存して成り立っています。もしかしたら、このようなサービスが使えなくなってしまったり、一部の数学を理解している人の思いのままになるように変更されても全くどうすることもできないというような状況になってしまうかもしれませんね。(高校生などは携帯電話がなくなったら困るんじゃないですか?)
更に、私自身が最も危惧するのは、「数学」を放棄することによって、ものごとを論理的に考える力が著しく低下してしまうのではないかということです。「数学」の世界というのは、数式のみで表現される非常にシンプルな世界です。そこは、感情的なものであったり、装飾的なものが一切排除された抽象的な世界とも言えるかもしれません。(ごく簡単な例を出すと:5人の生徒に飴玉と2個づつ配ると1個余るというような状況を表現したければ、5*2+1と表せるといった具合です。これは算数ですけど・・・)しかし、現実世界からちょっと俯瞰して物事を考えてみたり、全体図を想像してから細部を考えたりすると仕事が上手くいくようなケースってよくあるんですよね。
とかく実用的だと重宝されがちな資格試験の知識だけでなく、直接の効果は目に見えにくいものの、様々な場面で応用の効く論理的思考力というのもおろそかにされるべきではないと思います。
|
|
今日はスポーツ報知の配信記事からのエントリーです。
大津のいじめ問題を考える
大津市で昨年10月に市立中学2年の男子生徒(13歳)がいじめを苦に自殺したとして、遺族が加害者とされる男子生徒3人と保護者、市を相手取り約7700万円の損害賠償を求めた第2回口頭弁論が17日、大津地裁(長谷部幸弥裁判長)で開かれた。市の代理人弁護士は「いじめと自殺との因果関係を認める可能性が高く、和解の協議をさせていただきたい」と説明。これまで「いじめが原因と断定できず、過失責任はない」とする立場を一転させた。
これまでの方針と一転、遺族側と和解の方針を示した市側の代理人弁護士は弁論中、終始うつむき、目をつぶるなど沈痛な表情だった。閉廷後には「学校、教育委員会の調査、および公表が不十分だったために、事件があった中学校の在校生、保護者の皆さん、ご遺族さまや、絶望の淵にあって、死を選ばざるを得なかったご本人様に、大変ご迷惑をおかけしました。大津市長に代わって、深くおわび申し上げます」などと言葉をしぼり出すように謝罪した。 市側は、いじめの影響を事実上認めた。しかし、市とともに損害賠償の対象となっている加害者とされる生徒2人と保護者は、「いじめではない」と従来の主張を維持。2月の第1回口頭弁論で認否を留保していた、もう1人の生徒もこの日、「いじめではなく遊び」とする答弁書を提出した。このため、遺族側と市が和解した場合でも、生徒3人らとの訴訟は長期化する可能性もある。 市側は、事実認定については市が設置した有識者による調査委員会に委ねるとした。調査には約4か月かかる見通し。市側は結果が出るまでは、訴訟での主張を留保するとして期日の先送りを申し出たが、遺族側は「通常通り進めたい」と反対。地裁は、市と関連のない部分を取り上げるとして第3回期日を9月18日に指定した。 遺族側弁護士はこの日の弁論で、「出せる書類はすべて出してもらう」として、学校作成のいじめ報告書、職員会議の議事録、学校から教育委員会に提出された自殺に関する報告書、担任教諭の日誌などの提出を市側に求めた。 弁護士のもとには、全国から100件以上の支援の申し出があり、「裁判費用に使ってほしい」と事務所に現金書留が送られてきたという。遺族側はさらなる真相解明を求め18日、加害生徒らを大津署に刑事告訴する。 一方、大津市には、この日まで1万件の電話やメールが殺到。多くが市や市教委への抗議や苦情という。 (スポーツ報知 7月18日8時4分配信)
最近は、どこのマスコミもこの話題をとりあげており、この話題を聞かない日はないと言った状況でしょうか。そして、どのメディアにおいても明らかになってくるのが、いじめの真相、加害者の状況、そして教育委員会をはじめとした学校側の対応のまずさです。そもそも、基本的な論点なのですが、「いじめはない」というような対応ってどうなんでしょう。小学校や中学校において、大なり小なりのいじめなんてものは、必ずあるのではないでしょうか。実際に大人の世界においてですらパワーハラスメントと名を変えた「いじめ」というものはゴマンとあります。それが、精神的に未熟な義務教育期間においては、あってしかるべきものととらえるのが、ごく常識的なのではないでしょうか。そして、あることを前提として、教師や保護者がどのように教育をしていくのかが義務教育期間に求められる対応なのではないでしょうか。それを無理になかったことにしようとするものだから、学校や教育委員会の弁明がトンチンカンに聞こえてくるような気がします。
もし、この事件を今後のいじめ教育の教訓とするならば、人格にかかわる教育はもちろんのことなのですが、なぜ、学校や教育委員会がこのような対応をとってしまったのかを明らかにすることが必要であると思います。一部、ネットにおいては地域の特性などの真相にせまったことらしきものが書かれていますが、テレビや新聞などでは、依然として、「いじめがあった」「なかった」などの表面的なことしか報道されていないような気がします。情報化社会の中、今の時代は情報を隠し通すことはできないとの認識のもと、起こってしまった事実に対して真摯に向き合うことが当事者には求められているような気がします。
にほんブログ村に参加しております。よろしければワンクリックお願いいたします。
|
|
今日は、5月31日の読売新聞の記事からのエントリーです。
学校行けぬ子に「教室」 日系ブラジル人は今
製造業が集まる可児市には、1990年代から日系ブラジル人らが住み始めた。いま約3000人のブラジル人が外国人登録をしている。
外国人住民の教育や生活環境改善のために、市民が中心になって2000年に設立されたのが、「ゆめ教室」を開催する「可児市国際交流協会」。年間2000円〜1万円の会費を払う会員が約500人いる。
可児市では、今年3月、市内のブラジル人学校が資金難のため閉校した。児童生徒の多くは日本語が資金難のため閉校した。児童生徒の多くは日本語が不十分で、公立小中学校に行けない。「ゆめ教室」の役割は増した。15歳以上の外国人を対象にした「さつき教室」の事業費を含めて、今年度は約2000万円の事業費を見込む。
この資金には、文部科学省の「定住外国人の子どもの就学支援事業」の補助金が充てられる。このため、「ゆめ教室」も「さつき教室」も月謝はいらない。
文科省によると、日本の公立小中学校などに在籍する外国人の児童生徒のうち、日常生活や授業で支障があるため日本語の指導が必要なのは、2010年9月時点で2万8511人。母語別でトップなのがポルトガル語の9477人だ。大半は日系ブラジル人とみられる。
外国人に就学義務はなく、学校に在籍していない子どもも多いため、支援が必要な子どもはもっといる。
定住外国人の子どもに対する日本語指導は、自治体任せ。公立学校で行っている自治体もあるが、外国人向けの日本語の授業は国の教育課程の中に位置づけられておらず、授業時間やカリキュラムなどはバラバラ。手が届かない部分は、「ゆめ教室」のようにNPOなどが担ってきた。
文科省は、外国人の子どもに対する日本語指導を教育課程にはっきりと位置づけるための検討会議を、今年4月に設置した。授業の時間数やカリキュラムなどについて標準モデルを示したいという。本腰をすえた対策が望まれる。
(読売新聞 2012年5月31日 19面より一部抜粋)
以前、「ヤバイ経済学」という本を読んだがその中にこのような内容が書かれていた。1960年代と1990年代の犯罪件数を比較した時、1990年代の方が大幅に犯罪が減った。この要因として、従来は「割れ窓理論」に代表される画期的な取締りが成果を上げたのだという意見主流であった。しかし、著者であるスティーヴン・D・レヴィットは、それはあくまでも要因の一部に過ぎない話であり、本当の因果関係は1960年代に「中絶が合法化されたことである」という主張を展開した。
もし、この話を今回の話題に関連づけるなら、後になって対策を講じようとしても効果を出すのは難しい、事前に対策を講じる方が効果があるということであろう。10代後半になって地域に溶け込めない若者を教育するのは至難の業だが、幼少期であれば社会のルールを教えたり、教育をおこなうこともできます。そのような人間が大人になれば、今とは違う相互理解が深まった多文化共生社会をつくることも可能でしょう。
つまり、いま日本社会の枠組みから漏れている外国人の子どもへの支援というのは、結局は未来の地域社会の安定や発展の可能性にもつながるということを、まずは日本人自身が理解する必要があるのだと思います。
日本ブログ村に参加しております。よりしければワンクリックお願いいたします。
|


