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元URL:https://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/64298879.html
UP日付:2016年7月17日
元書庫:私の宗教的信条(信仰?)
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このたび、このブログの書庫として「私の宗教的信条(信仰?)」を作る事にしました。これは、過去、靖国神社への対応を書いているうちに、結局「これは宗教観の違い」と憲法上の宗教的自由をどう捉えるか?の問題に帰着するのではないか?と考える局面に多く突き当たった事に拠ります。
宗教的自由に関しては、私は、日本の最高裁は、いまだ「考えが足りない」と思います。それは、理論的精緻さも深さも足りない。これについては、歴史的に説く(解く)事が出来ます。それは、追々やって行けばいいかな、とは感じています。
が、宗教的自由に基づいての宗教的信条の差となると、これは、どうにも一致は難しいのかも知れません。結局、「お前は宗教的に敬虔さが足りない」と言われてお終い、って事になるのかも知れません。が、宗教的信条に、どれだけの差があるのか、は、私の宗教的信条も語っておかないと、その幅は相手側には理解出来ないで終わるのかも知れない、出来る限りの事はやっておきたい、との思いから、この書庫を作るものです。
結局、私は、あるグループからは「無宗教」と言われるのかも知れません。一番の問題は、特定の教団に帰依する訳ではないから。私は、本質的に仏教徒ですが、特定の教団・宗派に属するものではありませんし、むしろ、江戸時代以降の日本の仏教教団を「堕落」と考えている節もあります。かと言って、江戸時代に辛うじて生き抜いた日蓮系の仏教徒でもあり得ない。また、この「本質的に仏教徒」でのが、神道、殊に、国家神道系の考え方(水戸国学風の考え方と言い換えても、いいかも知れません)と、どれだけ異なるのか、も、この論の系統でしか書けない気がしています。
「無宗教」とて、その中には「宗教的」としか言い得ない信条があります。私は、一応、父親には神道系の宗教的信心もありますが(母親は、そうした信心無しw)、両親ともに門徒(浄土真宗)の家で育った家系です。が、「私の」育って来る環境で、キリスト教(プロテスタント系。カナダ由来の宗派)の信仰にも触れる事となりましたし、ユダヤ教も、ある程度は身近なところにありました。また、比較法学の中で、イスラームの考えにも、一応は触れました(勉強の都合上、一時的には、国際イスラーム法学会の学会の訓練生として登録されてました。国際的支援の下、対訳クルアーンなどの支給から始まる各種支援が受けられます)。特別に宗教の勉強をした訳でも無いのですが、日本人の普通のレベルよりは、宗教に触れる機会は多かったのではないか、とも思います(小学生のときに「人間革命」の8巻程度までは読了してたしw。創価学会員のお宅で「借りたい」と言ったところ、私の家よりも貧しいと思われるお宅が新刊を揃えてくれたもの。申し訳ない気持ちもあり、最新刊まで読了しました)。経典も、仏教の経典は諳(そら)んじていたものもありますし、キリスト教のお祈りの言葉も、それなりに英語で唱えられたりもします(私は、キリスト教カトリックには、全く縁遠いのですが、遠い親戚には、カトリック教徒のベルギー人も、いるにはいます。また、分らなければ、訊けるカトリックの友人もいます)。
で、結局、宗教的信条でしか説けないものであるならば、それを書いてみようか、と思った次第。別に、誰かを説得(折伏、布教)する気は、ありません。ただ、「あなた」自身の宗教的感覚・宗教的信条と、共通するのものがあるのか、共通していないとすれば、どう違い、それは、どういう根拠に基づいて違っているのか、出来れば、その根本を考えて貰いたい、とも思うからです。
「説得(折伏、布教)する気が無い」ので、この書庫の記事は、急ぎはしない積もりです。追々書いて行きます。稀に、パロディが混じるかも知れませんが、それは、裏から見れば、ある宗教的信条が、どう見える可能性があるか、に言及したいから。それを越える他意は無い場合がほとんどの筈です(笑)。
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