|
ヤフーのブログ・サービスが停止される、ってアナウンスを承けて、データ移行で過去の自分の記事を見直している事で、いくつか気づいたことがあります。その一つは、昔はもっと生き生きと、勝手なことをブログの記事にしてたんだなぁ…って事。まあ、昔の方が深く考えた記事をUPしてた…って気もしないじゃ、ありませんけど、ね。
で、もっと自由に想像力を羽ばたかせてみなくちゃ、と反省しての記事。「トンデモ仮説を提唱してみる」てな書庫を作ってみようか、とも思ってます。
で、この標題ですが、縄文は犬から承け継がれた文化で、弥生は猫から承け継がれた文化…ってわけじゃあ、ありません。
縄文は犬と暮らしていた時代の文化で、弥生は猫と暮らす様になった時代の文化。そして、その犬に対する態度の差が大きな文化的差異となってたんじゃないか、てな仮説です。
先ずは、犬に対する縄文時代と、弥生時代の差を見て行きましょう。
犬に対しては、縄文時代は犬の墓(埋葬例)が存在するほどで、縄文時代に於いて犬が大切なコンパニオン・アニマルだった事が知れます(山田 康弘「縄文時代の歴史」講談社現代新書 2019)。一方、弥生時代や続縄文文化では犬の埋葬例はほとんど確認されず、犬が食料とされていた事例が認められる(同)。山田康弘「縄文時代の歴史」は、「縄文時代と弥生時代以降とでは、イヌとの関係が異なっていたのだ。」と書きます。
同書に拠れば、イヌの埋葬例と云うのは、世界史的に見ても珍しいものだそうですが、イヌの埋葬場所は墓域内に於ける家族(世帯)単位の区画(埋葬小群)内にある事が多く、またイヌ同士の合葬例も見られる由。ここから、著者の山田康弘氏は、イヌは同時に複数が飼われ、1世帯で充分に効率的な狩猟の最小ユニットを構成し、イヌは猟犬として機能していたのだろう、と推測しています(より詳しい論考は、山田康弘「縄文時代のイヌの役割と飼育形態」;「動物考古学」第1号、動物考古学会 1993)。
縄文時代は狩猟採集を主な生業としますが、日本列島の恵みの豊富さによって定住が可能となっていて、実際に四季を通じて同じ場所にいたかは実証し切れないものの、ほぼそれが想定されています。理由として、秋を中心とする収穫期(ドングリや栗や鮭など)の食糧資源を保管していた痕(あと)が認められる事。食糧資源を保管していたのなら、それを携えて引っ越ししていた(定住場所を変えていた)、って考えるのは、現実味が薄い。また、栗などに関しては、三内丸山遺跡などでは、計画的栽培の痕も見られます。
で、ここからは、私の推論。犬は、確かに猟犬としても機能したのでしょうが、縄文時代の住居がどこにあったか、を考えると、番犬としても機能していた筈、と考えます。それは、縄文時代の住居が、森に近く、猿(クリやドングリなどの収穫物の収奪者ともなり得る)や熊(人に危険が及ぶ)なども容易に出現する区域だった事を想像すれば、充分かと思います。そして、番犬としても機能していた事から、住居の周囲で飼われた。だからこそ、その触れ合いの時間の長さから、コンパニオンアニマルとしての地位を占めるに至った、と考えます。
一方、弥生の文化では、犬を食料としていたものも見られます。これは、犬をコンパニオンアニマルと考える文化からは、野蛮そのもの。今の南北朝鮮や中国の一部地域の犬食文化に対する視線を考えれば、分かる事と思います。縄文文化と弥生文化は、かつて考えられていた様に、きっちりと時代分けが出来るものではなく、場合によっては、同じ時代に、両者の集落が混在していた地域も認められます。そして、縄文から弥生への入れ替わりは、従来考えられていたより遙かに長く、700年ほどを費やし、ゆっくりと変わって行った事が窺われます(この段落は、現在の通説的見解でもある)。
犬を喰う文化は、縄文から見ると「野蛮そのもの」だったのでしょう(←ここから、私の見解)。縄文は、弥生を必ずしも、先進文化とは見ていなかった可能性があります。異文化として見てはいたでしょうけれど。まあ、「犬を喰う」ってのが、どれだけの時期に亘(わた)って、どれだけの拡がりで行われていたのか、は疑問の余地がありますが、中国や朝鮮には長い期間に亘り、そうした文化が継続して来たのだから、弥生もその系統の祖型から分かれていた、と考える事は可能かと思います。
そして、弥生は水田での水稲栽培を主な生業とする文化として発展して行った(古くは、縄文土器が出る集落で、水田で水稲栽培をしていた例もありますし、縄文集落でも陸稲栽培なら広く認められます)のですが、水田も広く行う様になれば、周りに林は少なくなり、森から段々に隔てられる事になります。番犬として必要だったとしても、犬は次第に住居から遠いところで飼われる様になったでしょう。猿は稲を収奪しはしません(ここで問題になるのは、水田を掘り返す事のあるイノシシ)し、熊は稲を食料とはしません。もし、柿や栗を同時に栽培していたとしても、住居の周りには先ずは水田があり、栗や柿の栽培地は、水田の周囲、もしくは、住居から水田で隔てられた地に置かれる様になったでしょう。そうでないと、熊の危険があるからです。そして、犬を飼育していたにしても、番犬たる犬は、そうした水田の周囲で飼われる事になったのだろうと推測します。
一方、猫は弥生時代に朝鮮からか、中国からか知りませんが、連れて来られる事となった。従来は、猫が日本に連れて来られる様になったのは、遣隋使や遣唐使によって、と考えられていたそうですが、今や、弥生時代に猫のいた事は考古学的証拠で裏付けられています。猫が、どれだけ広く分布していたのか、は不明ですが、主に食料倉庫をネズミから守るために飼われていたのだろうと考えられ、その考えに沿って、国立歴史民俗博物館の古代エリアはリニューアルされました。高床式倉庫の隣に猫(勿論、彫刻。別名、模型)がいるそうです。
遣唐使、遣隋使によって連れて来られた猫は、源氏物語(例、若菜上)の時代の様に紐に繋がれていたのかも知れませんが、弥生時代の猫がネズミ除けだったとすれば、自由自在に、その辺を闊歩していた事でしょう。だからこそ、それ以降の時代の猫の死体の骨と区別が付かず、長い間、弥生時代に猫がいた事が判らずにしたのだと思います。が、食糧倉庫の周囲に猫がいれば、その猫は住居にも往来していた筈。そして、猫がいつかない様な状況は避けた筈。とすれば、犬は、ますます住居区域から遠ざけられた可能性が出て来ます。そして、弥生集落と縄文集落の混在する地域は、弥生集落の方こそ、縄文集落を、番犬代わりに使い、縄文集落がある事で、熊の出現を防ぐ機能を果たさせていたのだ、とも考えられます。
弥生文化を猫の文化と考える所以です。そして、縄文時代を犬の文化と考える事には、さして問題を感じない所以でもあります。
|