黄色い蛇足@日立柏酒場裏

2019年9月以降は、https://reywa.blog.fc2.com をメイン(主たる)・ブログとします。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

 まあ、他人様には、あんまり興味を持たれないであろう話題。私的なメモですが、隠れた目的は、各ブログでの画像投稿の操作性のテスト。画像投稿については、私はヤフー・ブログ、FC2、Seesaaについては、ほぼテストが完了しています。ヤフーは、私にはあまりに馴れたもの、FC2については、私が旧投稿画面てものを愛用している所為か、ちとメンドウクサイ気がしています。Seesaaについては、その操作性に感動しちゃってます、ですが、ライブドア、アメーバ・ブログ(ついでに、はてな?)では、どうなのか、が今回のテスト目的。

 さて、2019年4月18日、この数日前の土曜日にも、東北道経由で三春の滝桜を訪問していた(その際は、まだ満開ではなかった)ので、同じ経路を辿るのはあまりに退屈に思えた為、今回は、常磐道経由で訪問しました。とは云え、この経路も初めてって訳ではなく、常磐道〜磐越道では、何回か通った事のある経路。この季節に通る事が初めて、って事と、磐越道 船引三春ICからの経路が初めて、って事だけ(前回は、郡山東ICから)。
 で、結構スピードを出したにも関わらず、カーナビの様相時刻とほぼ同じ時刻に着きました。カーナビって、どんな計算してるんだろ? って思わせる事態。今までのスピードの記憶なんかを参考にしてるとは、とても思えないので、普通の人の普通の運転を想定してるとすると…みなさん、結構スピード出してるんですね(笑)。三春町内と最後の駐車場以外には、混雑や渋滞を感じる事も無かったのに…。

 自宅から土浦北ICまで一般道で約1時間強、土浦北IC〜船引三春ICを高速を使い、結局、総計 約3時間で現地着。13:25頃に、現地駐車場に入り、車のエンジンを切ったのが13:30頃。そこから、三春の滝桜を見て、時間経過による変化を追い…周囲なども少し見て、今度は夜景(ライトアップ)、てな具合で見て回り、結局、現地 駐車場を出たのは20:40頃。
 ライトアップ時には、現地駐車場で渋滞も起きていたのですが(この日は、臨時駐車場からの無料シャトルバスは運行せず。この経験に懲りたのか、翌日から平日でも運行開始)、この時刻までには、ほぼ渋滞は解消していました。20:30から、現地では入場時に協力金300円の徴収を止めて、自由に入場させていました。きっと、渋滞で入場が遅れた事へのお詫びの意味があったんだろうと思います。それか…現地係員の帰り支度の為??

 で、私の採った経路は、以下の通り、事前に下調べをして、何ルートかの経路の候補は頭に入れていて、メモも持って行っていたのですが、渋滞などにも遭わなかったのと、偶然、案内看板に従って選択した結果が、第一候補か、第二候補と考えていたルートそのままでした。

 先ずは、最寄りの高速(磐越道)のIC(船引美春IC、郡山東IC)だと、一般道などで混雑故の渋滞が発生している可能性があるので、裏道として、すぐさま南下。
イメージ 1
この記事の画像は、カーソルを合わせると右下に表示される+マーク、その+マークをクリックすると、別ウィンドウで大きく表示されます。画像自体にカーゾルを合わせただけでクリックすると、別ウィンドウは開くものの、画像は、この記事での大きさと変わりないので、注意。

 赤いマークのところが、三春の滝桜。青い線の起点が、現地駐車場です。

 で、南下したのですが…実は、ダム湖を橋で渡ったところで、「あ、方向間違えた」って思ったんですよね。「橋で渡る」事になるのを頭に入れてなかったので。でも、そのまま行っても、郡山に着くだけだから…と車を進めました。ダム湖を渡って右に曲がるルートは、「郡山東ICに着くだけだろう」と選ばす、真っ直ぐ進みました。これは、結果としては南下していたのですが、私の頭の中では、全く別の考えの下、行動していた事になります。

 次の分岐点は、記憶に無いのですが…きっと、片方に「田村市」とかの標識が出ていたので、選ばなかっただけだと思います(下の図の上の方の緑色の○)。
イメージ 2
 で、走り続けているうちに、カーナビに安積高校 御館校(恐らく、分校扱いのもの)が現れた(カーナビ、あるんです…笑)が出て来たので、漸く、事前の下調べと同じ経路を辿っていた事に気付いた次第。で、次の分岐(郡山市)は、下調べに沿って、右折、の後、数百mで今度は左折(上の図の下の方の緑色の○)。

 走っていると、新町街道に突き当たった(郡山市。下の図の右上の緑色の○)ので、右折。この後は、交通案内標識に盛んに「須賀川方面」の文字が現れ、「須賀川ICでもいいかな」と思っていたものの、工事による交通規制があり、その前に偶々、「福島空港」の文字があったので、左折しました(郡山市。下の図の左上の緑色の○)。これが、どうやら福島県道141号線だった模様。私の頭の中のイメージでは、県道40号線辺りの位置を走っている積もりで、「福島空港って、どんなんだろう?」って盛んに右側を気にしていたのですが、実際には福島空港は左側にあった訳。下の図の真ん中のオレンジ色の○は、県道63号線との立体交差をくぐるところ。
イメージ 3
 で、JR水郡線 泉郷駅北側の交差点で、国道118号線(石川街道)に突き当たって(玉川町。下の図の下の方の緑色の○)、漸く、私の勘違いを悟りました。でも、福島空港。あぶくま南道路とのインターチェンジをくぐるとき(上の図の下の方のオレンジ色の○)でも、ここは「福島空港IC付近なんだ」と思い込んでいましたけどね。カーナビがあると、こんな勘違いをしていても、不安を感じる事なく、何とか進める訳です。

 で、後は、交通案内標識に従って南下。交通案内標識は、「石川町方面」をずっと示してくれていましたので、そこは安心。途中の交差点で、カーナビに「道の駅だいご」(茨城県 大子町)を入力しました。JR水郡線の磐城石川駅(石川町)での交差の仕方は、私の記憶していた姿と違いました(下の図の緑色の○)が、交通案内標識に従いました。
イメージ 4
 で、南下…「石川町、長いなぁ…」って思っている内に、浅川町、次いで棚倉町。棚倉町出身の知人がいるので、興味深く夜景を眺めながら「町って云うけど、結構栄えてるじゃん」なんて思いながら、塙町。もう、ここに来ると、一度通った事のある経路。矢祭町を経由して、茨城県大子町に(矢祭町との間は、さすが県境で、久慈川の両方に山が迫り、狭い峡谷を形成しています。昔は行き来が大変だった事でしょう)。大子町からは、南下すると、結構混雑・渋滞がある事(もっと早い時間帯の夜の経験ですが)を知っていたので、栃木県 那珂川町に向かいました。那珂川町は、江戸時代は水戸藩だったところであって、この両町の間は、大して険しい道のりではありません。昼間は、のんびりとした感じの風景が広がるところです。が、深夜時間帯となると、道に街灯が無い所為で、結構、緊張感のあるルートに変わっていました。

 で、那珂川町馬頭広重美術館の前を経由し、後は、https://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/65119570.html に書いた推奨ルートを逆に辿って、自宅まで辿り着きました(国道294号線を選択)。20:40に三春滝桜を出て、休憩なども挟みながら、翌日01:25頃、自宅着。約4時間45分程度掛かった事になります。

 このルートは昼間だったら、混雑や渋滞などで、こんな時間で走り切る事は出来ないのでしょうが、夜間、それも主要ルート(国道など)が深夜時間帯に掛かっていたので、この時間で走り切れたものと思います。

 私は、福島県内で一般道を長い距離走った事は、あまり無い(2017年10月に、柳津町の「やないづ町立 斎藤清美術館」に行った帰りに、只見町の只見ダムまで行って、そこから一般道で自宅まで帰ったくらい。https://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/64779916.html 参照)ので、貴重な経験となりました。夜間とは言え、地形の特徴なんかが分かったので。

<追記 on 08 Jun 2019>

 2019年6月8日現在で機能を確かめてみたところ(全く同じ環境で実行)、画像のサイズの仕様が変わっていました。「原寸」「大」「中」「小」の4種類を選ぶ様になっていて、自由自在に変更出来る仕様からは離脱していました。アメブロも、仕様をきっちり検討しないままでのプログラム変更が結構沢山あります。ときに、バカな間違い(プログラム・ミス)が長く残っている事もあります。仕様を確定しないまま(文言で定義しないまま)でプログラム修正に向かっている為と考えます。


<追記 on 13 Jun 2019>

 下記の「画像の大きさを変えられる」点ですが、記事をUPする時点で「最新式エディタ(標準)」で画像をUPしていたものに限られます。「シンプルエディタ」で記事をUPした後で、設定を「最新式エディタ(標準)」に変更しても、「シンプルエディタ」でUPした画像を変更出来る訳ではありません。
 最初にUPした時点でのエディタの編集様式が、その後の編集場面でも維持される訳で、最初に「シンプルエディタ」でUPした記事は、設定を「最新式エディタ(標準)」に変更した後で編集しようとした場合、元の画像の指定を削除したとして、新たに画像を挿入しようとしても、最初に記事をUPした時点でのエディタの指定の編集方式が引き継がれます。



 〜〜〜 〜〜〜


 アメーバ・ブログで初めて画像を投稿してみて分かった事なのですが、アメーバ・ブログでは、画像の大きさを自由自在に変えられます。

 これは、アメーバ・ブログのブログ・デザインの選択によって不可能なブログ・デザインもあるのかも知れないけど、私の選択している「シンプルブルー」では、画像の大きさは、記事表示幅をはみ出さない限り、自由自在に決められる。

 ヤフー・ブログからデータを移転した人の結構な割合が、「画像表示が小さい」って不満を持っているそうだけど、試してみてもいいんじゃないかなぁ? もし、ブログ・デザインによって大きさが変えられないのだとしたら、ブログ・デザインを変えて、テストしてみたら?

 では、どうやって画像の大きさを変えるか、って云うと、次の通り。

 ブログ管理のページ(https://blog.ameba.jp/ucs/top.do )で、左下の(左下から2番目)「設定・管理」(https://blog.ameba.jp/ucs/guide.do )で、左上の「基本設定」を選ぶと(https://blog.ameba.jp/ucs/blog/bloginfoinput.do )、上から2番目の項目グループで「記事投稿画面(エディタの設定)」って云う項目があります。ここで、初期設定であると思われる「最新式エディタ(標準)」を選んでいる限り、投稿画面で画像の大きさを変更出来る筈です。

 どうやって変更するか?って云うと、記事投稿画面(https://blog.ameba.jp/ucs/entry/srventryinsertinput.do )で、画像を選択して、左側に画像が表示されている段階(画像の下の2つの選択は、「通常表示」の方。「HTML表示」だと、大きさを自分で入力しなければならない)で、画像を選ぶ(クリックする)と、画像の上に何かが被った様に表示されます。その状態で、画像の右下を引っ張って行く(右側に持って行く=ドラッグする)と、画像を拡大出来ます。画像の右下を左側に持って行く(ドラッグする)と、画像が小さくなります。

 やってみて下さい。画像を伴わずに、文字だけで分かって貰えるかな、と思って、急ぎ記事をUPします、が、分からない様だったら、コメント下さい。
 ブログ・デザインによっては、無理って可能性もあるかとは思います。


 〜〜〜 〜〜〜

 なお、上述の「記事投稿画面(エディタの設定)」で、「タグ編集エディタ」を選び、投稿画面で右上の「改行を<br / >に置換」のチェックをしていると、Notepad(メモ帳)からテキストをコピペして持って来て、形が変わらずに記事になります。URLの方は、都度、リンク・ボタン(「リンクの作成」ボタン)を押して都度設定するしかない様ですが(単に、そこから飛ばすだけだったら、URLをコピペして同じ内容を入力すれば、足ります)。

 ヤフーのブログ・サービスが停止される、ってアナウンスを承けて、データ移行で過去の自分の記事を見直している事で、いくつか気づいたことがあります。その一つは、昔はもっと生き生きと、勝手なことをブログの記事にしてたんだなぁ…って事。まあ、昔の方が深く考えた記事をUPしてた…って気もしないじゃ、ありませんけど、ね。

 で、もっと自由に想像力を羽ばたかせてみなくちゃ、と反省しての記事。「トンデモ仮説を提唱してみる」てな書庫を作ってみようか、とも思ってます。

 で、この標題ですが、縄文は犬から承け継がれた文化で、弥生は猫から承け継がれた文化…ってわけじゃあ、ありません。

 縄文は犬と暮らしていた時代の文化で、弥生は猫と暮らす様になった時代の文化。そして、その犬に対する態度の差が大きな文化的差異となってたんじゃないか、てな仮説です。

 先ずは、犬に対する縄文時代と、弥生時代の差を見て行きましょう。

 犬に対しては、縄文時代は犬の墓(埋葬例)が存在するほどで、縄文時代に於いて犬が大切なコンパニオン・アニマルだった事が知れます(山田 康弘「縄文時代の歴史」講談社現代新書 2019)。一方、弥生時代や続縄文文化では犬の埋葬例はほとんど確認されず、犬が食料とされていた事例が認められる(同)。山田康弘「縄文時代の歴史」は、「縄文時代と弥生時代以降とでは、イヌとの関係が異なっていたのだ。」と書きます。

 同書に拠れば、イヌの埋葬例と云うのは、世界史的に見ても珍しいものだそうですが、イヌの埋葬場所は墓域内に於ける家族(世帯)単位の区画(埋葬小群)内にある事が多く、またイヌ同士の合葬例も見られる由。ここから、著者の山田康弘氏は、イヌは同時に複数が飼われ、1世帯で充分に効率的な狩猟の最小ユニットを構成し、イヌは猟犬として機能していたのだろう、と推測しています(より詳しい論考は、山田康弘「縄文時代のイヌの役割と飼育形態」;「動物考古学」第1号、動物考古学会 1993)。

 縄文時代は狩猟採集を主な生業としますが、日本列島の恵みの豊富さによって定住が可能となっていて、実際に四季を通じて同じ場所にいたかは実証し切れないものの、ほぼそれが想定されています。理由として、秋を中心とする収穫期(ドングリや栗や鮭など)の食糧資源を保管していた痕(あと)が認められる事。食糧資源を保管していたのなら、それを携えて引っ越ししていた(定住場所を変えていた)、って考えるのは、現実味が薄い。また、栗などに関しては、三内丸山遺跡などでは、計画的栽培の痕も見られます。

 で、ここからは、私の推論。犬は、確かに猟犬としても機能したのでしょうが、縄文時代の住居がどこにあったか、を考えると、番犬としても機能していた筈、と考えます。それは、縄文時代の住居が、森に近く、猿(クリやドングリなどの収穫物の収奪者ともなり得る)や熊(人に危険が及ぶ)なども容易に出現する区域だった事を想像すれば、充分かと思います。そして、番犬としても機能していた事から、住居の周囲で飼われた。だからこそ、その触れ合いの時間の長さから、コンパニオンアニマルとしての地位を占めるに至った、と考えます。

 一方、弥生の文化では、犬を食料としていたものも見られます。これは、犬をコンパニオンアニマルと考える文化からは、野蛮そのもの。今の南北朝鮮や中国の一部地域の犬食文化に対する視線を考えれば、分かる事と思います。縄文文化と弥生文化は、かつて考えられていた様に、きっちりと時代分けが出来るものではなく、場合によっては、同じ時代に、両者の集落が混在していた地域も認められます。そして、縄文から弥生への入れ替わりは、従来考えられていたより遙かに長く、700年ほどを費やし、ゆっくりと変わって行った事が窺われます(この段落は、現在の通説的見解でもある)。

 犬を喰う文化は、縄文から見ると「野蛮そのもの」だったのでしょう(←ここから、私の見解)。縄文は、弥生を必ずしも、先進文化とは見ていなかった可能性があります。異文化として見てはいたでしょうけれど。まあ、「犬を喰う」ってのが、どれだけの時期に亘(わた)って、どれだけの拡がりで行われていたのか、は疑問の余地がありますが、中国や朝鮮には長い期間に亘り、そうした文化が継続して来たのだから、弥生もその系統の祖型から分かれていた、と考える事は可能かと思います。

 そして、弥生は水田での水稲栽培を主な生業とする文化として発展して行った(古くは、縄文土器が出る集落で、水田で水稲栽培をしていた例もありますし、縄文集落でも陸稲栽培なら広く認められます)のですが、水田も広く行う様になれば、周りに林は少なくなり、森から段々に隔てられる事になります。番犬として必要だったとしても、犬は次第に住居から遠いところで飼われる様になったでしょう。猿は稲を収奪しはしません(ここで問題になるのは、水田を掘り返す事のあるイノシシ)し、熊は稲を食料とはしません。もし、柿や栗を同時に栽培していたとしても、住居の周りには先ずは水田があり、栗や柿の栽培地は、水田の周囲、もしくは、住居から水田で隔てられた地に置かれる様になったでしょう。そうでないと、熊の危険があるからです。そして、犬を飼育していたにしても、番犬たる犬は、そうした水田の周囲で飼われる事になったのだろうと推測します。

 一方、猫は弥生時代に朝鮮からか、中国からか知りませんが、連れて来られる事となった。従来は、猫が日本に連れて来られる様になったのは、遣隋使や遣唐使によって、と考えられていたそうですが、今や、弥生時代に猫のいた事は考古学的証拠で裏付けられています。猫が、どれだけ広く分布していたのか、は不明ですが、主に食料倉庫をネズミから守るために飼われていたのだろうと考えられ、その考えに沿って、国立歴史民俗博物館の古代エリアはリニューアルされました。高床式倉庫の隣に猫(勿論、彫刻。別名、模型)がいるそうです。

 遣唐使、遣隋使によって連れて来られた猫は、源氏物語(例、若菜上)の時代の様に紐に繋がれていたのかも知れませんが、弥生時代の猫がネズミ除けだったとすれば、自由自在に、その辺を闊歩していた事でしょう。だからこそ、それ以降の時代の猫の死体の骨と区別が付かず、長い間、弥生時代に猫がいた事が判らずにしたのだと思います。が、食糧倉庫の周囲に猫がいれば、その猫は住居にも往来していた筈。そして、猫がいつかない様な状況は避けた筈。とすれば、犬は、ますます住居区域から遠ざけられた可能性が出て来ます。そして、弥生集落と縄文集落の混在する地域は、弥生集落の方こそ、縄文集落を、番犬代わりに使い、縄文集落がある事で、熊の出現を防ぐ機能を果たさせていたのだ、とも考えられます。

 弥生文化を猫の文化と考える所以です。そして、縄文時代を犬の文化と考える事には、さして問題を感じない所以でもあります。

(1)【2019年5月13日07:00過ぎに発生確認】 ログインしている状況で、プロフィールの画面に遷(うつ)っても、編集出来ない。2019年5月12日には「編集する」だったボタンが、翌2019年5月13日には「+フォローする」になっている。プログラム変更があったものと推察する。


(2)【2019年5月13日07:45以降一時的に発生 → 同日08:00までには回復】 画面レイアウトのデザインを「シンプルブルー」、設定・管理>基本設定 で「ブログ記事数」を3にしている状況で、ブログに当初表示される記事数が1になってしまった(3にする前に、1だった時間帯は前日にはある)。


 〜〜〜 〜〜〜

<関連記事>

ライブドア・ブログって、安定してないね。
https://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/65275417.html
(2019年5月7日UP)
…アメーバ・ブログも同じ様な状況にも思えて来る。

 昨日2019年5月12日、アメーバ・ブログ https://ameblo.jp/rey-wa/ に、このブログのデータを移行してみました(記事1件を除く)。で、少し操作して行く中で、アメーバ・ブログの不思議な動作・仕様にも気付くに至りました。これからも、そうした気付きが出て来ると思いますので、取り敢えず記事を作成し、ここに、そうした気付きを集めておきたいと思います。


(1)アメーバ・ブログのタイトルは、記事投稿画面だと文字数が制限されている(実験では、2バイト文字で48文字)が、ライブドア・ブログから移行して来た記事では、それ以上の文字数が表示されている(例 https://ameblo.jp/rey-wa/entry-12460743554.html )。
 もしかしたら、記事とタイトルは、ブログのデータとしてはサーバ上、同じ領域に格納されていて、それをHTMLによって分けているだけなのかも知れない(参考記事 https://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/65278196.html )。

→ アメーバ・ブログのタイトルの文字数制限は、20219年3月18日までには、緩和されていた。

(2)アメーバ・ブログのアクセス分析では、午前0時を機に日付が分けられているものではないらしい。2019年5月13日、昨日の欄に表示されているのは、2019年5月11日の数値(日付欄に5/11と表示)。そして、今日のアクセス数に表示されているのは、昨日2019年5月12日に表示されていた値にプラスされた値の様に見える。

http://helps.ameba.jp/faq/bloggenre/bloggenre/ameba_37.html には、仕様として、

今日のアクセス数はリアルタイムで更新され、0時より再集計されます。
最終的なアクセス数は、午前8時ごろ確定します。


と記載されている。
 

全1ページ

[1]


.
レイ豚
レイ豚
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事