黄色い蛇足@日立柏酒場裏

2019年9月以降は、https://reywa.blog.fc2.com をメイン(主たる)・ブログとします。

My statement

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

 2010年10月23日未明のTV朝日系「朝まで生テレビ」で、この事に触れていたので、この機会に私の考えを書いてみる。

 ☆★☆★☆

 この捜査の可視化は、1970年代から刑事訴訟法の「教科書」を見れば必ず載っている事だった筈(少なくとも、当時の先端を行っていた渥美東洋氏の教科書には載っていた。渥美氏の論は、英米法の歴史的本流に沿った堂々たるものだったが、当時の日本じゃ、あれは「最先端」w)。「可視化」は英語で言えばvisiblizationだったと記憶するが(さすがに、visualizationじゃないだろう。これじゃ図示化になっちまう)、トヨタは生産工程などについて「見える化」と言っているものと全く同じもの。工程(プロセス)を合理的にする為には検証出来る様にして行かなければならない、ってもの。

 私はこれについて、以下の様に考えている。

 「可視化」と言うが、立法政策(法律的に言えば、以下のものは、「立法政策」ではない)として、と言うか、先ず急ぐべき政治的妥協点(政治的着地点)として、全ての捜査過程を誰にでも見える様にする事まで一気に考えなければならないものだろうか?私の考えるところでは、

(1)全ての強制捜査での取り調べ(供述聴取)過程、全ての任意捜査で捜査官庁の施設内での取り調べ(同前)過程を録画する。

(2)被告人側(被告人および、被告人側弁護人)には、被告人の捜査過程の録画は全て開示する。

(3)被告人側に不利な捜査情報のうち、聴取された本人(共犯や、周囲の人の証言など)が同意したものは全て被告人側に開示する。その本人の同意の有無は、裁判官の面前で行う。

(4)捜査に問題が指摘されたときは、捜査機関は、他の指定捜査機関)(地検なら、他地検や高検など)による録画での資料を全て検査出来る様にする。

(5)公的な記者会見以外で捜査情報を漏洩した捜査側関係者は、刑事罰の対象とする。唯一の例外は、告発を伴う内部情報などの、公益通報。

を最初の政治的着地点(政治的妥協点)と考えている。

 ☆★☆★☆

 私が疑問に思うのは、被告人側に不利な情報は全て法廷に出したり、被告人側に開示されなければならないものだろうか?って事。文書化されたものは、出すべきであっても、録画に関して、全てが必要か?って事。

 何か怪しい、つまり、犯罪に直接関係があるかないか判らない情報ってあるものだ。それを周囲の者に確認して行く過程の全てを開示しなければならないものだろうか?例えば、「同僚の人が何か怪しい様に思うのだが、犯人である確証は無い」なんてレベルの話はいくらでもある。それを全て後から開示されるとなれば、現在、法務省が懸念する様な捜査への支障と言うのは、確かに出て来るものと考える。不審レベルでは人は捜査情報として提供しなくなる傾向が出て来るだろう。犯人ではないのに「怪しい」なんて指さした人は、指さされた人から、後から何らかの不利益な扱いを受ける事は免れない(それも、理の当然とも言えなくはないが…)。

 また、暴力団が関係する事件で証言をする人は極端に少なくなるだろう。

 だから、上の(3)を設ける。そして、暴力団とつるんだ警察官や検察官なんていないとも限らない(つるんだ、って意味は、例えば、実質的な司法取引の様な形で捜査情報を流す事が想定される)から、(5)を設ける。(5)は、司法関係記者なんかからは猛反対を受けるだろう。でも、これによって検察側リークや警察側リークは出来なくなる。この範囲は、報道機関からは猛反対を受けるので、団体交渉みたいな形で話し合って決めたらいい。「国民的議論」てヤツ。立法側から積極的に議論を仕掛けなくとも、報道機関側がいくらでも盛り上げてくれるさ(笑)。

 (1)については、何ら問題を感じない。これをまで捜査への支障だと考える捜査側関係者は、ちと考えた方がいい。かつて東京地検特捜部にいた堀田力氏が「取調べは精神的・物理的圧迫の下で、何とか供述を得るものだ」と云った様な発言をされていた事があったと記憶する。が、この言葉の射程距離は慎重に見定めなければならない。物理的圧迫、精神的圧迫が無条件に認められてよいものではないのだ。

 憲法38条は、

1項で「何人も自己に不利益な供述を強要されない。」と定め
2項で「強制、拷問もしくは脅迫による自白又は不当に長く抑留もしくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。」と定め、
3項で「何人も自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。」と定める。

 3項の「有罪とされ、又は刑罰を科せられない」は「有罪とされることもあれば、無罪となることもある」と読んでしまうと、「当たり前のことを白々と…」と思ってしまうが、意味は「有罪とされる事は無く、刑罰を科せられる事も無い」の意味。これは歴史的経緯のある文言であって、「この様に努めなければならない」と云った意味の規定(こうした規定の例としては、憲法25条2項があり、「プログラム規定」と呼ばれている)ではなく、そのままの意味で運用されなければならないものとして理解されている文言である。一般の人は驚くかも知れないけど(まあ、少しでも昔の勉強を憶えていれば、「ああ、そんな文言あったなぁ」くらいは思い出すかも)。

 これらの文言を読めば、(1)に問題の無い事が明らかになるだろう。但し、捜査官が第三者の証言を不用意に引用してしまい、(3)の規定を無意味にしてしまう事はあり得る。その場合、捜査官は、裁判官の許可を得て、その部分の不開示もしくは修正(ピー音や声質の変更など)を施してもいいのではないか?それが裁判の過程で問題になれば、先の裁判官とは別の法廷での裁判官が判断すればいいと考える。この点は、弁護人の防御に不十分となるか、どうか?を、これからの運用で考えて行けばいいだろう。
 また、山口組系の暴力団(特に「弘道会」。何とも、おこがましい名だ)は、今や捜査員の個人情報を収集している。捜査担当者の氏名やら住所やら、家族関係、家族の勤務先、親戚関係などの情報を積極的に収集しており、それを取り調べの際に引用し、捜査関係者を萎縮させる、なんて事を普通にやっている。法務省や警察庁が可視化に絡んで問題点として挙げている「捜査段階で個人的信頼関係を築く為に交わした捜査員の個人的情報」などは、裁判官の判断で開示する記録から削除してもいいだろう。その特定が後からでは困難である場合もあるので、都度、申請できる様にする仕組みが必要かも知れない(捜査機関側の上司のチェックが必要だろう。あまりにその割合が多過ぎる捜査官は考え物だ)。こうした判断をする「裁判官」の増員がどれくらい必要になるか?それは問題。

 全捜査機関の録画での上記の様な処理が困難であるならば、「先ずは」、検察庁での取調べは全て「可視化」の対象とし、警察段階の取調べは(4)の目的で全てを録画した上で、法廷で裁判官が認めた場合に(「例外処理として」)法廷に提出する形でも構わない、と考える。
 現実の公判の結構な割合は、即決裁判(事案の軽微かつ明白などの事情を考慮し、被告人の同意を得て、書面で行われる裁判。刑事訴訟法350条の2、350条の3)であり、そうしたものまで全て捜査段階の証拠を録画なども含めて開示すべきであるとは、私は考えない。「可視化」を唱える者でも、同意見だろうが、念の為、申し添える。「必要な際に、それを検証出来る様にしておけば、それで充分」と考えている。先に書いた様な裁判官による不開示決定も、開示の対象となる範囲だけで行えば足りるだろう。

 とにかく、現在の運用での問題点を防ぐべく、運用を常に検討し、工夫して行く事、そのことこそが必要な事だろうと考える。まあ、今の国会は、一度決めたら、なかなか変更出来なさそうなところが問題ではあるんだけど。でも、それが問題だって事は即ち、国会が機能を停止しているって事でもあるんだが(現時点で、そう判断しても構わない面も見えると、私は思うが)。少しでも現行制度を前に進め、改良出来る点は、直ぐにでも実施すべきだ。それが、不十分な面を持っているとしても、上に書いた地点までは、直ぐにでも進むべきだろうと考える。

 ☆★☆★☆

 まあ、私は今のところ「部外者」なので(いつ刑事被告人にならないとも限らない訳ではあるが)、検討の漏れているところはあるだろう。指摘されれば、更に検討を加えたり、部分的な変更を加える事に何ら ためらいは無い。もっとも、私が意見を修正しようが、世間的には大した問題にはならないんだけど、さ(笑)。

〜 「その1」(http://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/59200200.html )から続く


 現在の規範意識を「保守」の出発点に置く場合、どうでもいい事を重要なものの如く論じる「針小棒大」の議論を一つ見る事が出来る。選択的夫婦別姓制度と言われるものだ。

 現在の日本の民法は、結婚した場合、戸籍上、男女が同じ姓を名乗る事を強制する(義務づける)。これを、別姓を選択出来る様にしようと云うもの。別姓を強制するものではなく、今までの同姓に加えて、別姓を選ぶ事が出来る様にするもの(同姓の義務づけは廃止される事になる)。これを山谷えり子・参院議員(この人も私の軽蔑する一人)などは「家庭を壊す」などと非難しているが…あほくさい、としか言い様がない。
 両人の選択により、同姓にする事も出来るし、別姓にする事も出来る。恐らくは、多くの場合、慣習的な動きで同姓となるだろう。しかし、もし別姓を選んだとしても、そして、たとえ別姓の方が主流になる時代が来たとて、それはそれぞれの結婚で両人が周囲の意見も聞きながら「選択」した結果に過ぎない。それが、どちらに転ぼうが、その事が結婚の在り方を左右し、破壊したり促進したりする様に動くものではない。結婚の実態は、その環境の上で醸成されるものだ。あるときは、慣習を重視し、その規範的意識を訴えながら、現在と違う慣習が生まれる可能性のある事に対しては、非難をするのだとしたら、そんな論理は「二枚舌」って非難を、今度は、甘んじて受け入れるしかないだろう。現在の慣習だけが重んじられ、それに反するものが非難されるなんてのは、おかしな事だ。慣習の持つ意味を重要視するのなら、国民が選んだ結果には、静かに従ったらどうだ?
 私の思うところ、別姓が主流になるなんて事は直ぐには起きはしないし、起きたところで、そんな事は大した事ではない。
 まあ、長い目で見れば、姓の集約の過程が停滞する、って意味合いはあるかも知れんけど。韓国なんかは、別姓だったと思うが、結局のところ父系であり、姓が集約され、姓の持つ区別の意味合いが非常に薄くなってしまっている(韓国人の1/3以上は「金」姓だ)。日本は明治になって、姓を皇室以外の全員が持つに至ったが、それ以前には「姓」があった訳ではなかった(まあ、その代わりのものがレッキとして存在した訳だが)。その程度のものを「日本の伝統だ」何だと騒ぐ価値があるのか?「藤原」姓だって、定家以降あるところで「冷泉」に変わった家だってあるし、戦国時代にゃ、大名はころころ姓を変えていた。実は、英米じゃ、今でも結構簡単に姓を変える事が出来るし、日本だって、結婚、離婚、帰化、以外の理由で姓を変える例なんて、戦後暫くは結構あったじゃないか。何をとち狂ってんだか…てのが、私の実感。
 例えば、日本の現行民法の定めるところでは、夫婦財産制に関して、法定モデルとは別に戸籍に記載する事で、独自に夫婦財産制を定める事が出来る。しかしながら、この様な夫婦財産制を定めて結婚する人は年間200人に満たない(もしかしたら、総計200名だった?…んな事はないだろう。きっと年間100人台)。そうした例外事項が民法に定められていたって、いいじゃないか。地方自治法に至っては、直接民主制の規定まであるが、実際に使っている自治体なんて一つも無い(笑)。

 何より、夫婦法制に関しては、事実上の契約であっても、それを法律の網の下(規制対象=保護対象)に取り入れて、保護の対象にして行くのがあるべき姿だと思う。イスラームの結婚は、契約的な色彩が強く、夫婦の有り様を事細かに契約で定める事が出来る(初婚時に、法的には認められる一夫多妻制の排除を契約する事が出来るし、それは、法的に有効となる)。但し、いざ破綻する際には、契約の不履行が得てしてそうである様に、その契約の内容の成立不成立を争う事になってしまう。法律で保護する範囲を極力広く認め、その上で、破綻の際に法的確認を求めた方がいいのではないか?(この私の意識は、日本の実際の法制の態度と少し異なる。と云うのは、日本は協議離婚を認めるから。海外の法制では、離婚には裁判所の関与を必須とする国もある)
 かつて日本では、戦前は、家制度を趣旨とした故に、戸主である男子と戸主である女子の結婚は法律上、認められなかった。つまり、一人っ子同士の結婚は出来なかったし、長男と 男子の兄弟を持たない長女の結婚は多くの場合、法律上、出来なかった。しかし、実際には、愛し合い、同居し、子供を育てるカップルは存在した。しかも、周囲に疎まれる訳でもなく、祝福さえされながら、そうした生活を送る者たちがいた。これを法の保護下に置く為に出来た処理形態が「内縁」と云うものである。「内縁」は、単なる同棲ではなかったのだ(判例上は、外部から内縁と認められる識別が必要とされた。結納とか結婚式とか。結納が出て来るのは、法律的な届出をしないままで同居に入ったカップルを同じ法的処理形態で保護した故である)。韓国でも、同じ系統の男性と女性は、20年ほど前には法律上結婚出来なかった(今でも、そうかも?)。「金」姓は、韓国では確か3系統程度に分かれるが、その3系統の中での通婚は禁止されていた。国民の1/6程度は、互いに結婚出来ない、てな法制度になっていた訳だ(伝統的な道徳感情に支えられていたのは言うまでもないが)。しかし、そうした事情での事実上同居するカップルにも「内縁」と同じ処理形態で、韓国法は、裁判上法的保護を与えたのだ。現在、姓が変わる事を嫌い、結婚しない者がいる。福島瑞穂・少子化担当相も、その一人で「事実婚」=「内縁」に当たる。こうした者が結婚しないのは、「その人の勝手」ではあり、だからと云って法制度の改正を望むのは「筋違い」の様な気もするのは私も同じだが、実際、それで結婚(法律上の婚姻)に至らない者があるのなら、それを法律上の制度に取り込むのが、法のあるべき態度ではあろう、と私は考えるのだ。取り入れたからと云って、日本の伝統を壊す様な事にはなりはしない。そんな事で壊される「日本の伝統」など、無いに等しいものだからだ。

 余りにどうでもいい、宗教的意識を、社会を律するルールの分野に持ち込むとおかしな事になる。例えば、相撲の世界に於ける、内舘牧子の様なものだ。内舘牧子の説く世界は、「伝統社会の理想」の姿ではあろうが、その中のあるものは、それほどの重さを持たさずともよいものもある(例・ガッツポーズの有無は、興行をサボってサッカーをしていた事より軽い事だし、興行をサボってサッカーをしていた事など、興行の最中に泥酔して一般人に暴力を振るった事から見れば、遙かに軽い)。それらの間の軽重を考えずに、全て、「伝統的規範から逸脱している」として指弾する態度では、恐らく、相撲の様な、狭い社会を一時的に仕切る事は出来ても、1億人を超える実社会は仕切れはしない。規範の価値は、それぞれ違う。憲法の規定の持つ重さだって、実定法上は同価として扱うべきものだとしても、現実には、それぞれの重さがあり、軽重の差がある。それが人間の社会の歴史的な成果物であるものの、当然の宿命である。そんな程度の事も理解していない者(旧・社会党党首だった土井たか子氏は憲法学者だったが、そうした者の一人だった)には、実社会を本当に仕切る事など出来ないのだ。山谷えり子も、実社会を仕切る力の無い者であるのは論を俟たない。
 この意味で、安倍晋三が1年程度で政権を去るに至ったのは、何の不思議も無い事なのだ。あの程度の論理では、1年持った事さえ不思議なほどだ。総理たる資質を持つ者の論理ではなかった、って事だ。

 ☆★☆★☆

 論理は、それが論理として筋が通っていればこそ、常に、現実化する可能性を模索する。論理として筋が通っていないものは、そんな事はないのだが…筋が通っているものは、人間の意思如何ではなく、論理であるが故に(「自然の摂理であるが故に」と、ほぼ同価)現実化する圧力を持つ。素数論や リーマン予想が、現実化の場面を持っているのは、この意味で何ら不思議ではないし、複素数などと云う概念上のものが、現実を説明する上で欠かせないものになっている事も、何ら不思議な事ではない(私の小さい頃は「数学なんて実社会じゃ何の役にも立たない」と云う表現をよく聞いたものだが、私の今の実感からは「数学ほど、世の中でそのまま役立つ お勉強は無い」と言える)。

 伝統とは、時間の経過で、その論理の可能性の現出形態をある程度見通す事が出来ているからこそ、現実に対して、力を持っている、とも言える。この様な意味合いで「伝統」を見るとき、そのときの伝統の「力」は、バラツキの度合い(バラツキの現出程度)と不即不離のものとなる。バラツキを無視した「標準モデル」でしか語らぬ人間などに、現実を語る力など、ありはしない。特に、常に可能性を模索する事を実社会の中で義務づけるがごとき、資本主義社会・自由主義社会に於いては、尚更なのだ。その事を、日本で「保守」を自認する方々は、肝に銘じておかなければばらないだろう、と私は考える。

 ☆★☆★☆

 以上の論には、少し議論の飛躍が紛れ込んでいる事だろう。でも、今回は、そのままUPしてしまう事にする。以上の事は、私の中ではほぼ固まった「主張」(だから、My statementの書庫でUPする)なのだが、他人に判りやすく説明する事にばかりに余りに注力していると、UPの時機を失してしまう気がしているので。だから、後で、論理を補って論じ直す事を前提に、今のうちにUPする事にする。

 同様の趣旨で、「民主党の論理の脆弱性」(「意見集約過程」としての「政策立案過程」について論ずる事になる)「論理の脆弱性の現出形態としてのサッカー」などについても、近いうちに記事をUPしなくては…と考えてはいます(笑)。

 私は、以前から、日本で「保守」を自称する方々の論理が、どうも教条的であって、その心のありさまがマルクス主義者と瓜二つなのを訝(いぶか)って来た。最近になって、その起源(出自)と理由が明らかになって来た様に考えるので、ここで、その仮説を披瀝する次第。

 それは、日本の「保守」を主張する人々の論理の脆弱な面と裏腹なのだが、意見の多様性を怖れ、均一化に向かう傾向が見られる事。そこに、論理的な由来を持つ様に考える。「標準モデル」で「国民」を語るのが、それらの人々の通例。「国民」が多様な価値観を持ち、当然、多様な意見を持つ事を認めない…と云うか、そう云う事態に耐えるほどの論理的な強靱さを持たず、そうした事態に耐えるほその精神の強靱さも持たない。
 恐らく、その理由は、そうした論理の出自に由来する。私の考えるところ、江戸時代に、日本の「国民」は分断されていた。藩により分断されていたし、何よりも身分により分断されていた。士農工商と云う身分は全く交流の無いものではなかったが、それらの間には、歴然たる規範の違いがあった。明治時代に「民法成って、忠孝滅ぶ」とされた民法典論争があり、あれを日本の慣習法たる家族法を移入法たる西洋法により破壊する事に抵抗した戦いだった、と評価する人々がいる。確かに、そうした面はある。が、当時、家族に関する法的規範意識がそれまでの属した身分により、様々に分裂していた事を忘れるべきではない。日本はある意味では、分裂していたのだ。この分裂を「国民」たる意識で統一して行く過程、それこそが明治日本の歩みだったとも言える。そして、そうした意識を継ごうとし、そこに捕らわれた者が、現在の日本の「保守」を自認する人々なのではないか?と考えるのだ。

 私は、実は「保守」を自認する人々の意識の在り方に、ちと疑念を持っている。それは、「現在ある制度のいいところを壊さず、生かしながら新しい事態に対処して行く」と云う柔軟な態度よりも、むしろ「昔存在したよきものを目指し、現在を修正する」って態度を採る者が多いから。それは、改革主義者、修正主義者と何ら変わる事が無い。これが、かつて広く存在したマルクス主義者の言動と瓜二つに見える理由だったりする。そして、「現存するもの」を守るのではなく、「もう無くなったもの」を目指す態度故、それは、どこか宗教者のエロス(宗教的に、上を目指す)的態度に通じるものがある。だからこそ、学生運動のセクト主義宜しく、派内闘争、分派運動が盛んになって行くばかりなのだ。これは、米国の宗教を背景に持つ保守層の動きに通じるものがある。
 私の考えるところ、現在の日本で「真の保守」と評していい政党は、日本共産党以外にないのではないか?とさえ考えているんだが(笑)。何より、「どっちが『真の保守か?』」などと云う論争は、誰かの覚えメデタイ事を競う様なもので、「真の政治家」のとるべき態度ではない。それは、宗教家の採って来た態度そのものだ。

 「現在の美徳」を守ろうとする政治家なら、「生活が第一」の態度を貫く筈だ(スローガンの同一である事だけを以て、小沢一郎が真の保守政治家だ、などと言う積もりはない)。その意味で「日の丸」「君が代」なんてものを「国民の生活」より大事なものの様に言う政治家に「保守」と自称する資格は無い様に思う。

 国民の意識のバラツキを認め、耐え、その中で、国民の生活を第一に、ヘンナ理念(マニフェスト第一主義も、そうした理念の一つ)に惑わされる事なく、国民の生活、美徳を壊さず、日本を新しい事態に対応させようと努力する人、そうした方だけが「保守」の名に値する筈だが…私は、そうした「保守」に値する方は、いまだ見つけられずにいる。与謝野馨が態度的には近いのかも知れんが、ちと…将来に向けての手法に私は違和感があり、大切な政治家だとは思うものの、与謝野香をそのまま支持する気にはならない。

 ☆★☆★☆

 なお、明治日本の目指した「日本の伝統」は水戸国学が先導したモデル像である。当時の日本が、それをモデルとした事は致し方ないものだったとも思える。が、明治に年号が変わって100年を優に超えた現在、それを再考する精神的余裕は持っておいた方がいい。
 水戸国学は、文献によった学問的手法を採っている。それ故に、古ければ古いほど朝廷を中心とした文献しか残っておらず(文字が官僚国家=律令国家の成立と軌を一にして導入されたものである事も関係する)、それは朝廷中心の理念に結実するのが自然な流れだった。それが明治の「国民国家」モデルになったにしても、現在は、もう少し学問は進んでいる。様々な層の様々な歴史、そして規範意識の変動を見る事が出来る様になっているし、歴史の把握に準用出来る学問的知識も増えている。そうした面を動員しながら、現在の規範意識から照射してみる事が重要な気がする。

 そうした中で、「保守」を自認する方々の中で、明らかに宗教的態度が紛れ込んでいる方も見受けられる。例えば、天皇の継承者について男系を維持すべきか、女系を認めるかの議論の中に「Y染色体」などと云うものを紛れ込ませる類の人間(例:安倍晋三のブレーンとも云われた八木秀次など)。Y染色体は確かに父から男子にしか受け継がれないものだが、その中の何が天皇の継承に力があったか?を特定して議論する事なく、それを男系の論拠とする事には失笑を禁じ得ない(私は、天皇男系と天皇をいただく統治形態について、別の歴史的仮説を持っているが、それは別稿に譲る)。
 八木秀次は、憲法学者としては、私の最も軽蔑する部類に属する者だ。彼は基本的に「法律学者」ではない。1980年代後半の早稲田大学の憲法9条を巡る神学論争の中で隙間に育った徒花だ。彼が「保守」を語るとき、エドモ(マ)ンド・バークをよく引き合いに出すのだが、私は、その論拠にいつも違和感を覚えて来た。私が愛読し、私の中を貫通している基本的態度はエドモ(マ)ンド・バークから得たものだが、その持つ意味は、八木秀次の語るものとは180°違うものだからだ。エドモ(マ)ンド・バークは、批判する際の論拠たるものを「生活の中」「伝統の中」に求め、具体的にそれを語ったのに、八木はお題目の様に彼の名を語るばかり。その語る「保守」の内容は換骨奪胎した水戸国学になってしまっている。そして、八木は、実際の日本の歴史、民俗、言語について語る事は滅多にない。せいぜい、朝廷、公家の史実に言及し、明治時代の国家建設の過程、ドイツ法史学を語るだけだ。ドイツの歴史法学の代表の様に言われるSavigny(サヴィニー、ザヴィニー)が当初、ローマ法の研究から入り、ドイツの歴史、民俗(グリム兄弟は彼の弟子に相当し、言語研究、民話収集は、その成果)の研究の中で、大きく主張の内実を変えて行った事と同様の事を、彼らはいまだ行っていない。「あたらしい歴史教科書をつくる会」のメンバーによる著作集は、どこか解釈を主張する書の赴きを持ち、具体的な事実への執念も無ければ、愛情も感じられない(まあ、私の感想だ)。八木秀次が「生長の家」を信仰する者だ、と云う事と関係があるのかも知れないが、その本質の違いは何だろう?てのは、心の片隅で(真ん中で考えるほどの重要性はいまだ感じた事はない)気になっていた。八木の引用が、エドモ(マ)ンド・バークだけでなく常に、私の体得した本質から少しずれたものである事は気にはなっていたが、私と八木が違う人間なのだから、そうした事も当然かとも考えた(常に、元の著作の本質的などこかを綺麗に捨ててしまっているのも、引用の裁量からすれば、よくある事ではある)。が、最近、その本質的な違いに気付いた。エドモ(マ)ンド・バークは英国の保守主義者。英国の保守主義者は、多くの場合、自由主義者であり、エドモ(マ)ンド・バークも、その例に漏れない。が、八木秀次は、エドモ(マ)ンド・バークを語り(騙り)ながら、その実、宗教的理念を語り、一方向に国民を集約しようとする。その違いの理由は何なのか?それは本質的なものなのか?と考えた問いに対する答えが、上の様な理解を導いてくれた。

 ☆★☆★☆

〜 ヤフー・ブログの記事の文字数制限5,000字を超えた故、以下は「その2」(http://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/59200204.html )に続く 〜

 今朝、

日本の「保守」を自称する政治家の底の浅さ
http://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/58366649.html

と云う記事を書きました。

 実は、私は自分を「極めて保守的な人間」だと自認しております。が、その「保守」なる部分は、人間への認識に関わるもの。環境が次第に変化する中で、その「保守」的な人間認識に基づいて、その人間の保守的なものを守ろうとすればこそ、制度・システムを大胆に変えざるを得ない事が多いのだ、と考えています。そこで、「人間社会の伝統」を守る為に、不断に制度・システムに修正を加えていくべき、とするのが私の基本的態度です。そこで、システムに関して言えば、私の持つもう一面は、an radical liberalistであった(二十数年前に自認していた私の姿)訳です。しかしながら…この二十数年でliberalistって言葉自体が大きく意味を変えてしまい…今、私をこの言葉で定義する事が出来るのか、どうか(笑)。

 私が、自分を極めて保守的な人間である、と考える根拠の一つが、かつてDavid Riesmanが定義した「大衆社会」(アメリカに於いて1950年代に現出し、日本に於いては1960年代から経済的に現出し、1980年代に政治的にも完成した社会)に於ける人間の対立類型「ジャイロ型」(伝統指向型、内部指向型)「アンテナ型」(他人指向型)で言うと「ジャイロ型」に属するからです。

 もっとも、私が1980年代半ばのThe Economist(ロンドン発行。東洋新報から出ている「エコノミスト」とは別)で書いてあった1ページほどの記事で驚いた様に、人間のタイプは各時代、同じではありません。統計学的調査によれば、幼児期に於ける社会から受ける作用と言うのはかなり大きく、20年も経てば人間類型さえ大きく変わってしまう。良い例が、現在の日本に於いて「ネット右翼」と言われる人間の類型をDavid Riesmanの定義に合わせて見ると、多くが「アンテナ型人間」であり、現在の日本で自称「保守政治家」は、そうした連中によって支えられている場合が大部分なのですから。もう驚く他、ありません。
 なお、誤解の無い様に言い添えれば、人間の全体を類型別にする「性格テスト」と言われるものは、大部分が「インチキ」です。仮説に基づいての類型化を、仮説を検証しないままに適用しているものが大部分であり、私は学生時代、性格テストを様々に操る事を密やかな特技としていました。自分の目標とする性格を性格テストの結果として出す事をかなりの高率で実現する事が出来ました。性格テストなんて、そのレベルです。過信してはイケマセン。もっとも、過信してしまっている人間の、何と多い事か(就職時のSPIを始めとする性格テストなんて、そんなレベルですし、かついて流通業で優勢だったクレペリン検査も大差ない。血液型類型に至っては、もう噴飯もの)。性格の一断面を統計的に扱う事は可能なのですが、人間をそれで数種類のタイプに分けるなんて…有意義な仮説としての切り口を持つものが、そのまま社会的に有用性を持つ訳ではありません(この点で、刑事法に於ける平野龍一氏や、また社会的な切り口としてのマルクスの、仮説としての有用性はあっても、実務的に拠って立つ基盤としてはかなりの危うさを持つ事も、同様)。

 さて、そうであれば、「伝統」とは、いかなる意味を持つものか?また、同様に「歴史から学ぶ」とはいかなる事を言うのか?

 ここまでが前振りです(長い事…笑)。そして、その結論は、私には結構短い言葉で定義出来てしまうもの。
 上で言う「仮説」レベルでしかないかも知れないですけど…まあ、人生に於ける信念なんて、そんなもんでしょ?

 ☆★☆★☆

 私は自分を「保守的」である(Sein)と自認してはいますが、「保守的」であろうとしている(Sollen)訳ではありません。ですので、誰かさんの様に「現代に於いて保守はどうあるべきか?」なんて命題は立てません。そんな問題の立て方は、意味が無いと思っているから。「現代に於いて保守はどうあるべきか?」なんて立論をする人間は、自分が保守の立場で、どうあるべきか?と自問してらっしゃるのでしょう。が、私は「保守」であろうとしている訳ではありませんから、「伝統」とは何か?そして、「歴史から学ぶ」とはいかなる事か?と、問いを立てる訳です。

 でもって、その間の論拠を省いて結論を示せば(こんなレベルだから「仮説」て言うんです…笑)、それは「過去の経験、人間との対話に尽きる」って事です。これが結論(爆)。

 ☆★☆★☆

 残念な事ながら、誰にでも、また、自分の経験の浅さを補って判る事の出来る伝統の高みなんて存在しません。過去の人間は、どんな偉人とて、自分より少し高く見えるだけです(これは、私の尊大さ、傲慢さから来る、見え方なのかも知れませんが)。自分の到達したレベルから学ぶ事の出来る高さにしか、他人の偉大さは見えません。本当に圧倒的な「スゴイ人」てのはいるもので、そうした人間の影響力たるや、圧倒的なのです(宮台真司が「日本の論点」の第2章で「感染的模倣」と呼んでいるもの。これを知っている事から、私は宮台真司をある意味信用出来た)が、死人たる歴史上の人物には実際に会う事は出来ないのですから、そうした過去の「感染的模倣」の中に自分を置く事が出来るとは限りません。
 唯一の例外は、そうした「感染的模倣」の時間的連鎖の中に自分があり、直(じか)に自分の師から、そうした「感染的模倣」の連鎖を受ける事。現在が第何十代であろうが、その連鎖から初代なり、それぞれの代の偉大さを思い知る、って事はあります。けど、そんな体験は稀でしょう。
 私の経験で言っても、そうした「師」には5人前後(数え方を変えても、10人に満たない数)しか会えていません。もっとも、会っているときには当初モノスゴイ反発してたりした訳ですが(爆)。そして、私の場合、そうした形の「連鎖」ではなく、ほぼ皆が「初代」に当たる人だったので…伝統と呼ぶには問題があるかも。

 少し話題が逸(そ)れてしまった気がします。先ず言いたかったのは、自分の経験が浅ければ、他人の偉大さを感受出来るとは限らない事。その上で言えば、伝統や歴史の中にある高みは、それを伝えてくれるものさえあれば、何十年、何百年離れていようと、「直接に」高みから高み(自分を「高み」と言うのは気が引けますが、そのレベルで、って事で)へ伝わる、って事です。この意味でこそ、「古典を読む」「古典に接する」って事の意義があります。自分が当初判らなくとも、何かの思索の下、求めるものがあって「古典」を読む(接する)とき、そこに時間の隔たりを超えて、直接に伝わって来るものがある訳です。もっとも、こうした事は「本」には限らないのです(例えば、美術の場合もある)が、過去の遺物は、「感染的模倣」の時間的連鎖を除けば、残り方に問題がある訳でして…。

 とにかく、伝統ってのは、そうした対話の中にしか存在や形を見せてくれません。ですので、自分の鍛錬・訓練・経験の積み重ねが必要な訳です。

 ☆★☆★☆

 …と、ここで、疑問に思う方もいるでしょう。
 「現代に於いて保守とはどうあるべきか?」って立論をする人の言う、「伝統」ってのは、意味が違うのではないか?って。

 そう、明らかに違います。
 そうした方が言う「伝統」とは、社会的に言うSollen(あるべきもの)がある程度の長さ継続した事によって、社会的慣習として個人に求められるに至ったものだったりします。そして、実はSein(現実)からはいささか離れていたりするものだから、尚のこと、始末が悪い(笑)。

 例えば、中根知千枝さん(元・東京大学教授)から伺った事ですが、1900年代の日本と1970年代の日本では、統計的な数値では、離婚率も全世帯に於ける核家族の割合も大差はありません(私自身はソースに立ち帰っての再確認はしていません、ですから、伝聞元を明かした次第)。ちょっとした驚きではある事実ですが(笑)、その間の社会的規範意識(Sollen)は大きく変わったのにも関わらず、そうなんですって。
 何故、統計的数値が同じレベルか?これには、環境のなせるトリックがあります。
 離婚率に関しては、1900年代に於いては女性の地位が低く、男性からの三行半による離婚てものがそれなりの割合で存在した。一方、1970年代に至ると、男女平等がある程度進み、協議離婚による離婚で離婚率は上がった。けど、数値だけを70年間の時の隔たりと数値変化を捨象して比較すると、ほとんど差が無い訳です。まあ、男女の離反は、時代の変化を捨象しても、同じくらいだ、って言えるのかも知れませんが。
 核家族の割合については、もっと面白いトリックが…1970年代には、子供の世帯が親の世代と同居しない例が増え、「核家族化」と呼ばれた訳ですが、全世帯に対する核家族の割合の数値は1900年代の数値と、ほとんど差が認められない。理由は、1900年代には子供が多く…同居したくとも、子供世帯には親が2組、計4人しかいない、ってところにあります。つまり、長男・長女の世帯では同居が多かったものの、それ以外の次男、次女、三男、三女てな夫婦が多かった故の似た数値、て訳。ちなみに、戦前の家を中心とした夫婦制度では、家を継ぐ者同士の結婚は法律上、不可能でした。つまり、家を継ぐ者としての長男と、同趣旨の長女との結婚は「法律上」認められなかったのです。これ故に出来た、判例上の扱いが「内縁」と云うものです。「内縁」とは、単なる同棲を表す用語ではありません。

 てな事で、社会的「伝統」とは、Sollen(あるべき姿。規範)の世界の話であって、Sein(ある姿。現実)とは、ちと離れたものだ、って事は意識しなければなりません。

 私がフシギに思うのは、日本の自称「保守」政治家や自称「保守主義者」って、社会的伝統の姿について実地調査をしようとする姿勢が極めて薄く、社会的伝統を自明のものの様に考えている事。
 ドイツでは、Savignyを始祖とする歴史法学派は、グリムなどでは、ドイツの伝統的規範意識の実地調査を行い、ドイツ語の始祖であるゲルマン語が印欧語族から分化した際の子音転移に関する「グリムの法則」(兄の業績)や「グリム童話」(兄弟の業績)に結実しています。日本でも水戸国学などは文献研究(故に、文献に残った現実的規範意識の偏り、についての自省の姿=「文献批判」が弱い)にいそしんだ訳ですが、現在の日本の「保守」政治家やそのブレーンとされる人たちの研究たるや、マルクス主義の相似形の様な教条主義者ばかり。かつての学生運動のごとく、セクト主義に陥り、分派を繰り返す姿(「あたらしい歴史教科書をつくる会」なんかに、よく現れている)まで、そっくり(爆)。

 日本では、「保守」たる姿勢を現実に示そうとするのならば、
(1) 伝統の起こった歴史的背景と、そのSollenたる規範意識の存立基盤となった社会的背景が現在、どう変わっているか、また変わらずに維持されているか、
(2) そして、変わっているのだとしたら、そのSollenを維持するための方策か、あるいは変わりつつある、もしくは変わってしまった社会的基盤に対応した新しいSollenを探る努力をすべきだと思うですけど、ね。

 この意味でも、「伝統」とは対話である訳です。

 こうした軸を持った上での「保守」とか「構造改革」なりの論議を、私は望む者です。そして、数多くいる自称「保守政治家」の底の浅さを私は軽蔑する者です。

 東京〜名古屋を結ぶリニア新幹線ルートは、直線ルートであるべきだ。トンネル主体での直線に近いルートが可能であるならば、そちらの方が松本なんかを迂回するよりよほど望ましい。

 こんな自明の事をウダウダ言ってる政治家どもがいるのに、腹を立てている。

 ウダウだ言ってる理由は、「長野県の意向」だそうだ。長野軒としちゃ、松本辺りを通って欲しい、との事。だが、その為に建設費が1.5倍近くかかり、当然乗車時間も延びる理屈。

 政治は、何よりも優先順位を巡っての争いだ。何がこのリニア新幹線にとっての第一に考えるべき事か?それは、東京圏と名古屋圏を最短時間で結ぶ事だ。それによって、成田、羽田、セントレアの空港間の位置づけも変わって来る可能性があるほどの国家百年の大計に属する事。

 そこに長野県云々なんて問題を絡ませて来る事自体が少しオカシイ。長野の地域振興をここに絡ませて来るのは、不要の道路を作る理屈と同種のものだと考える。工事の量は増えるが、それによって国家(実際に先ず支払うのはJR東海と云う私企業だが)は不要の出費を強いられ、その出費は国民が支払う事になる。長野県は、国民全体の出費によって、自分の地域振興をしてくれ、って事を言っているのに他ならない。
 この理屈は、成田空港などの場合と決定的に異なる。成田の反対運動の場合は、自分たちの土地に対して国家の侵害を許すなと云う方向だったが、今回の長野県の姿勢は、自分たちの為に他の地域が金と時間を出せ、と要求している方向。
 もし、長野県がそうした姿勢を貫くのだったら、長野県への地方交付税交付金などを、その分、削るが宜しい。

 そうした事を堂々と主張するのが、本当の政治家だろうと思うが…自民党リニア特命委員長なる職にある堀内光雄(衆院議員。山梨2区)は、地元である長野県の理解を優先すべき、などと云った理屈を朝日新聞2008年10月21日付朝刊第7面で展開していた。
 山梨がリニア新幹線で大きな利益を得る地域である事、自分の地域だけがよければそれでいい、って姿勢で、腹が立った。所詮、堀内は道路族。さっさと落選して欲しいものだ。
 「新幹線は本来国が作るべきもの」だから、JR東海が自分の経費で作ろうとしている新幹線にも政治家が口を出して構わない、そうだ。リニア新幹線の開発に国が既に600億円近くを投じて来た歴史があり、大深度地下を使える様に2000年に法律を改正して来た歴史があるから、国も口を出す、って理屈だそうだ。政治の本来の姿で議論されるのは歓迎するが、それが自民党道路族連中の利害で揺さぶられるのならば、それは害毒でしか無い。自民党と閣僚の利害が異なった姿に、福田政権下での厚生労働政策があった。閣僚とは別に、自民党の4人(党内で、その職位にあったってだけで、その政策に大した識見を有しない者も含まれる。大村秀章とか)が党内の意見を取り仕切り、軋轢を生じさせた。そんな姿がリニア新幹線のルートを巡り再現されようとしている様に感じる。
 国の為を考えるなら、将来に渡っての利益を数え上げ、何が何に優先するか?を判断する事こそが重要だ。私は、こうした旅客輸送は何よりも第一目的である東京〜名古屋間の旅客輸送の時間と経費を最小に、つまり一番効率的に行う事こそが第一の国益だと考える。最も優先される利益を害しない範囲でこそ、第二、第三に優先させる利益が考慮されるべきだと考えるが、松本を経由するが為にルートを迂回させるのは、優先順位の劣る目的の為に第一優先の利益を害する行為だと考えるのだ。国益の内容を巡り議論をする事こそが政治の役割。だからこそ、私は、リニア新幹線は直線ルートを第一候補として考え、これをウダウダ言ってる堀内など(や、もしかしたらその他の自民党勢)は落選させるべきだと考える。

 この話題でのウダウダを見る度に腹が立ち、ムカムカする気持ちを抑えられないので、取り敢えず、記事にしてUPしてみた。

開く トラックバック(1)

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
レイ豚
レイ豚
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事