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私は、民主党代表時代の小沢一郎の言動を観察して以降、「小沢一郎は暗愚な政治家に過ぎない」と考え、何も期待せずに来ました。けれど、小沢一郎の周りに集まる政治家もいれば、小沢一郎に期待する国民も、まだ、います。
小沢一郎の政治資金規正法違反の検察審査会の「起訴相当」の議決(審決?)には問題が多いと考えます。が、それは、政治資金規正法自体が抜け穴だらけの欠陥法律であり、それをもとに犯罪事実を考えざるを得ないところから来る状況も含んだもの。
最近、西部邁氏の「小沢一郎は背広を着たゴロツキである」と云う著作が気になってはいますが、浅野書店 柏店(スカイプラザBF)で現物を ちらと読んだ限りでは、あれに1,500円超を支払う気になれなかった。そこで、以下は、私が小沢一郎を「暗愚」と評価する理由を書いてみます。反論を受けて、「小沢一郎は素晴らしい」と考え直せる様になれば、それもまた嬉しい事ではありますが、そんな事、あるのか知らん?
(1) 小沢一郎は、よく「政治主導」と唱える。確かに、今の菅直人政権は、何をやろうとしているのか判然としない事が多く、「政治主導」には見えない。が、小沢一郎の唱える「政治主導」の「中身」もまた、判然としないものの様に私には思える。
小沢一郎の政治力の源泉は、周囲に自分の支持者たる政治家を集め、それで党の大きな部分を治め、民主党が衆院の過半数を占める事でその影響力が党全体に及び、ひいては国全体に及ぶ、と云う間接的な統治構造にある。決して国民から直接の信任を受けての力ではない。この点、田中角栄がロッキード事件後に経世会を通じて、自民党を間接支配した構造と似てはいる。田中角栄無き後も、経世会は、こうした支配構造を持ったし、森喜朗政権以降の清和会(現・町村派)も、同様の支配構造を持った。まあ、どんな政治権力だって、民主主義での議会では、そうした構造を持つしかないのは否定出来ないのだが、小沢一郎の力の源泉が議員の数にある事は、私の以下の論に於いては、意識しておくべき事になる。
言ってみれば、小沢一郎の力の拠り所は、碁の陣地を取って行く様なものだ。これこそ、小沢一郎が1年生議員(当選1回の議員と同義)を雑巾がけのごとく扱い、既存の議員を上に置く、上下構造(縦の構造)を内部に持たざるを得ない原因でもある。その上下構造を当然のごとく内部に抱えなければならない事、それは、「論を持って戦う」と云う「議論」が、党の内部で、すっきりとした地平の上で行われていない事と相似である。大槻文彦は、日本初の国語辞典とされる「言海」に於いて、「デモクラシー」の項で「下克上とも解すべし」と書いた。これは、議論を通じて、上下構造(縦の構造)を無視して決着が為される事を指摘したもの。この意味での「デモクラシー」は、小沢一郎の頭の中には無いに違いない。
小沢一郎と、その周囲にたむろする議員の利益は、小沢一郎を頂点とする「縦社会」を維持する事によって初めて最大化されるのだ。その「利益」が「国民全体の利益」と一致しているか、どうか?たとえ完全に一致していないとしても、方向性として一致しているのか、どうか?その事をこそ、我々は注意深く見て行かなければならない。
さて、そうして見たとき、小沢一郎の唱える「政治主導」は、どんな様相を伴って、我々に見えて来るだろうか?
恐らく、何かの方針を決定したとき、「官僚主導」でなく「政治主導」で方針を押し通す事、それは期待出来る。どんなに官僚が反対したとて、議会の多数を抑えているが故に、押し通す事は出来る。「ねじ伏せる」事が出来る、と言い換えた方がいいかも知れない。
それが、小沢一郎の思い描く「政治主導」の姿であり、「官僚主導」の対義語に位置し、小沢一郎のイメージは、きっと、そこで停止してる。それ以上の貫徹した思いがあるとは思えない。
では、何故「政治主導」が正統性を持つのか?何故、「政治主導」が「官僚主導」より「正しい」「あるべき姿」として認識されるのか?
この問いを一度、小沢一郎に訊いてみたいものだ、と思う。小沢一郎は、「それが日本国憲法の想定している姿だ」と云う以上の事を言えないのではないか、と推測する。その言葉自体は正しかろう。では、何故、日本国憲法はそうした姿を「想定」しているのか?そもそも、それは、「よい事」なのか?官僚主導の方が、お馬鹿な政治家よりも日本の利益を考えて、よき政策を実施してくれるのではないか?
まあ、最後の設問に関しちゃ、日本国民の「総意」として「官僚主導は嫌」と答えるだろう。それは、今までの政治に否を突きつけた、ってだけの意味であろう。そもそも、「省益」の様な形で立案する政策が対立する事の多い、各省(これが官僚の先ず存在する単位)に任せても何もまとまらない、って事もある。
けれど、日本国憲法がそれを想定しているから、とか、国民から選ばれているから、とかのレベルで思考が停まっているなら、更に一歩を進めてみる事だ。国民一人一人は、自分の意思で自分の運命を決める事が出来る。それを自由主義国の憲法体制は保証している。その保証があるところに民主主義と云う名の政治体制が成立する。
まあ、今の日本の選挙制度は、選挙区による、有権者の数、もしくは国民の数に大きな差があり、これが貫徹しているのか、疑問でもあるのだが(この意味で、日本国憲法の最初の改正は9条関連でなく、一票の平等から始めるべきだ、と考える)。
そうして国民一人一人が自分の意思で自分の運命を決める事が出来る体制を保証する事の貫徹として、国民は自分の運命に大きな影響を与える議員を「総意として」選び、それらの国民から選出した議員で構成される議会で、国の意思を決定する。日本の行政権は、憲法の定めるところにより、議院内閣制を採るので、議会たる国会の多数決で行政府の長たる内閣総理大臣を選出する(議会の選出方法に歪みがあると、その先にあるもの全てが歪む)。
国民一人一人が議員を選ぶ際には、色んなものが考慮される事になるだろう。議員に対する信頼やら期待、そして、政策。
まあ、選択肢が限定され過ぎてる、アホな選択肢しかない、って…に問題があるのは認めるが、それは公職選挙法改正を待つか、日本の政治風土が更に一歩を進め、深化=進化する事が必要になるだろう。人類が更に一歩を進め、進化するのとどちらが早いか、判らないほどの気の長い話かも知れない。
政策で言えば、国民の総意として、価値判断を行い、その結果が官僚の示す技術的な選択肢を導く。それが、憲法の期待する姿。
一方、国民が「この人なら」て形で政策を委託し、その人間もしくは人間たちが政策を導く事で、官僚の示す政策を選択して行く、てな形もある。今や、現在の日本では、この形は望むべくも無い気がするが…まあ、憲法の想定する姿の一つの形態ではある。
て事で、ここで話を単純化してみる。単純化されている事を意識した上で、当否を自分で検討してみて欲しい。「国民の総意」の形成過程の複雑さを捨象し、あたかも一人の人間の意思のごとく扱い、その結果を小沢一郎に直結させる、と云う単純化。
政策で見てみよう。小沢一郎が何らかの、明確な価値判断を国民に迫っているか?2009年8月30日の衆院選でも2010年7月11日の参院選でも、民主党のマニフェストには個々の政策はあったが、将来的な方向性を選択させる様な「ビジョン」は無かった。
その後の010年9月14日の民主党代表選でも、菅直人の主張は、茫漠とした抽象的なものが多かったが、小沢一郎の主張は、個別具体的なものを積み重ねていた。かつてのマニフェストを貫徹すべき、てな主張だったから。でも、小沢一郎の主張たるや、かつての2009年8月30日の衆院選で掲げた主張を、そのまま挙げたものが多かった。でも、具体的に財源やら何やらで、現実的に、その実現の困難が明らかになって来たときに「私なら、そのままやります」とだけ言われて、それをそのまま信じる事が出来るか?「では、どの様に?」と、その手段を訊きたくなるものなのだが、そうしたところへの言及は無かった。何でも出来る状況が目の前にあるなら、存分にやればいい。だが、現実の日本は、どれかを削って、どれかをその替わりに優先する事が求められているのだ。これこそが「価値判断」と言われる仕事。それを「全部、やります!」では、「政治家としてバカ???」と疑うしか無くなってしまう。
小沢一郎は、私の目から見ると、政策を国民に問うてはいない。何かを約束して、その約束を盾に押し切る積もりだろうが、「政権を取った際に、現実に何をやるのか?やれるのか?どうやるのか?」が全く見えない政治家。
価値判断を国民に問うている、とは、とても言えない。
こうした姿は、もう一つの場合、人格、識見を見て、その人に委ねる、てな姿を想起させるのだが…小沢一郎ならば、てな信用を寄せる国民が、今の日本に、どれだけいると言うのか?小沢一郎が菅直人よりマシって考える人にとっても、現政権がふがいないから、その反射効果で小沢一郎を支持するに過ぎないだろう。小沢一郎を特に取り上げて、彼なら信用出来る、と思っている人が、どれだけいるんだろう?恐らく小沢一郎が政権を獲ったとしても、もし衆院を解散したとしたら、ある特定のタイミングでしか、小沢一郎は、国民の信任を受ける事は出来ない。それは、新政権の政策がまだはっきりしていない段階での「期待の投影」を受けている一時期のみ、だ。
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