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以前、2014年5月末に撮影した画像として、 て記事をUPした事がありました。それは5月下旬の画像ですが、2015年5月上旬、草ぶえの丘に行ったところ、敷地内駐車場の入口のホオノキの反対側で、どこか見覚えのある花が咲いてました。 トチノキの由。 ちなみに、植物名をカタカナ表記にする、ってお約束が1970年頃に出来たものと記憶してます(確か日本植物学会だったかの提案から。文部省の公式表記も、戦後も結構、色々揺れ動きました)が、橡の木についちゃ、植物名は何と!「トチノキ」らしいです(笑)。 しかし、しょ〜もない理由で、植樹しちゃった事だこと。 先のホオノキの花を撮影した2014年5月下旬には、トチノキが咲いていた記憶は無いので、トチノキはホウノキとは違い、特定の時季だけに一斉に咲くものなのかも(ホウノキの方は、画像からも分かる通り、順々に咲いて行きます)。これは、雄花と両性花がある(雌雄同株)そうなので、一斉に咲く事で受粉が可能になる、って構造かと思います。 ちなみに…このトチノキ いこーる!マロニエ(笑)。Marronierですねん。尤も、厳密には、フランス古来のマロニエとは区別されて、marronier d'inde(インド・マロニエ)とされてるのがトチノキ。フランス語は、実の名に-ierを付けて、その実を成らす木を指します。古来は、marron(マロン)はイガの中にでっかい実が一つだけ入ったもの(栗の木の一種になる実)で、イガの中に複数の小さめの実が入ったchâtaigne(現在、栗の実を指す一般的な言葉)とは区別されてた。marronierとは、そのmarronを成らす木で、イガの中に複数の実が成らす木はchâtaignierだった筈が、トチノキ=marronier d'indeが移入されるに至り、これもイガの中に実が一つなのでmaronnierと呼ばれ、それに伴い、古来のmarronierは、現在ではchâtaignierの一種とされるに至った…てのが真相みたい(「マロン・グラッセは、もともとはトチの実で作られてた」と書かれたものもあるが、嘘くさ過ぎる。トチの実には毒=サポニンがあり、毒抜きしなけりゃ食えん)。メンドクサッ。英語では、トチノキ=マロニエの実はhorse chestnutで、木の方はhorse chestnut treeって呼ぶらしい。 調べてみると、トチノキのトチは、橡とも栃とも書くそうなのですが(私の知り合いにも、橡川って云う、父子3代に亘って大学教授をしてる人がいます…)、橡はクヌギの意にもなるらしい。なお、栃は「十千」(トチ)から作られた国字(日本で作られた「漢」字)だそうです(http://www.geocities.jp/greensv88/jumoku-zz-tochinoki.htm など参照)。杉って漢字は日中共通して使うけど、日本で云う杉は日本の固有種で中国大陸には無く(台湾にはある)、杉の字で表す木は日本ではコウヨウザン(広葉杉)て呼ぶ(http://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/62337035.html 参照)、って知ったときと同種の驚きを感じました。とかく、植物の名は…。 トチノキの花に見覚えがあったのは、きっと、この近所の「国立歴史民俗博物館 くらしの植物苑」(佐倉市)で、蕾の段階から花序が成長して行くのを見ていたからか、と思います。でも…私の国立歴史民俗博物館の年間パスポートは2015年4月末で失効していたので、この日は、そちらには寄らず帰って来ました。別に年間パスポートに頼らずとも、「くらしの植物苑」は100円で入苑出来るので、行っても良かったんだけど、この後、予定もあったので、「吉高の大桜」の葉っぱが茂った様も見ないままで、自宅に急ぎました。 …けどさ、国道464号線のバイパス部で、速度超過で捕まっちまった。このバイパスは以前にも速度超過で捕まった事があって、春の交通安全週間も近いので、注意してたんだけどなぁ。後ろの車の車間距離が短く、その状況で前の車が急にブレーキを掛けたので、急遽、車間距離がある追い越し車線に出て、追い越し車線側の後続車の支障にならない様にスピードを上げたんだけど、それが速度超過に相当したみたい。…納得イカンなぁ…前の車の急ブレーキは、きっとスピード検問に気付いてのものだったんだろうし。でも、私の車の速度超過も事実でしょうしね。固定資産税やら自動車税やら車検やらある、この時期に、罰金は正直、キツい。それに、郵便局か銀行じゃないと納付出来ないのも。少なくとも、春の交通安全週間中は、国道464号線バイパス部は、速度を上げても70km/h(法定速度は60km/hだけど、それで走ってる車は、ほとんど、いない。10km/h以内の速度超過は違反だけど、それだけでは罰金にはならない)で走れる事を、お奨めしときます。 〜〜〜 〜〜〜 佐倉市の「草ぶえの丘」は京成バラ園の園芸責任者(創業者とも言えるかも)、鈴木省三にゆかりのところですが、原種を中心に集めてるところ。まだ、季節が早いのかも知れませんが、私にとっちゃ、品種改良された後のものの方が、心惹かれる。私が心から花が好きな訳でもないらしい、って気付かされる瞬間。 そんな中、咲いていて、私が心惹かれたもの。やはり、品種改良されたもの。「万葉」。 様々な色合いが時間経過で現れて来るのが、好きなんですよねぇ。また、オレンジは私の好きな色合いでもあります(オランダ王室の色<オレンジ公ウィリアムズって知ってるでしょ?>って外に、染色が、除菌用の塩素系漂白剤で色落ちし難い色でもあるw)。 色がこの系統に近くて、時間経過で色合いが変わっていく品種でポピュラーなものって云うと、「乾杯」なんかがあったと思います。 こちらは、「夕霧」。 「万葉」も「夕霧」も、鈴木省三の作出した品種と表示されてた区域にあったと思います。 バラと云えど、全ての種類の花が同じ時季に咲く訳でもなく、今咲いてる中には、他のバラの最盛期(2015年の「草ぶえの丘」のローズフェスティバルは、5月16日〜6月7日に設定されてます)には萎れ始める品種も、きっとある筈。今見る価値って、そんなところかも。 バラじゃなくて草だけど、これ、何だったっけ? 結構よく聞く名前のものだったと思うけど。 「草ぶえの丘」は、2014年5月下旬に年間パスポート2,000円也を購入したところでもありますが、あと1回行って終わりかな。近所に住んでいない限り、年間パスポートを購入しても、有効活用出来た様に感じられるとは思えません。
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千葉県(柏市周辺を除く)
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佐倉城址公園内にある国立歴史民俗博物館や その他の美術館の企画展の個々の内容については、特に佐倉市固有のものではないと考え、省きます。しかしながら、佐倉城址公園隣接(公園内?)の「国立歴史民俗博物館 くらしの植物苑」の展示などで、毎年繰り返されるものや、そこで咲いていた草木などは、ここに含めておきます(後で、別記事に切り出すかも知れませんが)。 |
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私は、昨年2014年5月に国立歴史民俗博物館の「友の会」準会員になったので(金さえ払えば誰でもOK)、年間パスポート扱いで同館に入館出来るのですが、いつも印西市役所印旛支所を過ぎて山田橋を通るたび、不思議に思っていた事があります。余りに川の両岸の傾斜が急で、どういう経緯で出来たのか、想像が付かない事が一つ、もう一つは、余りに川が真っ直ぐ通っていて、南側にある印旛沼まで見通せるほどで、不自然な事。で、「これは人工物ではないか」とも考えたものの、どうにも、ここに水路を掘るのは経済的に見合わない様に思えていたのです。次の地図(ヤフー地図)で、赤で下線を付したところが「山田橋」(マークの場所は、印旛中央公園。「吉高の大桜」での唯一の公式駐車場。無料)。 山田橋を通る際は、車で走るので、あんまり画像が無い(過去には、渋滞途中に山田橋の上から撮影したものがあった筈ですが、見つけ出せないまま)ので、も一つ北の「いちい橋」から南側の山田橋方面を撮ったものを。 いちい橋からでは南側の印旛沼は見通せませんが、山田橋からなら見通せます。 ちと傾斜が急過ぎます。周囲にもっと緩やかなところがあるのに、ここに川が刻まれた理由がイマイチ分かりません。ヒマラヤ山脈には、ヒマラヤ山脈を南北に貫流する川があります。それは、ヒマラヤ山脈が隆起する前から流れていた川が、隆起の速度を相殺もしくはそれを凌駕する形で川底を浸食して来たから、川として流れ続ける事になったもの。でも、同じ様に、この川が流れ続けてた、ってのは、余りにも不自然。この前のヴェルム氷河期には、ここら辺にも氷河もしくは氷河を思わせる積雪なりが冬季に形成された筈ですが、氷河や積雪があったにしちゃ、崖崩れが少な過ぎます。深い積雪があったのなら、融雪時の水などで崖崩れが続き、もっと傾斜が緩やかになってる筈なのです。神田川も、そうした経緯で、南岸より、陽光で雪が融けた北岸の方が傾斜が緩やかになってるんです。いくら東西に分かれているとは言え、この傾斜は余りに不自然。また、川の流れが、現代の矯正があったとは言え、余りに真っ直ぐ。「いちい橋」から北側の印旛沼を見通したもの。 まあ、上の画像は、「いちい橋」の東端部からズームアップして撮ったものなので、直線がかなり強調されているのは事実。もう少し広い範囲をフレームに入れれば、こんな感じに。 「いちい橋」から北側を望むにしても、橋の、どの部分から見るかによって、感じは大きく異なります。 …て事で、中央部から。 西端部から。 実は、南側の山田橋方面を望んだって、感じは大きく違う訳で(上から2つ目の画像と見較べて下さい)、上から2つ目の画像は、西端寄りの中央部からですが、次は東端部から。 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 でも、2015年4月5日に、「吉高の大桜」を見に行く事が出来、周辺の事を調べていたら、そこ川にヤフー地図で「印旛捷水路」って表示されてるのに気付いたんです。次の画像の真ん中の赤の下線を付したところ。 当然、「『捷水路』って何だろう?」て検索してみました。そしたら、http://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/river/enc/words/03sa/sa-009.html が。非常に分かり易い説明ですね。これで、人工水路である事は、ほぼ確定。 更に検索して行くと、http://inba-numa.com/what/syoukai/suigen/ なんてのも出て来ました。もともとは、中央排水路に沿った形で印旛沼が広がっていたのを、干拓して、今の様な形になったらしいです。この「つ」の字型は、手賀沼でもお馴染みのもの。干拓事業の竣工(完成)は、1969年。現代だからこそ、重機を使って、こんな水路を掘ってしまったんでしょう。 ちなみに、チューリップで有名な、佐倉ふるさと広場の周辺の土地改良事業は、更にその後、建設残土などを埋め立てる事で続けられ、そちらの完成は1987年(http://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/57312522.html )。 なお、中央排水路は、もともとは印旛沼ですが、地図なんかを見る限り、堰なんかで区切られていて、洪水時にそのまま水が行き来しない様になっています。印旛捷水路の方は、干拓後に分かれた3つの「印旛沼」(手賀沼は、2つに分かれ、敢えて分けて言うときは、下手賀沼、上手賀沼と言います)の真ん中で水位を均等化する様になっている様です。シールドマシンが出来た現在だったら、シールドマシンでトンネルを掘っていた訳でしょうか? この壮大な堀割が、どれほどの効用と経済合理性に支えられていたのか、是非、知りたいものです。 ツイデに言いますと、地図で新川とも印旛放水路(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E6%97%9B%E6%94%BE%E6%B0%B4%E8%B7%AF 参照)とも書かれるものは、同じもの。利根川から印旛沼を経由し(印旛沼経由に変更されたのは、2005年らしい)、東京湾に注ぐ放水路計画の一部でですが、最下流部の花見川放水路計画は、計画後の住宅などの密集により、2013年に放棄されました(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E6%A0%B9%E5%B7%9D%E6%94%BE%E6%B0%B4%E8%B7%AF 参照)。ちゃんちゃん。 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 最後に…全く関係無い事なんですが、今の江戸川も、1965年に改称されるまでは江戸川放水路と呼ばれていました。そして…江戸時代末期に江戸川と呼ばれていたのは、神田川下流部。小石川南部では江戸川って呼ばれていた事が確認出来ます。一方、歌川広重(初代)には、「名所江戸百景」に「鴻の台とねがわ風景」と題する絵があり、現在の千葉県市川市国府台から江戸川風景を捉えてます。同じ時代、ここは「利根川」だったんでしょうか?ちなみに、茨城県と千葉県の境界となっている、現在の利根川は、かつては常陸川と呼ばれていたのは確認出来る事なんですが、いつまで、そうだったのか? 尤も、江戸時代は、現在の様に国が名称を定めていなかったのかも知れません。現在の隅田川だって、下流部は大川、浅草横は浅草川って名称も認められます。隅田川て名称もあるんですが、どこからどこまでがそうだったのか、もしくは併用されたのか。私には、よく分かりません。知ってる人いたら、教えて下さい m(_ _)m なお、鴻之台(国府台)は、もともと下総の国府だった故の名称です(奈良時代の律令制の下で、既に国府だった事が認められます。市川市の市立市川歴史博物館に展示があります)。そして、下総は、江戸時代初期には、現在の隅田川(当時は、そこが利根川)が境界で、それ故、両国橋(武蔵と下総を繋ぐ橋)て名称が与えられた訳です。だから、国府台は、決して、下総の端っこではなかった訳です。しかし、この境界は、江戸時代、幕府によって、寛永年間(1622〜1643年)に移動され、今の江戸川以西の区域が武蔵(武蔵国葛飾群)に編入されています。これには、定めがあった筈。
そうは言っても、葛飾が江戸であった時代は無いんだよねぇ。だから、江戸時代に今の江戸川が江戸川って呼ばれてた事は考えにくい。広重の「名所江戸百景」に国府台がある(他に市川市を描いた「真間の紅葉手古那の継はし」なんてのもあります)のは、江戸近郊の江戸から出掛けられる地域って事だと思います。品川を描いた作品だってありますが、品川は「札の辻」(三田警察署近くに札の辻交差点があります)の外側だから、江戸ではない訳でして(新宿も渋谷も品川も江戸ではありません。当初の東京市の15区にも入ってません)。 |
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2015年4月7日、千葉県印西市(元・印旛村)の「吉高の大桜」に行った際は、五分咲きでした。そのときの速報として、 て記事を、翌日2015年4月6日の17:00過ぎにUPしました。ところが、この日は、よく晴れて気温の高い日だった事もあり、開花が急に進んだそうで、印西市の公式HPでは「七分咲き」になったって報。私の記事の後、そう時間をおかずに、当日の状況が「見頃」「ほとんど満開」として、続々とUPされて行きました。後で考えれば、この日が最高の撮影日和だったかも知れません。その後、雨や曇りの日が続きましたので。 で、更にその翌日2015年4月7日には、15:00前に印西市HPで「満開」との報が出ました、そこで、2015年4月7日の夕刻に見に行ったのが、この記事の画像です。既に街路灯は点いていた時刻でしたが、まだ日は沈み切ってはいない時間帯。時間帯の所為か、雨の合間の様な天候の所為か(恐らく、その両方)、満開にも関わらず、人は少なめ。駐車場の辺りに帰り着いた18:30頃には真っ暗になってましたが、その後暫くして雨が降り始めたので、短い雨の晴れ間だったのかも知れません。 出来れば、2015年4月8日の日の出の時間帯を狙って再度見に行きたいと思ったものの、すっきりと目覚められなかったのと、柏では、かなりの曇りの様に見えたのとで、私にとっては、開花時期最後の訪問が、この夕刻となってしまった次第。実際には、桜の周辺には、30分もいなかった事になります。 まあ、行かなかったものを嘆いても仕方ないので、雨の合間の画像ですが、UPしちゃいます。周辺にいた数少ない人の中からでも「今までで、こんなに満開の時期に来れたのは初めて」(私は満開の時期に来たのは初めて。初訪問の2日後でもあります)てな言葉が複数聞こえて来たので、これも資料の一つくらいにはなるかな、と考えます。 先ず、このときの開花状況。枝先。 蕾の付いている枝もありましたが、枝に一つ二つで、他は開花している状況。ソメイヨシノですと、「満開」は「八分咲き」とイコールって事なので、これは満開に違いないと思います。 この記事の画像は、カーソルを合わせてクリックすると、別ウィンドウで大きく(私のUPした本来の大きさで)表示されます。そうやって見ると、この花(花弁など)の形がソメイヨシノとは大きく異なっているのが見て取れるかと思います。樹種は、山桜。 現地案内板から。 ソメイヨシノは、満開直後は比較的白っぽく、時間の経過に従ってピンク色が増して行くものですが、そんな経過を楽しむほどには、私は山桜を見馴れていません。かつて、栃木県の、みかも山で、山桜が花弁ごとでなく、花ごと散っているのを多数見掛けました(http://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/60531342.html 参照)が、あれは強風の後だったからかも知れません。散り方にソメイヨシノと山桜と差があるのか否か、も、私は、未確認のまま。そうした事は、将来の課題です。 木の下にも、案内板があります。 拡大。 案内板の脇から。 力強い枝振りです。また、最初から盛り土した上に植栽された、人の手による植栽と考えられます。大桜の根元に盛り土した訳ではないと考えます。 この根元は、桜の保護の為、人が入れない様に規制されてます。根元の土が踏み固められない様に、って云う、配慮でしょう。出来れば、市役所の担当者か所有者かが、樹の下からドーム状に咲いた枝の動画なんかを撮影してUPしておいて欲しいものですが、誰かが入れば、他の人も入りたくなるもの。なかなか難しい事かも知れません。 まあ、普通の人は、規制線(只のロープですが)の外から、様子を想像するしかありません。 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 この「吉高の大桜」は、一本桜です。畑の中に咲いてます。こんな感じ。 一番右側の桜が「吉高の大桜」。真ん中の紅白の花は、桃だろうと思います。畑の中であって、近くに寄れないので、きちんと判断は出来ませんが、菊桃の様な気がします。近くにある印西市立六合小学校の周辺にも、同じ樹種を植えた家が結構見られます。一番左の木は、ソメイヨシノだろうと思います。 この画像の撮影地点から、左端のソメイヨシノらしき木、真ん中の花桃(菊桃?)らしき木、「吉高の大桜」のぞれぞれへは、ほぼ同じ距離にあります。ですので、それぞれの木の大きさは、画像の上での大きさと、ほぼ比例します。そう考えると、樹形や、大きさ、に興味深いものを感じるのは私だけでしょうか? 周囲には杉などがありますが、300年も経ったものではありません。杉などは後から植栽されたものと考えます。恐らくは、周囲の杉は、畑の土が風で飛ばない様に、植栽された防風林なのではないか、と推測します。しかし、杉の方が背が高くなってますので、周囲から「吉高の大桜」を望む事は出来ません。この周囲だけで鑑賞出来る代物。 千葉ニュータウン辺りの植生は、江戸時代までは原っぱで、民家の周りだけに林があったと伝えられます。この「吉高の大桜」も、かつては、台地の上に目印(ランドマーク)の様に咲き誇っていた時代があったのか、無かったのか…。 ついでで申しますと、武蔵野も、江戸時代になるまでは原っぱと低湿地がほとんどでした。国木田独歩が描いた、武蔵野の雑木林ってものは、江戸の人口増加に伴い、幕府がエネルギー源、人家の資材として植林を奨めた結果として出来たものです。人の手で維持されて来た故に、落葉樹(広葉樹)の林として維持出来たもの。 上の画像は、次の地図(ヤフー地図を加工。以下、「地図1」と称します)の紫の矢印の根元の場所から、矢印の方向を写したもの。吉高の大桜は、地図の赤い○の辺りにあります。地図中に「印旛吉高のオオザクラ」とあるのは、通路の入口地点を表示したもので、桜本体の位置ではありません(桜のある場所が私有地ゆえの配慮と考えます)。 地図1 もう少し近寄って、オレンジの矢印の根元から、矢印の方向を。 上の地図1の緑の矢印の根元から、緑の矢印の方向を撮影。 画像の手前の紫の花は、花大根だって話も聞きましたが、私には判断出来ません。その向こうには、チューリップ。周囲の方が来訪者の為に育ててくれたものでしょう。 緑の矢印の、地図1で言えば、ちと左から(画像の中で言えば、上の画像の右側)。 更に左から(画像の中で言えば、更に右から)。 菜の花は、主に大桜の下に咲いていますので、その手前の低木と見較べる事で、撮影位置を、ほぼ特定出来ます。画像から手前の低木の植え方(三段になっています)を判断すると、もしかしたら、お茶の木? なお、花桃らしき木々と大桜を同じ方向に見ると、こんな感じ。地図1の青の矢印の根元から青の矢印の方向を撮影したもの。 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 ここからは、「吉高の大桜」の近景をば。ロープで規制されてはいるものの、360度、周囲を回る事は出来ます(私有地らしいのですが、通路を辿る限り、OK)。 先ずは、上の地図1のオレンジの矢印を、更に大桜に寄って。 次の地図(以下、「地図2」と称します)の、青色の矢印の根元から青色の矢印の方向を写したもの。 地図2 何故かは分かりませんが、大桜は南東側の方(杉などの植栽に近い方)がこんもりと枝があり、北西側は枝のスカイラインの傾斜が緩やか。やはり、南側の方に枝は伸びる、って事なのでしょうか。 右端に、夏蜜柑らしき木があり、実が成っています。 反対側(北東側)から。地図2の緑色の矢印の根元から、緑色の矢印の方向を写したもの。 手前の菜の花と、大桜との間には畑があります。そこは進入禁止なので、この方向は、ここからが精一杯。 上の画像の右側にある、大桜へ伸びる通路から、花桃を。地図2のオレンジ色の矢印の根元から、オレンジ色の矢印の方向を撮影。 3つ上の画像の方向から、大桜前の広場へ向かい、撮影。次の地図(以下、「地図3」と称します)の青色の矢印の根元から、青色の矢印の方向を撮影。 地図3 その広場の北東側から撮影したのが、この記事の上から5番目の画像になります。同じものを表示させときます。地図3の緑色の矢印の根元から、緑色の矢印の方向を撮影。 大桜の下には、南西側に菜の花、北東側に花大根らしき紫の花が咲いています。 その反対側から。次の地図(以下、「地図4」と称します)の青色の矢印の根元から、青色の矢印の方向を撮影。 地図4 夏蜜柑らしき木が手前に。花桃らしき木は向こう側に辛うじて写ってます。 上の画像でも、大桜の左側が南に相当する筈ですが、ここでは南側の方が枝のスカイラインの傾斜が緩やかな様に感じます。上で書いた仮説とは逆の現象の様にも見えます。まあ、右側に当たる北東方向の方が近くに杉などの植栽が無く、開けてはいるんですが。 大桜の向こう側にある広場から、花桃らしき木々を。地図4の黄色の矢印(見にくいけど)の根元から、黄色の矢印の方向を撮影。 花桃(菊桃?)らしき木の向こう側にあるのは、恐らくソメイヨシノ。 二つ上の画像の右側から。地図4の緑色の矢印の根元から、緑色の矢印の方向を撮影。
手前に、2本のロープで囲まれた通路の様にも見える場所がありますが、開花期は規制されていて、ここには入れません。開花期は人が多いので、規制が厳しいって事なのかも知れません。 |





