黄色い蛇足@日立柏酒場裏

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私の宗教的信条(信仰?)

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この記事は、もとはヤフー・ブログにあり、ヤフー・ブログのサービス停止により移設するものです。

元URL:https://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/folder/1582841.html
元記事のUP日付:2016年7月17日
元書庫:私の宗教的信条(信仰?)

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 これは、書庫「私の宗教的信条(信仰?)」に属する記事です。この書庫の由来については、http://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/64298879.html を、ご覧下さい。

 私は、宗教的信条は持っていますが、人格神は信じませんし、祈祷もしません。これは、私を見て「無宗教」と捉える人が発生し得る一因かも知れない、と考えます。それでも、私は「宗教的信条」を持っているのです。勝手に「教義、教団、経典を持たない限り宗教ではない」と云う日本の最高裁判決の定義は狭過ぎます(尤も、これは、国家が支援を与える対象としての場面で使われた定義ですので、あらゆる場面に宗教の定義として扱う訳には行かないものです。法律用語の定義の在り方に関して注意すべきもの)。

 人格神てのは、宗教用語ではありますが、要は、ヤハヴェとかアッラーとか名前を持っていて、特定の考えを持った神、て考え方を信じない事(この点、私の宗教的信条は、ユダヤ教とは大きく乖離します)。「この世界は、法則(何らかの原則)に則(のっと)って作られている(機能している)」と云う考え方には立っていますが、かと言って、それが特定の神なりの考えで作られているのでは無い、と云う「宗教的信条」を持っています(笑)。ですので、当然の事ながら、その神に対して祈る「祈祷」も行いません。

 この「祈祷を行わない」てのは、仏教でも、浄土真宗(門徒)の大きな特徴ではあります。門徒は「南無阿弥陀仏」と唱えはしても、何かの願いを遂げる為の「祈祷」は行いません。とは言っても、この門徒の特徴が、現在まで忠実に守られているか、は謎なのですが(笑)。仏教は多くの場合、国家による保護(国家戒壇て考えにも関係します)と引き替えに、国家権力の為に祈祷を行って来ました。が、浄土真宗は、国家の為では無く、目の前にいる民の為に民の中で祈ったのです。それ故、戦国時代には、門徒は、有力者たちの集団による統治ではありましたが、北陸の地を中心として「宗教共和国」とも言える統治形態を作り出しました。あんまり教科書の日本史では、こんな事は教えませんが、そこは、お勉強して下さい(笑)。仏教において、浄土真宗(門徒)は、プロテスタントと捉えて構わない位置にいます。
 でも、浄土真宗は阿弥陀仏に祈るではないか、あれは人格神とは言えないのか?と言われるかも知れません。阿弥陀仏は仏ですので、神ではありません(笑)…と云った答えもあるかも知れませんが、私は、宗教的信条として、阿弥陀仏に祈る訳ではありませんので、私の宗教的信条に「阿弥陀仏」なるものは、ありません(実は、浄土真宗に於いてさえ「南無阿弥陀仏」の「阿弥陀仏」の言は、それを選び取る意思を示したものではなく、全体として一心に信ずる心を示すだけの言葉なのですが)。経典を捉えて「南無妙法蓮華経」(妙法蓮華経の示す通り → 妙法蓮華経が第一)と唱える日蓮の考えに近い面はあるかも知れませんが、あの教団が歴史的に受けた迫害によって身にまとってしまった宗教的性格は、私には馴染めないものだったりします。そもそも、「妙法蓮華経」の優越を私は信じておりませんので(爆。妙法蓮華経については、仏陀の経典ではなく、ダイバダッタの経典とする説もあったりはします。妙法蓮華経の中に堤婆達多品が含まれるからでしょうか?)。

 そもそも、何らかの神による、特別の「恩寵」と云うものを、私は一切、信じません。ですので、カトリック教徒の言う様な「奇蹟」を、そもそも、私は信じないのです。カトリック教徒は、「教義上は」、この世の法則は神が作ったもの、と云う捉え方をします。ですので、神に選ばれた特定の人(多くは、信仰の報酬として)に対しては、神は、自分の作った法則を「超えて」、何らかの奇蹟を見せる、とされています。ですので、カトリック教徒の聖人は、その証左として「奇蹟」の発生した事、が要求されているほど。マザー・テレサの階位を検討するに際しても、この「奇蹟」の有無が検討されるほどなのです。ですが…私の「宗教的信条」は、奇蹟の発生を「許しません」。却って、「奇蹟は、この世に無い」事が、宗教的信条となっている面があります。特異点の発生も「許しません」(爆)。認識の問題として、特異点に見える事も、視野を広げれば、法則の発生局面である筈、との「宗教的信条」があります(この「特異点を認めない」てのは、私の宗教的信条に取っては、大きな軸ですので、別に一稿を設ける積もりです)。

 仏教でも「阿弥陀仏」と同様、何々観音とか菩薩とか各種仏ってものがあります。これも、私には「不要」。そもそも、こうした各種の菩薩、観音、その他諸々は、仏教が一度成立した後、仏教に沿って体系化され始めたヒンズー教(現在の神道も,日本では、仏教に倣って教義が整備された歴史的経緯があります)から移入された考え方です(中国で成立したものも中にはあります)。日本で密教って云われるものは、全て、このヒンズー教からの移入を受けた後の産物。ですので、そもそも、私の宗教的信条とは相容れないものがあります。この点、私が「本質的に仏教徒である」と言明しても、多くの人の仏教のイメージと異なってしまうのは致し方ない面があります。
 密教的考え方に私は立ちませんので、仏像は、そのもそも不要だったりします。仏像の多くは「私にとって」歴史的価値、美術的価値は別にして、何の宗教的価値も持ちません。そもそも、仏陀は、仏像の制作を禁じています(爆)。こんな考え方をしますので、美術作品でも、宗教画や仏像、宗教的彫像は、仏教関係のものであれ、ヒンズー教関係のものであれ、キリスト教関係のものであれ(稀に神道関係のものもあったりしますが)、いささか白けた気持ちで見てしまっています。仏像で仏の特徴とされるものも、多くはヘレニズムの下でギリシャ文明と出会って仏像が作られ始めた際の、ギリシャ人の特徴だったりする訳ですし。

 私にとって「仏教」とは、本質的には、この世界を成り立たせる法則の認識(=世界の認識)に向かって、共に精進する兄弟弟子の集団、みたいな面があります。ですので、仏陀とて、偉大なる兄弟子(先人)であって、神ではない、てな考え方。まあ、ユダヤ教でのイエスの扱いも、ラビの一人、ではありますので、その点は、似てるのかも。なお、カトリックでは神=イエス=聖霊の三位一体(trinity)を唱えますが(この三位一体の成立に伴って成立したのがカトリックで、異端とされたキリスト教の例として死海文書などがある)、イスラームにとってのムハンマドは預言者(この世に神の言葉を伝える為に選ばれた「人」)であって、神では、ありません。、
 尤も、仏陀ともなると、遙か昔の人で、時間的距離が遠過ぎて原則を指し示すのみ。身近に思い浮かぶ師さえ、兄弟子と捉えるには偉大過ぎる御仁ばかりなんですが…。

この記事は、もとはヤフー・ブログにあり、ヤフー・ブログのサービス停止により移設するものです。

元URL:https://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/64298879.html
UP日付:2016年7月17日
元書庫:私の宗教的信条(信仰?)

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 このたび、このブログの書庫として「私の宗教的信条(信仰?)」を作る事にしました。これは、過去、靖国神社への対応を書いているうちに、結局「これは宗教観の違い」と憲法上の宗教的自由をどう捉えるか?の問題に帰着するのではないか?と考える局面に多く突き当たった事に拠ります。

 宗教的自由に関しては、私は、日本の最高裁は、いまだ「考えが足りない」と思います。それは、理論的精緻さも深さも足りない。これについては、歴史的に説く(解く)事が出来ます。それは、追々やって行けばいいかな、とは感じています。

 が、宗教的自由に基づいての宗教的信条の差となると、これは、どうにも一致は難しいのかも知れません。結局、「お前は宗教的に敬虔さが足りない」と言われてお終い、って事になるのかも知れません。が、宗教的信条に、どれだけの差があるのか、は、私の宗教的信条も語っておかないと、その幅は相手側には理解出来ないで終わるのかも知れない、出来る限りの事はやっておきたい、との思いから、この書庫を作るものです。

 結局、私は、あるグループからは「無宗教」と言われるのかも知れません。一番の問題は、特定の教団に帰依する訳ではないから。私は、本質的に仏教徒ですが、特定の教団・宗派に属するものではありませんし、むしろ、江戸時代以降の日本の仏教教団を「堕落」と考えている節もあります。かと言って、江戸時代に辛うじて生き抜いた日蓮系の仏教徒でもあり得ない。また、この「本質的に仏教徒」でのが、神道、殊に、国家神道系の考え方(水戸国学風の考え方と言い換えても、いいかも知れません)と、どれだけ異なるのか、も、この論の系統でしか書けない気がしています。
 「無宗教」とて、その中には「宗教的」としか言い得ない信条があります。私は、一応、父親には神道系の宗教的信心もありますが(母親は、そうした信心無しw)、両親ともに門徒(浄土真宗)の家で育った家系です。が、「私の」育って来る環境で、キリスト教(プロテスタント系。カナダ由来の宗派)の信仰にも触れる事となりましたし、ユダヤ教も、ある程度は身近なところにありました。また、比較法学の中で、イスラームの考えにも、一応は触れました(勉強の都合上、一時的には、国際イスラーム法学会の学会の訓練生として登録されてました。国際的支援の下、対訳クルアーンなどの支給から始まる各種支援が受けられます)。特別に宗教の勉強をした訳でも無いのですが、日本人の普通のレベルよりは、宗教に触れる機会は多かったのではないか、とも思います(小学生のときに「人間革命」の8巻程度までは読了してたしw。創価学会員のお宅で「借りたい」と言ったところ、私の家よりも貧しいと思われるお宅が新刊を揃えてくれたもの。申し訳ない気持ちもあり、最新刊まで読了しました)。経典も、仏教の経典は諳(そら)んじていたものもありますし、キリスト教のお祈りの言葉も、それなりに英語で唱えられたりもします(私は、キリスト教カトリックには、全く縁遠いのですが、遠い親戚には、カトリック教徒のベルギー人も、いるにはいます。また、分らなければ、訊けるカトリックの友人もいます)。

 で、結局、宗教的信条でしか説けないものであるならば、それを書いてみようか、と思った次第。別に、誰かを説得(折伏、布教)する気は、ありません。ただ、「あなた」自身の宗教的感覚・宗教的信条と、共通するのものがあるのか、共通していないとすれば、どう違い、それは、どういう根拠に基づいて違っているのか、出来れば、その根本を考えて貰いたい、とも思うからです。

 「説得(折伏、布教)する気が無い」ので、この書庫の記事は、急ぎはしない積もりです。追々書いて行きます。稀に、パロディが混じるかも知れませんが、それは、裏から見れば、ある宗教的信条が、どう見える可能性があるか、に言及したいから。それを越える他意は無い場合がほとんどの筈です(笑)。

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