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先日聞きに行ったレクチャーの覚え書き。 Tokyo Art Schoolていう、なんだか、東京のこと考えよう的な(多分違う)レクチャーの第1回でした。 「東京の解像度」というテーマで、違うジャンルから東京を考察している2人の話。 写真家の畠山直哉さん、と、社会学者の毛利嘉孝さん。 それぞれお話をしてから対談という構成だったのですが、 お二人の考え方、むしろ生き方そのものの違いというのが、時間を追うごとにどんどん もはや歩み寄れないのではないかというくらい眼に見えてきて、色々と興味深かったです。 ■畠山直哉さんのお話の内容 畠山さんは主に自分の写真をスライドで見せながら、 これはどういう状況だったか、写真を撮るときの動機のような、お話でした。 「underground」という写真集は、まさに東京の地下の写真集。 渋谷駅のすぐそばに渋谷川というのがあるらしく、そこに長靴をはいて ジャブジャブ入って行ったそうです。 そこは、生活排水路になっていて、汚水です、汚いし、臭いことでしょう。 そこに写る、カビやなんか訳の分からない汚物。 とても気持ちのいい映像ではないのに。 なにか、清々しいような気持ちになる。 渋谷の喧噪のすぐ下に、自分1人の、静かな世界がある。 そんな誰も体験できない秘密、の匂い。 他にも、山手通りに沿って東京を歩いて、写真を撮り続けたりしているそうで。 “東京は常に工事中だ” と言っていました。 ■毛利嘉孝さんのお話 対する毛利嘉孝さんは、ロンドン大学を出て東京芸大の先生というエリートさんで。 都市論から始まり、下北沢、宮下公園再開発問題に関わる様々な市民運動から、都市は誰のものなのか。 そんな問題を論じ、 90年代以降の文化論的な趨勢。 〜1989 冷戦時代:ポストモダン高度消費社会 〜2001 文化と情報戦争:多文化主義 インターネット 〜2008 911と帝国の時代:グローバル資本主義、対テロ戦争 〜 世界経済危機 と、完結にまとめあげ… 美術が文化に結びつくと、美術は政治的・文化的・多元的なものになり、 もっと現実的な表現が出てくる。と。 なるほどフムフム。 そして美術における「ストリート」の役割を、ボードレールやベンヤミンの再評価からお話しました。 (すーごく大雑把です) ■対談 こうやってお話の概要を書いただけでも、お二人の視点がまったく違うのがわかるのですが。 そんなお二人の対談は、ちょっと畠山さんが切れるんじゃないからハラハラするくらいのものでした。 メモるのも忘れて聞いていたので、ちょっともう記憶が曖昧なのですが…。 毛利さんは「写真」というメディアを美術史の流れとかの中で話したがる感じがあって。 畠山さんは、もちろんそういうのは知ってるんだけど、写真を撮るという行為をもっと単純なものと考えているような感じがしました。 メディアとしての写真を映像芸術に結びつける美術史に対して畠山さんは、 “記憶の像というのは一瞬である”という考えから、ビデオはむしろ音楽とかに近い、と言いました。 あと、“世界と距離”という考え方をしてたのですが、 私の解釈ですけど、写真っていうのは、自分の目線のようで自分が見た物と違うようなものが撮れてて、 そういう行為が面白いんじゃないかな。単純に。 色々と、心に残る言葉があったのですが… “美しい物を美しく撮るテクニックと同じように 汚い物を汚く撮るテクニックというのがあって 自分は汚い物をとって、それが美しく見えるというのは テクニックを使ってないからだ” …なんちゅーアンチな。 それと興味深かった話は、<アートと社会の関わり>についての意見です。 畠山さんは自分は“アートが社会を良くするとは思わない”とはっきり言って。 おぉ…と思いました。 近年、アートプロジェクトとかいって、地域復興をかかげたものや、 世界的にも人権問題、ジェンダーなど社会的なものをテーマにしたアートは多いです。 そういうのってなんなんだろう、って私もすごく思っていて。 “世の中を良くしたい。という気持ちはすべてのひとが持ってる。 それはアートだけの課題じゃない。 アートに目標があるとしたら、私たちが世界を見るという見方を 変えるものなのではないか” という言葉が印象的でした。 最終的に、現在行われているアートプロジェクトって一体なんなんだ! という話になって。 なんなんだろうね? 的な感じに流されました。 なんなんでしょうね…。
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覚え書き
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ブログ更新、返信、訪問滞っておりまして申し訳ないです。 |
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大学院で芸術文化政策演習という授業があります。 |
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