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赤であります。
イメージするものは何でしょうか?
やっぱり血の色ですねえ。コーフンしてきます、はい
なーんて言う方もおります。
やたらと、喧嘩っ早い方でしょうか?プロレス、格闘技の試合で選手が血を出すとボルテージMAXとなるようです。
スペインの闘牛などでも、そのクライマックスは血が飛びます。
しかし、この赤と言う色、確かに血の色でもありますが、一方に火の色、太陽の色(夕焼け、曙)として神聖な色でもあったようです。
また、生贄とした動物や人間の血を聖なるものとして神に捧げた風習もあったようです。
古代マヤでは生きたままの人間から、血にまみれたその心臓を太陽の神に捧げたとされます。それは、太陽を活性化させるためでもあったとか。
さて、血を見てコーフンする男がいる一方で、逆に血を見るのが怖い、と言う人も少なくなく、嘘か本当か男の方に多いんだとか?
健康診断や献血などで血液を抜かれるのを見て貧血を起こす、なーんて方もいる。
赤のイメージするものは「生命(力)」であり、それは新たなる命を生み出す者ですが、同時に危険なものともされます。
古来、日本人はその赤の危険性を「赤不浄」として怖れ、忌み嫌ったとされます。
※ これに対し「黒不浄」は死。
女性の生理に対しても使われたようですが、これを穢れたものとするというのではなく、むしろそこにある制御不可能な自然の力を怖れたのだともされます。
女性の生理で言えば、かつて初潮を迎えた女性には赤い腰巻が贈られ、これを「腰巻祝い」などと言ったようです。言うところの成人式、成女式であります。お赤飯を炊いて祝ったりもしたとか。
対する、野郎、・・・もとい、男には「ふんどし祝い」というものがありました。
して、何故かこの赤い色、呪力があるとされ天然痘をもたらす疫病神はこの色を嫌うとされ患者に赤いものを着せたとか、あるいは火事になった時には女性が屋根に上がり、この赤い腰巻を振れば火がおさまる、という俗信もあったとされます。
※ 昭和初期ぐらいまでは実際に見られたそうです。
そういや、男性の「赤ふんどし」(略して「赤ふん」)もありますが、これも呪力があるというんでしょうか?
真っ赤な褌、キリリと締めて・・・
で、この栄養ドリンクを飲んで
後は・・・、ムフフフフフ
キャー、ねずみ男さん、男らしくってステキ!
はい、これ
行ってらっしゃーい。生きて帰って来てね!運が良かったら・・・
召集令状(俗に言う「赤紙)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
ねずみ男君、
万歳!万歳!万歳!
そのまま帰ってこなくてもいいんだぞー
総務のユカリちゃんは俺が面倒みてやるから
あら、ねずみ男さん、長期出張なんですか?
うん、ロシアに新商品の売り込みになー。有名な赤福を真似して、
赤饅頭って言うんだが・・・。気紛れな社長の思い付きでなー
可哀そうに、売れるまで帰って来るな、って言われているらしい
そーいや、このロシアって国、かつては「赤い国」と言われておりましたねえ。
旧 ソヴィエト国旗
ちなみに、このような「赤い旗」ですが、これはフランス革命以降、社会主義革命、あるいは社会主義国家が用いるようになりました。
日本共産党の機関紙は『赤旗』と言います。
して、この赤い旗をして社会主義(共産主義)思想、及びそれを信奉する人々を「アカ」なんて言っていたこともあったようです。戦後はアメリカ軍によるレッド・パージ(このような思想統制・排除)もありました。
「あいつはアカだよ」なんてねえ・・・。
(もっとも・・・。「ねずみ男はクロだ!」なーんて刑事さんが言うと、これも怖いですねえ)
顔を赤くさせて熱く理想を語っていた方も青くなったようです、
赤くなって、青くなって・・・、最後は猪鹿蝶!?
おお、総取り、一人勝ち!今夜はツイてる!!
でも・・・。生きてこの賭場から帰れるのか?
す、すいません・・・。消防車を一台。
いや、あの・・・、火事っていうことではないんですが、それに近い修羅場がはじまりそうな・・・。いっそ、火事と言うことにしてドサクサに紛れて逃げ出したいなー、と。えっ、ダメ!?
そ、そこをなんとか・・・。
交差点では隣の車がミラーをこすったと怒鳴っているから・・・♪
馬鹿にしないでよ
そっちのせいよ、
このタコー!
こっちは緊急車両よ!
あったまに来たから、この真っ赤なルージュで落書きしてやったわ
公務執行妨害、ってねえ・・・
で、どこが火事なの?
え、賭場の元締めが火の車!?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
ナメとったら赤んぜよ!
赤い血の雨が降るぜよ
赤く咲くのはケシの花 人を殺して彼岸花 ♪
死体を埋めた土地から生えてくる花は、その地を吸って赤くなるのだ、とか・・・。
ねえ、このお花、なんでこんなに赤いの?
それはねえ・・・。真っ赤な嘘八百でアホウな男を騙して
頭からバリバリ食ってしまうためによ
やーねえ・・・。冗談よ。嘘に決まってるじゃない
まあ、ねずみ男さんたら・・・
シャイなんだから。可愛い!
いっそ、食べてしまいたいくらい
ヴァギナ・デンタタ!?
やっぱり食うんじゃねーか!
宮沢賢治の『注文の多いレストラン』に出てくる「山猫軒」のようですねえ。
そういや、猫は猫でも、黒猫ならぬ「赤猫」とは俗に「放火」のことを言うそうです。
使用例
「業績悪くてボーナス出せねー、なーんて言うんだったら、いっそ会社に赤猫、這わせたろか、おー!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
NHKです。インタビューよろしいですか?
あの、すいません・・・、これって、安保法反対のデモですよねえ
あそこにいる方、一人だけ違うこと言ってるんですけど
「ボーナスよこせ!」とか・・・。それで「赤猫がどうとか・・・」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ちょっと、見て。あの赤い羽根の共同募金、変よ
あの、しょぼくれたねずみ男みたいな人がやってるの?
ボーナスも出ない会社の従業員にあたたかい愛の手を・・・、って?
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表層文化論
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宗教学では呪物崇拝なんて言いますが、なかなか理解しにくい概念です。
これまで少し触れたように、例えば神なら神をシンボリックに表している「モノ − 自然・人工に関わらず」それ自体を崇める、ありがたがる、あるいはそこに超越的なエネルギーがあると考えたりもする。
その例として十字架とか仏像を挙げました。
然るにこれらは、例えばユダヤ教が否定した偶像崇拝でもあります。
古代当時にあっては様々な土俗的民間信仰が多く、それを崇拝する人々も少なくなかったのでありますが、
バアル神(金の雄牛)を崇めるユダヤ人とこれを批判する預言者
もっとも、このバアル神、元々はヤハウェの神の具現化したものという考え方もあったようですが・・・。
声(音)はすれども姿は見えず
ほんに おまえ屁のような
という言葉がありますが、いかんせん目に見えないものを心の中で感じ取れたって、あーた、想像力にイメージ力に欠ける方だって少なくないわけですよ
その点、自慢じゃありませんがあっしの場合はもう・・・。
おめーのは妄想力だろうが
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
して、ユダヤ教、そしてキリスト教、イスラム教もまた偶像否定の方向に進みますが、実のところそーとも言い難い。
例えばギリシア正教(東方キリスト教)などは、「イコン」と呼ばれる聖なる絵画を信仰対象としております。
イコン
これがまた、歴史あるものだと高い骨董芸術として価値がありまして、かつてのソビエトから外貨獲得のために大量に西側諸国に出回ったという話もあります。
これ自体がフェチなんですが、それはおくとして。
この、イコン、ヤハウェの神はさすがに描かれてはいませんが、イエスもあるし、それ以上に圧倒的に聖母マリア(聖母子)が多い。
実は、これまた何度となく書いてきましたが「地母神信仰」、「生殖における母性(女性)原理」というもの、世界中に広く見られまして、さすがのキリスト教もこれを否定できず、否定できないのならこれを己のうちに取り込んでしまえ、ということでここに「聖母マリア信仰」が生まれます。
特にカトリックにこの傾向が強いのは、元々潜在的にこのような土俗的要素を含んでいたからでしょう。
ダヴィンチ 『聖母子像』
これって、どう考えたってイコンだと思いますが、厳密に言えば信仰対象ではない。
例えばの話、祭壇に飾ってこれを拝んでいたら偶像崇拝になるはずですが・・・。
ちなみに、あっしは偶像崇拝主義者で、その点でもクリスチャンになれません。
ルオー 『キリストの顔』
このブログを書いているあっしの机の前の壁に飾ってあります。
毎日、これ見て拝んで・・・、いや、拝んではいませんが、逆に向こうから励ましてもらってます。
どーした、ねずみ男の大将?
元気ねーな。また、会社で何かやらかしたか?
心配すんな。世の中、どーにかなるものさ
幸いだ!ねずみ男、お前もいつか笑うようになる
やっぱり、イエスさんです。好きです。
えー、話を進めますに、イコン信仰も言うなれば「その手段が目的化」してしまったものですが、キリスト教には「聖遺物崇拝」なんて困った(?)風習があります。
イエスが、あの最後の晩餐で用いた、あるいは十字架にかかった時、その流れ出る血を受け止めたとされる杯を「聖杯」などと言いまして、これが、『アーサー王物語』などという物語におきましては、この伝説の聖杯を求めて何人もの騎士が旅に出ます。
映画『インディー・ジョーンズ』でも、このテーマが扱われておりまして、そもそもその聖遺物におきましては超越的なパワー(※ その杯から水だか、ワインを飲むと不老不死になれるとか・・・)が得られる、なーんてことになっております。
これに限らず、例えば聖人とされた方々の遺骸などもまた信仰対象ともなってしまう。
日本でも即身仏なんてものがありまして、このミイラそのものが信仰対象ともなっております。
湯殿山の即身仏
ちなみに、天台宗の千日回峰行なんて、とんでもねー苦行をしますと、これはもう生きながら仏様になってしまうともされます。
「それも、これも悩み苦しみ深き衆生のために」
なーんておっしゃっておられた体験者の言葉がありましたが、こんなことを言われますと不信心なあっしでも思わず合掌してしまいますねえ。
もっとも、世の中にはこーんなとてつもない苦行もせずに、
俺は仏陀の生まれ変わりだ
偉いんだぞ!
なーんて、クソたわけたことを言っている、どこかの新興宗教の教祖様もいるんだとか。
(※ まあ、言うのは自由ですから。あっしも、「イエスとは、『俺、お前の仲』なんだぞ」と吹聴しようかな)
さて、神道、というか神社信仰においても、フェチがあります。
いわゆる御神体ですねえ。
三種の神器
しかし、この御神体なるもの、実はそう歴史は古くはなく、それこそ天皇を神格化するために作られらもののようです。
多くの神社はその御神体として「鏡」を祀ってありますが、あるいは個人の家や会社などの神棚の中にもこれが安置されておりますが、そもそもこの鏡には遍在する神が宿る媒体とされます。
つまり、その鏡自体は何の価値もないものながら、神が宿ることによって崇拝対象となる。
然るに、神社などでは宝物殿奥に安置されたこの鏡を実質的には拝んでいるのでありますが、これこそが偶像崇拝のフェティシズムとも言えます。
例えば、富士浅間神社なり、白山神社などの信仰すべき御神体は富士山、白山といった山、それも「霊峰」と呼ばれる山であります。
こーいった自然物が御神体となっている信仰の方がすっと古い。
といって、こーいった山そのものが信仰の対象だとしても、そしてこれまた世界各地に見られるものですが、これまたシンボリックな意味としてのものであります。
死者の霊がこーいった山に上る(帰ってゆく)という考え方は、日本に限らず例えばネパールの山岳民族における鳥葬(※ 遺骸をハゲタカなどの鳥に食わせる − これで、死者の魂は天国に昇ると考える)にも見られますが、それ以上に、そこは大自然、自然摂理をもシンボリックに表す場所であり、ものなのであります。
そーいうものに対する、それを便宜的に「神(カミ)」と呼んだりもしますが、人間の謙虚な畏敬の気持ち。
これこそが、もっとも原初的にしてシンプルな宗教の原型でしょう。
必ずしも人間に恵みだけを与えてくれるだけではなく、時には天災など
も起こすが、しかし・・・。我々は黙って謙虚に受け入れます
自然こそは称えられるべきもの
インシャラー(全ては自然の思し召しのままに)!
ところが、この基本原則を忘れてしまう。
忘れてしまうと、ただ皮相的な御神体そのものをありがたがる。
あるいは、その御神体に示される「形あるもの」に何らかの超越的な力を求めようとする。
護符とか、お守りなんて物も、まさにフェチの最もたるものでしょう。
それで商売(?)しているともなれば、それこそ悪評高いキリスト教の免罪符販売と同じレベルではないかと思います。
交通安全とか、自分自身が気をつけりゃいいんです。
それを怠っていて、いざという時には「神様、助けて!」じゃ、あまりにも安易すぎないか、と。
そーいう、お前だって、イエスに安易に救いを求めているじゃないか?
いや、あの、あっしの場合はだね・・・。
友人同士の相互扶助というか、集団自衛権の要請というか。
おまーら、あっしをバカにするが、
あっしのバックには山口組よりもっと
すんげーイエスが付いてるんだぞ!
ほれ、見ろ。この十字架の代紋を
ちなみに、仏陀も集団自衛権で同じくなー。卍があるだろう
おまい、これって・・・、かつてのナチス親衛隊の代紋じゃねーのか?
(何をわけのわからんことを言っているんでしょう)
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フェチ(フェテシズム)の本来の意味は、例えば、
その目的を達成するための手段自体が目的化
することであります。
先回までの性的な意味でのフェチは、異性の何らかの性的記号(シンボル)を契機として性行動に移るための要因そのものが目的化してしまったことであります。
しかし、この「性的フェチ」とされるもの、フェティシズムのごく一部でしかありません。
マルクスなどはこれを物神崇拝という概念として捉えました。
例えば、「貨幣」なるものは本来は人間が経済活動を行うために作りだした道具ですが、その道具のために人間関係にひびが入ったり、争いになったり、あるいはこれがもとで自殺してしまう、なーんて方もいる。
本来は、汗水流して働いて日々の糧を得る労働にいそしんでいた人間が、いつしか、この「決済のための価値交換媒体(通貨)」そのものを楽して(?)得ようとすることもある。
当たり前のことですが・・・。
それ自体に実用的な消費価値、使用価値なんてもなーほとんどありません。
例えば、お札ななんかでお尻を拭くのもねえ。
これに火を付け、ロウソク代わりにした成金もいた?
言い換えるなら、その交換において得られるものが欲しいわけですよねえ。
しかし、実際にはお金の方が大事になってしまう。
これがビョーキ化した方が、吝嗇(りんしょく − ケチ)な守銭奴でしょう。
貧乏暮らしをしながら、夜な夜な貯金通帳を見て一人でニヤリとする。
「結婚なんかしたら、金がかかってしょうがない」なーんて独身を通す。
傍から見れば「変人」でしょうが、これもまあ本人の価値観の問題で、それで幸せというのならほっとけばいい。
して、我々はこーいうお金フェチ(?)を笑うかもしれませんが、しかしよく考えてみると我々の生活の中にも「手段の目的化」というフェチはいろんな所に見いだせるものなのであります。
以下、いくつか例をあげてみましょう。
まずは、「バッグ」とは、そこに何らかの物を入れて持ち運びする道具ですが、
こーいったブランド品に拘るのはなぜか?
あえて言えば、その本来の目的から反し、中には何も入れないで持ち歩く方だっているかもしれない。「中身を入れたら傷む」とか言って・・・。
あるいは、高級スポーツカーを買うも、乗ることもせず毎日せっせとワックスがけをしているよーな方はどうか。
高価な皿や壺だって、その本来の目的、実用性は無視して床の間に飾っておくのはどうか?
食べ物にしても、あれって本来、生物学、生理学的に言えばエネルギー生産のための栄養摂取が目的であるはずですが、グルメ、嗜好品という場合はどうか?
よく、「デザート(ケーキ・菓子)は別腹」なんて言いますが、これって、どー考えても「人間が生きてゆくために必要な栄養摂取」とは言い難い。
あえて言えば、
食べたいから食べる
わけですよねえ。
まだまだあります。
化粧やダイエットやエステって、あれの目的は何でしょう。
無論、健康志向ということもあるかと思いますが、本来の目的は「異性を惹きつける」ためのものでしょう。
むしろ、「美しくなりたい!」という、ナルシスチックな欲求ではないかと思います。
また、自称「乗り鉄」のあっしは、「その列車に乗ってどこかへ行く」ことが目的ではなく、「乗っていること自体が楽しい」と思っております。
さらには、
東京 浅草三社祭
祭り、祭礼、さらには儀礼といったものには、言うまでもなく本来はれっきとした宗教的、民間信仰的な理由があります。
祇園祭りの本来の意味は、村で言えば害虫、都市部においては疫病神を追い出すためのものであった。
しかし、今やもうそんな理由なんぞはどーでもよくなっていて、それ自体を楽しんでおります。
あるいは、最近特に多いのが、
例えば、こーんな「体験ツアー」でしょう。
本来は、そこに生きる方々の収穫労働であったものが「商品」と化しております。
次に、一時はその「オマケ」、「景品」欲しさにこれを買い、中身は捨ててしまうなーんて方も少なくなかった、とか。
特にレアなオマケ欲しさに、スーパーやコンビニなどでこれを片っ端から開けてしまうガキがいて問題となったこともありました。
して、極めつけは、
「産めよ、増やせよ、地に満ちよ」とおしゃられた
ヤハウェの神に怒られるぞ!
もっとも・・・。
ヤハウェの神が言うのならともかく、
こーんなオッサンの政治的発言ともなりますと、首をかしげたくなる。
戦争中、似たようなスローガンがあったようです。
言うまでもなく「兵士再生産」が目的でした。
然るに、今やその崇高な目的は子孫を作ることはもはや二の次、三の次でしょう。
最後に、
お前だ、お前!
だいたい、おめーらはなー、古代エジプトなんかで穀物倉にはびこるネズミを捕まえる目的でなー、人間様が手なずけたもの、畜生だったんだぞ!
それが今じゃ、ペット、愛玩動物にされてでかい顔しやがって!
※ 犬も同じです。
まだまだ探せばいろんな例があると思います。
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喜納昌吉の作詞した「花」の歌詞に、
花は花としてわらいもできる
人は人として涙も流す それが自然のうたなのさ
して、この「自然のうた」の「自然」とはどういうことなのか?
問題 簡潔にまとめて30字以内で述べなさい
なーんて言われましねもねえ。
むろん、言うまでもなくこの「自然」とは、通常用いるような、例えば「自然保護」とか、「自然に親しむ」とかいったものではない。
ちなみに、このような捉え方は西洋思想に従ったもので、例えば「人工」、「文明」といったものと対比される概念であり、実体であります。
日本語における、この「自然」は本来、仏教の方で用いられることが多く、その場合は「じねん」と読みました。
その意味は、「おのずから」、「ひとりでに」、「事物の本性」、「自然発生的」といったものとなります。「在るがまま」なんていってもいいかも。
やはり、この歌の歌詞における「しぜん」は最後にあげた「在るがまま」の意味が適しているように思います。
飾らない、素直な、肩の力を抜いて、ふっと口をついて出てくるような・・・。
自然体なんていいますねえ。これとよく似た言葉に「天然」があります。
お前のことだ、お前の!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
在るがままでいい
デートなんかで、彼女が、
時間がなくって・・・。ほとんど化粧してないの。あまり見ないで
なーんて、しおらしく恥ずかしそうに言ったらですよ、
俺は、そんな君の在るがままが好きだよ
なーんてねえ。
もう、この野郎!ですねえ。
もっとも、男の中には、
誰だよ、おまえ!?知らねーぞ!
なーんてことを平気で、いや、なーんも考えることなく・・・、いや、それはそれで自然体で言うよーなアホウもいますけどねえ。(※ 化粧すると別人になるという女性もいますけど)
犯罪だろ、これ ビフォア・アフターじゃねーんだからさー
あ、いやそんな話ではなく、もう少し高尚な(?)話を。
森三樹三郎という中国哲学者の書いた『無の思想』という本を読んでいましたら、おもしろいエピソードがありましたので、これを御紹介します。
床の間に生花を活けるにあたって、庭から採って来た花に、あれこれと手を入れるようなことをせず、いっそそれは「不自然」だとし、そのままの姿にする、という方がいました。
と、これを聞いていた方が、そもそも庭に咲いている花を切って来て床の間に活けること自体が「不自然」なこと。むしろ、床の間という人工空間、環境に合わせて、いっそ調和させることこそ「自然」に見えるのではないか、と反論したそうです。
華道の師匠に聞いてみたくなるような話でした。
しかし、あっしが思うに、そもそも花を活けるとは、その素材である花を用いて、屋内で自然をシンボリックに表現することではないのか?
これは、例えば人工的に作られた日本庭園を見ればわかると思います。
自然界を模してはいますが、あくまで人工的に作られたものです。
言い換えるなら、要は、
それを見る我々が、そこに「自然」なるイメージを感じればいい
といえるかもしれない。
そもそも、人間が関与したらそれはもはや「自然」ではない?
『おもひでぽろぽろ』というジプリの映画の中で、
ヒロインの女の子が、田舎の田んぼを見て「自然がいっぱい」と言うと、そこに住むあんちゃんが、「田んぼも畑も人の手が入ったものだから、本当は自然じゃないんだ」というシーンがありました。
あっしは観ていて思わず唸りましたねえ。
そーいわれてみれば確かにそうだな、と。
もっとも、かと言って例えば自然の生態系に全く逆らっているというわけではない。
最近は、工場で野菜を作るなんて実験も始まっているようですが、さらには遺伝子工学なんぞを使えば工場製品ともなる?
一方に、例えば家畜やペットなどで、いわゆる純血種、血統種を作るなんてことも行われてきましたが、これはよく知られている話ですが遺伝病が多いとされます。
そもそも生命は、多様な個体が組み合わさって、言い換えるなら遺伝子交換を行って、抵抗力を持った個体を生みだしてきたのですが、あえてそれに反する、それこそ「不自然」な行為を行えば、その欠点が出てくることになるわけですよ。
ゆえに、ハイブリッド、日本語に訳せば、
雑種こそが理想的!
雑種・・・、いや、ハイブリッド犬をナメとったらアカンよ
然るに、自然をそのまま受け入れるなんてこたー人間には無理でしょう。
やはり、何らかの関与をして、自分達に都合よく組み替えているわけですよ。
ただし、その関わり方が問題となるかもしれない。
排気ガスバンバン吹かして山道を登り、オートキャンプ場でバーベキューなんかをやって、その食うものは、都会のスーパーで買ったウィナーとか、ハムとか、あるいはビニールハウスなんかで作った野菜とかを持っていったもの。
自然と戯れ、自然と遊ぶ
自然はいいなー
なーんてのはねえ。
そりゃ、自然じゃねーだろ、って。
できればそこまで歩いて行って(※ 鉄道を利用するなり、自転車でもいいけど・・・)、そこの地元の人が利用するような店で、地元で採れたものを使った郷土料理と、できれば地酒をねえ・・・。
田舎なんかに行くと、近在のおばちゃんたちがねえ、みんなで集まって郷土料理の店を構えていたりもします。(※ 「道の駅」なんかにもある)
そこで、手作りの漬物なんかを出されて「旨い!」なんて言うと、食べきれないほど出してくれたりもする。
「自然に親しむ」、なんてものではなく、そこでの生活は自然に即したものであったりもする。
元々、我々の多くはそういう生活こそが自然であったはずなんですが、いつしか、人工の方がウェイトの方が高くなってしまっている。
それは、やっぱり不自然ではないか、と。
バランスのいい普通の食事していれば、こーんなサプリメント(栄養補助食品)なんて摂取する必要はないわけですよ。
そりゃ、こういうものが必要になる状況だってないとは言いませんが、しかし、こーいうものにだけ頼るというのはどうか?
よく、必要なものは身体自身が要求する、って言いますねえ。
突然、何かが食べたくなるなーんて時は、その食べ物に含まれている栄養素が不足しているのかもしれない。
そーいう身体の声に耳を傾けるのならいいんですが・・・。
もう、とろける美味しさよー!
そりゃ、あーた、悪魔の囁きですって・・・。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
ちなみに、鉄っちゃんにおける悪魔の囁きは。
鉄道模型を売っているお店でねえ。
国鉄C56型蒸気機関車
ホレホレ、これが欲しいんだろ
正直に言えよ、欲しいって!
我慢するのは身体によくないぞ
自然じゃないぞ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
だから・・・。
あっしは、そーいうお店には極力、行かないようにしております。
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この話は前にも書いたことがあるんですが、その焼き直しです。
古代ギリシアにのタレスという哲学者がおったんですが、これが貧乏な生活をしておりまして、
哲学なんて生きてゆくには役立たず!
イオニア学派の祖ともされたタレス
なーんて嘲笑されたんだとか。
と、このおっさん、哲学者といっても、当時の哲学は天文学、数学といった自然科学をも包括したものでして、まだ冬のうちに、天文学から今年のオリーブは豊作だと察知し、わずかばかりの金を工面して、そのオリーブを絞る圧搾機を安い価格で全て借りてしまった。
今も残る、当時の圧搾機
で、いざオリーブの収穫期が来たら、まさにタレスの読み通りで、結局、彼はこれを又貸しし、莫大な利益をえたのだとか。
哲学者をナメとったらアカンよ
やる時はやるんだからよ!
口先だけのねずみ男とは違うんだから
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
思うに、タレスは天文学の知識をもとにその年がオリーブの生育にもっとも適した年になると知ったのだとおもいますが、これは、まさに科学的な論理的判断(推測)というものだと思います。
これに対し、同じ天体運動から人間の運命を知るというものはどうか?
実のところ、天文学は当初は科学というよりも疑似科学的な要素が強く、タレスが理解したような気候や、日蝕、月蝕といったものだけではなく、まさにそこに天からのメッセージがあると解釈していたようなのであります。
むろん、近代天文学は純然たる科学として独立しましたが、一方に古代から綿々と続く占星術というものも根強く残っております。
その方が生まれた時に、天体の位置がどうなっていたのかによって、その方の人生が、運命が定まったもの、あるいは一定の方向性を持ったものと解釈するわけですねえ。
あっしの生まれたのは・・・。
惑星直列って・・・、あっしはもしかしたらメシアか!?
えっ!、悪魔が誕生する時!?
ふ、ふ、不吉な!!??うぞ!?
しかし、その根拠なるもの、それこそ秘儀的なものなのか、占い師にしか解釈できないものらしい。
問題は、複数の占い師にいればそれぞれに異なった結果予測が出るということも、実際にはありうるわけで、これは言うなれば、それぞれの占い師の判断、解釈基準の違いというものになると思います。
つまり、例えばの話、その年のオリーブが豊作なのか否かを判断する根拠が、少なくともタレスの用いたこととは異なるわけです。
もし、その収穫前にタレスに「なぜ、その年はオリーブが豊作なのだと言えるのか?」と問い詰めたのなら、恐らくは今日でも通用する論法を用いて説明してくれたかもしれない。
これに対し、占い師の場合は、その理由を問われれば、例えば星の語る「天啓」、「天使の囁き」、「神の声」、「インスピレーション」なーんて、わけのわかんねー理屈を並べ立てるのではないのか?
つまり、誰がやっても同じ結果が出るような客観的法則性を呈示できないわけですねえ。
しかし、あくまで結果論ですが、たまたま偶然にも占いの結果と一致した、なーんて場合ですと、
あの占いは当たる!
なーんてことになる。
最近知った「青森の神様」?
※ 青森は恐山なんかがあって、イタコと呼ばれる霊能者(?)が多い地ですが、「青森の神様」というのなら、いっそ45都道府県それぞれに「神様」がいてもいいことになる?
おーし、あっしも・・・
悔い改めよ
天国は近い!
なんと、今なら天国入場券が20%OFFの超特価!
さあ、数に限りがありますから早い者勝ちだよ!
本日、新装開店キャバクラ天国だよ
酒は旨いし、ねーちゃんは若くて美人揃い!
すいません。
ちょっと方向性が違ってました。
えー、話を戻しますに、
しかし、じゃあ、毎回そーなるかというと、そんなわけがない。
して、ここから先は占い師ではなく「受け手」の問題となるような気がします。
心理学ではバーナム効果という現象が知られていますが、これは「誰に付いても当てはまるような曖昧な心理」を、仮に10人いたら、その全員に個別に「あんたの性格だ」と言うと、みながみな「それはまさに自分のことだ」と思うのだとか。
これと同じで、例えば曖昧な占いの結果を呈示しておけば、受け手の方が勝手にその結果に自分を合わせてゆくものと考えられます。
宗教において、よく耳にする「奇跡」なるものも、それは信仰の結果と言うことになっているんですが、実際は自身が努力したからこそ叶ったことが(※ 少なくとも、信仰によって前向きに生きるようになりますから、例えば身体が活性化し(自然治癒力)、病気などに回復の兆しが出てくることもありうる?)、その宗教のおかげ、なんてことになってしまう。
これがまさに「信じる者は救われる」でして、これは、やはり心理学でいう「プラシーボ効果」と言うものになると思います。
しかし、この場合、奇跡ではなく、それなりに科学的な根拠があるわけですねえ。
むろん、信者はそうは思わない。
言うなれば「思考停止」して、一足飛びに「信仰」に走ってしまう。
2500年も前のタレスという方が、既に科学的、論理的思考ができていたのに、それよりも遙かに文明の進歩した時代に生きる現代人にあっても、怪しげな解釈に走ってしまう方々も少なくないという事実。
あえて言えば、むしろタレスのような方はむしろ特殊であったのか?
ちょっと考え込んでしまいましたねえ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
うそです。
今日の夕飯は何かなー、なんて考えてました。
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