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日本バレーボールの歴史
(『図解コーチ バレーボール6人制・9人制』山本隆久氏著 昭和45年)
バレーボールは、一八九五年に、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ホリーョーク市にあるY・M・C・A・の体育指導者であるW・Gモキガン氏によって考案された球技である。
(註) バレーボールやバスケットボールのように、スポーツとして考察された競技と、サッカーやラグビーのように、自然に発生した競技とがある。
モルガン氏は、それより以前に (一八九二年)、J・A・ネイスミス氏によって考察されていたバスケットボールが、あまりにも運動量が多く、過激であるので、労若男女が、誰でも手軽に楽しめる冬季の室内競技の必要性を感じ、レクリエーショナル・スポーツとしてのバレーボールを考案した。
モルガン氏は、テュスにヒントを得て考案したといわれる。ネットのかわりに一本のローブを用いたり、テニス用のネットを用いてみたりした。ボール右バスケットボールの中袋を用いたりした。しかし、テニス用のネツトでは、網の目が細かすぎて、相手の動きが分りにくく、また、ボールもバスケットボールの中袋では軽すぎて面白昧がなかった。
その後、用具についてはいろいろと工夫がなされ、翌一八九六年に、A・G・スパルディング兄弟商会の手によって、ほぼ現在用いられているようなボールが試作された。
そして、その年には、スポーツ競技として初めて公開された。スプリング・フィールドの体育専門学校で、一チーム五名から成る二チームの選手によって行なわれ、この最初の公開ゲームは多数の体育専門家から多大の賞賛を博し、その価値が認識された。
公開されたバレーボール競技は、啓達のY・M・C・Aを通じて、アメリカ合衆国はもとより、世界各地に広く普及した。現在では、パリに本部をおく国際バレーボール連盟が結成され、数十か国が加盟し、世界選手権大会が開催されるほどに発展している。
(註)国際バレーボール連盟への加盟国は、現在七九カ国である。世界選手権大会は二〜四年ごとに開かれている。
日本におけるバレーボール
日本バレーボールの歴史
(『図解コーチ バレーボール6人制・9人制』山本隆久氏著 昭和45年)
わが国へは、一九一三年(大正二年)に、フィリピン、マニラ市のY・M・C・Aの体育指導者F・H・ブラウン氏によって初めて紹介された
東京の中華Y・M・C・Λで初めて行なわれ、その後、各地のY・M・C・Aを通じてしだいに普及していった。 (註) F・H・ビフウン氏はバスケットボールもわが国に紹介した人である。
わが国におけるバレーボールの発展史上、忘れることのできないことが二つある。
その一は、バレーボールを学校として最初にとり入れた、当時の神戸高商(後、神戸商科大学、現神戸大学経済学部)の卓見と、極東大会の開催である。
神戸高商は、バレーボールが紹介されると、いち早く部を剖設し、バレーボールの発展に努力するとともに、第六回(大正一二年)より第九月(昭和二年)までの極東大会の日本代表チームとして活躍し、幾多の名選手を生み出した。
極東大会に、わが国がバレーボールの代表チームを送ったのは、東京芝浦で行なわれた第三回(大正六年)大会からで、これを契機としてバレーボールは急速に発展したのである。
第三同大会では、一チーム一六人の選手によりゲームが行われ、日本チームは、京都のY・M・C・Aバスケットボール選手が中心となったチームで出場したが、フィリッピン、中国に一方的に大敗した。しかしながら、バレーボールの渡米四年めで、初めて国際的大会に出場したことはわが国のバレーボール界にとって有意義であった。
第四回(大正八年、マニラ)大会には不参加であったが、第五回(大正一〇年、上海)大会からIチーム一二人制が採用され、再び東京のY・M・C・Aのバスケットボール選手がバレーボール選手を兼ねて出場したが惨敗を喫した。
第六回(大正一二年、大阪)大会で、初めてバレーボール専門チームとして、神戸商高チームが出場した。この大会でも惨敗に終ったものの、新しい技術「パスの要領、パス・トス・攻撃の三段攻撃法)を経験する収穫を得た。また、女子は、オープングームであったが中国チームに勝っている。
第七回(大正一四年、マニラ)大会にも神戸商高が出場し、成績は振わなかったが、フィリッピンの時間差攻撃、中国のオープン攻撃(中衛のサイドブレイヤーがサイドライン外より攻撃する方法)を経験した。二〇対二〇でジュースとなり、いずれかが―点勝ちこすまでゲームが続けられるようになったのはこの大会からである。
第八回(昭和二年、上海大会)で、現行ルールと同じ九人制が採用された。神戸高商チームが出場したが、技術的な急迫の迎半ばフィリ″ピン、中国に接近し、今日の技術的素地を作った。女子も正式のゲームとなり、日本チーム(兵車県立第一高女、現兵庫県立神戸高校チーム)が中国を破った。
第九回(昭和五年、東京)大会では神戸高大(神戸高商の後身)チームを中心とした選抜チームを編成して強化合宿を行ない、初めて中国チームから二セットをとることができた。
第一〇回(昭和七年、マニラ)大会の代表チームは全国からの遊技チームとし、三回にわたる強化合宿の結果、国際ゲームにおける初の一勝を中国チームから得た。
(註)極東大会は太平洋戦争によって中止されたが戦後は、アジア大会、あるいはアジア・バレーボール選手権大会に発辰している。
極東大会、およびその代表決定予選会などを通じて発展したバレーボール界は、大正一四年に、閲東、関西バレーボール協会、昭和二年に日本バレーボール協会、昭和七年に関東学生バレーボール連盟等がそれぞれ設立され、組織、機構が整備されて本格的な発達をしたのである。
現在のバレーボール
(『図解コーチ バレーボール6人制・9人制』山本隆久氏著 昭和45年)
太平洋戦争によって一時中断されたが、戦後は驚くべき速度で復活し、戦前以上の隆盛を極めるようになった。特にアジア大会、アジア・バレーボール選手権大会での日本チームの活躍は、国内での発展はもとより、国際的にも高く評価され、その中でも、女子の世界選手権大会での活躍(一九六一年度大会では第二位、一九六一年度大会では優勝−日紡貝塚チーム、以後に日紡は、国内外で無敗の記録を保持している)は目ざましいものがある。
戦後の国際的な交流は、わが国に六大制バレーボールをもたらした。現在、日本を中心とする極東ルール(九大制)と国際ルール(六人制)かあり、後者は世界選手権大会や、オリンピック大会で行なわれる(註I)。
わが国における六大制の歴史は浅く、昭和二八年度の早稲田大学チームの全米選手権大会初参加によって正式に紹介された(註2)。以後、前述のアジア選手植大会を契機として九人制に劣らず実施され、急速に発達してきた。世界選手権大会への参加と、東京オリンピック大会における開催種目としての決定は、その発展に大きな影響をおよぼしている。
(註I) アジア大会、およびアジア選手権大会では、両ルールによるゲームが行なわれている。
(註2) 戦後、駐日来車との交流により、当地でも、交歓ゲームは六人制で行なわれていた。
今日のわが国の、国際的な好成績は、九人制が、野球につぐ大衆的なスポーツとして発達してきた基礎の上に築かれたものであるといえよう。
東京オリンピック
一九六四年のオリンピック東京大会で、はじめて開催種目となり、さらにまた、オリンピック憲章を変えることかく、女子もまた開催された。その結果、男子が銅メダル、女子が金メダルを獲得した。これらのことは、わが国のバレーボ―ル史上に輝かしい一頁を加えた。
オリンピック大会には、男子十チーム、女子六チームが世界各国から予選の結果選ばれて参加したが、東欧圏の諸国の活躍がめだち、創案国であるアメリカが以外に振るわなかった。
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