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 明治憲法(1889年(明治19年)11月施行)は明治維新の立役者であった元老達の作品といってよいのではないか。岩倉をはじめとする宮中派、薩摩、長州らの連合政治運営グループの合議のための近代立憲君主制による法体系であったようにみえます。おおまかにいえば、統帥権(陸海軍)独立の規定、内閣と総理大臣の規定がないこと(下部の法律で規定)がそのことをうかがわさせます。憲法外の仕組みである枢密院が天皇の諮問機関の存在であることなどから、当時の元老達が議会運営や政策の意思決定にうまく権限を行使できるように作られた憲法であるにちがいないとしても、明治憲法は維新を経験した元老達が健在な間はうまく機能しました。
 しかし、かれら第一世代の元老たちが時間とともに世を去るにしたがい、この憲法は、意思決定の責任があいまいになります。その機能不全ぶりが1920年〜1930年台にあらわになります。関東軍の満州事変、5.15や2.26事件のような海軍・陸軍の中堅将校らのクーデター、長続きしない内閣の移り変わりが現象となって顕れています。
 加えて、当時、稀代の思想家ー国家社会主義者ーの北一輝の登場もこの時代の特徴です。北一輝が40歳少しのころに発刊した「日本改造法案大綱」は発刊後すぐに禁書になりましたが、当時の官僚(軍官僚含む)に与えた影響はかなり大きい。北は22.26事件での直接関与はなかったものの、民間人としてただ一人起訴され処刑されました。辞世の句は「若殿にカブトとられて負け戦」です。なんともはや含蓄がありすぎます。その意は「ワシの理論を実践しようとしたのはいいが、未熟すぎてこのザマだ」か。
 「日本改造法案大綱」の内容は、国民の天皇として位置づけ、言論の自由、基本的人権の概念導入、華族制の廃止と貴族院の廃止、普通選挙、土地の国有化と農地改革、財閥解体、私有財産の一定額以上没収による財政立て直しと福祉充実、労働者の権利確保とストライキ禁止などであり、実現のためにはクーデターやむえない、でありましたから、きわめて危険な思想でした。2.26事件の思想的背景であったとみられています。
 北の「日本改造法案大綱」は法案として書かれていますから、具体的で内容的には目をみはるものがあり、WWⅡが終了した後、日本へ進駐してきた米国のGHQ(連合軍総司令部)のなかに多くいたリベラルな日本改造政策立案者グループの目に留まること大で、わかりやすく戦前の我が国の矛盾点と解決策を描き出しているこの論文を第一級の資料として活用ー農地改革、財閥解体、憲法などーしたと評されています。
 さて、北一輝は中学校を4年で眼病のため中退、独学で社会思想など勉強、幸徳秋水らとは一線を引き、中国の辛亥革命に参加、独自の思想体系ーファシストだが、ヒットラーやムッソリーニより高度な理論ーを築き上げました。きわめて危険で不思議な人物です。

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