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今 大騒ぎ?になっているらしい、「アメフト」チームの問題。
どうがんばっても、報道されたこと、彼らの会見でしか知るすべは無いわけだが。
真実を知りたいと思う。
知りたくないと思う。双方の考えが渦巻いている。
言えることは、「指示を受けた」事は、間違いないと思える。
そして、「スポーツって・・・・?」と思う、疑問なのだ。
私は、スポーツは見ない。野球もプロ野球も、。
高校野球は、やはり「地元の高校」、北海道の代表、などは気になるが、でも、見ないでも良い。
オリンピックも、何をおいても見るとか、無理して時間を作るとか・・・しない。
見られれば、見る。リアルタイムにこだわらない。
「要は、スポーツは所詮 見るものではなく、やるものだと思う」
だけど、私は「うんち」なんで、結局、見も、やりもしない。
でね、考えるのは
スポーツって、「勝つ」ためにやるの?勝たなければ、「意味は無い」の?
「勝つ」ためには、どうすれば良い。・・・
訓練?練習?・・・・・ 普通はそう考える。
ここで、勝つことが至上の命題ならば・・・ 一位がつぶれれば、二位の人は一位? じゃあ、つぶすことは、当たり前?つぶせない選手は、「役立たず」なの?
ラグビーやアメフトの場合は、試合の終わりを「ノーサイド」というと、教わったのは、高校時代だったか?
試合を終われば、健闘をたたえ合う。相手のプレーをたたえる。
もちろん、憎しみあう仲でなど有り得ない。
「敵でも、味方でも無い」どちらのサイドでもない。「ノーサイド」ということばは、死語なんだろうか?
今回の事は、パワハラの要素も含み、※大に君臨する「監督の権力」問題の要素も含んでいるらしい?
「膿を出し切ることも必要なこと」と、思うのだが。
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ぺんてこすて・・・・って、知ってますか?
もちろん クリスチャンの方々は、知っているンですが。
今はやりの?児童虐待のことではないですよ。
昔々、私は、クリスチャンホームとかではなかったので、
キリスト教でわかるのは、「クリスマス」だけだった。
イースターという「ことば」は聞いたことはあったかもしれないが、
「ペンテコステ」に至っては、教会に行き始めて、初めて聞いた。
さらに言えば、当然のこと、その意味すらも知らなかった。
今、「教会」がいろいろなところにあり、「伝道」の働きがされているのだが、
実は、この最初の教会、最初の伝道メッセージのお話しが、
今日、ペンテコステ なのだ。(毎年、日付は変わるけどね)
十字架に架けられ、死んで葬られた「イエス・キリスト」は、復活され(よみがえられ)
よみがえりの姿を、弟子達に表され、
天に昇り、(昇天といます。)
かねてから約束されていた、「聖霊」をくだされた日なのです。
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます。
そして、・・・・・地の果てにまで、私の証人となります。
と約束されたとおりに、初めての伝道メッセージをし、全世界に教会を建てあげていった。
そういう日なのです。
聖霊は、信じた者には、賜物として与えられています。
神からの知恵、力である、「聖霊」を です。
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「M」およびその妻「Y」の話から始める。
Mが倶知安福音キリスト教会に招聘され、赴任してきたとき、
彼がまず、考えたと思われる・・・・「自分がこの教会のトップだ。ここを率いて行くんだ(一番偉いんだ!)」
このことばが、私に対する「ここの教会は、すべて私がまかされていますから・・・・」
そんな彼を、どうしようというのか?「Y」
彼女が放ったことばが、「主人はリーダーなんだから(偉いんだから)?、みんな主人に従いなさい」
ではここから、「リーダー」ということばを糸口に、「take chan的牧師論」を広げてみよう、と思う。
まず、リーダーとはなんだ?
リードするもの、リードする人・・・・なんだろうね。
で、リードって?
先に進む。他人より先んじる。先導する。かな?
先に進む・・・と言うならば、(あえて、キリスト者として考えるなら)
他の誰よりも、信仰者として謙遜で尊敬をもって見られる方だろうね。
「牧師だ」ということが「尊敬のもと」。ではなく、「**牧師という人が、尊敬できる人」のように。
だから、「この人の言うことは、神の言葉を語っている。」と、思えるのであり、受け入れられるよね。
他人より先んじている。・・・と言うならば、
同じようにこの人は、私よりも誰よりも「神のことばに近い」、と思えるほどの方だよね。信徒以外の方からまでも尊敬されるような。
先導すると言うならば、・・・・キット、彼はこれを言いたいのだろう。牧師という立場はたしかにこの意味合いが有るだろう。が・・・
これをもう少し考えて見ようと思う。
たとえとして一つ。
自動車の駆動輪、操舵装置、これを教会的に見てみよう。
まずは、「FR」と言われるもの。
後輪が駆動する。教会に当てはめると、教会の進む原動力は、信徒に有る。
教会員が一人一人、しっかりと教会を守り、その成長を支えている。と違うのだろうか。
前輪が操舵する。
教会員の進む力の方向性を、神に向ける。
たとえ、後輪が少しぐらい暴走気味でも、そう、ドリフトしていても、ハンドルは、神の方に見ている限り、コースを外れないで、進んで行くわけだ。自分では、決して駆動するまでの力を持っていないにしても。
次は、「FF」
前輪で駆動し、同時に操舵も行う。「俺に付いてこい!」タイプの牧師、ひきずられ、一緒の方向にただ追従する後輪である、信徒・・・・ 大半の「カルト」、「新興宗教」がそうであるように。、
これは、これで、有る話だし、良く聞く「**牧師教会」と言うことも、できてくる。
これの危険性は、彼「M」のような場合は、前輪が道を外れたら、そのまま駆動されたまま、路外へ暴走、逸脱する事なのではないのか?現におきたように、
もちろん、ドリフト と言うかどうかはともかく、FFの場合も、操舵輪がしっかりと進路をとらえている限り、後輪は横にそれようと問題は無い。
ここで、ラリー競技と教会の場合との違いは、前輪をリーダー、牧師とした時、後輪である信徒に駆動する力がかかっているか?否かではないのか?
「M」がこれを目指したのか?これを意識したのか?それは、ともかく、
当時の「倶知安福音キリスト教会」は、実は駆動輪としての機能、能力はしっかりと持っていた。伊達に無牧の期間を耐えたわけではない。
ここで 彼の目指す、彼の操舵し、彼が駆動する状態を考えて見よう。
「あ!危ない」と、後輪は,停止あるいは後進をしようとする。
前輪である彼は、こっちだ!と引っ張る。
さあ、どうなるでしょう?
賢明な方々は、言うまでもなく。なのだが、・・・・
そして今回の件が、すべて彼のその考え、行動の「実」と言うことを、言いたいのだ。
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福音教会というのは、どういう宗派なのですか? 私は、カソリックとプロテスタントの違いしか、わからないのですが。
2018/4/30(月) 午前 10:30 [ thatashin ]
> thatashinさん
カトリックとプロテスタント・・・皆さんそんなものです。 福音派って? 私も、こうだ!とは言えません。 まず、プロテスタントですね。 私たちは、「聖書」に書かれている事は、一字一句間違いなく「神の言葉」と信じる事から始まると言えます。 人の手を通して書かれた。でも、書かれた事は神の啓示で。。。と言うことですね。 キリスト教界では、保守派?なんだそうです。wikiによると。 私、個人的には、ホーリネス系で、堅い教団に育ちましたから、 そう言われても、違和感は感じませんが、どうなんでしょうね? 2018/4/30(月) 午後 4:45 [ take chan ]
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サラリーマン
サラリーマンと聞くと、どのようなことをイメージするだろう?
昔、植木等さんの映画や歌に、「無責任・・・・」とか、「サラリーマンは、気楽な稼業ときたもんだ!」
なんてフレーズがあり、大人気だった。・・・・なんてこと、知ってるのは還暦以上の人だよね。
で、本当にそうかはともかく、
「給与生活者」であり、「役員など」ではない。
頭脳労働者 曰く「ホワイトカラー」であり、肉体労働者「ブルーカラー」ではない。
ということ。これは、ウィキペディア でも言われている定義になる。
でね、
あるところにさ、居たわけさ、こんなのが。
「給与労働者」イコール「お金」さえもらえるだけ「お仕事」すれば(しなくても)それで良い。
「決められた曜日に、決められた時間に、決められたところに」出勤すれば(しなくても、遅れても)それで良い。
私が、以前から主張している、彼(M)の行動で、
彼が、出勤(教会に)するのが、週に2.3回・・・ということの、示すことは。
かれが、主が「私の羊」と呼び、「私の羊を牧しなさい。」と命じられた、それを散らした、否!追い払った。
これの示すことは。
いかに考えるべきなのであろうか?
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先だって、「サポート」という話で、
協会でなく、「教会」がこれをやってはいけない。
やるべきではない。と、いう理由を述べてみよう。
と あえて言わなくても、わかってあたりまえ、なのだが?
まあ「狂会」なら、別なんだろうね。
キリスト教の世界で、
クリスチャンは、一国民と考えよう。
では、教会を、キリスト教界では何とたとえるか?
「家」です。一つの教会で一つの家。でも良いかもしれません。
この家でも、普通の家と考え方は同じ。
自分達の収入に応じて「やりくり」する事で、お金を管理し、使っているわけだ。
つまり 「身の丈にあった生活」と言うことだね。
ここでの支出は、もちろん普段の食費だの光熱費だの・・・・
それと「**協会だとか、各団体など」への献金と言うことになる。
あくまで「献金」は、教会からの場合は出すもの、与えるものであって、その逆ではない。
「与えることは、受けるよりも幸いである」
小さな教会、開拓教会などの自活できない教会の場合は?
基本的には、あくまでも「身の丈にあった生活」だろう。
もしくは、たとえば「大学行ってる長男の学費、生活費を、親が出す」ことと、同じだろう。
親教会、教団などの補助をお願いすることになるだろうか?、
それとしたところで、仮に「足りないからと『物乞』をする」ということなら、
無理して行く必要は無い、学校はやめさせるだろう。
ましてや、麻雀狂いで、講義にも出ないで、遊興三昧の「莫迦むすこ」であれば、さらに。
それを、ご近所回って「むすこの学費が足りません。ご援助ください。」と、回るだろうか?
いい恥さらしだし、そもそもが「自分たちのやりくり」の範疇だろう。
外に息子が居るいわけじゃない。でも、お金がない。生活が苦しい。
「やりくりしても」、やっぱり足りない。
そういうときには、「生活保護」を受けるのであって、「物乞い」は、しない。
あくまでも、教会が「表だって、不特定多数に」 お金をください。
と、やることは 有り得ないはずの事なのではないのか?
ニセコの宣教のため・・・大義名分を掲げたところで、
過去の財産を(教会員の財産だからね!)を、食いつぶして
その内容は?彼の人件費だろう。・・・・一週間を二日で過ごすいい男 の かい?
要は、飯が食えません。お金をください。
これを、「物乞い」「乞食」と言わずして、なんと言うのでしょうかねえ?
教会の財政が緊迫した。時に、どうするべきか?
教会財政の「生活保護」は、「主なる神」だろう。
それをおろそかにするところが、
「物乞い狂会」の
「乞食牧師(もどき)」たることだと、言ってるんだよ。
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キリスト教では、お賽銭みたいな物はないんですか?
2018/4/5(木) 午前 10:03 [ htakabo622 ]
無いということは、ありません。
無ければ、彼らでなくとも、生活はできませんよね? ここで、言っているのは、「献金」を募って良い場合、だめな場合。 あるいは、正当な収入、違法な収入・・・ということです。 わかっていただけるかな? お寺だったにせよ。 お布施、(有名な古刹なら)観光収入などは、当たり前です。 でも、第3者に「生活できません。お金をください」とは、やらないですよね? 2018/4/5(木) 午後 4:22 [ take chan ] > tmiyo226さん
ございますよ。 その「団」としての結束力、中央の拘束力・・・のような事に それぞれ違いがあります。 今回の私のたとえで言うと、親戚、一族の結束力・・かな? この「偽コ」の彼の場合は、 結束力も、拘束力も弱めの 教団ゆえのことです。 詳細に語ることは、多々問題がありそうですが、そういうことです。 018/4/15(日) 午前 8:13 [ take chan ]
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