|
マタイ25:14〜29 ここで、タラントのたとえが語られている。 ある人が自分の旅行に際し、部下達にその能力に応じて、資本金を渡し、それで起業することを命じた。と言うことになる。 あるものは、数百万の元手で、それを倍にし、後に元本を含めそのお金を受け取っている。 またある者は、百数十万の元手をまた、倍にしてそれをすべて受け取っている。 要は、最初の資本金、儲けた分、すべてをもらった。と言うことになる。 ところが、同じく数十万の資本金を渡されたある者は、 それを、元手にするどころか、銀行にも預ける事をせず、あろう事か「タンス預金」ならぬ、「地下埋設預金」にしたというのだ。 他の部下達と同じように考えれば、最初の「資本金、元金」は、最低限もらっている?かと思いきや、 かれは、すべてを取りあげられ、それは他のすでに大金を受け取った者らに渡されtれしまったというのだ。 ここで、地下埋設預金の者は、なんと考え、なんと言ったか? その金額を「少ない」と文句を言ったわけではない。 比較的に少ないからと、こんなもの!と、侮ったわけでもない。 せっかく自分ががんばっても、それを横取りする、あんたはずるいんだ! と、責めているわけです。 で、もって それならそれで良いから、「銀行に預けとけば、お前が何をしなくとも、せめても、利子くらいは付いていただろう」と、言うことになるわけです。 じゃあ、このときもっと大金を渡されていたら、大事にしたんだろうか?そう言う理由であれば、キット 結局は、同じ事だったろう。 この、タラントと言うことば、 今は「タレント」ということばで使われて、「才能」とかの意味に使われている。 ここでは、我々に与えられた「賜物」「才能」「能力」を、有効に使いなさい、無駄にしたらだめ。 と言われているンだ。けど・・・ ちょっと違う見方で見てみよう。 もし自分が、資本金、元手と言われる額の金額を、受け取ったら? きっと運用はできず、と言うよりその当てもなく、消費、浪費しちゃうだけだろうな。 運用する?スキルもその知恵もないンだもの。 正直、お金は欲しい。でも有りすぎるお金は、身を滅ぼす。 自分の身の丈にあった、金額がほしい。 必要のない、主の御心でないお金は、たとい少額であろうとも、それを生かせない限りは、身を滅ぼす。 ある意味、大きなお金には大きな責任も伴う、と言うことなんだと思う。 自分はお金がない。。。ならば、お金持ちとお友達になれば、良いわけ? 自分の「分」を越えたお金は、ましてや他人のお金は、やっぱり「身を滅ぼす」んだ。 違うかな?
|
倶知安福音キリスト教会
[ リスト | 詳細 ]
教会堂は乗っ取られましたが、「エクレシア」である交わりは、処を改めて、続いています。
偽コチャーチの事は、「裏口」に追いやりました。
偽コチャーチの事は、「裏口」に追いやりました。
|
ハッピーイースター って、
イースターって、最近は認知されてきたみたいだけど、まだ、「お祭り好き」の日本人の例に漏れず、お祭り騒ぎの一つにされているかも?
そもそも、イースターとは、「イエス・キリストが死からよみがえり、復活された日」なんです。
生き返った・・・蘇生した人は、いるでしょう? と、言う声も聞こえますが、
でも、それを昔から預言され、自らも弟子達に約束された上で、「よみがえられた」方は、イエス、お一人です。
その後、多くの弟子達の前に身体を持った姿で(幽霊ではなく)、現れたのです。
すばらしい「人格者」「高貴な方々」「大金持ち」・・・・・いろいろな宗教の「教祖様」もいます。
なかには、自らを「復活のキリスト」「再臨のキリスト」と称した者も、数多くいたのです。
彼らは一様に 皆、死にました。かの「文鮮明」しかり・・・・
盛大な「葬儀」を行い、「葬られた」のです。贅を尽くしたお墓に。
いまだかって、「よみがえった」「復活した」者は、いません。
今、まだ生きている者とても、同じ道を歩み、朽ち果てる肉体を持つのみなのです。
|
|
ポジティブに・・・・なるかな?
みんなが、「きょうかいへいく」という時、どういうもの、どういう事を思うだろう。
建物・・・たしかに「教会」です。
それは厳密に言うと、「教会堂」ですね。「聖堂」という事もあります。
間違いではありませんが、そこにいる人は?
キリストを信じている人々とは、限りません。
教会堂だけであれば、「結婚式場」も、教会ですよね?
キリスト(イエス)を信じている人たちが集まっているところ。
それが、実は「教会」です。
ギリシャ語では、「集会」とか「交わり」の意味を持つことば、と考えてください。
主イエス・キリストを信じるものの集まり、交わりなのです。
ですから、建物が立派でなくとも、一般住宅を借りて礼拝していても、
キリストを信じる人々が、礼拝している場所、そこが「教会」と、言われるのです。
建物は、立派でも、結婚式場は、「教会」という名だけで、本当には教会ではありません。
本当の教会を装っていても(結婚式場では無くとも)、そこで、主イエス・キリストが礼拝されていなければ、
主イエスではなく、牧師の誰それの言うことを聞き、そのことばに従うことを要求される集会は、
教会とは、似て非なるものです。
|
|
牧師、伝道師、神父・・・・といわれる職業。
ここに、あえて 教師とか医師とか、最近は「?」が付くが「聖職」といわれているものを合わせてみよう。 彼らの仕事は、果たして「語ること」なのか?「聞く」ことなのか? 最近の(最近に限らず?)教師は、「知識を切り売りする労働者」なのだそうだが・・・・ 医師は、説明責任がずいぶんと、いわれている。「インフォームド????」と言うそうな。 伝道。。。といったとき、福音が語られなければ、誰も聞き、信じることはできない。ではないか?その通り。 では、牧師、神父・・・・・といったとき、たしかに一面は、語らなければ、神のみこころは、伝わらない。 しかし、プロテスタントはあまり見ないが、カトリックでは、「告悔室」なるものがあり、そこで行われているのは? 「聞く」という行為ではないのか? 「カウンセリング」とまで、言わなくとも、「アドバイス」しようというとき、真っ先に必要なのは?何か。 「聞く」ことにほかならない。 「聞く耳のある者は聞きなさい」と、イエスは、何度も語っている。 真っ先に「聞く」必要があり、聞く耳を持つべきであり、持っていなければ、「失格」なのは、 先にあげた、「聖職」と呼ばれる方々ではないのか? |
|
牧師とは?
無牧の時代の教会、現在無牧の教会・・・切実な思いで、「牧師」・・・牧者、説教者を求めている。求めていたに違いない。 では、・・・・牧師であれば、誰でも良いのか? 牧師という冠をかぶせて、床の間にお飾りできれば、良いのだろうか? 要するに「牧師」と呼ばれる者が、居さえすれば、それで良いのか? 「牧師」とは、文字通り「牧する師」・・・牧者に他ならない。 牧会する者なわけだ。 牧する。ことは、「羊である信徒」を「守り、導く」ことであって、 「羊の王」になることでは、決してない。 「主の立てられた『権威』に従いなさい」と、命じられていることは、周知の事実である。 信徒である「羊」は、牧師の「牧者」としての「言葉、指導」いわゆる『権威』には、もちろん、従わねばならない。 しかしながら、「羊」を理解し「羊の小屋」を知り、「羊の草はむ場所」を、知らない者・・・それに対して、牧者と、認められるであろうか? 主が「権威」を与えられた。と言う裏返しには、 与えられた「権威」に比例する「義務」が、与えられているのではないのか? その義務を怠ったまま、権威のみを振りかざし、牧者をしようとする者。 羊が何を必要とし、何が要らないのか?何を思い、何を気にかけているのか? それを知らないで、何を与え、何を奪い、何を慰め、何を教えようというのか。 羊が住む小屋で、どこに何があり、どこに危険があり、どこが羊たちが安らぐ場所なのか? 見たところ必要ないと見える物、それに羊がどういうこだわりがあるのか? それを知らないで、羊をなんの危険から守ろうというのか? 羊の何を与えようというのか?羊が安息を得られるというのか? 羊が草はむ場所、それがどこにあり、どの順番にどの場所を巡るのか? どこになんの草があり、どこにどのような道があり、どこにどのような危険が潜んでいるのか? それを知らないで、羊をいつ、どこに、何を求めて、導いて行くというのか? そもそもが、そのような「牧者」に羊がついて行くのだろうか? 打ち叩かれ、命令されて、歩き始める・・・だろう。が、喜んで従うだろうか? 心安らかに「小屋で安眠」するだろうか? 安心して草をはみ続けるだろうか… |




