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(あなたの宝のある所に心もある)
(マタイによる福音書6章19節〜24節)
『宝』と一口に言っても、人それぞれに大切にしている物はちがうでしょう。人によっては、お金だったり、地位や名誉だったりするかも知れません。
ここでいう『宝』とは蓄えることのできる物を言います。『富』とは財産や所有物のことで、『宝』に含まれます。 イエス様はここで、「地上に富を積んではならない。天に宝を積みなさい。」と弟子たちに仰っています。『天に宝を積む』とは一体どういうことでしょうか。聖書にはいたるところに詳しく説明がなされています。
(テモテへの手紙Ⅰ6章18節)
善をおこない、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。
(ルカによる福音書18章22節)
これを聞いてイエスは言われた。「あなたにかけているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから私に従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
(マタイによる福音書25章40節)
そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
(マタイによる福音書6章1節〜18節)
隠れたところでの『施し』、『祈り』、『断食』は、天におられる父に喜ばれ、天に宝を積むことである。
キリスト者にとってこの世に手に取る富を、どう扱うべきか。どのようにして歩んでいくべきかは大きな課題である。しかし、聖書には神からの回答がすでになされているのであります。
(ヘブル人への手紙11章13節〜16節) この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い現わしたのです。
私たちはこの世においては仮住まいの旅人であります。神から与えられた宝を人々に施すことが主に喜ばれる生き方であると、イエス様ご自身の御言葉で語られています。 『あなたはどう歩んでいくのか?』イエス様は常に私たちに問いかけています。そして、私たちが天に宝を積むことを望んでおられます。
愛するイエス様を見上げ、この世の富にではなく神に仕える人生を目指していこうではありませんか。
H22.3.21(日)PM4:00 |
今日の御言葉
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(あなたの宝のある所に心もある)
(マタイによる福音書6章19節〜24節)
あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍びこんで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍びこむことも盗み出すこともない。
あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。 |
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(断食をするときには)
(マタイによる福音書6章16節〜18節) 今まで、マタイによる福音書を1章から見てきましたが、イエス様は父なる神に覚えられる行為として、人に対して施すこと、神に対して祈ること、自分自身を見つめる断食に関することをお教えになりましたが、それはすべて、6章1節の言葉に集約されます。
(マタイによる福音書6章1節)
『見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。』 イエス様は30歳までは大工としてお働きになり、30歳から33歳の間に福音をノベ伝えました。そのイエス様が福音をノベ伝える前にしたことは、40日40夜、断食して、悪魔の誘惑と戦うことでした。
レビ記には、1年に一度断食しなさいと言う規定があります。
しかし、イエス様が偽善者と呼ばれるパリサイ人たちは、週に2回も断食して、人に対して自分がいかに敬虔であるか、誇りにしていました。
パリサイ人たちはイエス様に『なぜあなたの弟子たちは断食しないのか』と聞かれ、こう答えました。
(マタイによる福音書9章14節)
その頃、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『わたしたちとパリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った。イエスは言われた。『花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食をすることになる。』
使徒行伝でも、パウロとバルナバがアンティオキア教会から宣教のために送り出された時、断食したとあります。
(使徒行伝13章2節〜3節)
彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事にあたらせるために』そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。
断食は、病気の人や高齢の人は除外されていました。断食は人に見せるものではありません。いつもどおりに生活しながら断食をすることが、神様に覚えられる断食の仕方なのです。定期的に、儀礼的にするのではなく、本当に祈りが必要な時にすることが大切なのです。断食を通して、誘惑にうち勝って、自分と神様との対話の時を持つことが大切なのです。
エステル記にも、断食について書かれた個所があります。モルデカイは、民族存亡の危機に際して断食して祈りました。その祈りによって、モルデカイの姪でありペルシャの王妃であったエステルに三日間、神の言葉が臨みました。ゆえに、エステルは王に対する態度を教えられ、ユダヤ民族を救うことが出来たのでした。
断食することによって、自分が取り去られ、主なる神にすべてをお任せしますという思いになります。そして、主の心が示される時が来ます。
神様は、今日も、わたしたちの隠れた『施し』『祈り』『断食』を求めておられます。
わたしたちは、それに応える者になろうではありませんか。 H22.3.14(日)AM3:00 |
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(断食をするときには)
(マタイによる福音書6章16節〜18節) 断食をするときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている。
あなたは、断食をするとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。 |
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(祈りの手本)
(マタイによる福音書6章8節〜15節) この個所は、祈りの手本としてイエス様が弟子たちに、そしてわたしたちに教えて下さった聖なる祈りであります。『主の祈り』と呼ばれるこの祈りは、日曜の礼拝の時、必ず、信徒の全員で唱和する祈りでもあります。わたしたちは、日曜ごとに必ず唱和して祈りますが、ただ形式的な祈りになっていないか注意が必要です。イエス様が教えて下さった『主の祈り』は主に対して、心を込めて祈って行くことがとても大事なことなのです。
『主の祈り』は誰に呼びかけて祈っているでしょうか。その呼びかけの言葉は『天におられるわたしたちの父よ』と呼びかけています。イエス様は弟子たちに、そしてわたしたちに、天の父はあなたがたの父であることをお示しになりました。天の父はわたしたちの霊的な父なのです。
『主の祈り』を一つずつ見ていきましょう。最初の三つは御名、御国、御心のことが書かれています。前半の三つは、神様のご計画がなされるための祈りであります。
『御名が崇められますように』これは、御名が汚されることなく聖くありますように、いつまでも人々に崇められますようにという祈りであります。
『御国が来ますように』これは、神のご支配が豊かにこの地上におよびますようにという祈りです。人間は自由意志を神様から与えられています。この世に悪がはびこることも、善なるものが支配することも、人間の自由意思に任されているのです。
『御心が天で行われるとおりに地にも行われますように』これは、神様が、わたしたちに神様の御心にかなうことを行うことを願っているのです。
『わたしたちの日毎の食物を今日もお与えください。』わたしたちには、食べ物だけではなく、住むところも、着るものも、医療や、教育や、福祉も必要です。しかし、命を支える食物が何よりも一番必要なものなのです。『わたしたちに今日も必要な物をお与えください。』食物=日毎のパンですが、イエス様はご自分のことを『命のパンである』と仰っています。この食物という言葉には、霊的な食物の事も表しているのです。
『わたしたちに負債のあるものを赦しましたように、わたしたちの負債をお赦し下さい』これは、神様がわたしたちの罪を赦して下さったので、同じ態度でわたしたちに罪を犯したものを赦しますという祈りです。
『わたしたちを試みに遭わせないで悪しきものからお救いください』バプテスマ(洗礼)を受けたから、誘惑が無くなるのではない。より悪しきものからの誘惑が強くなるのであります。なぜなら、自分の罪の姿がはっきりと見えてくるからです。
だから、天の父にお祈りするのです。『悪しきものからお救いください』と。 最後に、『主の祈り』の最大の特徴は、祈りの対象が『わたしたち』つまり、自分だけの祈りではなく、世界中の隣人のための祈りでもあるのです。
一人で祈るときであっても、『主の祈りは』世界のための祈りでもあるのです。
世界の平和のために、心を込めて主に向かって、『主の祈りを』祈る者となろうではありませんか。 H22.3.7(日)PM3:00 |



