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少し前のことだが、テーマを与えられて それに取り組むという行為はボーリング場のようだ。
そのように 尊敬する知人に書いてメールした。
あっという間に返信がきて、それはそれは的確な回答だったので
テンションがあがった。
テンションがあがることは、日常生活において そうそうない。
明るく、楽しそうに、エネルギッシュにしているようにみえるが
本人にとっては なんら普通の状態である。
テンションがあがったところで なにをしたかというと 昼寝。
素晴らしい行為。これに関しては 共感を得られると思う。
そのようなテーマというものに本日も取り組んだので 紹介する。
「自分が描いた一番最初の絵」について思い出し、どんな気持ちだったのか
である。このブログを見ている方の中には、同じテーマに向かっている方もおいでなので
みせちゃうのである。
下記コピペ
両親がいなかった私にとって、描き示すことのできる道具をもって紙を汚すという行為が認められたのは、小学校2年生になってからであった。絵を描くとは、妄想し、夢を抱く行為であり、贅沢なものである。食うことも許されずに生き延びることで精一杯だった頃は、他の子どもと遮断されていた。商売をしていた育ててもらっている家で、働くことだけが行動パターンだった。夢を抱くようなことは決して許されないのである。小学校2年生になって、学校に行くという羽目になった。その家の者は、たいそう不憫がった。他の子どもと比べて、我が身の惨めさを味わうことになるからである。その感情との出会いは登校初日からやってきた。
1年生にもなっていないのに、年齢に応じたため2年生の枠に入った。先生が鉛筆を貸してくれた。「まいどどうも」と言った。「ありがとう」は商売人は使わない。継続的に顧客を身近によせておく「まいどどうも」はお代をいただくと同時に発するように刷り込まれている。
その鉛筆で、先生が描けと指示したのは「母の顔」であった。正しくは「先生が皆さん描きましょう」と優しく提案してくれた「大好きなお母さんの似顔絵」ということだろうと今になればわかる。しかしそのときは、鉛筆の先に三角にとがるネズミ色が、鉄の錘のように感じたのだった。
鉛筆を借りるという行為により、人にお世話になった罪悪感で満たされた私は、提案者の顔色をうかがい、描くことで許されるような気がした。汚してしまうことで二度と使えなくなる紙をどう扱うべきか悩んだ。そして、紙の片隅に、提案者である先生の顔を残像にしてそれをなぞろうとしたのである。力をいれると線になることを知り、もやもやした薄い線が紙に落とされた。
銀色の鉛がみぞおちにぐいぐいと押し付けられるように、私は嗚咽しながら、震える線を小さく小さく丸に形どった。その形の大きさは、存在することの申し訳なさの度合いに反して、親指で隠れるほどの粒であった。
そのとき、先生が私の真横にたって私の絵を覗き込んでいたことに気がついた。見上げて、先生の顔を見た。先生は冷静な眼をして、にやりと口を動かしたのである。そのときにわかったことは、絵を描くということはそのときの自分の有様を人に知られることだということだった。それ以来、しばらくは学校に行っても、字も書かず、絵も描かなかった。
多分長すぎるので、使えないのだと思う。
いづれにせよ、出題者の意図にストライクをだすくらいなら
岩を削って、ボールを彫って造り出すほうが、持続力が増す。というようなことである。
それから、この文を書いて思ったことは
当時はショックをうけたり嗚咽したりしたな。かわいいな。である。
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