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口がきけないことがある。

口は耳じゃないから、聞かないとかではなく。

口が動かないというか、声が出ない。
これは17歳から時折やってくる現象で
どうすれば、普段どおりしゃべれるかもわかっているので、全く困っていない。

どういうタイミングでそうなるか
15年前まではわからなかったが
今はよくわかっていて
ああ、そうか、しょうがないなあ。と、
思うだけである。

別に心配もしなければ
治そうともしない。困っていないのだ。

3日くらい、そのままにして
しゃべれない状況でいたときがあるが
その時から筆談が上手になった。
便利。

非常に簡単な原理で
自分の私欲だけになると
口がきけなくなり

そんな時は、お客さんがきて
お話を聞き始めると、戻るのだ。

しかし、なんでそうなるのか不思議なもんだが、最近は、原理がわかってきて
不思議でもなくなった。

絵を描く

イメージ 1

少し前のことだが、テーマを与えられて それに取り組むという行為はボーリング場のようだ。
そのように 尊敬する知人に書いてメールした。
あっという間に返信がきて、それはそれは的確な回答だったので

テンションがあがった。

テンションがあがることは、日常生活において そうそうない。
明るく、楽しそうに、エネルギッシュにしているようにみえるが
本人にとっては なんら普通の状態である。

テンションがあがったところで なにをしたかというと 昼寝。
素晴らしい行為。これに関しては 共感を得られると思う。

そのようなテーマというものに本日も取り組んだので 紹介する。

「自分が描いた一番最初の絵」について思い出し、どんな気持ちだったのか

である。このブログを見ている方の中には、同じテーマに向かっている方もおいでなので
みせちゃうのである。

下記コピペ
両親がいなかった私にとって、描き示すことのできる道具をもって紙を汚すという行為が認められたのは、小学校2年生になってからであった。絵を描くとは、妄想し、夢を抱く行為であり、贅沢なものである。食うことも許されずに生き延びることで精一杯だった頃は、他の子どもと遮断されていた。商売をしていた育ててもらっている家で、働くことだけが行動パターンだった。夢を抱くようなことは決して許されないのである。小学校2年生になって、学校に行くという羽目になった。その家の者は、たいそう不憫がった。他の子どもと比べて、我が身の惨めさを味わうことになるからである。その感情との出会いは登校初日からやってきた。
 1年生にもなっていないのに、年齢に応じたため2年生の枠に入った。先生が鉛筆を貸してくれた。「まいどどうも」と言った。「ありがとう」は商売人は使わない。継続的に顧客を身近によせておく「まいどどうも」はお代をいただくと同時に発するように刷り込まれている。
 その鉛筆で、先生が描けと指示したのは「母の顔」であった。正しくは「先生が皆さん描きましょう」と優しく提案してくれた「大好きなお母さんの似顔絵」ということだろうと今になればわかる。しかしそのときは、鉛筆の先に三角にとがるネズミ色が、鉄の錘のように感じたのだった。
 鉛筆を借りるという行為により、人にお世話になった罪悪感で満たされた私は、提案者の顔色をうかがい、描くことで許されるような気がした。汚してしまうことで二度と使えなくなる紙をどう扱うべきか悩んだ。そして、紙の片隅に、提案者である先生の顔を残像にしてそれをなぞろうとしたのである。力をいれると線になることを知り、もやもやした薄い線が紙に落とされた。
銀色の鉛がみぞおちにぐいぐいと押し付けられるように、私は嗚咽しながら、震える線を小さく小さく丸に形どった。その形の大きさは、存在することの申し訳なさの度合いに反して、親指で隠れるほどの粒であった。
 そのとき、先生が私の真横にたって私の絵を覗き込んでいたことに気がついた。見上げて、先生の顔を見た。先生は冷静な眼をして、にやりと口を動かしたのである。そのときにわかったことは、絵を描くということはそのときの自分の有様を人に知られることだということだった。それ以来、しばらくは学校に行っても、字も書かず、絵も描かなかった。


多分長すぎるので、使えないのだと思う。
いづれにせよ、出題者の意図にストライクをだすくらいなら
岩を削って、ボールを彫って造り出すほうが、持続力が増す。というようなことである。
それから、この文を書いて思ったことは
当時はショックをうけたり嗚咽したりしたな。かわいいな。である。

イメージ 1
 
画像と 文章は なんら関係がありません。
 
 
休んだら 食っていけなくなって 
すぐ餓死してしまうか
家賃が払えなくなって 住所不定になるのに
 
人は気楽に
 
ゆっくり休んでください という
 
休むことができたら 休みたいものだけれど
そんなに 恵まれているわけではない
 
それでも
 
虐待されつづけた 子供の頃や
家もなくて 一人きりで浮浪者だった18才の頃や
やくざに追いかけまわされて 死と薬物と となり合わせだった20歳の頃や
栄養失調から 膵臓も肝臓もいためて 怪我して目が見えなくなった21歳の頃や
誰も知らない なんのあてもないまま 沖縄に渡った盲目の22歳の頃を
 
思い出したら
 
交通事故にあっても
病気の娘をかかえていても
学歴も資格もコネも知り合いも なにもなくても
 
やっぱり 休まないでいれば
なんとか 生きていけていたんだと
 
夜空に浮かぶ 桜をみあげて 思わざる得ない
 
 
 
 
 

お盆

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お盆なので
 
ばあさんを しのんでいる。
 
お盆にはいる ちょっと前は 親父さんの一周忌だったのだけど
そのころは
親父さんを しのんで
しかも
これから 仕事だよって時とか
自転車で 隣の駅まで ブンブン飛ばしてるときとか
 
そんな時に
「めんこいオヤンツアンだった」と もぞこがったりした。
 
直訳すると かわいいおじさんだった と かわいそうがった。
となるわけだけど
 
直訳すると 言語の限界を露にしてしまう。
 
はがゆさ と いたたまれなさ 
ジレンマ と 無力感の中で 親子関係は 存在した。
父に対する 人としての 尊敬の念は 誰よりもあるので
若干 似ている事に 満足でもある。
 
父は 世間一般的からみて まったく世はずれモノであった。
 
そんな親父を しのぶのは 人知れず 一人 素であるときに限るので
お盆には 法事にも いかないし 親戚の集まりにも いかない。
本心で しのぶことができる ことが お盆であるから。
 
さて、お盆の時期には 父と 祖母を一緒に しのべないのである。
祖母は 父を 嫌っている前提であるが
とても愛していたし
父は 祖母に 後ろめたいのであるが 
実に甘えていた。
 
その とばっちりは すべて私が かぶっていた。
 
二人一緒に しのぶには それなりに 複雑なので 
お盆には 祖母を お盆の前には父を しのぶ。
 
ばあさんを しのぶには
ばあさんが 喜ぶ事を してやろうと思っている。
しかし
現実には ばあさんにしてやろう と企画する前に
ばあさんに させられてしまっていて
 
よく思い起こすと
 
私はいつも そんな風に いつの間にか ばあさんに させられていた。
 
家の手伝いも 
明日の用意も
いとこの赤ちゃんのオムツかえも。
 
無意識の誘導によって させられていた。
まったく 負けている。
 
ばあさんを しのんで 縫い物をしている。
ばあさんは 縫い物を黙々とする人だったから。
 
まりんちゃんの 洋服をリメイクしていると
ばあさんが
糸や針のコツを教えてくれる。
 
生きている頃 縫い物や編み物は 教えてもらわなかった。
本を見て 覚えろ
やってみろ
 
自分で模索して工夫して 独学する技術と気持ちを得ろというのが
ばあさん流で
今は
自分も まりんちゃんに そうなのだが
 
手取り足取り 一から教えてあげたら うんとお互い楽だし
うんと その場は楽しいのである。
その楽しみ以上に ばあさんは
人の成長促進の楽しみを 見出せた人であった。
 
楽しめたのか 
息子の育てなかった「人」という私を 育てる責任感に 追われていたのか。
 
いずれにせよ
私どもは よく似ている。 
 
楽しむだけの 縫い物や編み物ではなかった ことを
しみじみ 回顧しつつ
育てるとは やっかいだね と思う。
 
くけ台を使う。
ばあさんの 形見のくけ台である。
 
ボロボロの くけ台は どうみてもゴミであるけれど
くけ台を上手に使うテクニックを みつければ
きっと 
人に嫌われても 人を育てる人になれるような 気持ちがする。
 
ばあさんも 縫い物をしながら
ばあさんの ばあさんやかあさんに
教えられたことを 反芻したに違いない。
 
頭の良い人であったが
世渡りの上手な人ではなかった。
 
若くして 亭主をなくし
5人の子供を育て
戦争があり
子供を亡くし 成長した子は極道になり
 
リアカーを引いて 野菜を売って
地震で 町が崩壊したときは 真っ先に
食べ物を 配り
 
子供が寝たら 縫い物をし
縫ったものは 人に配り
子供に着せて
着た子供らは 学校で馬鹿にされて それを そうかそうかと笑って聞いていた。
 
私は そんな ばあさんが とても嫌いだった。
だから
ばあさんが 死んだので
裁縫道具と糸や布は 私が全部もらうことにした。
ばあさんの 子供達は 不思議がっていたが
 
ばあさんの 裁縫道具を 使うときだけは
ばあさんの たわごとを聞いてやれるときであるから。
 
お盆は ばあさんの本業の 野菜を売る仕事は
かきいれどきであったね。
そんなときに
縫い物してるなんて
贅沢な 世の中になったのだよ。
 
ばあさんを しのぶには
ばあさんは 近すぎて 
まだまだ させられているのである。
 
 
 

お葬式のプレゼント

イメージ 1

イメージ 2

父の葬儀では はじめて会う 親戚というこじつけのような
人たちと 知り合った。

知り合ったというか すれ違ったというべきか。

父とはいえ
あまりかかわりのない 間柄だったせいか
父の家庭についても よくしらないのである。

父の新しい家庭には 父が育てた血のつながらない娘がいて
すでに 嫁いだ彼女には 男の子が3人いた。

戸籍上は まりんちゃんの いとこになるらしい。

その嫁いだ娘さんの 名前も聞かなかったが
もし
町角で 逢ったとしても
まったく気がつかないのだろう。

新しい家庭にとって 私の立場は嫌悪そのものであり
あいにく
父の兄弟や 本家筋からみれば
新しい家庭は 嫌悪そのものであることも よくわかった。

大人たちが どうあれ
みんな仲良くやってくれよな
とか
安易に思うのは
 
あまり かかわらない よそ者であるからで
気楽なもんである。

葬式でもなければ
父の関係者に首を突っ込むこともないのである。

しかし もしこれが逆の立場であったら
私の葬式に 父が出たとしても 
私の関係者に 首は突っ込めないだろうと思う。

ともかく
孫たちは なるべく にぎやかに仲良くするように
それが じいさんに 対する唯一のはなむけなのだから。

私が そうまりんちゃんに 言い放ったので
葬式中
まりんちゃんは やんちゃな子供たちの
面倒をみることになり
名前もなにも わからない いとこという しがらみの名目をしょって
この3日間だけのお付き合いの
リーダーシップを とるはめになった。

今考えると
まりんちゃんは 静かに
亡骸に寄り添っていたかったにちがいない。

青森から来たという
やんちゃさかりの 男の子や
やっと歩けるようになった 女の子や
中1だという まん丸な女の子は

よってたかって まりんちゃんの取り合いをし

珍しい者を見る 好奇心なのか
まりんちゃんを やたら触りたがった。

小学2年生の男の子に プレゼントといって もらったのがこの絵である。

さぞかし
父も 満足したろうと 思う。

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